その境内はいつも人影がなく、日中でも喧騒とは無縁であった。京の小さな神社の一角である。二人はよくここで会っていた。大人二人が十分に隠れる程の幅があるけやきの下が、彼らの語り合う場所だった。
地面の黒土が所々苔で覆われ、空気さえしっとりと落ち着いた雰囲気があった。大木にもたれている背の高い若い侍と武家らしき娘の姿は周囲と違和感がなく、まるで一枚の絵画のように自然だった。
彼はこう言った。
「大丈夫だよ。ほら、私は元気だろう?」
いつもの笑顔で美華(みけ)を見つめてくる。
その切れ長の瞳。いつも生き生きと光を宿している。美華は彼の瞳が好きだった。
「嘘はつかないで」
美華はわざと言ってみる。
「嘘じゃないさ。美華さんは心配屋なんだな」
意志の強そうな口許。しかし今は美華に対して笑みの形に柔らかく閉じられている。
「いつもいっしょにいて、あなたの無事な姿を見ていたいわ」
「無理なことを言う」
彼は面白そうに美華を見る。
「私の事を信じてないの?」
「信じてるけど、心配なの」
美華は自分の不安をいくら言葉に出しても言い足りない気がした。何も言わないでじっと我慢していることはできそうになかった。
しかし美華の心の内を彼はよくわかっているようだった。口でいくら言っても、彼女の不安が消えないことを知り抜いているかように、彼はその力強い手で、美華を引き寄せた。
美華の上気した頬に冷たいものが触れた。
「雪だな」
彼の声が直接美華に響いてくる。
美華は彼の腕の中で、枝の隙間から降り来る雪を見上げた。
手をかざして掌に受け止めてみる。
体温ですぐに融けていく雪が水滴となって、流れ落ちた。
そのはかなさが、美華をまた不安にした。けれど口に出すとそれが本当になるかのようで、美華は再び彼の胸元に顔を埋めた。
彼は名を沖田総司といった。白刃の下をくぐるような毎日を送っている男だった。いつ路上に倒れても仕方のない役目を背負っている。京都の治安維持に奔走する新選組という組織の若い幹部だった。
美華が自宅に戻ると、医師である父親に呼ばれた。
「沖田さん、どうだった」
さりげないないが含みのある父の言葉に、沖田と会ってきた高揚した気持ちが一気に冷めた。沖田のことは父親には一言も言ってない。
「お前に話がある。ついて来なさい」
美華の父、脇坂保は会津藩国元の藩医であった。はるばる京まで上って来たのは、藩主松平容保が京都守護職を命じられたからである。大勢の会津藩士が藩主と共に上洛していた。
美華は父より遅れて、他家の婦女子と共に京に入った。母が亡くなっているため、父の世話という名目で同行を許されていた。
その頃、会津藩は新選組という浪士組織を配下に置いていた。出自もまちまちな浪士たちの集まりで、もちろん会津藩士とは異質である。藩士の家族と新選組の接点など皆無である。にもかかわらず沖田総司と美華が出会ったのは池田屋騒動が発端だった。
新選組の名を世間に知らしめた大捕物。沖田総司は奮闘の果て、そこで倒れた。刀によってではなく、病のためであった。
騒動が収まった頃、会津公用方の紹介状を持って沖田が診察に訪れた。紹介状には会津にとって有為な人物なり、と記されてあった。
そのときの脇坂の診立ては過労による発熱というものだった。それを聞いて沖田は
「過労ですか」
と半ばあきれるように
「土方さんに聞かせてやりたい」
と独り言を言った。土方とは新選組の副長であることを脇坂も知っている。
「いや、過労といっても油断はできない。いつどんな大病に発展するかもしれないものです。過信は禁物ですよ」
脇坂の厳しい口調に沖田は神妙にうなづいた。
「大事なときに過労で倒れるなど、私も節制が足らなかったようです。お話よくわかりました」
気持ちのいい若者だと脇坂は目の前の沖田に好印象を抱いた。
沖田が辞去しようとした時、玄関口に美華がいた。沖田はまぶしそうに美華に会釈した。
美華は大きな花束を抱えて外出先から戻って来たところだった。玄関にいる長身の若者を一目見て、彼が藩士なのか父の患者なのか気になったのは、美華もまた一目で彼に好感を持ったからに他ならない。
美華は芸事に堪能な会津藩士の妻女に生け花を習っていたのだが、今日はそこに大量の花が送られてきており、美華もその一部をもらってきたのだった。どの花も野辺に咲く素朴な花である。
着物を汚さないように持つのは至難の業で、沖田に会釈を返した途端、手の中の花を落としてしまった。いくつかの束になって辺りに散らばる。
「あ」
美華はあわてて拾い集めようとした。沖田も手伝って落ちた花を拾い上げる。
「ずいぶんたくさんの花ですね。綺麗な花だ」
沖田の手にした花は蝦夷菊と呼ばれる花だった。紅、紫、白と色とりどりの花を咲かせる。
「すみません。良かったらそれをお持ちになって下さい。どうぞ」
美華は拾った花を抱え直しながらそう答えた。
「花を私に?」
沖田という若者は不思議そうに言った。花とは無縁の生活をしているのかもしれない。
「ごめんなさい。ご迷惑でしたわね」
見当はずれな事を自分が言ったかもしれないと美華は恥ずかしかったが、
「いえ、ありがとう。いただきます。部屋に飾ります」
沖田は嬉しそうに笑った。彼の笑顔は今では見慣れたものになっていたが、美華にとっていつも特別だった。美華はその笑顔を見たとき、彼の事を忘れられなくなる自分を予感したものだった。
こうして、彼と彼女は出会った。運命はほんの一瞬で決まってしまうものなのかもしれない。
それとなく沖田を話題にして、彼が新選組の沖田総司だと美華は知った。知識はなかったが、人に聞くたびに恐ろしそうな所だと思った。あの若者には似合わない気がした。
そういった出会いの後、再会を果たすのにさほど時間はかからなかった。沖田はもう診察には来なかったが、美華は外出先で新選組の巡察隊を見つけたのである。
十人近い人数の侍が列をなして歩く姿は、目立ったし不気味でもあった。その中に沖田総司がいた。沖田を見つけたとたん、不思議なことに恐ろしさも霧散する。美華は恋する娘の目で彼らを見たからである。
とある商家に隊士たちは入っていったが、沖田一人表に残った。隊士たちは制服なのだろうか、一様に黒い衣装をつけていた。しかしそれを纏った沖田はかえって若々しさが際立つように見えた。
彼は辺りを見回し、美華の姿を見つけた。彼の視線を捕らえた美華はお辞儀をして、自分が彼の事をはっきり覚えていることを、彼に知らせた。
胸の鼓動が早い。彼はあの笑顔を向けて来た。
やがて出てきた隊士たちに何か言って先に帰らせ、沖田は美華に近づいて来る。
「脇坂先生のお嬢さんですね」
彼の表情も声の響きも美華には好ましかった。そしてそれは沖田も同じ気持ちだったのだろう。ほどなく二人は、待ち合わせていっしょにいる時間を作るような仲となった。
「兵庫が帰って来る」
と父親は美華に言った。
「長崎から戻って来られるのですね」
美華は幼なじみの阿部兵庫の顔を思い出した。五年も前の話で、美華も子供だったし、五歳年上の兵庫もまだ少年の面差しをしていた。
兵庫も医師の家の生まれで、長崎まで修行に出ていた。両家は昵懇の間柄で、家族ぐるみの付き合いが続いている。
「この京都に立ち寄られるのでしょうか」
兵庫の家族は会津に残っている。
「ああ」
答えて父は美華の顔をひたと見た。
「お前にこの際言っておく」
その声の調子に美華はかすかに脅えた。
「兵庫と共にお前は会津へ戻れ」
「……会津へ」
声が震えた。
阿部兵庫は美華の幼なじみというだけではなかった。子供のときから決められた許嫁だったのだ。
「京で仮祝言をあげ、会津で正式な祝言をあげる手筈になっている」
「父上」
美華は父親の言葉をさえぎった。
「お話が、私にもお話があります」
だが、脇坂は最初から美華の話を聞かないつもりらしく、
「もう決まったことだ」
と言い捨てた。
「それとも、お前は何か恥ずべきことをしているとでも言うのかな。あの沖田という若者と」
「父上」
美華は叫ぶように言った。
「沖田様はそのような方ではありませぬ」
「沖田さんはいい若者だ。それはわかる。しかしそれとこれとは別の問題なのだ。もう会わぬことだな。お互いのためだ」
顔色を変えている美華を見て脇坂は言葉を足すように
「あの御仁とお前とは住む世界が違うのだ」
父親が立ち去った後も、美華は身じろぎもせず、その場に座っていた。
沖田と別れねばならないのか。許嫁のことは遠い未来の事で、そのときが来たら、何とか逃れるつもりでいた。こんなに急に物事が動いていくなど思いもよらなかった。美華は涙も出ない自分を信じかねていた。
大木の下に美華は約束より半刻も早く来ていた。手には小さな風呂敷包みがある。ぎゅっと包みを胸に抱き、何かを決心しているかのように一点を見据えていた。
しばらくして、自分の方が早く着くだろうと思って現れた沖田は、先に来ている美華を見つけて驚いたようだった。
「あれ?今日は早いな」
彼の笑顔。凍てつく冬の日にもそこだけ暖かい。
「そんなに早く会いたかった?」
わざとからかう口調。
が、すぐに真顔になった。いつもの彼らしくないある種の暗さが彼の表情を横切ったが、自分の思いにとらわれていた美華は気づかなかった。沖田は逡巡の後、美華に告げる決心をしたようだった。
「屯所にね、あなたの父上が来られたよ」
「父が?」
美華は目を見張って、沖田を見つめるばかりだった。
「私のその後の様子を見に来たとおっしゃっていたが、さりげなくあなたの縁談が決まったと言われた。父上は私達のことを御存知だったんだな。私にはそれがわかった。あなたのその縁談は素晴らしいもので唯一の望みだと明るくおっしゃる。親ばかですなと笑っておられた。私はそれを聞いて、何も言えなかったよ」
美華は顔を覆った。
「美華さん」
美華には沖田が次に言い出すことを聞く前からわかる気がした。
「今日はあなたに言わなければならないことがある。だから…」
「言わないで」
美華は遮った。同時に顔を上げて沖田をはっきり見る。
「今日一日私の……私の言うとおりにしてほしいの」
思い詰めたようなその言葉に沖田の顔が気づかわしげにくもる。
「しかし…」
「お願い」
彼はもの問いたげに美華の顔を一瞬見つめ、うなづいた。
「半刻近く歩かなければいけないんだけど」
歩きながら美華は話し続ける。
「お稽古事でいっしょになった人に大店の娘さんがいるの。その人がお店の寮を貸してくれると言うの。今日は管理をしている人もいないし。自由に使ってくれていいって」
美華は休みなく話さなければ、今にもこの時が消えてなくなるかのように、しゃべっていた。
「今日は私、お料理を作るわ。食べてね。途中で材料を買っていきたいし」
沖田はだまって美華のおしゃべりを聞いていたが
「美華さんは料理を作ることができるのか?どうも心配だな」
と明るく口を挟む。沖田も美華に合わせて、束の間の時間を楽しむことを心に決めたようだった。あるいは美華のためにそうしようと思ったのかもしれない。
「あら、びっくりしないでね」
西京村にあるその建物は雑木林に囲まれ、ひっそりとしていた。周囲には神社仏閣が多い。古い大きな平家建てだが、手入れが行き届いているのか、荒涼とした感じはしない。庭も整備されていて、雪よけの縄が大きな松の木に張られていた。
玄関を開けたが、奥は雨戸を締め切っているので内部は暗い。
庭に面して大きな火鉢がある部屋を選び、美華は雨戸開け、襖を開け放った。淀んだ空気の代わりに冷気がどっと部屋に入って来た。
火鉢も温まり、障子をしめ、熱いお茶を入れて人心地がついた二人は、することもなくなるとお互いの沈黙にまかせていた。沈黙が気詰まりでなくむしろ心地好い。
「ちょっと早いけど、もう夕餉の支度をするわ」
美華は途中で買い整えた食材を厨房に置いている。今日は沖田に食べさせたいために、欲張っていろいろ買い込んでいた。作る時間もそれなりにかかるだろう。
「私が手伝うことはない?」
「ないわよ」
美華は笑って沖田の申し出を断る。
「総司さんはゆっくりしていて」
沖田は宿直明けだった。彼には一日くらいの徹夜は何でもないようだったが、美華はいつも彼の体調を心配していた。
「手持ち無沙汰だなあ」
手伝いたそうな沖田を押しとどめて、美華は厨房に立つ。厨房は広すぎて使い勝手が悪かったが、何とか煮炊きの目処をつけた。好きな人のために料理を作るとは何と楽しいことだろう。緊張感と期待感と。沖田のために作ることが、これで最初で最後になるかもしれないとは美華はあえて考えないようにした。
半刻ほどして料理もほぼ出来上がり、美華は沖田の顔を見に部屋に戻った。
沖田は火鉢の横で寝てしまっていた。押入れから探し出したのか、掛け布団を出している。しかしそれをはねのけてしまって、少し丸くなって寝ている姿は微笑ましかった。
呑気な人と美華は多少うらめしくも思う。こんな時に寝てしまえるなんて。
しかし、沖田の手に新しい傷ができているのを見つけてはっとした。また昨日斬り合いがあったのだろう。彼の激務を思うと美華はたまらなかった。
美華は沖田の傍により、布団を掛け直そうとした。
そのとき、寝ているはずの沖田の手が突然美華の手首を握った。沖田は目覚め、強い視線で美華を見つめていた。美華は言葉もなくただその視線に魅入られるように耐えている。
そのまま凍りついたように二人の動きが止まる。
今この手を強く引かれたら、美華は沖田の胸の中に倒れていく自分がわかっていた。そしてそうしてしまったら、越えてはならない一線を越えてしまうことも。自分が拒めないのがわかっていた。沖田に掴まれた手首が熱く、痛みさえ感じた。
この危うい均衡を破ったのはやはり沖田だった。
美華の手を離し、
「ごめん、ちょっと寝惚けていたようだ」
と起き上がった。
「庭に出ているよ」
立ち上がった沖田の背中に美華も努めて冷静に言う。
「もうすぐ支度もできるわ」
美華は明るい声が出せた自分にほっとしていた。
「できたら呼ぶから」
沖田は頷いて庭への障子を開ける。外はまだ明るい。冬の日差しはどこか澄んでいる。
「冷えるなあ。また雪になるかもしれない」
厨房に戻り、仕上げをしていた美華の耳にやがて沖田の気合が聞こえて来た。
今剣を握る沖田の気持ちが、美華にはよくわかる気がした。
美華の作った料理は二年前他界した母からの直伝だった。お膳を二つ横に並べていた。お膳の上には凝ったものというより素朴な品が並んでいる。素材を活かした料理を心がけるようにと美華は母親から言われていた。
沖田はなかでも野菜の炊き合わせを好んで食べた。美華の味付けは沖田の好みにあっていたようだ。
「美華さんを見直したよ」
取りようによっては失礼なことを沖田は言う。美華は微笑んで、沖田の給仕をした。自分も食べようとしたが、口に入れても飲み込めそうもなかった。
「なぜ食べないの?」
「なんか胸がいっぱいで」
いったん自分の気持ちを言い出すと美華は止めることができなかった。こんな事を口にだせば余計につらくなるだけだというのに。
「私、本当はこんなこと毎日あなたにしてあげたかった。あなたの着物を縫って、部屋に花を飾って……」
美華は泣き出した。
沖田は美華に手を伸ばそうとして途中でやめた。彼は先程の庭で、ある決意をしたらしかった。彼は美華が泣き止むまで待つつもりなのか、静かに彼女を見守っていた。
「美華さん、食事が終わったら帰ろう。日が落ちてしまう前に」
美華はこの寮を借りるとき、沖田と一夜を供にしてもかまわないという漠然とした覚悟がついていたと自分でも思う。それが道に外れたことであっても。しかし沖田はそのような男ではなかった。美華はそういう男に愛された自分が幸せなのか不幸なのかわからなかった。
その日を境に二人の姿をあの大木の下に見ることはなかった。