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    餘部鉄橋物語 その1  

   明治のロマン 余部鉄橋         後藤 新平と 米田 弥右衛門 

     山より山にかけ渡し み空の虹か桟(かけはし)か  百有余尺の中空に 雲をつらぬく鉄の橋              「山陰鉄道唱歌」(作詞:岩田勝市、作曲:田村虎蔵)

 青空の中、餘部鉄橋は、山の間にかかった赤い虹のように見える。虹の下には宝物が埋まっているというが、では、餘部鉄橋の下には何が埋まっているのだろう? 多くの観光客は―――餘部鉄橋の下でそれを見上げ、写真を撮る人々は―――それを探しに来たように思えてならない。 餘部鉄橋は、日本の近代化のために生まれた橋だ。当時、鉄道院総裁後藤新平は、日本の都市化を計画していた。そのためには、日本国中をつなぐ移動手段、つまり鉄道の敷設が必要であると考えた。

(香住町から浜坂町のあたりは、きつい山々が連なっている。線路を通すためには、山と山とをつなぐ橋を必要とした。けれど、餘部集落は、特殊な地形だったので、京都方面、鳥取方面より延びてきた線路を、集落をまたぐ形でつながなければならなかった。そのため、当時の鉄道院技師、古川晴一により、アメリカ人技師の意見を取り入れてトレッスル橋と呼ばれる方式にて建設が始まった。橋脚の鋼材は、アメリカンブリッジ社のペンコイド工場より九州の門司港経由にて余部沖に運ばれ、明治43年8月に陸揚げされた。完成までには33万円を超える巨額と、延べ25万人を超える人員を投入した。また、大変危険な工事であったため、作業員には2万円もの保険がかけられていた。 この橋の建設は山陰本線建設において西隣の桃観トンネル(桃観峠大隧道)に次ぐ難工事であり、この橋と桃観トンネルの完成により京都駅から出雲今市駅(現・出雲市駅)までが全通となった。完成より90年を超えた現在でも、トレッスル橋としては国内最大であり、初期の鉄道建築としても、高い存在意義を有している。)

                                                 ( )内はウィキペディアより引用

 明治44年11月10日、山陰線下り方面の汽車の開通と時を同じくして、米田茶店が営業を開始した。場所は現在コスモス米田が在る。創業者米田弥右衛門は、岩美から香住間の鉄道敷設に尽力し、その献身的な努力が後藤新平氏に認められ、米田茶店の営業を許可された。                                    弥右衛門は、明治36年、鉄道敷設の計画を聞くやいなや、その促進運動を起こした。汽車の煙から火事が起こるという地元の妄信を正し、明治39年、測量開始とともに、家業を長男に譲り、二男久造とともに、東奔西走し、地主を説得して用地を買収し、資材人夫の調達に協力した。それによって自家の資産を減らし、鉄道時報に「奇人」と書かれる。  岩美香住間の連絡事務を一切担当する傍ら、最高工事監督の意を代弁して、中央との連絡を行った。また、工事の進むのに従って、献策をした。                                       さらに、後藤総裁が明治43年、餘部鉄橋の架橋期間中、山陰に視察に訪れ、香住大乗寺に寄ったさいには、料理一切を仕切った。弥右衛門と後藤氏の間には、その後も交際があったようだ。                   後藤氏は、最後に「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ、仕事を残して死ぬ者は中だ、人を残して死ぬ者は上だ」という言葉を残している。ささやかな存在ながら、弥右衛門もまた、後藤氏に残された人なのだろう。         餘部鉄橋の敷設に当たっては、現場でも大勢の人間が関わり、力を尽くした。 米田家4代目は、「あいつらは工事をやっただけだ。弥右衛門ほど創設に関係ないのに、偉そうに」と怒っていた。しかし、見方をかえれば、「なんだ、金と口しか出していないくせに、偉そうに」となるのだろう。餘部鉄橋に関わったという事実は、子孫にとっても誇りなのである。  しかし、忘れてはならない事実として、現場で酷使された朝鮮人の存在がある。彼らは最もよく汚い仕事に従事させられながら、何ら名誉を与えられることなく、無名の人として無視される存在なのだ。      そして、餘部鉄橋創設の背景にいる最も大きな人物―――後藤新平のことも取り上げたい。彼は内務省衛生局長、内務大臣、満鉄総裁、東京市長などを経て、多くの成果を日本のみならず台湾にも残した。伊藤博文に「彼は生まれるのが早すぎた」と言わしめたほど、進歩的な人間だ。座敷牢に入っている精神異常者を救うため奔走し、地震の復興計画を成功させ、台湾の民政長官であったときは、生物学的な見地から砂糖の製造を指導し、富をもたらした。青年の教育にも力を注いだ。彼は金も仕事も人も次の世代につなげた。二つの線路を結びあわせ、はじめてそれを意味あるものとした餘部鉄橋のように。  このように、餘部鉄橋は、たくさんの人々の血と汗に支えられ、完成した。米田茶店はコスモス米田と名を変え、1世紀近く、一日も休まず鉄道に寄り添って生きている。餘部鉄橋ファンの人は、多数来店してくださる。                                    

 明治の夢は今もなお、人の心を熱くする。                                                      そのロマンこそ、餘部鉄橋の下に眠る、大事な宝物なのではないだろうか。

                                                                     記 米田恵



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余部鉄橋物語そのU

 

    余部鉄橋と桜

 半世紀もの間、余部鉄橋を見守って生きてきた桜がいる。
 昭和三四年、余部駅の開設されたその年の四月に、それは記念樹として生まれた。
 地元の人びとが新駅を祝い、旧国鉄とともにプラットホームの傍に五本の桜の苗木を植樹したのだ。  
  駅ができる以前、余部地区は孤立していた。住民は鉄橋を渡り、二キロ先の鎧駅まで線路沿いに歩かなければならなかった。当時のひとびとが余部駅の誕生をどれほど喜んだかは、想像に難くない。  
  いわば桜は、歓喜の象徴なのだ。  
  その桜は、今では四、五メートルまでに生長し、春には満開に咲き乱れて鉄橋と共演する。そのようすは春の風物詩となり、ひとびとの目を楽しませてきた。  
  その桜もついに役目を終える。

 平成二二年の完成に向け、コンクリート橋への架けかえ工事が進む中、「工事に支障あり」として桜の伐採が決定されたのだ。
  本来ならば一月の予定であったが、住民の熱い希望により開花まで待たれた。  
  今春が最期だ。五本の桜は、余部鉄橋よりも遅く生まれ、早く去る。
  「花は桜木、人は武士」と言う。それに倣って、「花は桜木、橋は余部鉄橋」としても、語呂は悪いが、いいのではないか。  

 さくら、さくら・・・いま、さきほこる・・・ 惜春の頃、桜、逝く。

 

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余部鉄橋物語その三 不撓不屈の岳人 加藤文太郎

 

 加藤文太郎をご存知だろうか。新田次郎著『孤高の人』で有名な社会人登山家だが、地元の人には加藤文太
郎記念図書館として馴染み深いかもしれない。

 加藤は明治38年、ここ浜坂に漁師の三男として生まれる。大正8年に浜坂尋常高等小学校高等科卒業後、神戸の三菱内燃機製作所に製図修業生として入社し、勤務のかたわら勉学を重ね、兵庫県立工業学校別科機械科・神戸工業高等専修学校電気科を卒業、当時としては異例の造船技師になった。
  華やかさには欠けるが、寡黙で温和な加藤の人柄はRCC創設者藤木久三をはじめとして多くの岳人に愛された。
  「山は、山を本当に愛するものすべてに幸を与えてくれる」という加藤は、ひたすら山に登り、山から謙虚に学んで独創的な登山スタイルを築いた。
  槍ヶ岳冬季単独登頂や、富山県から長野県への北アルプスの単独縦走によって、「単独登擧の加藤」は山岳界に名を知れた存在となるが、加藤は社会人として許された給料と余暇でそれをやってのけたのだ。
  海育ちの体力・脚力はもとより、時間と金を補って余りある創意工夫によるところが大きかった。
  藤木は加藤の山登りを、「用意周到で、一歩一歩をより高く、より堅実に踏みしめてゆくやり方」と述べている。
  加藤は気候をよみ、体力のあるうちに合羽を体に巻いて雪山で眠った。衣服や手袋は表に革を重ね、裏には毛皮や羽毛を貼りつけた。
  食糧には軽くてかさばらず、栄養価の高い甘納豆やじゃこを用いた。
  里帰りに足を使ったり、冬の庭で眠ったりと、地道なトレーニングも積んだ。
  すべては借り物ではなく、加藤の豊かな経験と実践から生まれた知恵だった。

 そして、加藤は昭和10年、宇都宮神社で出会ったという初恋の人・花子と結婚、娘登志子を授かる。
  しかし、その翌年元旦、数年来のパートナーである吉田富久とともに槍ヶ岳北鎌尾根に挑むものの、猛吹雪にあって遭難。

  享年30だった。

    なぜ山に登るのか――加藤はその問いに自著『単独行』でこう答えている。

 「山がいつも私の前に立っており、私はただわけもなく、それに登りたくなるものだから」  

 加藤はヒマラヤを夢見て貯金し、周りの人間も挑戦させたいと考えていたという。

記 米田 恵

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余部鉄橋物語 その4

ありがとう さよなら 餘部鉄橋

山より山にかけ渡し 御空の虹か桟か
百有余尺の中空に 雲を貫く鉄の橋
山陰鉄道唱歌

餘部鉄橋  

 御空の虹か桟かと謳われた餘部鉄橋は、とうとう百年の歴史に幕を下ろすこととなった。

 餘部鉄橋は、33万(現在だと約42億)もの巨費と、のべ25万を超える人員を投入して完成された日本最大のト

レッスル式の鉄橋だ。

 全長310.59メートル、高さ41.45メートル、鮮やかな朱色と美しい構造から、鉄道ファンだけならず、多くの人びとから愛され、親しまれている。

 夜空を汽車が走る姿は、『銀河鉄道の夜』のように夢幻的であり、青空の下では赤い虹のようにみえる。 餘部鉄橋の脚下には、宝物が眠っているように思われる。それは、当時の人びとの信念と挑戦心だ。

 明治は、欧米列強の脅威に触発され、産業革命の起こった時代だった。餘部鉄橋もそうした一連の流れのうちで誕生した。建設に携わった人びとは、餘部鉄橋に新しい日本を夢見た。それはまさしく明治の浪漫だった。 奇人米田弥右衛門も、そのうちの一人である。

  奇人米田弥右衛門  わたしのおじいちゃんのおじいちゃんは、米田弥右衛門といって、浜坂村の村長をしたこともあります。 鉄道時報によれば、 「この老爺は但馬の名物男にして我が鉄道のためにも一点利欲の念なく、誠心誠意公共の事業として種々努力してくれ居る米田弥右衛門と申す者なる事を知れり。(中略)昨日の一寸記たる同人は目に一丁事なきも公共事業に非常に熱心にて為めに自家の資産を減じたるも、よくこれを整理し、三千金の公金を作りて辞職したることあり、大阪商船会社の船を浜坂に寄航せしむるに至りたるも同氏の力なりと言う。昨日も何時の間にか竹野に来り一行の食事までも世話焼き、本日もまた城之崎まであとを追って来れり、真に感心すべき奇人也本年六十二歳と言へり」  ということです。 弥右衛門は、文明開化に浜坂が取り残されないためには、汽車を通すことが絶対に必要だと考え、鉄道敷設に尽力しました。

 当時、弥右衛門の前には、二つの難題がありました。今でいう餘部鉄橋と桃観トンネルです。弥右衛門は、ありとあらゆるツテを頼り、全国を奔走しました。原敬からの書状や、後藤新平の風呂敷など、当時の交流を思わせる品々が遺品として残されています。弥右衛門おじいちゃんの奮闘ぶりがしのばれます。  これらのおじいちゃんの功績が認められ、命令書という形で、浜坂駅に関する仕事をする権利を得ることができました。これが米田茶店のはじまりです。

  新しい橋 「百年後の歴史遺産」をスローガンに、新橋の工事は、事故もなく、順調に進んだ。当時の危険極まりないものとは雲泥の差である。  

 餘部鉄橋を惜しむ声は多く、新橋が観光資源となりうるのか疑問も残る。しかし、餘部鉄橋の魅力もまた百年の歳月をかけて育まれてきたものだ。新橋には、平成の気概といったようなものが感じられる。百年後に、新橋がより素晴らしいものになっていないと、どうしていえるだろう。  

 明治の浪漫から、平成の気概へ。人びとの心も、また、受け継がれていく。

 コノサカズキヲ受ケテクレ

       ドウゾナミナミツガシテオクレ

              ハナニアラシノタトエモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ       井伏鱒二「勧酒」

 餘部鉄橋、ありがとう。そして、さよなら。

記 米田恵

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