織田信長の命により、細川幽斉が息子忠興を控え田辺城の殿様になりました。
忠興の嫁として、明智光秀の娘をむかえました。娘は当代きっての賢女であっのです。そのころキリスト教が布教され、この嫁も信者となり、世の人はガラシャ夫人といったのです。細川氏の次に田辺の殿様になったのが京極高書氏です。なかなかよい政治をしたそうです。嫁もキリスト教信者で京極マリヤと言われていました。
彼女の息子は小浜城主の高浜、田辺城主の高次であり、兄の浅井長政の妻は織田信長の妹のお市の方であり、秀吉の側室の茶々(淀君)の叔母である。江戸幕府は、キリスト教は邪教だと信者に対し圧迫をなし、はりつけになる信者もあったそです。京極マリヤにもその手が迫ってきのです。息子の田辺城主の高次がその身を案じ、城下の泉源寺に身をひそめさせたのです。マリヤ自身棄教を迫られたとき、果して信仰を守り通すことができるかどうか疑問でした。自分の信仰故に、京極家を守り、信仰を棄てぬと言い切ることができません。
大阪のキリシタンについては、その後もおりにふれてマリヤのもとに情報がもたらされました。神父のポロは、煙でひどく眼をいためながら大阪城を脱出、トレスは死体の山をこえて岸和田に逃れました。マリヤは思う。戦略にたけた高山右近が大阪にいたならば、豊臣もこのような亡び方はしなかったであろうと。その右近も、ジュリアの兄内藤汝安も、大阪冬の陣の始まる前マニラに追放されたときく。ただ戦いに死んだ多くの人々のために祈るだけでした。
マリヤも七十をこえてからは、この地で布教に活躍することはできなくなりました。此御堂に人々を集めては「キリスト教の教えを」読んできかせるのが習慣となったのです。
「まことに、キリスト教を奉る人は、何もおそれることはありません。完全な愛は、安心してキリスト様へ信頼をもって近づき奉るということなのです」と熱心にといたのです。マリヤはこのことを言うだけが精一杯でした。
元和四年(1618年)もなかばを過ぎようとしていました。此御堂をとりまく、草花のなかで鳴く虫の声、まだ去りぬ夏の暑さに哀れ、此御堂におけるマリヤたちの信心生活は、ジュリアの「みやこの比丘尼たち」にならい「泉源寺様の比丘尼たち」の生活でもあったのです。
「泉源寺様がひどく悪くなられたそうな」
「そういえば氏方様の奥方様もおみえになった」
「この間の泉源寺様のお話は、何やらご最期が近いのをご存知の上のようでした」
村人たちの間でもマリヤ(泉源寺様)の病状を案じ、此御堂の前に集まってきました。
日ごろ彼らのいたみを己のいたみとして、彼らのために祈ってきたマリヤの思いやりに感謝しながら、マリヤはそばにいる人にたずねました。
「泉源寺に来て何年になったでしょう」
「はやいものでもう十二年になります」
泉源寺マリヤは、竜子に「そなたたち、この此御堂で、祈りと犠牲の信仰生活をつづけて下さい。キリスト様はいつも祈る人々と共におられるのです。そして京極家のためにも、ご加護を祈って下さい。京極の家は、末長く栄えつづけるでしょう」
野菊にかざられた聖母像が、マリヤを見守り、おつげの鐘ともきいた智性院のかねの余韻が、くれいく泉源寺のあたりにただよい泉源寺様マリヤは死の前に夢幻の世界にいのです。 キリシタン京極氏のまことの母なる京極マリヤが神に召されたのは元和四年七月朔日 (1618年8月20日) のことでした。
舞鶴に骨をうずめ、舞鶴の土となった舞鶴の人に自分の信じるキリスト教を残しながら今ではすっかり舞鶴の人から忘れ去られようとする薄幸の佳人がひそと眠っているところ、それが現在の泉源寺の此御堂あとなのです。