河守源助さん 32(三日市)

むかしは由良川にそって田辺藩の竹やぶが、三百メートルほどありました。
その竹やぶが日光をさえぎり。そのために田んぼは日影になって、米がとれませんでした、その年の年貢(ねんぐ)【税】は高く、村の人達は困っていました。

そこで等々がまんしきれず、河守源助さんとほか、四、五人の人が代表で殿様におねがいすることにしました。その頃の殿様は牧野佐渡守です。

庄屋(しょうや)を通して、代官所(だいかんしょ)にいき、源助は、「村人みんなのお願いです、どうか年貢をへらして下さい。今年は、米がとれませんでした。このままでは来年の種米までなくなります。」
源助さん以外の代表の人びとに、役人は「ほんとうにその通りか、しかと相違ないか。」と刀に手をかけてたずねました。

村の代表は役人の手が刀にかかって、すごいけんまくに、「はい」というはずの返事ができすに「いいえ」と、言ってしまいました。すると役人は、「源助一人で言っているのだな。」ときめつけて、「源助覚悟はいいか。」

源助は村の代表方を見ましたが、その人たちは、ただ下をむいているだけです。源助はうらめしそうに再び代表の方を見ながら。
「どうぞ私がいいだしたことです。」と一言そうして役人の方をみました。
とたんに役人は刀をふりあげ源助の首を打ちおとした。時に天保七年十一月十八日のことでした。

源助さんの首は、くいの上にのせられ数日間さらされたが、由良川の増水でくいと共に流れていってしまいました。村人がそのあたりを通ると、川面に源助さんのうらめしそうな顔がみえると言いだしました。その年は本当に凶作で米や野菜もとれなかったのです。村人は源助さんのたたりのせいだと、うわさするようになりました。源助さんの霊をなぐさめるために、あたごさんのふもとに源助さんをまつりました。その後藩からの年貢米も少しへらしてもらえました。これも源助さんのおかげと、

最近になってお寺の内に源助さんを、なぐさめる石碑(せきひ)も建てられました。源助さんをまつった時の祭文も、庄屋さんだった家に今も残っています。殿さまの竹やぶは、耕地整理(こうちせいり)で今ではもうありません。

一言

天保七年(1836年)天保の大飢饉 田辺藩内凶作 領内餓死者多数