岩谷の地蔵 (いわたにのじぞう)(与保呂)よほろ27


 今からおよそ四百年前、江戸幕府(えどばくふ)の基礎(きそ)がようやく出来上った頃、舞鶴のお城は田辺城三万五千石そしてお殿様は細川忠興(ほそかわただおき)後の宮津城主

そのころは、旅(たび)をするには庄屋(しょうや)や代官所(だいかんしょ)のおゆるしをもらい許可証(きょかしょう)がいりました。各関所(かくせきしょ)では、いちいちお役人(やくにん)が許可証が本物(ほんもの)であるのか調(しら)べたのです。

そんなある日、お伊勢参(いせまい)りに行ってきたのか、どこかのお寺に参ってきたのか、二人のとしおいた巡礼(じゅんれい)が与保呂の村に、まよいこんできたのでした。
その巡礼は体が弱りきって歩くことも話をすることもできませんでした。村人が二人にどこから来たのかたずねたが、答えがありません。許可証は、と聞くと首をふるばかりです。どこかで落としたのだろうてがかりがありません。

与保呂・掘口の人々は、このとしおいた巡礼を懸命(けんめい)に、おもゆをつくりのませたり看護(かんご)したのです、巡礼はすこし元気になってきましたが、ところが、口がきけるようになると、「ありがとうございます」といいつつ手でおなかをゆびさしながらそれきり口をききませんでした。死んでしまったのです。

村人は、巡礼がゆびさしたおなかの、さらし木綿(もめん)をほどいて見ることにしたのです。すると、そこから見たこともない黄金小判(こがねこばん)がたくさん出てきたので村人はビックリしてしまいました。巡礼は、たくさんのお金をもっていたのでした。

 村人たちは、みんなでそうだんして、そのお金で二人のおそうしきをしてあげました。そして地蔵堂(じぞうどう)をたてておまつりしましたが、まだまだお金はあまりました。あまったお金でこの地蔵堂様用の畑四畝(うね)を買い求めあてがい、後日の法要(ほうよう)の費用(ひよう)にあてることを村人たちは皆んなで取り決め
たのです。 そして、その後は村人たちによって毎年七月三日と十一月の二回、ささやかな地蔵祭りか行われ巡礼二人の供養(くよう)が続けられています。


 明治年間、地蔵堂所有の田畑は法要の費用に換金(かんきん)されれました。
そして昭和初年、法要の費用のための貯金(よきん)は、その後二百年あまりをまかなう分はどもありました。