壬生の童歌(みぶのわらべうた)

作・磯宮実里


 壬生の郷士、八木源之丞の三男、勇之助はここら辺一帯に縄張りを持っているガキ大将である。
 少し前までは兄の為三郎もいっしょになって遊んでいたが、この頃少し大人になってきたのか、兄はあまり勇之助と遊んでくれなくなっていた。
 勇之助の家には、親戚の子でこの家に引き取られている多一という子がいた。多一はまだ幼く、人見知りをする子で、必要がないとしゃべらなかった。人が質問しても「うん」とか「ううん」とか首の振りだけで返事を伝える。回りの大人はそんな多一を心配していたが、当人はこれで何の不自由も感じていないらしい。
 ただし、多一は勇之助にはちゃんと返事をする。勇之助は多一の事を実の弟のように思っていて、自分が守るのだと責任のようなものを感じるのか、何かにつけて多一をかばっていた。

 静かだった壬生村に大勢の侍たちが突如として現れたのは文久三年の二月だった。江戸から将軍家警護のためにはるばるやって来たという。
 しかし身なりはお世辞にも立派とは言えず、いかにもうさんくさい。酒を飲んでは大声で騒ぎまくり、宿舎になってしまった不幸な家の一つであった八木家は、耐えるしかなかった。八木家の離家には十三名ほどの侍たちが起居していた。
 そのうち、侍たちは来たときと同じように、突如江戸に戻って行ったが、どういうわけか八木家の十三人はそのまま居残ってしまった。迷惑この上ないが、出て行ってくれとも言えず、耐える日々がまだ続いていた。
 離家にいるとはいえ、じっとしているような侍たちではない。だんだん母家にも顔を出してくる。
 勇之助は侍たちを避けていたが、家の中の事だ。結局誰かと顔を会わす時もあった。

 その日遭遇した侍は、運の悪いことに酔っぱらっていた。おおかたその酒も八木家の酒を飲んだのだろう。十三人のなかで鉄扇を振り回すでっぷりした侍が一番威張っているが、確かその侍に家来のようにひっついている男だ。名前まで勇之助は知らなかった。
「おい、坊主」
その酔っぱらいは怒鳴った。勇之助は聞こえないふりをして通りすぎようとしたが、襟首を掴まれてしまう。酒くさい息がかかる。
「おい、逃げるなよ。酒を持ってきてくれ」
 勇之助は相手をにらみつけた。
「おい、なんだ。生意気な坊主だな」
 勇之助は暴れて相手から逃げると、相手の罵倒を振り切って走って外へ出た。
 あんな侍なんか、いなくなったらええのに。勇之助は力任せに門柱を蹴飛ばした。

 どこか学究肌のところがある為三郎は、この事態を面白く感じていた。毎日の退屈な日々が刺激のある講談みたいな話になってきそうではないか。
 それに為三郎の観察するところ、侍たちは一枚岩の団体でもなさそうである。
 例の鉄扇の侍は芹沢鴨というらしい。芹沢に付き従っている者たちが何人か。
 そしてもう一組、こちらは近藤一派と密かに為三郎は呼んでいたが、この組は統制がとれていて、礼儀正しかった。
「勇之助、ちょっと区別して考えなあかんで。鉄扇と近藤はんとは」
 為三郎は今日もぷりぷりと怒っている勇之助に言った。
「侍なんか、みんな同じやわ」
勇之助は聞く耳をもたない。
「いや、違うて」
「違わへん。兄ちゃんはあの侍らが好きなんか」
「誰も好きとは言うてへんけどな。お前みたいに怒ってばっかしやと、大変や」
「ほっといて」
「それに、近藤はんとこのお侍には、ええ人もおるぞ」
「おらんわ、そんなもん」

 勇之助は多一に言った。
「ええか、あのお侍たちと口聞いたらあかんぞ」
「なんで」
と一応多一は勇之助に聞いてみる。見知らぬ大人としゃべることなど多一にはできないのだが。
「お前そんなこともわからへんのんか。斬られてしまうんやで」
「刀でか」
「そや」
「ふうん、それはいやや。いたいもん」
「そやろ、だからわかったな。近づいたらあかん」
「わかった」

 多一は台所でその侍に会った。
 その侍は見たところ何の害もない人に見えた。
 まだ若い侍だ。多一を見つけて笑顔になった。
「やあ、こんにちは」
声をかけられて多一は困った。
「八木さんとこの子供さんかな。坊、名前は?」
「……」
「そうか、人に名前を聞くのに自分が先に名乗らなくちゃいけないな。これは失礼した。私は沖田総司と言うんだよ」
 おきたそうじ……多一は心の中で言ってみた。この人の声はとても気持ち良くて、多一は自分の名前を教えてもいいなと思った。
「たいち」
 多一が答えたので、沖田は嬉しそうだった。
「そうか、たあ坊、よろしく」
 多一は恥ずかしそうにちょこっとうなづく。
「ちょっとたあ坊に聞きたいのだけど、梅干しがどこにあるか知ってる?」
「うめぼし?」
「うん」
「すっぱいやつ」
「そうだよ」
 沖田は真面目に答えている。多一の答えを待っている様子だ。
 多一は台所の手伝いに来ているおりきが、この間瓶から梅干しを取り出しているのを思い出した。
「そこ」と、棚の一番下にある大きな瓶を指差した。
「勝手にもらっていくわけにもいかないしなあ」
 沖田は困っているようだった。
 おりきたちはどこへ言ったのだろう。
 多一は大きなしゃもじを出してきて、自分が届く範囲で一番大きな鉢を取り出し、瓶の蓋を持ち上げた。開けにくかったが、何とかとれた。開けるとばーっと梅干しの匂いが多一めがけて襲ってくる。くしゃみが出そうだった。
「たあ坊、いいのか。そんなことをして」
 沖田は心配そうである。
 無言で多一はぐさっとしゃもじを瓶のなかにつっこみ、梅干しをたくさんすくいあげ、鉢に入れていく。その度に、三、四個、周囲に梅干しが散乱した。
 みるみる大鉢に梅干しが山盛りになった。
 普通の大人なら多一を止めたのかもしれないが、この若者は違った。子供のすることを見守ってやれるようなところを持っていた。
 多一は、力いっぱい踏ん張って大鉢を持ち上げて、だまって沖田に差し出した。
 それを受け取った沖田は、一瞬情けない顔になった。おそらくこんなにたくさん梅干しを欲しくはなかったのだろう。だが、せっかくの多一の好意を無駄にするのは悪いと思ったらしく、
「ありがとう」と笑顔になる。
 多一もすごくいいことをした気分で嬉しくなった。
 そこへ
「ああ、何やってますのや」
 大きな声がして、おりきが戻って来た。近在の農家の嫁だが、八木家の賄いの手伝いにも来ている。
「梅干しだらけやない」
赤く染まったしゃもじを持った多一を見て
「たあ坊、いたずらしたらあきまへんえ」
「あ、たあ坊を叱らないでやって下さい。私が頼んだんですから」
おりきは沖田を見て、ちょっと赤くなった。
「そやけど、沖田はん」
おりきはちゃんと沖田の名前を知っていた。
「そないにぎょうさん梅干しがいりはるんどすか」
「え、いや。こんなにたくさんは…」
「そうどすやろなあ。でも、珍しいこと。たあ坊がこないなことしたの初めて見ましたわ」
「じゃあ、たあ坊に何かお礼をしなくちゃな」
 沖田がそう言うので、多一はまた猛烈に恥ずかしくなって、しゃもじをおりきに押しつけると逃げて行った。
「沖田はん」
「はい?」
「その梅干し、あてが漬けたものどす。たんと召し上がっておくれやす」
「はあ」
 沖田は山盛りの梅干しを抱えて困っていた。

 壬生寺は勇之助の縄張りのひとつである。だから多一にとっては安心して遊べる場所だった。勇之助の子分格の近在の子供たちが六、七人集まって、今日もにぎやかに遊んでいる。
 そこへ一人の闖入者が現れた。壬生寺に来る大人は子供の領分を侵さず、黙ってお参りして帰るか、子供たちを呼びに来る親達かに限られていた。しかしその若者は、子供の輪の中に入って来たのである。
 子供たちは緊張した。
 多一がその若者が沖田だということに気づいた。あの梅干し好きなお侍さんである。
「みんな、こんにちは」
 沖田は明るく挨拶してくる。
 子供たちはもぞもぞして、このおじさんはいったい何者だという顔でいる。
「私は八木さんちに泊まらせてもらっている人間なんだよ」
 みんないっせいに勇之助を見た。
 勇之助は肩をいからせて、沖田をにらんだ。
「何の用や」
「うん、ちょっとたあ坊に」
今度は皆の視線が多一に移った。
 多一は勇之助の陰に隠れるように後ずさった。
 勇之助はぐいと多一をかばうように
「多一に何の用や」
「ほらこないだのお礼だよ」
 沖田は懐から、竹とんぼを取り出した。
 子供たちの目は竹とんぼに吸い寄せられた。
 沖田は多一に差し出した。多一がそろそろと、それに手を伸ばした時、
「多一、あかん。そんなもんもろたらあかんぞ」
勇之助の怒った声がした。
 多一はびくっとして手をひっこめた。
 そんな二人見て沖田は屈託なく笑い、竹とんぼを手の平でぐいぐいと回し、空へ飛ばした。
 沖田の手から竹とんぼが空に向かって飛んで行った。
 子供たちは思わず見上げる。高く飛ぶそれは、まるで生きているようだった。
 やがて竹とんぼは地上に落ちてきたが、沖田がそれを拾う前に、多一が走って取りにいった。
「多一!」
 勇之助が怒った声で多一を止めたが、多一は拾った竹とんぼを後手に隠した。
「多一!」
もう一度勇之助がきつく言っても、多一は首をふる。
「みんな、竹とんぼ好きかい?」
 沖田がそう聞いてきた。子供たちの中で、一番好奇心の強い道助が
「うん、好きや」と答える。
「じゃあ、みんなの分も作ってあげよう」
これを聞いて、子供たちはわぁと沖田を取り囲んだ。
 勇之助は憤然として、沖田や仲間を見回した。
「俺、もう帰るわ」
 何やあいつら、裏切って。

 勇之助が家でいらつきながらごろごろしていると、多一が部屋に戻って来た。
「なんや」
勇之助はきつい声を出す。こんな言い方は今まで多一にしたことがなかったのに。勇之助はますます苛立った。
「はよ、言えよ」
 多一の手には竹とんぼが二つ握られていた。
「これ」
多一はひとつを勇之助に差し出した。
「おっちゃんがゆうにいちゃんの分も作ってくれた」
勇之助は多一からそれを受け取った。多一は笑顔になる。
 手の中の竹とんぼは単純な作りだが、簡潔で美しかった。しかし、勇之助はそれをべきっと折ってしまったのだった。
「こんなもん、いらん。べつにもらわんかてようさん持っとるわ」
多一はみるみる泣きべそをかいた。

 それからちょくちょく子供達は沖田といっしょに遊ぶようになっていた。しかし勇之助は沖田が来るとかたくなに遊ぼうとしない。
 往来での鬼ごっこで、沖田が鬼になったのか、追いかけられた多一が顔をまっかにして嬉しそうに走っているのを見て、勇之助は自分が寂しさを感じていることに気づいた。
 沖田も嫌いだったが、そういう自分も大嫌いだった。

 ある日、為三郎が勇之助を呼んで教えてくれた。
「何やうちのお侍さんたち、今度会津様のお預かりになるそうやて」
「会津様ってだれや」
「この京都の偉いさんや。そやから、ここのお侍さんたちも会津様のとこへ移りはるんやないかな」
「出ていくんか。あいつら」
「そうなるかもしれへんな」
 勇之助は心が晴れるような気がした。
「お前、嬉しいやろ」
勇之助の事などお見通しといった顔で為三郎が笑う。
「そやけど、多一にとってはかわいそうなことかもしれへんで。あの沖田はんにようなついとるからな。なんでやろな。以前はお前以外にはものを言わへん子やったのに。あの沖田はんは何か不思議な人やわ」

 多一はよく壬生寺で沖田からもらった竹とんぼを飛ばしている。小さい手なので、あまり飛ばない。それでもすぐ落ちてくる竹とんぼを拾ってはまた飛ばす。
 くるくると回って飛ぶ竹とんぼ。多一は楽しくてしょうがない。
「多一」と呼ばれて、勇之助が立っているのに気づいた。
思わず竹とんぼを後ろに隠す。
「沖田はん、ここから出ていってしまうで」
単刀直入に勇之助が言った。
「うそや」
いつもは素直に言うことを聞く多一がそう言い返して来たので勇之助はかっとなった。
「ほんまや。何でも会津の偉いさんのとこに行きはるいうて、為兄ちゃんも言うてたぞ」
 沖田のおっちゃんがいなくなる。多一にとって、それは再び大切な人と別れることを意味していた。多一の両親はある朝、いつまでも起きてこず、そのままふとんから立ち上がらなかった。そして、多一はそれきり父や母と会えなくなった。
 そんなことまで思い出して、多一はわーわー泣き出した。
 勇之助はおろおろした。自分がひどい卑怯者に思えた。誰よりも多一を守ろうと心に誓っていたのに。
「泣くな、多一。今から俺がおっちゃんのとこに行って、行かんように頼んできてやる」
 多一は泣くのをやめて
「ほんま?」
と聞いた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔だ。
「ほんまや。そやから、泣くな」
多一はうなづいた。勇之助を無心に信頼している目だった。勇之助は自分が恥ずかしかった。
 勇之助は沖田を探しに前川家へ行った。

 その頃、侍たちは八木家も手狭だというので、向かえの前川家にも分宿するようになっていた。近藤勇、土方歳三、沖田総司などの近藤一派はもっぱら前川家で起居している。前川家の人々はほとんど家を明け渡すような恰好で、別の家に移り住んでしまった。
 前川家から激しい掛け声や物音が聞こえてくる。門をくぐった勇之助は広い中庭に出てみた。
 何人かが木刀で組打ちをやっている。恐くて近寄れないような雰囲気だ。
 そのなかに沖田総司がいた。子供と遊ぶ沖田しか知らなかった勇之助にはまるで別人に見えた。
 厳しく激しく鋭い顔。ひたむきで胸がつまるような顔。子供心にも沖田が他の侍とは違っている気がした。
「おいそこの小僧。八木さんとこの子供だな」
 見惚れていた勇之助に向かって声が放たれた。見れば、父親がよく「役者のような男」と評している土方だった。
「何の用だ」
 勇之助が土方の威圧するような眼光にひるんだとき、
「私に用じゃないかな」
沖田が木刀を他の者に渡しながら言った。
「総司、お前を訪ねて来る者は子供ばかりか」
土方が笑った。
「何とでも言って下さい。いつも土方さんのような人といると、たまには純真な子供と遊びたくなるんですよ」
「ふん、お前のはたまにじゃないだろう。いつもだろうが」
 沖田は笑って、勇之助に
「私に用なのかい」
と聞いてきた。
 勇之助はうなづいた。
「じゃあ、ちょっとあっちへ行こう」
沖田は勇之助を隅に連れて言った。
「何?珍しいな、勇坊が」
「おっちゃん、ここを出ていかんといて」
勇之助は沖田が口を挟む前に、一気に言った。
「会津様のとこに行くいうて、聞いたんや。そやけど、沖田はんにはここにいてもらいたいんや」
 沖田は勇之助を見て、
「おそらくまだここにいることになると思うよ」
と真面目に答えた。
「そうか」
勇之助はほっとした。
「それを心配して来てくれたのか」
「多一が泣くから」
 勇之助がぽそっと言った。
「そうか、たあ坊が。勇坊はたあ坊のいい兄さんなんだね」
「いい兄さんやない」
勇之助は首を振る。
「よう泣かしてしまう」
 沖田はそんな勇之助を見て微笑んだ。勇之助はそれを表現する言葉を持たない。それは勇之助が知っているどの大人よりも暖かく、それゆえに心が痛かった。
「私にも親がいない。小さい時になくしたんだ。だからたあ坊の事は自分の事みたいに思っている」
 沖田はそう言った。

 勇之助は壬生寺へ走った。吉報を多一に知らせるのだから足取りも軽やかだ。
「多一」
 多一は壬生寺の境内の隅にある木の根元に座り込んでいた。
「おっちゃん、出ていかへん言いはったわ」
 勇之助は多一にそう伝えてやる。
「ほんまに、でていかへんの?」
多一が嬉しそうに言う。
「うん。俺、沖田のおっちゃんが剣の稽古しているとこを見たわ。えらい強そうやった」
「おっちゃんはつよい」
多一はそう言って、また嬉しそうに笑う。
 しかし、勇之助は多一の様子がいつもと違うのに気づいた。
「多一、お前、なんか顔赤いし、どうしたんや」
「なんでもない」
勇之助は多一の額に手をあててみて、それがひどく熱かったので驚いた。
「こないに熱いやないか、はよ、家帰ろ」
「ここにいたい」
「あほ、家に帰って寝とらなあかん」
 勇之助はむずがる多一を家に連れて帰った。
 母のまさは二人を一目見て、家の者に指図し、ふとんをひかせた。多一には抵抗する力も残ってないようだった。

 翌日、とうとう近在の医者が呼ばれ、曇った顔をして帰って行った後、
「ああ、流行病で二親をなくして、この子だけは助かったと思てたのに」
まさが嘆くように源之丞に言っているのを勇之助は聞いた。
「もともと身体の弱い子やったんやから。寿命やなあ」
 多一が助からへんなんて、嘘や。俺は絶対信じへん。

 多一は静かに眠っているようだった。ただ時折ぜーぜーとした浅い息をする。苦しそうだった。
「多一、大丈夫か」
多一に聞こえているのだろうか。
「勇之助、お前はあっちにいきなさい」
 まさが言っても勇之助は多一の枕元から離れなかった。
 やがて、巡察から帰って来たという沖田が見舞いにやってきた。
「たあ坊の具合どうですか」
沖田がまさに聞いた。
「それが……」
まさはもう涙ぐんでいる。
「多一は絶対大丈夫や」
 勇之助はそう言った。言葉にすることでそれが事実になればいいというように。
「たあ坊」
沖田が呼びかけた。
「多一」
勇之助も呼びかける。
 そのとき、多一の目が開いた。そして、勇之助を見つける。かすかに笑顔になった。
「たけ…とんぼ」
と言ったので、勇之助は枕元に置いてやっていた竹とんぼを多一に持たせてやった。
 多一は次に沖田を見つけた。
「おっちゃん…」
沖田はうなづいた。
「元気になったらまた遊ぼうな。もっと高く飛ぶように教えてやるからな」
 多一は微笑む。
 多一のもう片方の小さな手を沖田はそっと握って、ふとんに戻した。
「これ」
と多一は自分の大切な竹とんぼを持ち上げて
「ゆうにいちゃん」
と勇之助を呼んだ。
「なんや、多一」
「これ、あげる」
 多一は竹とんぼを勇之助に差し出した。
 それは多一の希望、楽しさ、嬉しさ、ありとあらゆる夢のすべてだった。
 ふるえる手で、勇之助がそれを受け取ったとき、ぱさりと多一の手が落ちた。
「多一っ」
「多一、行くな」
 為三郎が真先に泣き出す。周囲の者たちが皆、号泣し始めた。
 沖田も肩を落とし、ぎゅっと自分の袴を掴んでいる。その手が白かった。
 勇之助は多一の竹とんぼを持って、表に走り出た。
 俺は泣かへん。この竹とんぼをあいつからもらったのやから。

 多一の葬儀は壬生の浪士組の隊士たちも出席し、盛大に行われた。
 沖田もそのなかにいる。威儀を正して武士の顔で多一を見送っていた。
 あの乱暴者の鉄扇の芹沢鴨でさえ帳場の手伝いを申し出て、近藤といっしょに取り仕切っている。帳場の紙にだるまの絵を描いてみせてくれたりもした。
 勇之助はこの侍達が前ほど嫌いでなくなっている自分に気づいた。
 読経が終わり、多一の遺骸はこの家を出ていく。
「幸薄い子やったな」
 壬生村の誰もが多一のことをそう言った。
 だけど勇之助はそうは思わない。たとえ短すぎる一生でも、多一は幸せな時を過ごせたのだ。勇之助にはわかっていた。

 壬生寺の境内。
 どこからか多一が笑顔でかけてきそうな気がする。
 勇之助は多一に託された竹とんぼを力いっぱい空へ飛ばした。
「多一っ」
そのまま飛んで行ってくれ。多一に追いつけるまで。
 竹とんぼが地面に落ち、それを拾おうと勇之助は屈み込み、そのままうずくまった。
 ふと勇之助の肩に大きな手の重みを感じた。
 見上げると沖田がいた。
「たあ坊は喜んでいるだろう」
 沖田の手が勇之助の前に差し伸べられた。ぽたぽたと涙が勇之助の頬から流れた。勇之助は沖田につかまって、そのとき初めて泣いたのだった。


 史実ではこれより五年後、沖田総司もまた病で亡くなり、勇之助も早世したという。
 この若き者たちの魂が安らかにあらんことを祈りたい。





「千駄ヶ谷の家」