全藩の百姓一揆

享保18年(1733)のように全藩の百姓一揆を起こして5年間の藩平均12.5%免引下げを、続いて、その期限が切れた元文3年(1738)からは「御用捨高」という各村高の永続した高内引を獲得していったから、本年貢米は規定どおりには収納されず、例えば、天明・天保の大飢饉年を含んだ期間ではあるが、天明2年(1782)〜寛政3年(1791)間の年平均は1万9、790石余、天保元年(1830)〜同14年間の年平均は2万2、207石余であった。

享保18年(1733)3月5日午前8時、大浦・志楽・祖母谷・池内・中筋・川口下六組内の九三か村、百姓数3、000余人が大内橋(二ツ橋)の安久川原へ集合し、ここに当藩はじまって以来最初の全藩一揆が敢行されたのである。以下略 


郡上一揆映画スチールより