田辺城跡 徳川家康は、「天下分け目の戦い」とよばれた関ケ原合戦で、豊臣氏をもりたてようとする石田三成らを破り、全国支配の実権を握り、慶長8年(1603)に江戸幕府をひらきました。
 関ケ原の軍功により、細川思興は加封され豊前中津城へ国替となったが、丹後へは信濃飯田城主京極高知が入国した。高知は慶長七年に全領の検地を行ない、標準米収穫高12万3、175石の土地を検出して当国の石高制を確立したが、この石高は彼が他界した元和八年(1622)子息の高広・高三・高通にそれぞれ7万8、175石・3万5、000石・1万石と分封されたので、丹後国には新領主居城の地名によって、宮津藩・田辺藩・峰山藩と通称する三藩が成立することとなった。