松本 清張氏の思いで

昭和41年の肌寒く感じる初夏、 いや まだ梅雨の時期であったと思います。

二週間程前に予約を頂いた二名の男性客をお迎えすることになったのです。

この時期というのは

まだ海開きには 少し早く

私どもの仕事ではわりと閑な時でこの時期に訪れる方は、

ありがたいお客様であったことは言うまでも有りません。

最初は 一週間の予約をとのことであり

地場産業である丹後ちりめんに関する 仕事客であろうと勝手に決め込んでいたのです。

昭和41年当時はのどかなもので

一時間に一本の列車が 桃や梨畑の砂丘地から 田植えのおわった緑色の田園の中を ゆっくりと走っていました。

今でも国鉄から 第三セクターに経営がかわっただけで

当時を偲ばせる情景や情緒は昔とあまりかわっていません。

田舎といえば田舎でしょうが心のふるさとが今でも、と言ったところでしょうか。

カゴを背に宮津に通っている行商のおばあさんの 後ろから

国鉄のローカル線に乗り 東京から長い時間をかけて丹後木津に来られた二人の男性の 歩いて来られる光景は、

今で言う非常にアンバランスな感じであったことを覚えています。

お一人は普通の会社員風、もう一方は髭づらの中年。

しかし、それがありがたいことに当館のお客様であることが一目でわかることとなったのです。

服装が あきらかに違う二人の男性は地元の者ではなくその男性のところへ行き尋ねると、

『あっ えびすやさんか・・』(松本氏)

『お迎えに参りました。』 (前女将)

『 それは どうも ありがとう』(松本氏)

と 簡単な挨拶をかわし たことを覚えています。

当時 送迎の車はあったが 駅からあまりにも近いので気軽に歓迎ののぼりを持って お迎えに行ったのですが、

後に大変な方で有ることや、少々はずかいい思いをしようものなどこの時には知るよしもありませんでした。

歓迎ののぼりを持って お迎えすることは 当時のごく普通のサービスで あったのです。

私は お二人の二歩程先を歩いて 当館までご案内したのですが、

なにせ当宿までの近道は、線路づたいの あぜ道、そこをご案内したのですが、

二人の男性は都会から来られた方、足元は黒の皮靴 そして私は サンダル履き 、

傍目には異様な感じがしていたのかもしれません。

ましてやこの時期雨でも降っていようものなら泥濘みで靴もドロドロになったであろうと思います。

『足元にお気を付け下さい』と 言いながら 私は玄関までご案内し挨拶して接客係に任せることにしました。

少し間を置いてから客室に出向き 宿帳に記入していただくと

一人の男性は、朝日新聞社の方と署名され、私はお茶の用意をしな がら二人の会話を聞いていました。

その会話の中には、新聞社の男性がもう一人の方に向かって『先生』と 呼んでいるのでした。

私はどこかの大学の先生かなと勝手に想像し気にも留めず、

『1週間の滞在 のご予定とご予約の時にお聞きしておりますが、丹後ちりめんの取材か何かでお越しにな られたのですか』とお聞きした。

『まあ、そんなところかな』と笑いながら返事をされたことを覚えています。

ここ丹後の地場産業である ちりめん関係のビジネス客や取材などは大変多く、

それほどめずらしいことではなかったからです。

一通りを済ませ本日の夕食の時間をお聞きし部屋を後にしました。

たしか初日は板場が腕を ふるって丹後の海の幸をふんだんに使った舟盛り料理を夕食にお出したと気憶しています。

舟の上には全てが天然物の 鯛、飛び魚、サザエ、鮑、烏賊、当館自慢料理です。

これには都会の男性二人も絶賛することしきりでした。

しかし、当時 私共小さな旅館での料理はせいぜい4種類がいいところで

一週間の献立となると日をくるに大変になってきます。

しかし料理には相当満足されていたようでお下げする器には何も残っていませんでした。

さて、二人の滞在の様子ですが、車で海岸までお送りし たり、列車で天橋立や城崎に行かれたり、宿の回りを散策されたり、

しかし、普通の泊り客と少し違うなと感じたのは数日経ったころでしょうか。

やたらに電話が多いのです。

かなりの数の電話をこの先生に取り次ぐことになり、正直言って女将業そっちのけの日も幾日かあり、この先生って何者、という思いが日々大きくなる毎日でした。

そうして5日程経った頃でしょうか、当宿での一大事件が起こったのです。

 

一人の新聞社の男性が帳場に顔を出し、

『先生だけ一カ月程一人 で滞在させてくれないか』と

今までそのような長期滞在は経験がなく返答に困ったのですが、 暇な時期でもあったので快くお引き受け致しました。

その男性は安心したかのようににっこりと笑顔を私に返し

『ありがとう、それじゃ 先生のことよろしくお願いします。』

実は、その時ですら先生と名乗る男性が誰なのか、まだ知りませんでした。

 

たびたび先生宛に電話が新聞社からかかってくるのですが丁度一週間目ぐらいのときです、

 

『松本清張先生の お部屋に取り次いでください。』

 

一瞬私は耳を疑いました。

あの松本清張が私共の宿に泊まっている。

本当に信じられませんでした、それも一カ月もの長期滞在。

さあ どないしょ う、

主人共色々と相談した結果、ここは騒がず静かに出来れば最後まで気づかぬ振りをして 執筆活動に協力しよういうことになったのです。

松本清張氏の名はあまりにも有名であり映画にも なったので存じていたのですが、お顔までは知らなかったのです。

今から思えば何と恥ずかしいことか・・・とは思いながらも

最初の頃は意識をして対応してしまったことや妙に緊張をしてかたくなったことを今でも鮮明にに覚えています。

執筆活動の時の様子ですが、物音ひとつせずただひたすらペンの走る音のみで

お料理を出す時には大変気を使いました。

ペンの音がしている時は襖をそっと開けお膳ごとそこに置きそっと閉める。

また、静かになった頃を見計らって部屋の掃除などをお尋ねすると

ぶっきらぼうに『こちらから言うのでかまわんでくれ。』と

どのような雰囲気か皆様にもお分かりいただけるのではないでしょうか。

しかし、くつろいでいらっしゃるときは何処にでもいるおじさんといった風でした

少々強面ではありますが・・・

後で分かったのですがお泊まりのお客様はご存知だったとか

いかに私どもが文芸にうとかったかお笑い下さい。

あの個性あるお顔を見ても気が付かなかったのです。

中でも一番困ったことは、なんといってもお料理のことでした。

一週間でも困惑しているところに一カ月間の滞在ともなると寝ても覚めても頭の中はお料理のことばかり、

本当に手を上げたい気持ちなのです。

そこで 最後の手段と決め、直接先生にお聞きすることに致しました。

すると、先生は私達の気持ちを知ってか知らずか

『貴方たちがいつも食べている ものと同じでもので良い』とおっしゃりほっとしました。

要するに田舎料理を少しづつほしいとのことで 豪華な料理も毎日食べると飽きるということでした。

『素朴な地元の家庭料理、おふくろの味が一番のごちそ うだ。』そうなのです。

なにはともあれ一安心、

ある時は芋の煮物、ある時は魚の荒煮、山菜漬け、ばら寿司 烏賊ソ-メン など

あらゆる地元丹後の料理をお出しました。

先生は滞在中、部屋に閉じこもった り、散歩をしたり、自転車で海に行き釣りをしたり、

また朝早く列車に乗り遠出をしたり、 資料館にこもったり、自前の丹前姿でウロウロされていました。

 

漁の成果といえば、食卓に花を添えることがなかったと申し上げれば

皆様にも察しがつくと思いますので適当にしておき、

 

小説『Dの複合』の中の一節にある、村の 警察などが捜索を行った山狩りの明かりとは、

実は7月13日地元の村祭りの時、部屋の窓越しから見えた提灯に灯る 明かりの列をヒントに

これが小説の一場面になったのではないかと思われます。

これは恐らく清張先生と私だけが分かる秘密であったのですが、今読んでいらっしゃるあなた様も秘密を知った一人に入ることは言うに及びません。

小説中には、丹後の伝説、歴史、風土 や色々な物事が詳しく調べ知り尽くされた小説でありよくここまで調べ上げたものだと感心してしまいました。

そうこうしている内に一カ月どこ ろか、二カ月近くの滞在となってしまい、

最後にはわが家の住人のようになってしまいまし た。

あまりに親しくなってしまったので、サインや署名などすっかり忘れてしまい惜しい気持ちもしましたが、

今から思えば、これで良かったのではないかなと思います。

 

しかしあの顔は確かに一度見たら忘れな い。

清張先生と同じ屋根の下に二カ月間過ごした日々。

執筆活動の時には襖をそっと開けてお料理の膳をおだししたことや、

山のような灰皿を何度もお取替えした事、

丹前下駄履きの先生のお姿、

昭和41年の初夏は私や主人にとって大変思い で深い年であり

今、二人で良き時代に恵まれた思い出に浸り

主人と微笑みながら回想できたことをありがたく思います。

 

当宿にお泊まりの際や松本先生のお人柄を思い浮かべながら

作品を読まれるのも一考かと存じます。

 

文末になりましたが、乱筆乱文お許し頂きたく

また、先生のご冥福、ご家族様のご多幸を心より祈り申し上げ筆を置きます。

                                                       先代女将

追伸 、松本先生とお会いした事で私自身の一番変わったところですが

それ以後 著名な方がお越しになった時には忘れずサインを頂くようになったことでしょう。

しかし 先生のサイン、写真がないことは言うに及びませんが・・・

 

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