橘の香

作・ひろみ



 御店の朝は早い。まして、下働きの女中たちの朝は、なおのこと。
 まだ、夜も明けきらぬうちから、水汲み、掃除、釜戸の火起し、朝ご飯の支度と、まるで戦場のようなものである。女中たちと、丁稚たちの、朝食は仕事の合間を縫って、それこそ、駆け込みで済ます。

 表に水を汲みにいった裕香は、額の汗をぬぐいながら、空を仰いだ。
 雲一つなく澄んだ青空を、まぶしそうに見上げた。
 ふと、あの日のことを思い出す
 このように、よく晴れた5月の一日を、散策した日のことを……
 既に、あれから二月近くが過ぎていた。

 と、その時中から、
「おひろ!! 何やってんだい!」
と、女中頭のおしのの声が飛んできた。
「はい! ただ今!」
今日も、忙しい一日の始まりである。

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 御店で働く私の、やっとの事でとれた休みが、総司さまの非番の日と重なったなんて本当に信じられないことだった。その日は、持っている着物で一番いいものを着て、髪を結い直し、お姉さんたちに借りた紅も少しひいて…。

 朝早くから落ち合って、北野天満宮を散策した。でも、人目が気になり、つかず離れず…。
 若いお武家さまと、町娘…不釣り合いではなどと、考えながら…。
 そこを過ぎると人影も、まばらになって来て、なんとなく総司さまの後ろを歩き始めた。
 私を気使い、後ろを振り返りながら、総司さまは声を掛けてくださる。
 私はご一緒にいられる事が、嬉しくて、ただ、それだけで嬉しくて…。
 よく晴れた五月の空と、風が運んでくる橘の香り…。

 総司さまが、
「疲れませんか?」
と声をかけてくださった。
「せっかくの休みなのに、あなたを疲れさせてはすまないと思って」
「まあ」
なんて、お優しい言葉をかけてくださるのでしょう。
「いつも笑顔でいるので、任務で色々あった時、時々無性に会いたくなると…」
さりげない一言が、気になった。

 御店の者達から聞いたことがあった。総司さまのいる新選組がどのようなことをしているのか。なんでも、浪士たちを取り締まったり、それが元で斬り合いになったりすることもあるのだとか。京ものの御店の人たちは、さも、恐ろしげに「壬生狼」とかいっていたが、同じ江戸の出の私には、また違った思いがあった。
 懐かしい江戸のにおいを運んできた人たちだったから…。

 少し茶店で休むことにした。そこは何でも長五郎餅という、太閤さんの時代から名物があるという。久々にゆっくり出来る悦びで、二人向かい合って、あれこれと話をしていた。
 総司さまが甘党だの、折角の非番の日に私では役不足でしょうに…とか…取り止めもないことを話しては、笑っていた。
と、その時に、
「江戸には帰りたいと思ったことはないですか?」
総司さまの突然の言葉に驚いた。
「えっ?」
あまりの不意打ちに、返す言葉が見つからなかった。
 江戸……。
 もう二度と帰ることがない所。
「一度聞きたかった。いやなら、話さなくともいい。なぜ、一人で京へ」

 既に遠くなってしまった江戸での日々を…。
 商いをいていた父、優しい母に囲まれ、何不自由なく過ごしていた頃。
 十歳の時母が病で亡くなり、一昨年は父が…。
 でも、悲しみが癒える暇もなく、継母に無理矢理、嫁に行かされそうになって、逃げ出したこと。
 京は母の故郷で、子どもの頃よく話をしてくれたし、童歌もうたってくれた。だから、一度母の生まれ育った京が見てみたかった…。
 今では、縁のものは誰もいないのだが…。

 その話を聞いていた総司さまは、さすがに驚いたようだった。
「でも、無茶なことをする。いくらなんでも一人で家を飛び出してしまうなんて」
「ええ…本当に。意外とおてんばでしょう?」
「ほんとうに、おてんばというか、呆れた人ですね。あちらにいれば何不自由のない暮らしだったでしょうに。でも……、裕香さんらしいと思います」
「本当にそうでしょうね…。何不自由ない暮らし…」
自嘲気味に言った。
 でもそうしたら、総司さまには会えなかった…。
「今の暮らし、つらくはないですか?」
「つらくないといえば、嘘になります……」
 御店奉公ともなれば、やはり、大変だった。
 でも、弱音を吐かずに生きてきた…精一杯突っ張って…。
 そんな気持ちを察してか、総司さまは、
「すみません。余計なことを聞いてしまいました」
私は、
「いいえ…、こちらこそ、つまらない武勇伝をお聞かせ致しまして」
と、笑って答えた。

 そう、私は何があっても、明るく元気な娘でいようと思ってきたのだから…。

 茶店を出た後も、二人他愛もないことを話しながら歩いた。
「ここを抜けると近道かな。いいですか?この中を通っても」
と目の前の雑木林へ歩きだした。

 お互いをからかいあいながら、歩いた。明るい笑い声があたりに響く…。
 でも、そんな些細なことが、私には嬉しかったし、心充たされる思いだった。
 そして、総司さまと二人、何と穏やかにゆったりとした時に流れの中にいるのだろう…と。
 このまま、時間が止まってくれたら…と、つまらぬことを考えた。
 叶わぬ夢……
 心地よい風は若葉のにおいを運んできていた。
 あたりは、既に茜色に染まってきていた。

 前方に人の気配を感じ、
「ちょっと下がって」
 総司さまの私への一言に緊張が走る。

 林の中にぽっかりとあいた空き地。
 三人のいかにも食い詰めたなりをした浪人に出会った。
 酒気を含み、下卑た笑い…女連れをからかうように寄ってくる。
 最初は穏やかに話してやり過ごそうとしていたが、浪人の一人が突然、私の腕を掴もうとした。
 とたんに総司さまの顔つきが変わった。
 一人を抜打ちざまに、腕を斬りつけ、今一人はもとどりを切られた。
 あっという間の出来事だった、もとより、腕が違いすぎたのだろうが。
 浪人たちは捨て台詞を残して這々の体で、逃げていった。

 総司さまは厳しい顔で刀を納める。
 初めて見た剣客としての横顔。
 いつも見慣れている、笑顔の優しい総司さまとは違っていた。
 厳しい射抜くような目をしていた。

 私は目の前で見た斬り合いの、あまりの恐ろしさに声も出なかった。

「裕香さん大丈夫ですか?」
という総司さまの声も耳に入らず、姿も目に入らず…。
 崩れそうになったところを、抱きかかえられた。
「しっかり。とにかく少し休みましょう」
 木の下に連れて行き座らせてくれた。

 総司さまがそっと、声をかけてくださり、その手のぬくもりに触れた時、初めて、涙が溢れてきてどうにもならなかった…。
「そ…そうじ…さま…ごぶじ…で…?」
 震える手で無事を確かめるのが精一杯だった。
「私は無事です。だから、もう、泣かないで」
 そう言って、ためらいがちに肩をを抱いて、
「本当にすまなかった。怖い目に遭わせてしまって」
 私は総司さまのご無事な姿に、思わずしがみついてしまった。
 そんな私を、抱きしめて、
「良かった。あなたに何もなくて」
と…。

 初めて、大切なものを失うかもしれないと思った時の恐怖…。
 私にとって、総司さまの存在がどれほど大きなものとなっていたかを改めて感じた瞬間だった。

「いつか、こうしてあなたをこの手に抱きしめたいと思っていました」
 信じられないような言葉…。
 総司さまの胸のぬくもり…頬に流れる涙…。
 そっと、指先でぬぐってくれる総司さまの指先のあたたかさ…。

 江戸を出てから、2年、自分では精一杯明るく、生きてきたつもりでいた…。
 でも、いつしか、人のぬくもりなど忘れていた。

「私の胸でよかったら、ここにいつでもあなたの居場所があると覚えておいて下さい」
 驚いて顔を見上げた。
「私の居場所…? 総司さまのこの温かい胸が…?」
 私を見てうなずく…。
「ほんとうに…?」
「あなたが…とても好きです。言葉に言えないほど」
 思ってもみなかったその告白…。
 総司さまを見つめる目から、涙があふれる。
「泣き虫なんですね」
 江戸を出てからの、もろもろの想いが巡った…。
 張り詰めていた糸がぷっつりと切れたようだった。
 弱さをさらけ出してしまった。
 
「これからも泣かせてしまうかもしれない。でも、私についてきてくれますか?」
「よろしいのですか? 私で…?」
「あなただけです。……あなたは?」

 無論、私には総司さましかいない。でも、とても、言葉になど出せない…。
 反対に尋ねてしまった…。
「決して私を一人にしないと約束してくれますか?」
「約束します」
 総司さまはそう言うと、私に唇を重ねた。
 私の頬に一筋の涙が伝わる…。
 総司さまの胸に抱きしめられて、
「もう、一人にはしないから」
 その言葉を心の内で何度も、繰り返す…。
「もう、一人ではない…」
 なんと、幸せな響きだろう…。

 私は今日の日を決して忘れないだろう……
 総司さまから告げられた言葉……
 抱かれた胸の温かなぬくもりを……
 ふと触れた唇のあたたかさを……
 夢のようなひとときを……

 この想い出を頼りに、これからも生きて行ける。


 直接言えなかった言葉…
「好きです… 総司さまだけを心から愛しく想っています…」
「愛しています」


******************


 忙しかった一日も終わり、一人入る終い湯から出て、ふと見上げると、美しく冴え冴えとした月が出ていた…。
 この月を総司も、屯所から、或いは巡察をしながら、見上げているのだろうか…?
 あの日以来、お互い忙しくて会うこともできなかった。
 裕香は、もう、二度と会うことがないようにも思えるのだった。
 それでも、仕方がない…と。
 本当に夢のようなひとときだった…。
 あの日以来、裕香をずっと支えてくれていた。

 総司から、届けられた三通の文…。
「裕香の宝物」

 目を閉じれば、総司の優しい笑顔と、ぬくもりが蘇る…。
 唇に、そっと指で触れてみる…。
 思わず涙が込み上げるほどの、慕わしい想い…。

「逢いたい…」
 抑えていたはずの、胸の奥に隠された想いが…溢れてくるのだった。
「逢いたい…」


 声を殺して泣く裕香の肩を、照らすのは月の光だけだった。
 総司のように、優しい微笑みをたたえて…。



[鴨川の散歩道]