壬生・八木家の次男為三郎は今年十四歳になる。
近頃再び子供たちの遊び場である壬生寺に顔を出している。八木家に引き取られていた少年多一が病で亡くなり、為三郎の弟、勇之助の落胆が大きかったので相手になってやるという意味もあったが、為三郎自身多一を失った喪失感があって、それを埋めようとしていたのかもしれない。
そしてもう一つ、沖田総司という若い侍のためとも言えた。
沖田は、八木家や前川家に滞在して屯所としている浪士組隊士の一人だった。この壬生の浪士組は今や会津藩御預かりとなって、京の治安維持という仕事を正式に与えられていた。
局長は水戸出身の芹沢鴨と、江戸で試衛館という小さな道場を開いていた近藤勇の二人である。
為三郎はこの二人の局長にはそれぞれ派閥があることを知っていた。
沖田は近藤勇の弟子で、剣の天才とうたわれている。つまり近藤系の隊士である。
この沖田が壬生寺で近在の子供たちといっしょに遊んだりしている。最初はこわごわと見ていた子供も最近はすっかり沖田になついていた。
大坂に芹沢鴨たちが出張中、八木家は静かだった。
為三郎の両親も使用人たちもほっとしている。しかし勇之助は沖田まで大坂に行ってしまったので、
「沖田のおっちゃん、はよ帰ってきてほしいなあ」
とつまらなそうにしている。一時は沖田に反発していたガキ大将の勇之助なので、
「お前はこの頃すっかり沖田はんびいきになったんやな」
と為三郎はからかった。
「為にいちゃんかて、なんで俺らがおっちゃんと遊んでいるときに、いっつも現れるんや」
「俺は沖田はんを観察してるんや」
「かんさつ?」
「そや、おもろい人やからなあ」
勇之助は為三郎をわからないやつといった顔で見やり、
「為にいちゃんもただおっちゃんと遊びたいだけやろ」
と言った。
大坂から隊士たちが戻ってきた。
父の源之丞が
「なんや、あっちでひと騒動あったそうやで」
と母のまさに言っている。
「また何かやらかしはったんどすか。芹沢はんが」
「そやろなあ。近藤はんは苦虫をかみつぶしたような顔してはったわ」
「ご苦労はんなことやねえ」
為三郎は沖田総司を探して向かいの前川家に行った。沖田はこの頃そこに寝泊まりしていた。
隊士の原田佐之助が目敏く為三郎を見つける。
「よう、為三郎、こっちきな」
為三郎は警戒する。原田はいつも食べ物を持ってこいだの酒を調達してくれだのと用事を言いつけるからだ。
「土産だよ、土産。買って来てやったぞ。お前には世話になってるからな」
そう言って、原田が懐から取り出したのが何やら怪しい錦絵である。
原田が為三郎に渡そうとしたとき、横合いから手が伸び、さっとそれを取り上げてしまった。
「原田さん、為坊をひきずりこまないで下さいよ」
沖田総司である。長身で、くっきりした切れ長な瞳とよく笑う口許が印象的な男だ。
「ひきずりこむって外聞が悪いことを言うなよ」
「こんなものを持っている為坊を、八木さんのおかみさんが見たら卒倒してしまいますよ」
「為三郎、上手く隠せるよな」
「原田さん!」
為三郎は沖田の手の中にある錦絵が見たくてしょうがなかったが、沖田はそれを原田に押しつけて、
「為坊、ひさしぶりだから、ちょっと話そう」
と為三郎を外へ連れ出した。
取り残された原田は二人を見送って、錦絵を見直し、
「為にはちょっと刺激が強すぎるかな」
と独り言を言った。
為三郎は沖田の横顔にあざがついているのに気づいた。範囲は狭いが青くなっている。
「沖田はん、怪我しはったんか」
「え、ああ、これか」
沖田はあざに手をやって、彼にしては珍しく憮然とした顔になった。
「どうしはったん?」
「言いたくないなあ」
と笑った。
「もう散々だよ。力士達と喧嘩したのさ」
「相撲取りと」
為三郎は目を白黒させた。
「乱闘騒ぎだよ。あまりほめられた話じゃない」
「ふうん、沖田はんもそんなことしはるんや」
為三郎は乱闘を止める沖田を想像できたが、乱闘に加わる沖田を想像はできなかった。
大坂の力士との乱闘騒ぎはやはり芹沢がきっかけだった。往来の通行を邪魔された芹沢がその力士を斬り捨てたのだ。その仇討ちのために他の力士たちが押しかけてきたので、隊士たちはそれに立ち向かうことになってしまったのである。
「土方さんたちから大目玉だよ」
沖田はそう言いながらも笑っている。
沖田と為三郎の姿を見つけた勇之助も走ってきた。
「おっちゃん」
勇之助はまっしぐらに沖田に飛びついてくる。
「おっ、勇坊、元気だったか」
沖田は嬉しそうに、ぶつかってきた勇之助をわざと地面に転がした。たちまち相撲になってしまう。じゃれあう二人に巻き込まれて、いつしか為三郎もいっしょになって遊んでいた。
その頃芹沢の元に通ってくる女がいると評判が立った。それが借金の取り立てに来ているうちに芹沢の女になったしまったというお梅だった。菱屋という太丸問屋の妾だという。
例のごとく為三郎の両親が眉をひそめてその話をしていたのを、ちゃんと為三郎は聞いていた。
為三郎が初めてお梅を実際に見たのは庭先でだった。
想像していた姿とは違い、まだあどけなささえ残す少女のような女だった。ただ唇にさした紅色が鮮やかだった。
お梅はどこか放心したような眼差しで、足元も覚束なく歩いている。しかし、為三郎に気づいてにっこり笑った。
「こんにちは。お世話になってます」
と丁寧に挨拶してくる。為三郎はまぶしそうな顔して、お辞儀した。
「もうすぐ雨が降る」
お梅がそう言った。
「雨?」
為三郎は空を見上げた。曇天だが雨の気配はない。
「うち雨は好きや」
お梅が言った。
「うちの勘はあたるんえ。すんまへんけど、駕籠を呼んでくれへんやろか」
為三郎はどぎまぎして、うなづくと母家に引き返した。
お梅は母家で少し休み、駕籠が到着して帰って行った。
しばらくしてお梅の言った通り、表に雨音がし出した。
そこにいあわせた原田佐之助は
「いい女だねえ。あれぐらいだと誰でも惚れたくなるね」
と盛んに言っている。
原田に茶菓子を出しているまさが
「そやけど、なんやかわいそうな人のような気もしますけどなあ」
と言った。
「そうかね。芹沢先生は大物だから、この先安楽に暮らせるだろう」
「おなごの気持ちは原田はんにはおわかりにならへんかもしれまへんなあ」
いつになく母親のまさが色恋のことを話題にするので、為三郎は気恥ずかしい。
しかし為三郎の目にもお梅は幸せそうな女には見えなかった。
今日も沖田は為三郎や勇之助たちと壬生寺で遊んでいる。非番のときに限られていたのだが、沖田はときどき稽古をさぼって遊んでいるようだった。
同門の大先輩であるらしい井上源三郎という隊士が沖田をよく呼びに来ていた。
「総司」
と井上は沖田を呼んだ。
「あ、井上さん。稽古ですか」
沖田は平気なものである。為三郎の方が心配してしまう。
「お前、知ってるならどうして出てこないんだ」
「私にとって、ここで遊ぶことも稽古だからですよ」
沖田がこう言い出したので、これには井上も為三郎も驚いた。
「総司、でたらめを言うんじゃない」
井上はいつも沖田に小言を言いなれた口調であきれたように言った。
「でたらめじゃないですよ。こうして鋭気を養うのも、私には重要なんです」
「その理屈、土方さんに通用するかな」
「え?土方さんが出てるのか。しまった」
「何がしまっただ。はやく来ないと非番の日が減るぞ」
「そいつは勘弁してください」
沖田と井上たちがそう言い合っている間に、壬生寺に場違いな二人が現れた。
芹沢鴨とお梅だった。
でっぷりとした芹沢の傍らでお梅はいかにも可憐に見えた。彼女の焦点が定まらないような視線が沖田に注がれて止まった。
「これは芹沢先生」
井上が頭を下げた。
「井上、沖田、ちょうどいい。紹介しよう」
芹沢はいつになく酒気もなく、機嫌もいいようだ。
「これがお梅だ。わしの女房がわりの女だ」
井上と沖田はお梅に黙礼する。お梅は深々とお辞儀した。それを満足そうに芹沢が見ている。酒が入ると手のつけられない芹沢だが、普段は気のいい男なのかもしれない。
「沖田、大坂では大活躍だったな」
芹沢が揶揄するように笑う。
沖田は苦笑して、
「もうああいうことはこりごりですから」
と言った。
「お梅、この沖田はな、こう見えても剣を取るとわしでもかなわんかもしれん」
芹沢がお梅にそう言った。お梅は沖田をじっと見つめ、
「お強いんどすなあ」
と言った。
「芹沢先生の買いかぶりですよ」
沖田はさらりとかわして、井上に
「稽古に行きましょうか」
と促し、芹沢や為三郎たちにも挨拶した。
沖田と井上がいなくなった後、芹沢がお梅にこう言った。
「お梅、お前、沖田が気に入ったのか」
お梅は艶やかに笑った。
「いやな先生。そないなわけあらへんやないの」
芹沢は大声で笑い、お梅の肩を抱いた。お梅もくくくと笑っている。
勇之助たちはもう場所を移動して新しい遊びをし始めている。為三郎もそっちへ行きかけて、最後にお梅に目をやったとき、彼女と視線が合ってしまった。芹沢から見えない角度だった。お梅の目には笑いはなく、どこか悲しげだったように為三郎には見えたのだった。
その日は雨が降っていた。それほど激しい降りではない。
読み書きを習いに通っている塾の帰りに為三郎は、偶然沖田といっしょになった。浅葱色に白抜きのだんだら模様の隊服を来ている。
できたばかりの隊服だが、沖田はいやがっているようだった。
「派手だろう。いやになるよ。それでもこれからお役目だからなあ。今日は護衛に行くんだ。私だけ別の組に参加することになる」
おそらく沖田の腕が買われて、特別に命じられたのだろう。
行く手の商家の軒先にひときわ目立つ姿でお梅が立っていた。屯所からの帰りだろうか。雨にあって、しばらく避難している風情だった。
お梅は沖田と為三郎をを見つけたようだった。会釈してくる。
「雨やどりですか」
と沖田は聞いた。
「へえ」
お梅が答えた。
「じゃ、これを」
沖田は自分の傘をお梅に差し出した。
「それやったら沖田はんが濡れてしまいはる」
「いや、私は駆けていけばすぐそこですから」
お梅は沖田の傘に手を伸ばした。お梅の手が沖田の手の上に重ねられた。重なった二人の手を見て、為三郎はどきりとした。
沖田は表情を変えることなくそっと手を抜き取り、お梅に傘を渡した。
「じゃ、お気をつけて。為坊、私は先に行く」
沖田は雨の中、駆けて行く。
お梅は沖田の後ろ姿が見えなくなるまで、ずっとそのまま立っていた。
為三郎はそんなお梅になぜか心を残したまま、家路を急いだ。
大坂でのいざこざの手打ちのために大坂力士たちによる興行が祇園の八坂神社に続いて壬生でも行われるようになった。
浪士組の隊士たちは興行の張り紙を自分たちでも近在に貼って回ったり、警護を引き受けたり活躍している。
為三郎たちも実物を見るのは始めてて、その興奮はすごいものだった。勇之助は、相撲取りになると言い出す始末である。
しかしそんな中、芹沢が屯所から大砲を持ち出し、金策に応じなかった大和屋を砲撃するという騒ぎを起こした。
「えらいこっちゃ。ほんまあの芹沢はんは無茶するお方や」
源之丞はほとほとあきれはてたように言った。
「また近藤はんが尻拭いしはるんやろなあ。気の毒なことや」
「会津はんからも何やお咎めがあるんとちがうんかな」
八木家出入りの者たちも口々にそう言って帰る。
為三郎は沖田に聞きにいったが、沖田は肩をすくめて
「芹沢先生のことは私にもさっぱりわからない」
と言うばかりである。
芹沢の乱暴はこの頃からまた一段とひどくなり、昼間から酒気をおびていることも多かった。
そんな芹沢にお梅はひっそりとつき従っていた。
そんなある日のことだった。
為三郎が庭に出ていると、
「為坊」
お梅に手招きされた。
「お願い聞いてくれる?」
為三郎はお梅に近づいた。
「お願いて何?」
「沖田はんに伝えてほしいことがあるの」
「沖田はんに」
思わず為三郎はお梅の顔を見直した。
お梅の頬がうっすらと朱に染まっていた。
「沖田はんにこないだ傘を貸してもろうたあの場所で、同じ時刻に、明日待ってますと伝えてくれはる?」
「明日、同じ時刻に同じ場所で」
為三郎が繰り返す。
「あのときの傘をお返ししたいとそう伝えて」
傘ならば他にいつでも返す機会があったろう。八木家の母家に預けてもらえばそれでいいのだ。しかし為三郎はそう言い出せなかった。
「為坊だけが頼みなんよ」
お梅に手を合わせられて、為三郎は承知してしまった。
気が重くなる自分に鞭打って、為三郎は沖田をようやく捕まえることができた。
稽古の後なのか、沖田は井戸端で身体を洗っていた。なめらかで引き締まった褐色の身体だった。所々に傷があるのは、沖田の稽古や実戦の激しさを物語っていた。
「何だい、なんか元気ないな」
沖田は着物を整えながらそう聞いてくる。
それがあまりに明るい声なので、為三郎はなんだか腹が立ってきた。
「沖田はんは呑気やな。人の気も知らんと」
「どうした、為坊。機嫌が悪いんだな」
「お梅はんから伝言を頼まれたんや」
「お梅さんから?」
為三郎はお梅の伝言を一気に伝えた。
沖田はそれを聞いて
「傘か…」
と独り言のように言い、しばらく間があいたが、やがてきっぱり
「行けないと伝えてほしい」
と為三郎に言った。
為三郎が口を挟む余地のない拒絶だった。
為三郎が帰ってくるのをお梅は待っていた。沖田の返事をお梅に伝えると、一瞬お梅は目をつぶった。
「為坊、お使いご苦労はんやったな」
お梅は微笑んだ。その笑顔は美しかった。
翌日は雨だった。あの日と同じように。
塾からの帰り、為三郎はこっそりあの道を通ってみた。あの時より時刻は半刻ほど過ぎている。そして沖田は断ったのだから誰もいないはずだった。
しかし為三郎はあの軒下にお梅が一人立っているのを見たのである。
沖田は来ない。なぜ断られたのにお梅はそこで沖田を待っているのだろうか。
お梅は沖田の傘を抱いていた。雨足はかなり激しく、お梅の身体は半分ほどぐっしょり濡れているようだった。ときおり、傘を持っていながらそこに立ち続けているお梅をけげんそうに町人たちが見て通った。お梅は誰にも視線を合わせず、ただ立ちつくしていた。
為三郎は泣きたくなり、そんな自分に驚いた。
禁門の政変などあわただしく政治が動いていくなか、近藤派と芹沢派の溝は深まるばかりである。
お梅はあれ以来自ら酒を飲み出し、昼間から芹沢と乱れた生活をするようになっていた。為三郎は大人達の会話からそれを知った。痛ましいような思いでお梅を見ていた。
沖田はというと、お梅を無視するわけでもなく、かといって親しい態度も見せない。それは為三郎から見ても、冷たさと暖かさが微妙に入り混じった態度だった。そして未来永劫交わらない平行線のように、距離が保たれたものだった。
為三郎はお梅にも沖田にも自分には理解できない心理があることを感じていた。
秋も深まり、島原で大酒宴が催されるという。あいにく朝から降り続いた雨が、夜には土砂降りになっていた。
その夜、泥酔した芹沢たちが戻ってきた。お梅が出迎えてまた飲み出す。離家ではなくこの頃では母家に寝泊まりしていた芹沢たちのにぎやかな声は、眠りかけていた為三郎の耳にいやでも入ってくる。
子供が育つには確かによくない環境だろうと為三郎は思う。
しかし皆が寝静まり、ようやく熟睡に入った頃、突然、布団の上に重いものが乗ってきて、為三郎はびっくりした。叫び声、怒号、物が壊れる音。女の声が何か叫んでいる。母の声だ。逃げろと言っている。
隣で寝ていた勇之助をゆり動かそうとしたとき、ぴかっと稲妻が光り、一瞬あたりが浮かび上がった。布団の上に倒れている芹沢の凄惨な顔。そして大刀を持って立っている二人の男。それが土方と沖田であることを為三郎は見てとった。沖田はまるで彫刻のように無表情で、為三郎が知っているあの沖田総司とは別人だった。
為三郎は恐怖で足をがくがくさせながらも勇之助を起こして廊下へと逃れると、狂ったようなまさが二人をかかえるように表に連れ出した。容赦なく雨が降りかかってくる。
避難先の永島という家に落ち着くと、勇之助が「足が痛い」と言い出し、調べると刀傷がついている。あのどさくさで間違って刀が当たってしまったのだろう。
この夜、芹沢と芹沢一派の平山五郎が死んだ。そして同衾していたお梅も死んだ。賊が忍び込んで惨殺したのだと公表された。
お梅は最期に何を思ったのだろうか。あの幻のような沖田は本物だったのだろうか。
強い悲哀がかけぬけていく。
為三郎は悪夢のような出来事を思い返し、それの意味するものを考え続けた。
沖田は外出先からとんで戻ってきた父親の源之丞に勇之助の怪我の具合を聞いて気の毒がっている。
「勇坊、痛いか」と世話をやいていた。
「沖田はん」
為三郎は沖田に声をかけた。
沖田の顔にうっすらと傷があった。
「沖田はん、怪我しはったんか」
いつかもこれと同じことを沖田に聞いたなと為三郎は思った。
沖田はやはり顔に手をやり
「ああ、これか。言いたくないなあ」
と答えた。今度は笑いの影はない。
「お梅はんは」
為三郎は言いよどむ。
「お梅はんは雨が好きやと言うてはった」
沖田は
「そうか」
と答えた。
沖田にとってお梅がどんな存在だったのか為三郎にはわからない。彼女はこの世にもういない。彼女の遺品のなかに沖田の傘があったのかどうか為三郎は知らなかった。
「今日は晴れてるな」
沖田は静かにそう言って、空を見上げる。
為三郎も同時に上を見る。晴天の秋の空が広がっていた。