雄島 づけ 三浜15
江戸時代に田辺藩 三万五千石と宮津藩 七万石の間で、若狭湾 にうかぶ雄島 【かんむりじま】のもちぬしあらそいがおこったのや。島はどちらの藩へも海上七里(やく28`)と同じくらいの距離 でな、どちらも自分の領地 だといってたがいにゆずることをせんかったのや。それで話し合になり、両方から舟を出し、競争 て決めることにしたのや。両藩では、それぞれこぎ手の若者をよりすぐったのや。これは将来 、領地、漁場にかかわることなので、両藩の漁師 も応援 に立ちあがり、かざりたてた舟を出発点や海上、お島の近くに浮べたのや。
両藩ともに「ヨーイドン」の、太鼓たいこを合図に、力強くこぎだしたのや、さすがによりすぐった、若者ばかり、がんじょうな体、きん肉がもりあがり、ぬいたりぬかりたり、かいと、ろの、さばきはすごいもの海の上を飛ぶように舟はすすんだのや。またたくまに、おおえんの舟は後に残されてしまうのや、雄島近くになっても、ほとんど、さがないのや、両藩のこぎては、おたがいに力が入って舟はいっそうに早くなり、どうじに、雄島につくのではないかと思われたのや。
宮津藩は、雄島の浜にちかづくと、定法 どおり【きまりでは、舟はおしりからつける】、舟をせんかいさせて、ともからいそに着けようとしたのや。一方、田辺藩は何を思ったか、へさきの方からそのまま「ガリガリー」といそへのりあげたのや。宮津藩より早くついた。田辺藩の勝になったのや。漁師たちは舟べりをたたいておおよろこびしたのや。それからは、雄島は、田辺藩の領地になったのや。それいらい、へさきからつける、定法はずれのやり方を(雄島づけ)というようになったのや。現在では、あたりまえの
接岸方法 でも、雄島づけを考えた、ちえのある田辺藩たなべはんのものがたり・・・・。おわり一言 冠島【雄島・老人島】。老人島(おいとじま)神社があり航海安全、豊漁の守神として若狭湾内の漁民の信仰があつく、毎年六月一日、五日には大浦地区のほか吉原地区の漁民たちが船を飾り、雄島まいりの行事が続けられている。 オオミズナギドリは神の鳥で、むかし(さば鳥)ともいい、魚群のありかを教えてくれた。また嵐のときなど、雄島は漁夫の避難所となり、暴風雨がおさまるまで、長いときは、三、四日もこの島にとどまったのだったと言う。天然記念物として、また京都府の鳥となっているオオミズナギドリは、若狭湾上のこの島で繁殖している。島は東西500メートル、南北2200メー卜ルで、全島がやわらかい砂のような土におおわれている。この土は江戸時代からすみついているこの鳥のフンが主である。この鳥は渡り鳥で四月になれば南の国からかわたって、島のあちこちに横穴をつくり産卵の場所とする。この島のあたりはイサキ、スルメイカなど魚の宝庫です。