「宮津」という地名の由来となった城下最古の神社
杉末神社は日吉神社の右隣にあり、日吉神社が近江から勧請される以前からこの地にあった式内社です。式内社とは平安時代初期の延喜年間に醍醐天皇の命により編纂された「延喜式神名帳」にその名が登載されている神社のことで、そのことから既に約一千百年前にはこの地に在ったことが文書で確認される神社であると言えます。
当地の宮津という地名は宮(神社)のある津(入り江)という意味で、奈良時代・平城宮跡の木簡に記された地名です。つまり「宮津」という地名は奈良時代には既に使われており、その史実から宮津地名に関わる「宮」は、当然延喜式に記されていなければならない神社であることがわかります。
その延喜式神名帳には所謂宮津の地に杉末神社以外の神社は記載されていません。杉末神社が宮津の地名の由来となった当地最古の神社であることを示す重要な資料と言えるわけです。
もとは宮津の産土の神
杉末神社は遙か昔、宮津の地に人々が住み始めた頃に、人々の守り神として祀られた産土(うぶすな)の神です。つまり宮津の地の守り神であったわけで、山王の神はその神域に平安時代中頃に末社として迎えられました。
戦国時代、舞鶴城へ急ぎ帰る細川氏を宮津の漁師が助けたため、太刀を授けられます。その頃の漁師は現在の漁師町ではなく宮津の浜各所に住んでいたわけですが、漁師はその太刀を杉末神社に奉納したと記録されています。山王宮が江戸時代に宮津総氏神となる以前の記録であるわけですが、杉末神社の産土神としての宮津での位置付けを窺い知ることの出来る記録であると言えます。
例祭に行われる赤ちゃん「初土俵入」は、江戸時代の中期から地元力士により執り行われてきた奉納花相撲の影響を受け、氏子中の有力な家々がその屋号などを元にした化粧回しをつくりその息子達を土俵に上げたのが始まりです。山王祭が宮津祭と呼ばれたのに対し、杉末神社例祭は西祭また、甘酒祭と呼ばれたと記録されています。

本殿は京都府登録文化財
杉末神社は山王宮ご本殿の右隣にあります。元々神域は杉末神社の境内であったわけですから昔は中央に鎮座していたのでしょう。現在の建物は寛政6年(1794年)に再建されたものです。

重厚な彫刻が映える
社殿は江戸時代丹後地方の宮大工である富田氏により造営されました。山王宮の建築群の中では一際重厚な深い彫刻が特徴となっています。



