その年の夏、祇園祭の宵宮前日に池田屋で大騒動が起こる。当夜、京都に騒乱を起こそうとしていた長州などの浪士たちが池田屋に集合していた。そこへ新選組が斬り込んだのである。激しい乱闘が数刻続いた。
新選組による残党狩りは執拗に行われ、京の町は噂に脅え、殺伐とした時代の波を予感していた。
池田屋騒動の後しばらくして、玲の家の離家に患者が一人療養するようになった。
まだ若い新選組隊士だという。
「名は沖田総司と言うらしい。穏やかそうな侍だ」
と父が言った。
「こちらにお泊めして大丈夫なの。沖田総司って、噂で確か『鬼の沖田』って言われている人なのに」
「噂は噂だ」
玲が沖田総司を確かめるべく、こっそり離家を訪ねて見ると、無防備に襖も障子も開け放されている。若者が一人眠っていた。
寝乱れた所はなく、まるで死んでいるかのようにひそやかに眠っていた。
「死んでいるなんて、私ったら縁起でもないことを」
と玲は思った。玲は立ち止まって様子をうかがった。
若者のなめらかな頬の線、形の良い鼻梁。何かとても清らかな印象だった。人の寝顔をこんなにしげしげ見入っていいものだろうかと玲は自分でも戸惑った。
この人が沖田総司?
玲が一歩廊下から部屋に足を踏み入れた時、若者が目を開いた。それは唐突だった。彼は首を回して、玲を見つめた。
「ご、ごめんなさい。起こしてしまいました」
玲は慌ててそう言った。
「あなたは?」
若者が身体を起こしながらそう聞いた。
それは低いが、気持ちの良い響きを持っていた。
「あ、どうぞ、そのままで。私、ここの娘で玲といいます」
若者は布団の上で居住まいを正し、
「お世話をかけています。沖田総司です」
と頭を下げた。
沖田総司、それが若者の名前。噂の主だった。
それ以来、玲はときどき沖田の様子を見に行った。離家での沖田はいつも淡々として静かだった。
ある時、沖田は自分の刀を抜いて見ていた。
きっちりと正座したその姿は玲が近寄れないような厳しさがあった。入口で躊躇していると沖田は何事もなかったように刀を納め、
「玲さん、いいですよ。入って来ても」
と言った。
「沖田様は池田屋で恐くなかったですか?」
玲は沖田の手元の刀に目をやりながら、思い切って尋ねてみた。池田屋の事は尾鰭がついて人々に伝わっている。
「恐かったですとも」
沖田は言った。しかし目が笑っているので、玲は信じなかった。
「途中で私は任務を解かれてしまいましたからね。情けないことです」
「仕方ないです。だってご病気だったのだから」
玲がそう言うと、沖田は首を振り、
「そんな事は言い訳にはならないんです。日頃の節制が足りなかったのでしょう」
「噂ではそのとき沖田様が一番に飛び込んで階段をかけあがったとか」
「そんな噂、誰から聞いたんですか?」
「噂だから、わかりません」
沖田はおかしそうに、
「じゃあ、私はとても勇気ある男じゃないですか」
「でも私はもっと違う人を想像していました」
「例えば、いかつい大男で鬼のような形相をしてるとか」
当たっているだけに玲には答えられない。
「玲さんは実物の私を見て、きっとがっかりしたんですね。その分では」
沖田は笑い出した。
沖田の所に毎日誰かが見舞いにやって来る。
中でもとりわけにぎやかな客は原田佐之助といった。沖田より年上らしいが、落ち着きは一番ない。なかなかいい男っぷりなのだが、とにかくしゃべるので、そっちの方が印象に残ってしまう。
「こいつは驚いた。あのおっさんにこんな綺麗な娘さんがいるとはね」
父のことをおっさん呼ばわりするこの失礼な隊士は、沖田のいる離家に行っても同じ調子でしゃべりまくっているようだった。
お茶を持って離家を訪ねると、沖田の笑い声が聞こえた。屈託のないその調子に玲も微笑を誘われてしまう。
玲が入って来ると、原田は待っていたとばかりに
「沖田のやつ、あんたに何か悪さをしなかったかい」
と聞く。
玲は驚いて首をぶんと振った。
「そうかい、こいつは女たらしだから気をつけた方がいいぜ」
ぎょっとしたように玲は沖田を見た。沖田は笑顔のままだ。
「なぜか皆、女はこいつのことを気に入るんだ。俺には納得いかねえな。傍に俺というすげえいい男がいるのにな」
散々あることないことしゃべりまくって原田が帰った後、玲は後片付けに取りかかった。
「すみません。散らかしちゃって」
沖田が謝った。
「いいえ。でも原田様って、面白い方ですね」
「あの人はいつもああですよ」
沖田が愉快そうに言った。その口調に誘われて、玲はこう聞いてしまった。さっきからずっと気になっていたからだ。
「沖田様はほんとに、その、女たらしなんですか?」
それを聞くと沖田は
「女たらし」と復唱して、「意味がわかってるのかなあ」とつぶやきながら、
「だったらどうします?」
と言った。
「それは嘘です」
思わず玲は言った。
「嘘?」
「はい。私、沖田様はそのような方ではないって信じてますから」
「それはどうも。でもいいのかな。そんなに信用して」
「え?」
「いや、何でもありません。原田さんは口からでまかせをよく言うんですよ。まあ、当たってるときもあるけど。試してみますか」
玲がまじまじと沖田を見たとき、沖田はくくっと笑った。からかっているのは歴然だった。玲は真っ赤になった。
「試してなんていりません」
「そりゃ、そうでしょう」
沖田はまた笑った。
沖田は素直ないい患者だったが、薬に関しては言うことを聞かない患者だった。苦いと言って、勝手に飲まないで捨ててしまうのだ。玲は沖田にちゃんと療養してもらいたかったので、一計を案じた。
沖田は玲が置いた薬を前にして、黙って座っている。
「飲んで下さい」
玲は再びそう言った。
「後で飲みます」
沈黙後、沖田はそう言う。
「今、お飲み下さい」
「どうしても今でないといけないのですか」
「ええ、どうしても」
どうしてもの所に玲は力を込めた。
沖田はため息をついて、薬の入った湯飲みを取り上げる。
大ぶりの湯飲みに、どろっとした煎じ薬が入っていた。
「苦そうだ」
いかにもいやそうに沖田は言った。
「ちょっとお待ち下さい」
玲は障子の陰に置いていたお盆を持ってきた。
それを沖田の前に並べる。
盆の上には水の入った湯飲みと水羊羹が乗っていた。
「お薬を一息に飲まれたら、次にこのお水を飲み、そして、この甘い水羊羹を食べて下さい。そうすれば、苦みも一時でしょう」
沖田は自分の前の盆と、玲の顔を交互に見て、
「さすがだ」
と言う。
「ごめんなさい。生意気なことばかり言って」
「いや、あなたは楽しい人ですね」
沖田にそう言われて、玲の心が浮き立った。
沖田の見舞客の中に、苦みばしった、目つきの鋭い侍がいた。新選組副長土方歳三という。たまたまそのとき、他の平隊士達が来ていたのだが、土方が現れたとたんに、しーんとなってしまったので、玲はなるほどと思った。土方は若い隊士達には煙たい存在なのだ。
その土方が沖田にこう言うのを玲は聞いた。
「おい、ほんとに大丈夫なのか。もっとゆっくり療養してろ。隊のことは心配しなくてもいい」
「ほんとにもうだいぶ具合がいいんですよ」
「お前に何かあると国元に顔向けできねえ。江戸に帰ってもいいんだぞ。お前がそうしたいなら」
「私がそうしたいと思うわけないでしょう」
沖田の答えを聞くと、土方の顔に複雑な影がさした。
「それに私がいないと土方さんが困るんじゃないかな」
沖田の軽口に土方は、
「何が困るだ。お前がいないと静かでいい」
「寂しいとおっしゃい」
「ばか言え」
冗談のような応酬が続く。
玲はこの二人に何か絆のようなものを感じた。沖田が江戸に帰らないのも、この土方が理由のひとつなのではないか、そんな気がした。
沖田の見舞客の中でも玲が好感を抱いたのは、穏和で礼儀正しい山南敬助だった。新選組の総長職にあるらしい。それがどんな地位なのか玲にはわからなかったが、山南には偉そうなところは少しもなく、沖田も山南が来ると喜んでいる。
「山南さん、腕の調子はいかがです?」
「私のことより、お前はどうなんだ」
「私は元気ですよ」
「お前がいないとなんだか屯所内も寂しいよ」
それを聞いて沖田は微笑した。
「山南さんは素直でいいな」
「なんだ、誰かと比べているのか」
「いえ。できるだけ早く戻ります」
「薬もちゃんと飲むんだぞ」
「飲まされてますから。あのお嬢さんに」
山南は玲を見て笑い、
「そりゃ娘さん、でかした。こいつは頑固なとこがあるんですよ。よく言うことを聞かせたな」
「言うことを聞かせるだなんて、そんな」
困る玲を見て、山南も沖田も笑顔になっていた。
沖田の病が労咳ではないかとの見立てに、玲はそれが事実ではないことを祈っていた。当時労咳の治療法はない。この沖田総司という若者が、病に命を奪われると想像することさえ、玲には耐えられなかった。
しかし当の沖田は平静だった。他の隊士たちの口調や話から、沖田が新選組のなかでも屈指の剣士であることが玲にもわかっている。彼は玲にはわからない心境にあるらしかった。
いつも死というもの、それは他人の死でもあるし自分の死でもあるのだろう、そういうものの傍に沖田は身を置いていた。彼はまず剣士であり、それゆえ永らえる命など、少しも望んでいなかったのである。
その夜、空に星々が輝いていた。
玲は一日の片付けを終えて、庭に出てみた。暑さも一頃よりはましで、夜は少し過ごしやすくなっていた。
空を見上げる。頭上に落ちてきそうな星空は玲の楽しみでもあった。
もちろん玲はそれが恒星であるとか、この地球から何万光年も離れているとか、宇宙だとかという知識は持ち合わせていない。けれど、その星たちが玲の手の届かないような遠い所で光っていることはわかっていた。
玲は星に向かって手を伸ばしてみた。届くわけはないとわかっていたが。
そのとき、
「きれいだな」
と思わぬ近くで声がした。
玲はびっくりして声の主を探した。星明かりにそれが沖田だと見てとれた。いや、玲にはその声を聞いたとたん沖田だとわかっていた。
沖田も空を見ていた。
「あの星、あなたに取ってあげましょうか」
夜空から目を離さず沖田が言った。
「え?」
「あなたが望むなら」
「本当に?」
玲は半信半疑でそう聞いた。
「目をつぶって」
沖田が有無を言わさない声でそういうので、玲は目をつぶった。
沖田の手が玲の手を取ったので、玲の鼓動は早くなった。手に何か小さな紙袋が渡された。
「これは?」
暗がりでその中身を探ってみると、それは干菓子のようだった。
「星のお菓子ですよ」
沖田の声が笑いを含んでいた。
「沖田様って、いつも私をからかうんですね」
「あなたは実にからかいがいのある人ですから」
「ひどい」
そう言いながらとうとう玲も笑い出した。この時間がいつまでも続けばいいのにと玲は思った。
あくる日、玲がいつものように離家に向かうと、驚いたことに沖田が荷作りをしている。
「いったい何をしてらっしゃるのです」
「ああ、玲さん、あのお菓子、おいしかったでしょう」
「はぐらかさないで。どうして荷物をまとめているのですか」
「明日、出動があるようなので今日で隊に戻ります。昨日の晩、言おうと思ったのですが」
「でも、まだあなたは…。私、父から何も聞いていません」
「父上には今から話します」
「無茶です」
沖田は止めようとする玲を遮った。
「玲さん、私のいる場所はここではないんですよ」
玲は沖田の言葉に衝撃を受けて何も言えなくなった。まるで自分が沖田から無用の者だと言われたような気がした。
だから沖田から
「お世話になりました。ありがとう」
と礼を述べられても、
「いいえ、仕事ですから」
と冷たい答えしか返せなかった。
それを聞いた沖田はふと黙り、そして、
「でも私はあなたがいてくれて嬉しかった」
と言った。
その言葉はもしかしたら、沖田が玲に伝えまいと決心していた言葉だったのかもしれなかった。その沖田の言葉の重みをそのときの玲にはまだわからなかった。
玲が返す言葉を探しているうちに沖田は玲の前から去っていき、やがて離家は無人になった。
玲の家から新選組の屯所になっている前川邸まで距離はそれほどない。にもかかわらず玲はそれっきり沖田と直接会うことはなかった。
沖田が再び患者としてここに通って来ないかぎり、玲の方から新選組を訪ねることはないし、訪ねていく名目もなかった。
小者がときどき沖田の薬を取りに来ていた。例の苦い薬である。ちゃんと飲んでいるのだろうかと玲は心配だった。心配してもそれを沖田に伝える術がないのが悲しかった。
しかし、時折、新選組の巡察隊の中に沖田を見かけることもある。玲は遠くからその姿を見つめるだけで、余計に寂しさが募った。
それから度々、星が綺麗な夜があった。玲はときどき庭に出てみる。
「あの星、あなたに取ってあげましょうか。あなたが望むなら」
沖田の声が幻聴のように思い出された。
秋も去り、年が明けて二月。吐く息が白く見えるほど冷気が漂う。
玲はその朝、いつもより早起きして表に出ていた。すずめのちゅんちゅんという鳴き声が聞こえてくる。
今日は近くの寺子屋の手伝いに行く日だった。玲は近頃寺子屋に通ってくる子供たちに読み書きを教えている。玲の担当は午前中いっぱいかかるので、朝のうちに家の用事を済ませなければならないのだ。
玲が表を掃いていると、通りの向こうに白い馬が見えた。
大きな体躯で、近在には見かけないほどの立派な馬だった。カツッカツッと蹄の音がする。だんだん近づくにつれて、その馬の騎乗者が、玲が一番会いたいと思っていた相手であることに気づいた。
白馬の馬上に沖田がいるのを見て、玲は初め嬉しさよりあっけにとられていた。それも無理はない。
沖田も驚いているようだった。手馴れた様子で馬の背から下り立ち、手綱を持った。
「おひさしぶりです」
沖田の声を聞いて玲は胸が詰まった。何かしゃべらなくてはとあせった。
「その馬、沖田様の馬ですか」
なぜ私はこんなことをしゃべっているのだろうと玲は思った。
「いえ、局長の馬です。運動と調教を兼ねて、ときどき私が乗ってるんです。今日は別に用事があって、今から出かけるところです」
沖田はどこか疲れたような表情を見せていたのだが、玲は気がつかなかった。
「とても綺麗な馬ですね」
他に何か言いたいことがあるはずと玲はまた思った。
「そうでしょう。明星といいます」
「名前も綺麗ですね」
ふと二人の会話が途切れた。
「玲さん、夜の星、今でも見ていますか」
沖田が聞いた。
玲は沖田を見つめてうなづいた。
「あなたにあの星、とってあげたかったな」
と、沖田は言い、馬の背にひらりと飛び乗った。
「じゃ」
沖田は馬上の人となり、遠ざかって行った。
後に玲は父の患者から、あの朝、沖田が脱走した山南敬助を追って大津まで馬を走らせ、連れ戻し、後に山南の介錯をしたと聞いた。新選組では脱走は切腹の罪に問われるのである。
では、沖田はあの時、山南を追おうとしていたのだ。
あれほど仲の良い二人であったのに。山南の脱走の原因を知る由もないが、二人を知る玲にはあまりに悲しい事実だった。
玲が薬の調合を手伝っていたとき、父が言った。
「新選組が壬生を出て、西本願寺に行くらしい」
「え?」
玲は思わず手を止めた。
「壬生が手狭になったのだろう」
沖田が壬生からいなくなる。近くにいても会えないのは同じことだったが。
西本願寺も近い距離だが、ますます沖田が自分から遠のいていくように思えた。
「お前の留守中に、夏ここへ来ていた沖田さんな、あの人が挨拶に来たぞ」
「沖田様が?」
「お前にもよろしくと言ってたぞ。なかなか礼儀正しい若者だ。あの病気のことがなければもっと大成する人だろうに…」
沖田の病。それは玲があえて考えまいとしていたことだった。
お会いしたかったのに…。
心の中が嵐のようにうずまいた。
玲はありったけの自制心を使い、父の前で泣くのを堪えて、席を立った。
玲が手伝う寺子屋に、八木家の男の子が通ってきていた。勇之助という子で、なかなかのがき大将である。八木家は新選組の屯所として自宅の一部を貸し出していた。
翌日、その子がぶっきらぼうに、玲の前に小さい包みを差し出した。
「沖田のおっちゃんから頼まれたんや」
玲が受け取ると、勇之助は
「おっちゃん、昨日出ていきはったわ」
と言って、さっさと行ってしまう。
包みの中から小さい木の箱が出てきた。蓋をとると、そこには銀細工の簪があった。星型の小さい銀色の飾りが幾重にも重なって揺れている。
それはきらきらと光り、可憐な音をたてた。
沖田がわざわざ特別に作らせたものなのだろう。玲のために。沖田の気持ちがこの時初めて玲にわかった。
なぜ沖田は玲に何も言ってくれなかったのか。この簪だけを置いて、彼は玲のもとを去ろうとしている。病と剣と、沖田に残されるのはそれだけになる。
玲は西本願寺に向かっていた。沖田に会うために。
会わなくてはならなかった。
会って言わなければならなかった。
私の宇宙(そら)は、あなたなのだということを