鳴生なりゅう甲岩かぶといわ    田井たい      
むかしながらのいろりにあたりながらおじいさんの話を聞く。    
第十代崇神天皇だい10だいすじんてんのうの世のことであった・・。

この丹後たんごと、若狭わかさの国ざかいにある青葉山(標高ひょうこう690メートル)の山中に、(1)「くみかがみみかさ」という土蜘蛛つちぐもの主が住んでいました。

土蜘蛛というのは、日本各地にむかしからすんでいた種族・・・日本の原住民であろう・・・で、身長は低いが手足が長かったのです。また毛ぶかく、ほら穴に住んでいたようです。いつからかこの土地にもよそからうつってきた人たちが住みつき、その人たちと土蜘蛛と、たえまなくあらそいが続くようになりました。「くみかがみみかさ」は、たいへん力つよく、うつりすんだ村人たちを苦しめました。こまりはてた村人たちはついに、このことを、 大和朝廷やまとちょうていに、うったえることにしました。うったえを聞いた 朝廷ちょうていのお役人はみんなでそうだんしました。

(2)日子坐王ひこいますのみこ丹波道主命たにはのみちぬしのみことの父を、 将軍しょうぐんとして、この「くみかがみみかさ」を、せいばつさせることにしました。さて、たくさんのへいたいを、ひきつれて、丹後の国と、若狭の国との、国境くにざかいまできたとき、しょうぐんのよろいかぶとが、とつぜんに大きな音をたててなりひびきました。そして、火のように光りかがやき「くみかがみみかさ」のかくれている所をパッとてらしたのです。

その光にびっくりした「くみかがみみかさ」は、おくさんの匹女ひきめを連れて由良川の方へ、やられてはかなわないとに逃げていきました。将軍は、 兵隊へいたい命令めいれいして、その後を、おいかけさせましたが、「くみかがみみかさ」は、 与謝よさの山奥へすがたをくらませたということです。将軍の よろいかぶとがなりひびいたところが、いまの 成生なりゅうです。また、その近くにかぶとによくにた岩があり、その岩をかぶと岩と名付けました。かぶと岩は正面崎の先にいまも残っています。このとき将軍が馬に乗った、兵隊をならべた所が 馬立まだて(馬建)です。後、地震で馬立は島になりましたが、鳴生神社にはこのときの、将軍・日子坐王が祭られています。

(1)神話伝説で、大和朝廷に服従しなかったという辺境の民の蔑称。  
(2)四道将軍の一。彦坐王ヒコイマスノミコの子。崇神天皇の時、丹波・山陰・  山陽地方を鎮めたと伝える。
所有管理 西徳寺
指定 市指定文化財
区分  絵   画  
制作時代 鎌 倉
作品 仏涅槃図ぶつねはんず 
所有管理  海臨寺
指定 市指定文化財
区分  絵   画  
制作時代 南北朝
作品 曇翁和尚像どんのうおしょうぞう