田辺籠城戦

豊臣秀吉の没後、石田三成と徳川家康の対立を中心として諸大名の勢力争いが激しくな っていきました。慶長5年(1600)、家康は会津征伐を行いましたが、この時、細川忠興家康に助勢し、関東へ向います。ところが三成は、この機会に関西から家康の勢力を除かんとして大坂で挙兵し、同時に家康方についた細川氏成敗のため関西の諸将に対して、丹後出陣を命じました。豊臣秀吉の没後、石田三成と徳川家康の対立を中心として諸大名の勢力争いが激しくなりました。

慶長5年(1600)、家康は会津征伐を行いましたが、この時、細川忠興家康に助勢し、関東へ向います。ところが三成は、この機会に関西から家康の勢力を除かんとして大坂で挙兵し、同時に家康方についた細川氏成敗のため関西の諸将に対して、丹後出陣を命じました。
 このとき、細川藤孝は宮津城にいましたが、主要な武士ははとんど忠興にしたがって関東にいっていました。そこで藤孝は、本城の宮津城などを焼き、守りに適した田辺城で留守軍500余名を指揮し、寵城の態勢をとりました。
 慶長5年7月下旬、福知山城主小野木ら石田方軍勢15,000名は丹後に侵攻、田辺城のまわりを陣どり、遠まきに攻撃を加え、50余日におよぶ攻防戦がはじまりました。
 きて、藤孝はその時代随一の歌人であり古今伝授の継承者であったため、朝廷は籠城戦中に藤孝が討死すれば歌道の秘説が途絶えることを惜しみ、使者を送り藤孝に開城を勧めました。しかし、藤孝は「開城は武人の本意ではない」といって固辞し、使者烏丸光広に古今伝授の秘伝書と「古(いにし)へも今もかはらぬ世の中に心のたねを残す言の葉」という和歌一首を託しました。この秘伝書を伝えた場所が、現在の西舞鶴公園、心種園碑のたつところです。
 9月に入り、なお藤孝が討死することを惜しんだ朝廷は、勅使をつかわせて、両軍に和 議を命じました。
 ここに、50余日間にわたる田辺籠城戦は終りをつげました。
 その後、関ケ原の戦いの軍功により、細川忠興は39万石に加封され、豊前国中津へ国替えとなりました。