芹沢鴨、平山五郎の葬儀が終わった。
山野八十八は道場での平山を思い出すこともあったが、そんな感傷にひたっている暇もない。局長近藤勇が訓示を行い、隊士全員身が引き締まる思いでいた。
そんな中に一人の男が監察方に入っている。大坂の鍼灸医だったそうだが、もともとはこの壬生村の生まれだという。年は三十前後。物腰がやわらかく、人懐っこく誠実そうな態度が人の警戒心をとくようなタイプだった。名を山崎蒸といった。
土方歳三が京、大坂に土地勘があって特に町家に出入りしやすい人材を欲しがっていたため、監察方に配置換えされることになったのである。
「情報はまず私に最初に報告し、私の指図で動くように」
隊の実務は副長の土方が握っていた。命令系統の一本化である。
局長近藤は外部との折衝に当たっていた。もう一人の副長であった山南は総長という立場で、近藤の補佐をすることになっている。
芹沢を粛清し近藤派で固めた今、今度は隊内に入り込んでいる長州の間者をあぶりだし始末することが急務であった。
土方は隊士たちを一人一人内偵するように、監察方に命じた。
楠木小十郎は非番のおり、よく四条の小料理屋に顔を出していた。
奥の座敷に案内されと大抵女が待っている。傍目には年上の女との逢引のように見えるだろう。武家の妻女風の女のときもあり、町家の娘であることもあった。
小十郎は相手に書きつけを渡すだけである。必要な事以外しゃべらない。黙って酒を少し飲んで、食事をする。
その日は町家の娘が来ていた。長州藩ゆかりの商家の娘であることだけ、小十郎は知っていた。
今日は娘の方から珍しく小十郎に話しかけた。
「私はこれでこのお役目からはずれます」
小十郎は箸を止めた。
「何か不都合でも?」
「いえ、一身上の都合で…」
「そうか」
小十郎は興味なさそうにそう答える。
娘は何か耐えきれなくなったように
「今度、嫁ぐことになりました」と言った。
小十郎はしばらくうつむいたままの娘を見つめていたが
「私はお前の名も知らないが。おめでとうと言わせていただこうか」
顔を上げた娘は今にも泣き出しそうになっていた。
小十郎はその美しい口許にふふと笑みを浮かべた。
「それともこうして欲しいのかな」
娘が避ける暇もなく、その手をつかんだ。
男として華奢だが、剣術で鍛えた身体だ。娘が抵抗できない力がある。また、娘も心の奥底でそれを望んでいたのだろう。
恩がある桂小五郎の頼みだとはいえ、嫁入り前の娘を危ないことに巻き込みたくはなかったのが娘の二親の気持ちだっだ。小十郎と連絡をとるようになってから、娘の様子がどこか違ってきているのを微妙に察した母親が急な縁談をまとめる気になったのである。
小十郎は娘の名を聞いていない。娘も小十郎の本名を知らないだろう。おそらく彼がどんな立場にいるかも知らないはずだ。
やがて、ふるえる手で帯を結び直している娘に小十郎は
「早く嫁に行け」と冷たく言った。彼は既に身なりを整えている。
彼の心にはある一人の人物だけが住んでいる。そこにはあれだけ傾倒していた桂もいない。長州もない。「沖田」がいるだけだった。
小十郎が入隊したとき、すぐに芹沢と近藤の派閥争いに気付いた。この二つが争ったとき、浪士組は自然消滅してしまうのではないかと思った。それでも桂は隊の内情をできるかぎりくわしく書き留めるように指示してきた。
小十郎はまず土方歳三に注目した。警戒したと言っていい。土方の勘の良さ、言い換えれば頭の切れが恐くなったせいもある。その土方が唯一心を許している存在が沖田総司のように小十郎には見えた。
土方は自分の居室に人が訪れるのを嫌っている。例えそれが近藤であろうと。ただ沖田だけが土方の心理的なテリトリーに入れるようだった。
小十郎は沖田を観察することにした。非常に人当たりのいい若者だった。
人は美しいものに弱い。小十郎の美貌を見るとまずそれにとらわれてしまう。しかし沖田はいっさい小十郎を特別扱いしなかった。道場でも容赦ない。それは誰に対してもそうなのである。
桂は目的のためにころころと態度を変えることができる男だった。まだ若い駆出しの小十郎にも涙を見せることまで厭わない。小十郎は桂のような大物の涙に感動したのだが、こうして離れてみて客観的に考えるようになれば、どこか心が冷めるのを感じていた。小十郎には大義だとか、尊皇攘夷だとかは関係なかったのである。
山野八十八が沖田に特別目をかけられているという噂は小十郎を苛立たせた。山野は小十郎とは違う、さわやかな美点を持った男だった。まっすぐで、てらいなく沖田に対しているのを見て、小十郎は初めて嫉妬を覚えた。
娘が泣きながら去ったのにも小十郎は一瞥しただけだった。なぜ抱く気になったのかわからない。誰かに残酷になりたかったのだろう。
しかし、その娘を監察部が密かに追って行ったのを彼は知らない。
先月の政変に際しての出動の恩賞と共に「新選組」という隊名が下された。壬生浪士組改め京都守護職会津侯御預、新選組の誕生である。
近藤以下隊士たちの喜びようは格別だった。
「山南さん、ここもたいしたものになったねえ」
井上源三郎が幹部ばかりの祝いの席で山南敬助に話かけている。
「新選組か。いい名だ。名に恥じぬ立派な働きをしたいものだよ」
山南も笑顔で応じる。
やがてどこで覚えたのか原田佐之助の謡が始まって、それに合わせて藤堂平助が舞い始める。
藤堂は剣の腕は目録までだったが、真剣勝負では相手の白刃に飛び込んでいける勇気がものをいう。いつも先頭を切って斬り込む藤堂は相手浪士から恐れられていた。風貌も凛々しく、近藤のお気に入りである。
谷三十郎の縁故で、昌武もこの席に顔を見せていた。若輩ゆえに末席でおとなしく見学している。昌武の目は、いつのまにか藤堂の舞いに喜んでいる沖田に注がれていた。
沖田の横には定位置のごとく斎藤がいる。浅黒い沖田と白皙の斎藤は好対照である。この二人が新選組の剣の双璧と言われている。どちらも天才的な剣士であった。
沖田は三段突きを特技とし、その剣を簡潔な剣とすれば、斎藤は眩惑的な太刀筋が身上だった。普段は沖田の方が明るく斎藤は無口の方である。が、いったん剣の稽古に入ると沖田は激烈、斎藤はどちらかというとソフトな教え方だった。
三十郎が沖田と斎藤のところへ行き、昌武を手招きしている。
「この昌武をご両所に鍛えてもらいたいものですな」
三十郎の言い方にかすかに傲慢な響きを感じて昌武は赫くなった。
斎藤は三十郎を無視する形で盃を口に運んでいる。その斎藤をちらっと見て、沖田が
「もちろん、いいですとも」と答えた。
「空いた時に声をかけて下さい」
昌武が礼を述べる前に三十郎が
「良かったな、昌武」
と自分の頼みだから聞き入れられたかのように言った。
昌武は沖田に「ありがとうございます」と頭を下げる。
昌武にとって三十郎は大事な肉親という意識はなく、突然現れた見知らぬ男でしかなかった。二人の母は違っている。昌武は後妻の子であり、その母も早くに亡くして親戚に預けられていた。兄達といっしょに育った記憶はない。なぜ兄が自分を半ば無理やりここへ連れて入隊したのか、昌武は知らない。
でも今は自分なりに目標を持つようになっている。沖田にぜひ師事したいと思っていた。あの日、真剣を振るった沖田を見たときから。
後で斎藤は沖田に
「俺は谷さんはどうも虫が好かないな」と言った。
「一さんは好き嫌いが多すぎるね」
「総司さんには好き嫌いがないのか」
「私は剣に私情を挟まないことにしている」
沖田がすまして答えた。
「そりゃ、総司さん、かっこつけすぎだよ」
斎藤は笑顔になる。沖田は案外真面目で
「どんなにいやなやつでも私は稽古をつけるし、どんなに好いてる人とでも真剣で立ち会う時が来るなら手加減はしない」
斎藤はふと自分と沖田が真剣で勝負する日が来たらと想像してみた。江戸で出会った時から、それは剣士としての斎藤の誰にも知られぬ願望だったのではないか。
「監察部が間者の確証をつかんだようだよ」
ぽつりと沖田は言った。
間者の粛清となると幹部が動かざるを得ないだろう。また人を斬らねばならないかと斎藤は思った。
山崎蒸は律儀者であった。土方の命令である隊士の内偵を、隊の幹部たちにまで当てはめて実行しようとしていた。局長近藤勇、総長山南敬助、そして命令者の土方はさすがにリストから外している。
情報をもとにして、非番のときの隊士を観察するという、根気と体力がいる仕事を黙々と勤め始めた。
まず井上源三郎。暇があるとぞうきんやほうきを取り出している。非番のときは朝からここぞとばかりに自室を掃除し始める。ときどき同室の沖田総司が文句を言うのを山崎は聞いた。
原田佐之助は飲み屋や小料理屋に行くのが大好きだ。金がなくなるとつけで飲んでいるが、金離れがいいので評判がいい。
藤堂平助はおしゃれであった。服装に気をつかっている。金がないので着物を新調することはめったにないが、呉服屋や小間物屋を覗くことが趣味のようである。
永倉新八は出掛けるより屯所にいて将棋を楽しむのが一番という男だ。沖田もよくつかまって「またですか」と言いつつ相手をしている。
斎藤一は剣士らしく、刀剣商に出掛けたり、自室で刀の手入れをしていることが多い。出かけるときは沖田を誘うようだ。斎藤は勘が鋭いので、山崎もあまり側まで近寄れないのが残念だった。
松原忠司は播州出身で柔術をよくした。丸坊主の異相であるが、一日一善をモットーにしているらしく、非番のときは村の行事によく参加している。近在の人に受けがいいようだった。
武田観柳斎は出雲母里出身で甲州流軍学を修めた。勉学好きな近藤は軍師として厚遇しているため、隊内でも羽振りはいい。非番の日は若い隊士を誘って飲みに出たがるが同行を断られることも多いようだ。先日は誘われた山野八十八が断っている。
野口健司は芹沢派の生き残りだった。まだ若いせいもあって、同門の永倉がめんどうを見ると言い出し、近藤が隊に残ることを認めたらしい。あまり隊内で目立つことをしたくないらしく、非番のときも屯所内で過ごすことが多い。芹沢たちの死がかなり衝撃だったらしい。人が変わったようにおとなしくなっている。
数カ月後の話になるが、この野口は切腹して果てている。水戸脱藩者数名と関わり合いになり、彼らが新選組の名を騙って金策しようとしたことが、近藤、土方の耳に入ったのである。野口は総ての責任をとった形となった。
谷三十郎は近藤が部屋にいるとかならず顔を出していたが、留守の時は大坂に駐在している万太郎の道場へ行くことがあった。昌武も連れて行くときもある。山崎はこの兄弟が年が離れているせいなのか妙によそよそしい点が気になった。
沖田総司は壬生寺の境内にいることが多い。子供が自然と寄ってきていっしょに遊んでいる。そんなときの沖田はただの子供好きな若者に過ぎない。
しかし、そっと通り過ぎようとしたとき、沖田から
「山崎さん、ちょっと」と呼びかけられ、なぜかぎくりとした山崎だった。
山崎の眉毛は八の字になって、困ったような顔になった。
「あ、沖田さん、ええ日和ですなあ」
「今日は山崎さんも非番ですか?」
「はい、そうです」
「何かこの頃山崎さんがいつも周りにいるって、斎藤なんか不審がってましたよ」
「と、とんでもない。えらい誤解です」
「お役目に関係ないんですね」
「もちろんです」
我ながら判で押したような受け答えだと山崎が思ったとき
「ふうん、じゃ、いっしょに遊んでやって下さい。たまにはいいでしょう。子供の頃に帰って遊ぶのも」
と沖田が言い、山崎はしどろもどろに断ろうとしたが、いつの間にか鬼ごっこをやらされることになってしまった。しかも鬼だ。その次はかくれんぼ、石蹴り、と延々と続いていく。
大の男が子供の遊びをするなんてと思っていたのだが、やってみると意外に面白い。
それに山崎は何にでも熱心になる男だった。
沖田や子供たちに解放されたのはもう夕暮れ時である。
「皆、今日はここまでだよ。今日は新しいおじさんが遊んでくれて良かったね」
沖田は子供たちにそう言いつつ、へとへとになっている山崎に
「山崎さん、今日のお礼と言ってはなんですが、今から道場でいっしょに稽古しましょうね」と言った。山崎は絶句した。
夕餉の後、土方歳三は自室で書物を読んでいた。廊下に足音がして沖田が入ってきた。
「土方さん、私達まで内偵させてるんですか」
「山崎が勝手にやってるんだろう。別に何もなきゃそれでいいじゃねえか」
「そりゃまあそうですが。気を悪くする人もいますよ」
「ああいうやつもここには必要さ」
「どうかなあ。確かにあの熱心さは買いますがね。今日はちょっと山崎さんといっしょに遊んでしまいましたよ」
「あいつもお前は苦手だろうよ」
その頃隊内で有名な沖田の荒稽古によって、欠点を矯正された山崎蒸は、打ち身の痛さをがまんしながら日誌をつけているのだった。
沖田がよく壬生寺の境内にいることを楠木小十郎も知っていた。小十郎は子供が嫌いなので側によらなかったが、今日の沖田は一人で鳩をながめているようだった。
小十郎が近づくと、鳩たちがいっせいに飛び立った。
沖田は小十郎を見て笑顔になる。この笑顔は誰にでも向けられるものだと小十郎は思った。
「楠木君、暇そうですね」
「沖田先生こそ」
「違いない。確かに私は暇だなあ」
境内は静かで平和だ。朝晩冷えてきたが、まだ寒くはなっていない。
私は長州の間者だと小十郎は思う。そう言ったら沖田はこの剣で私を斬るだろう。なんのためらいもなく。なぜ私は桂の言われるままに間者になったのだ。桂だけが私を一人の人間として扱ってくれたからだ。しかし本当にそうだったのだろうか。
「先生、ちょっと話してもいいでしょうか」
小十郎は衝動のままに話始めた。
「私は小さい頃よくいじめられてました」
小十郎は話し出す。沖田は聞いてくれているようだった。鳩たちが一羽、また一羽と戻って来ていた。
「ほらね、私は男にしては綺麗でしょう。別に自慢に思うわけでもないし、かえって私には苦痛だったんです。私は男であることを普通の男より人一倍証明しなければなりませんでした。あるがままの私では許されなかった。私はいつも勇気をためされていた。ある人たちは私を放っておきませんでした。私は人形ではないのに人形のように生きろという。だから私は家を出ました。幸い心配する母親もいませんでしたからね」
「そしてここに入ったという訳なんですね」
いや、そして桂に出会ったのだ。しかし、沖田にそれを言う訳にはいかない。
「この隊にはいろんな人がいます。過去はどうあれ、今は皆新選組隊士ですよ。君はもう誰に証明する必要もないでしょう」
沖田は年下の隊士を見やって、ふと
「君はここで何がしたいんです?」
と尋ねた。
「私は…わかりません」
今まで小十郎は何がしたいか誰にも聞かれたことがなかったのである。
やがて内偵が行われていることを悟った間者たちは逃亡の前に新選組幹部を斬って手土産がわりにすることを画策した。
御倉伊勢武、荒木田左馬之介たちが永倉新八、中村金吾の暗殺に失敗。翌日、幹部たちによって斬殺される。
楠木小十郎の正体も商家の娘の線から露顕していた。
原田佐之助が逃げた小十郎を追って屯所を走り出たとき、小十郎が立ち止まって剣を抜くのが見えた。
小十郎の先に沖田が立っていた。沖田も別の間者を追っての帰りだった。
「沖田先生」と小十郎は呼びかけた。後で原田が首を傾げたほど哀切な声だった。
「これが私のしたかったことです。あなたを斬りたいと思います」
沖田は答えない。
小十郎が沖田に斬りかかり、そのままどうと倒れるまで、ほんの数秒しかかからなかった。刀の血を拭った沖田がしばらく倒れている小十郎を見つめていた。
そして側に来た原田に、
「原田さん、他はどうなってます?」と聞いてきた。
明るい声だ。いつものくったくのない沖田総司がそこにいる。
しかし、原田は沖田が一瞬泣いていたような気がしていた。