ふるさとのコーナー

私はこう思う!

☆「ふるさとは遠きにありて思うもの」

☆「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川・・・・

いつの日にか帰らん・・・・

山はあおきふるさと、水は清きふるさと」


 の詩のように自然が豊かで幼い頃に育った思い出の場所、再び帰りたい処というイメージがあります。
それは、昔の話しです。

今は自分たちが、そこに住んで創るものです。
或いは、そこに住んでいなくても、訪れることが出来て、そこに住む人と共に創っていける処です。
 すなわち、かつて山村にあった豊かな自然とは、そこに住む人が生活の関わりの中で創り上げてきたもの
です。
だから、「ふるさと」なる処に人の生活がなくてはいけないのです。
 そして、生活する人の少なくなった処では協力者(パートナー)が必要です。
協力者にとってもそこは「ふるさと」になるのです。

私の思い出のふるさと

 私は大阪生まれの大阪育ちです。

 小学校時代は門真市に住んでいました。当時はドブ川、レンコン畑や、水田、ため池などのある田園地帯でした。今でも、春のレンゲ畑で雲雀が鳴いていた情景が思い浮かびます。(今は全然違いますが・・・)

 中学、高校時代は大阪市内で大阪城の近所でした。遊びに行くところは大阪城公園が多かったです。公園内の木立の中を歩き回っていました。

 大学は島根大に行きました。ここも、宍道湖というすばらしい所がありました。
クラブ活動で一緒に過ごした仲間の思い出、下宿の友達と過ごした思い出いっぱいあります。


ただいま一部ふるさとの画像データは準備中です。
私の好きな野山の花を見て下さい。


思い出のアルバム
写真をクリックすると思い出のアルバムに入れます。
生まれた
ところ
大阪府
守口市
幼稚園
小学校時代
(5年まで)
大阪府
門真市
new
小学校から
大学入学まで
大阪市
東区
現 中央区
new
大学生活
島根県
松江市

どの場所にも思い出があり、ふるさとと思えます。
ただ、はじめの二箇所については今はすっかり様子が変わってしまっているので訪れても寂しい気分です。

−−なぜ、今八鹿町三谷なのか?−−

 私が子供の頃におじいちゃんとおばあちゃんが住んでいた田舎です。
おじいちゃんがこの世を去った後おばあちゃんが一人で暮らしているところ、昭和58年に私の就職先が八鹿町内になったため、ここに住み今に至ります。
(父と母は昭和60年から一緒に住んでいます。)
 この地区の世帯数は、当時は6戸ありましたが、今は5戸になりました。
最寄りのバス停まで4km離れています。その間約2kmは人家のない谷間の道です。


−−なぜ、ふるさとにこだわるのか?−−
 今住んでいるところは、決して私の生まれ育ったところではないのですが、幼少の頃のしばらく預けられていたらしく(本人は自覚がないが)その頃の思い出として、 おばあちゃんが川で洗濯をしたり米を研いだり、井戸で冷やしたすいかを食べたりしたことがあります。
学校に行くようになってからは、春、夏、冬の休みの時に過ごした思い出がすごく強く残っています。
 それは、川に入って魚取りをしたり、魚釣りをしたときに川の主のような大きな魚に出会ったこと、いつかその大物を釣ってやろうと思ったことなどです。
 ところが、いつの間にか川の様子がすっかり変わってしまい、更に台風19号災による河川改修でいよいよ魚も住めないような川になってしまいました。
とても寂しいことです。
 でも、四季折々の草花が咲きキノコがあり、結構一年中わくわくして過ごしています。

かつては、この谷間の沢にも
魚が泳いでいたのに・・・