島崎稲荷  (しまさきいなり) (島崎)   29

むかし、むかし、城下町(じょうかまち【西舞鶴】)のはずれ、島崎にある竹蔵(たけぞう)の北に領主(りょうしゅ)の船小屋(ふなごや)がありったそうな。このあたりに永(なが)く住(す)んでいた年老(としお)いたキツネがおったんじゃと。この船小屋を、ねぐらとしておったが、この小屋が、ある日のことよその場所(ばしょ)に建替え(たてかえ)することになったのじゃ、するとキツネがすむところがのうなってしまって、行くところがなく、今日は西へ明日は東へと転々(てんてん)とすまいをかえていたのじゃ。

ある日のことじゃ、竹屋町(たけやまち)にすむ猟師(りょうし)の甚兵衛(じんべえ)が二人の息子(むすこ)に、「今日は、良いお天気になりそうじゃから山にいってこい。」といったのじゃ。兄の彦右エ門(ひこうえもん)と、弟の彦兵衛(ひこべえ)二人が匂崎(におうざき)から五老岳(ごろうがたけ)の方へ狩(かり)に出かけのじゃ。山道を、あちらこちらと歩くがどうしたことか、えものがおらんじゃつた。

弟は「兄さん今日はどうしたことかのぅ」と、兄は「ほんに、今日はウサギ一匹見えんのぅ、ここらで弁当にしょうや」と、平らなところで兄弟は、おふくろさんに、朝早く作ってもらった弁当を広げて、お昼にしたんじゃ。おふくろさが、にぎってくれたおむすびは、とってもおいしかった。おなかもふくれて、あたたかい陽射(ひざ)しがあたり、気持(きもち)良い風に吹かれて二人は、ごろりと横になり眠ってしまったのじゃ。何時(なんどき)かたったかのぅ、鳥のけたたましい鳴声(なきごえ)に二人は目をさましたのじゃ。

二人は体がぞくぞくしたカゼをひいたらしい。いそいで家に帰って床(とこ)にはいったのじゃ。体かあつく汗(あせ)が出て頭が、「ガンガン」する、ふるえもやってきたのじゃ。かれこれ十日余りねこんでしもうたかのぅ。兄の彦右エ門は治(なお)ったが、弟は毎日熱(ねつ)が高く、セキもひどく重体で病名もわからなかったのじゃ。心配した家の人たちはいろいろと手をつくし、そして行者に、おがんでもらったのじゃ、じゃが、なかなか、治らなかったのじゃ。

床にふしている彦右エ門が、ある日、「はあはあ」とひどい息をして苦しみながら突然、気味(とつぜん、きみ)のわるい声で、しゃべりだしたのじゃ。そして「自分は島崎に住む三郎太夫(さぶろうたゆう)という年老いたキツネである、わしが、すみかにしていた、場所がなくなってしまい、やむをえずカゼと共に、この男に体にのりうつって、この家に来たのだ、わしをのぞこうと思えば、この浜の先にシバの小屋を建て隠居(いんきょ)するところがほしい、そうしてくれたら早速(さっそく)ここを出る、病人もよくなることを、かたく約束(やくそく)する。」と、うわごとのように言うと、彦右エ門は、そのままねむってしまつたのじゃ。

早速、家の人は庄屋(しょうや)を、とおして役所(やくしょ)におゆるしをいただいて、シバの小屋を建てたのじゃ。弟の彦兵衛の病気は、見る見るうちに良くなっていったのじゃ。その後、お礼の気持ちで宝暦(ほうれき)三年【1753年】本山へ、おねがいを出たところ、島崎のおいなりさんに正一位稲荷大明神(しょういちい・いなりだいみょうじん)の神号(しんごう)をおくられ、ご公儀(こうぎ【政府(せいふ)】)からは敷地(しきち)までいただいたのじゃ。それからは、今でも病の人、商売している人が、よくなるようにとおまいりしているのじゃ。


島崎稲荷は六月六日の夜祭で大いににぎわっている。

この年より3年前の寛延3年(1750年)三浜の大火