この想い


 池田屋事変の残党狩りも徹底的に行われ、新選組壬生屯所はひさしぶりに落ち着きを取り戻している。
 総司は自室の縁側に出て、彼らしくなく静かに外を見ていた。
 こっちへ向かってくる足音がする。
「山南さんだな」総司は勘がいい。
 山南敬助はある事件で怪我をしてから剣を握れない時期があり、驚異的な努力でいったんは回復させたものの、無理がたたって池田屋出動の折りは屯所に残らざるを得なかった。
 今は池田屋で負傷した者の世話などを精力的に行っている。

 総司も池田屋で具合が悪くなった者の一人だった。ただし、彼の場合は刀傷ではない。胸に病をかかえていた。
 総司はあの夜の戦闘で突然咳き込み喀血した。量は多くない。浪士たちの返り血で染まった池田屋で血は珍しいものでもなく、まして室内は闇が色濃く、総司が言わぬ限り他に知れることもない。しかしその後一時的に呼吸困難になって、戦線を離脱した。
 副長の土方の命令で、総司は不服ながらもまだ隊務に復帰せず、こうして暇をもてあましている。

 山南は縁に出ている総司を見つけた。
「総司、またあの娘が来ていたぞ。なぜ会ってやらないんだ」
 あの娘と聞いて総司は一瞬苦しげな顔になった。
「…会いたいですよ」ぽつんと総司はそう言った。
「でも、自分のその気持ちより、あの人の方が大事なんです」
「なぜ会わないことがあの娘を大事にすることになるんだ」
「それは…」
 まだ春とは名ばかりの寒い日に、浪人たちにからまれていたあの人を総司は助けた。笑顔が印象的な人だった。あの人がここを訪ねてくれるのを心待ちにしだしたのはいつからだったろうか。
「あの出動の前にも訪ねてきてくれました。あの人はとても心細そうな顔していました。私は…」
 そう、思わず抱き寄せてしまいそうになったのだ。
「なぜ会って無事な顔を見せてやらない」
「私ではあの人を幸せにできないと知ったからです」
 山南はどことなく以前の総司と違う今の彼を見やった。
「いったい、どうしたんだね。私でよければ相談に乗るよ」
「ありがとうございます。でも、私はもう決めたんです」
 あの人にはもっとおだやかな人生を送る男が似合いなのだと総司は思った。
 自分の命がおそらくそう長くないと彼にはわかっていた。

 局長近藤勇の養子となっている周平が総司の部屋に顔を見せている。
「沖田先生、すみませんでした」
開口一番、周平は総司の前で両手をついた。
「私のせいで、先生は」
「顔を上げて。別に謝ることはないでしょう。君のせいじゃないんですから」
「だけど私は」
 周平は今にも泣き出しそうである。まだ十七歳。剣の素質があり、隊の幹部谷三十郎の弟でもある。もとは備中板倉家の家臣だったという。
 周平は実の兄三十郎より、総司を敬慕している。崇拝しているとさえ言えるかもしれない。総司の剣に魅了された若者だった。
 池田屋突入の際に近藤勇は周平を伴っている。総司も無論この時先頭で飛び込み、最初の一撃で抜き打ち様、相手を斬り倒している。
 池田屋内の浪士たちは近藤が考えていたより多勢だった。場所の特定ができなかったため、土方たちと別れて探索しての結果だった。応援がかけつけるまで、このわずかな人数で持ちこたえねばならない。
 必然、実戦経験を積んでいない周平はお荷物になる。皆自分の相手だけで手いっぱいで彼にかまっている余裕はない。
 総司は近藤の気持ちを察するとともに、周平を放っておくこともできず、彼を視野に入れて行動していた。かなりの負担である。
 周平が後ろから斬りつけられようとした時、総司はそれに割って入って自分の刀で受け止めた。そのまま相手を押し返して、突き技で倒した。そのときだった。総司は激しく咳き込んで、やがて崩れ落ちた。
 周平は自分の前に迫る敵に気をとられて、総司が咳き込んだことに気がつかなかった。男たちの怒号や気合が飛び交うなか、周平は恐慌寸前だった。自分の近くで総司が戦ってくれていることはわかっていた。その部屋に残っていた最後の一人が逃げていくのを追いかけようとして、ふと振り向くと総司が倒れている。それを見つけたとたん、周平は我を忘れて絶叫していた。
 総司は「大丈夫だ」と言いたいのだが、息が苦しくて声が出ない。周平は総司が斬られたと思い込んでいた。しかも自分のせいで。周平は沖田を抱き締めるように助け起こして「沖田先生」と叫び続けていた。
 やがてその声に気づいた近藤勇が、有無を言わせず総司を池田屋から運び出したのである。
「とにかく、私は大丈夫なんですから。君にお礼を言いたいぐらいです。もういいから、こうしてる暇があったら道場へお行きなさい。私ももうすぐ復帰しますから」
「もうお加減はいいのですか」
今では周平も総司が斬られたのではないとわかっている。しかし、自分が足手まといになったことを恥じていたのだ。
「大丈夫。土方さんが大袈裟だから、ぶらぶらしてるだけです。道場に出たらまた厳しいですよ」
 周平はやっと笑顔を見せた。
 私には剣があると総司は思った。たとえあの人が去ってしまっても。
 剣と向き合う力。その力はまだ私に残されているだろう。

 幹部の原田佐之助は陽気な男だ。総司の部屋に顔を見せては気楽な話をして帰る。しかし、今日は珍しく怒った顔をしていた。
「あの娘来ていたよ。いい娘だね。いじらしいじゃねえか。お前がいつまでもそんな態度で煮え切らないなら、俺がいただいちまうぞ」
 総司が厳しい顔つきになったのを見て、佐之助はわざと大きくとびはなれ、
「おっと、沖田。お前が本気で怒ると恐えからなあ。だけどそんなに真剣に想っているなら何も誰に遠慮することもねえだろ」
「あの人も私のことなどそのうち忘れるでしょう」
「わからないねえ。俺にはぜんぜんわからねえ」

 多忙な副長土方も日課のように一度は総司の顔を見にくる。
「だいぶ元気そうだな」
「当たり前ですよ。早く隊務に戻して下さい。こんなに暇なのは生まれて初めてだ」
 総司の訴えに耳を貸さず、
「ちょっと気になることがあってな」
「何です?」総司は警戒する。
「命を投げているのか、総司」
 土方の問いに驚く総司だった。
「私が命を投げていると?」
「そうだ。あの娘、何と言ったかな。お前のとこによく訪ねてくる娘だ。池田屋からこっちお前は全然会ってやらないそうじゃないか」
 総司は黙っている。
「理由が知りたい。あの娘が嫌いになったのか。それならそれをはっきり言ってやることだな」
「はっきり別れを告げろと言うんですね」
 総司にもそうすべきだとわかっていた。でも…。
「そうだ。それがお互いのためだろう」と土方は言葉を続けて
「でも、もし好きで会わないなら、お前は阿呆だと言いにきたのさ。人間の命、ましてや今の世の中だ、明日の保証は誰にもないさ。もしそれでお前があの娘と別れると言い出しているなら、それは間違いだ。お前、一生後悔するぞ」
 総司は土方にも自分にも答える言葉がみつからなかった。

 その何日か後、総司は土方の部屋に寄った。彼はもう公務に戻っている。巡察の報告を一通り終えて総司は土方に言った。
「あの人に会いましたよ。やっぱり別れを告げるために…。私はひさしぶりにあの人に会って、本当に嬉しかった。…だけどあの人泣いていました。私がとうとう泣かせてしまったんだと思うと自分が情けなかった」
 総司はそのときわかったのだ。自分がどんなにあの人を想っているか。あの人のためにならないとわかっていても、離したくないと思っている自分を。そしてそんなエゴをあの人は許してくれることも。
「あの人は私といることが幸せだと言ってくれました。どんなことが起きようと。そのとき私ももっと前向きに生きていこうと思ったのです」
「そうか」
「それに土方さんのお説教はもう聞きたくないですからね」
 土方はその端正な顔をにやりとさせて
「近藤さんを見ろ。まめに通っているぞ」
 総司はくすくす笑って、
「私は先生のような真似はできそうもありません。だって私はまだあの人に自分の気持ちをはっきり言ってないんですよ」
「お前は阿呆か」
「ひどいなあ。でも、私の場合それでいいのです」
「一生言わないつもりなのか」
「さあ、どうでしょうか」
 自分に残された時間の中であの人にこの想いを告げることが許されるのだろうか。総司にはわからなかった。しかしそれでいいのだと総司は思った。この想いは本物だったからだ。それは生きる年月に左右されないものだった。


「千駄ヶ谷の家」