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「小津安二郎生誕100年記念」として、昨年12月から放映の始まった作品は、朝ドラのように毎日繰り返される日常性を描いたもので、ストーリーはとりたてて言うほどもない他愛のないものである。特徴となるキー・ワードは、父と息子、父と娘、母と息子、家族、兄弟姉妹、冠婚葬祭、クラス会、同窓会など、ただストーリーだけを追っていると退屈で早送りしたくなる。
しかし、そこで気づくことは、小津安二郎の作品に何回も出てくる俳優、笠智衆の存在である。初期の「父ありき」から「秋刀魚の味」まで、彼が声高だかなセリフを言ったことは少ない。それは役柄というよりも人柄そのもの、そのような生き方をしてきたという感じだ。勿論、小津安二郎の描く世界は溝口健二のように底辺で過酷に生きる人々ではなく、むしろ正反対といってもいいほどの中流または上流の家庭である。家族に多少の波風はあっても、非日常的な事件はまず起こらない。だから、騒がしくなく、いつも静かで、おだやかにしていられるかもしれない。しかし、私は見ていて小津安二郎がそのように生きていて彼の反映が笠智衆を通して出ているように思えて仕方がない。例えば、「東京物語」で、奥さんが亡くなった翌朝の有名なシーンがあるが、「きれいな夜明けだった。今日も暑うなるぞ。」というような心静かな態度は、死というものにたいしても感情が騒ぐことなく、現実を凝視し「ギーター」にあるように心が静寂なことを示している。
日本のヨーガは、佐保田鶴冶博士によって紹介されたといってもよいが、しかし今日までその真意が伝わったとは言い難い。それは弟子を自称した人々の怠慢というよりは、理解が及ばなかったからであろう。つまり、ヨーガは「心が静かであること」であって、必ずしもポスチュアとかアーサナとかいわれるポースをとることではない。
一昔前、日本人なら誰一人として知らない者はなかった「忠臣蔵」は、「忠孝」という封建的な思想にのみ関心がいったり、そのように利用されもしたことは事実だが、その象徴は「武士道」である。つまり、その中に、ヨーガは仏教や禅を通して日本に既に存在したのであって、気づかなかっただけである。
岡倉天心の「茶の本」と同様、世界数カ国語に訳されて海外の方によく知られている新渡戸稲造(にとべいなぞう)の名著「武士道」の原文は、「日本の魂」・Bushido,The
soul of Japan(英文)である。以下の翻訳は、矢内原忠雄によるものであるが、それを読んでみよう。
「運命に任すという平静なる感覚、不可避に対する静かなる服従、危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、生を賎しみ死を親しむ心」(同書p.32)
これはまさにヨーガといってよく、それには瞑想をもってし、
「すべての底に横たわる原理、能うべからずんば絶対そのものを確知し、かくして自己をばこの絶対と調和せしむるにある。」(同書p.32)
とヨーガの語源の「合一」まで述べている。
ヨーガは、小津作品における笠智衆のように、人生で起こる様々な出来事に対して現実を凝視し、しかも、いつも心静かにしていられることである。それはそう簡単なことではないが、何か特別なことをしないと到達できないものでもない。
参考文献: 新渡戸稲造著・矢内原忠雄訳「武士道」(岩波文庫)
(C) Takayoshi Mashimo Jan. 29, 2004
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