一青窈思考2005

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特別感謝 その2 2005年12月31日 19:15:37

一青窈がデビューして3年が過ぎ、4年目に突入している。
デビュー1年で本格的な全国ツアーを展開し、その後も数々のライブコンサートを実行してきた。
レコード大賞最優秀新人賞を受賞し、2年目のジンクスも跳ね返し、3年連続紅白出場を成した。
歌に対する想いが一青窈を動かしているし、プロも認める声質に多くのファンが惹き付けられた。
来年は全国ツアーが行われる。
FCとしてチケットが確保出来たことにも増して、何よりも一青窈の生歌が聴けることの喜びが大きい。

一青窈には、確固たる世界観がある。
その揺らぎ無い信念の持ち主のファンでいられることの喜びの中で、もしかして一青窈は、想像以上にとんでもなく凄い歌手なのかも知れないのかと思うようになった。
感動なんて言葉だけで表現することが出来ない。

一青窈バンザ〜イ、、、、_| ̄|○ ちょっと飲み過ぎた、、、、


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特別感謝 その1 2005年12月30日 9:54:00

一青窈のファンになって、早3年目。
それまでにも、歌手のファンになった事はあっても、こんなに続いてきたことはなかった。
歌詞や曲に惹かれた事もあったけれど、歌詞の意味を”真剣に”考えたことなんてなかった。勿論、その”人となり”に惹かれたことも無かった。
歌に対しての思い入れが、こんなにも強く感じられたのが、一青窈であった事に、、、、不思議な感覚さえあった。

最大のきっかけが「大家」であり、「大家」無くして一青窈を語ることが出来ない程に、強い衝撃を受けた事が感慨深い。
歌が無限の力を生み、心をも変えることを知り、紆余曲折も有りながら、こんなHPを続けて来れたのも、ひとえに一青窈の魅力に尽きるのだと言い聞かせながらも、
例えどう言われようとも、やはり、”人の死に直面”することで、一青窈の姿に共感できた事なのだろう。

一青窈がデビューした2002年10月30日が、奇しくも、その頃であり、そこから立ち直るまでに1年を要した。
しかし、その頃の私は、、、TVを見る余裕すら無かったから、、、、、タイムリーな「もらい泣きの一青窈」を知らない。
それが突然、もらい泣きの一青窈に、吸い込まれてしまい、「姿見一青也」「一青 窈 LIVE TOUR 2004 〜てとしゃん〜」が、私の心に灯を灯した。

人の死の儚さを知り、失って始めて気づくこともあったけれど、、、、その空白の月日を乗り越えられたのも、、前向きな人生を考えられるようになったのも、「大家」を知ったから。
音楽のミラクルパワーにすがろうとした時も、、、、いつも心に”大家”があった。

一青窈!アリガ十々!


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フレーズ 2005年12月29日 21:43:51

一青窈の歌で、心に残るフレーズと、心に沁みるフレーズの両方を備えているものを考えてみた。

もらい泣き 「ええいああ 君から もらい泣き 優しいのは そう 君です」
翡翠    「何を疑わず何を信じきれずにいるのか この流れぬ悩みからは 一度さえも出られず」
アリガ十々 「1千回も 1万回も アリガ十々 アリガトウ」
月天心 「涙預けて振り仰ぐ空 この心も 照らして欲しい」
ジャングルジム 「ホントのことは 誰も 教えてくれやしない」
大家 「失って 始めて 気づくこと も あるけれど もうもとには戻れない だいじょうぶ ダイジョウブ 大家」
音木箱 「これまで ため込んできた ごめんね さえ いま空けて」
あこるでぃおん 「あこるでぃおん あどけない手つき で 僕の 想いほどいて」
ハナミズキ 「僕の我慢がいつか実を結び 果てない波 ちゃんと止まりますように 君と好きな人が百年続きますように」
影踏み 「いつの間にか大きくなっても 僕より うんと幸せがいい」
かざぐるま 「ただ遠くはなれても 君が 笑うため どこ吹いた風でした くるり かざぐるま」

これらのフレーズは、今後も色あせることなく、聴く者の心に突き刺さるであろう。
それだけ、一青窈の想いが強いからで、、、、それは、あの独特な”こぶし”に通じるから、、、、。

歌のイメージが創り出されるのは歌手の技量によるところが大きいのに、今回は、ことさらに「素」を強調しているのが気になる点である。
しかも、アルバム「&」がテーマとした一青窈の新たな姿勢が、もしも、今後も続くのであれば、一青窈の時代が想い出に代わるだけなのかと心配すらしてしまう。
それは、一青窈から「らしさ」が消えても、、、売り上げが全てではないと知りつつも、、、、。

しかし、、、一青窈は、今後、どれだけ「心に響く言葉」を奏でるのだろうか。


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3枚目の迷い 2005年12月28日 20:46:08

一青窈が素の自分をさらけ出したと言えば、なるほど、と思うけれど、仮に願望を表現したと言えば、それもなるほど、と思うであろう。
それは一青窈の言葉に溺れているからで、言い換えると情報に呑みこまれている証拠であろう。
3枚目のアルバム「&」についての一青窈の説明を、あえて2枚目のアルバムに当てはめてみても、その違いを見つけ出せないことは、
もはや仕方のない事なのかも知れない位に一青窈の詩の世界が混沌としているのは、一青窈自身に迷いがあるからで、、、、
作詞のモチーフが安定せずに、あれもこれもと欲張ると、結局、いろんなものを詰め込んでしまい、詩人としての主体が「曖昧」かのようなままに、
世の中に受け容れられてしまったからであろう。
特に、指切りに於いて「ありのままをさらけ出した」と言われても、本当にそうなのかと思わずにはいられない。

一青窈の詩については、その詩の世界に触れたことが無ければ理解不能であるし、
今回、一番の想いとしての Oh la la にしても、その深層心理は、補足説明なくして、知り得ない。

一青窈がさらけ出したと言ったことは、自身の尺度として示されたものであって、決してファンレベルのものではない。

話を最初に戻そう。
一青窈は伝えたい想いを歌として表現してきた。そして、その歌う姿は、聴く者や観る者を惹き付け、時に涙させてきた。
それこそが自らをさらけ出した誠実さであったからで、あたかも指切りがそうであるかのように強調する理由もないのに、そのことを植え付けようとしている。
それは即ち、一青窈が迷っているからで、その証拠はピンクフラミンゴに良く出ている。

だが、それすらも術中にあるとすれば、、、、もはや脱帽するしかないのだけれど、、、、。
情報として一青窈から流された言葉の数々が、もはや氾濫してしまい、言われたままを信じてしまうことは「木を見て森を見ず」と同じことだから、そうならないよう意識している。


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アンモナイト2005年12月28日 20:15:20

アルバム「&」を聴き続けていると、アンモナイトが離れなくなってしまった。
一青窈「会心の作」にして歌詞解釈よりも、なぜこの詩が誕生したのかが難解。でも、とてもいい出来。
もう、これは歌詞解釈を試みたくなってしまった。
では、いつものとおり、独断と偏見で言ってみよう。

と、思ったけれど、また後ほどに、、、


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抱擁 2005年12月26日 22:37:47

一青窈の歌は不思議である。
シングルの「指切り」やアルバム「&」にしても、一度聴いた時の感想が、2回3回と数を重ねる毎に印象が和らいでくるように思えて、、、、
5回6回と聴き続けると、何となく心地良くなってくるものが多い。
指切りにしても、最初の印象の悪さが、どうしてそんな風に感じたのかも分からなくなってしまいそうになる。
それは、今までのイメージを引きずっているのが、実は私の方なのではと思える程に、逆に一青窈の術中にはまったかのようでもあるが、
それはやはり、そう思わせるだけのものがあるからなのだろうが、、、、、しかし、何度聞いても心に響かないものがあるのも事実である。

期待した分の大きさだけイメージダウンする「ぱぱへ」があるように、逆に、聴き続けるだけでイメージアップする「指切り」が、不思議な組み合わせのようで、
それが一青窈の懐の大きさなんだろうと、改めて知らされたように思う。

アルバム「&」の出来具合を、一青窈が26年間の想いを詰め込んだアルバム「月天心」とは比べようもないが、
今の一青窈に出来る事を詰め込んだとすれば、満点に近いものがあるように思えてしまう。
そのヒップホップ大好きっ娘がバラードまでこなし、無限の器の広さを見せつけながら要所を上手く締めた出来映えが、アルバム「&」なのかも知れない。
一青窈らしさを追い求めている方が、その狭き門を、よりいっそう狭くしているのではと思うほど、自己嫌悪に陥る時もあるが、
歌の持つ安らぎの中に、何を求めているのかを考える必要も無いくらいに、素直に心地良いと思えることが、この上なく嬉しい時もある。

アルバム「&」を聴きながら、歌詞創りの難しさと素晴らしさを実感し、一青窈のファンであることのありがたさも感じている。

「かざぐるま」を聴けば聴くほど、この歌が一青窈の名曲となるであろう事は想像出来るし、いつの日か歌手として大成するであろう事を、待ち遠しく思う。
「影踏み」も、しかり。やはり一青窈には、心象風景が似合う。

しかし、そのアルバム「&」の中で印象的なものが「アンモナイト」であったのが意外だけれど、新たな一青窈を垣間見たように思う。
何度も聴き続けると、アンモナイトが一押しだと感じるようになってしまい、一青窈に対してのイメージの根底が揺らいでしまいそうになったのは、
それが自然なポップ音に包まれているように、まるで抱擁されているみたいだからであろうか。
しかし、アンモナイトを歌う一青窈は、歌が凄く上手い。

静と動を組み合わせたアルバム「&」が、2006ツアーの目玉であることが、そのツアーの違和感すら払拭してしまい、早く生歌を聴いて観たいと思うようになってしまった。


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アルバム「&」 2005年12月25日 8:16:41

3枚目のアルバムとなった「&」が、その収録曲数11曲中6曲が新曲であった。
「&」が意味することが、過去の一青窈と今の一青窈であって、将来の一青窈では無いことなのだと信じることで、このアルバムへの想いを感じさせられる。
アルバムが歌手としての単なる通過点でない事は、一青窈が一青窈なりの想いを注いだ分だけの大きさとして、多くの人々の心に残るものだろうし、
それが難解な歌詞を意識しないつもりでも、その歌が生まれた背景を知らされると、聴く方の立場も、変化せざるを得ない。
歌詞カードにアート性が無くなっても、そこから見えてくる言葉の裏に、一青窈らしさが健在なのも、少しだけ嬉しくなった。
歌詞解釈が全てでは無い事を知りつつも、その語間から広がる思いの丈を感じると、一青窈の人間性が見えてくる。

Oh la la の Oh la lが、ポルトガル語の「こんにちは」。
人の死を必然と考えても、母親の死を直視しても、「悲しい気持ち」になりたくてポルトガルへの旅を決めた一青窈が、鉛色の空と海を見て心の底に感じた想いとは、
悲しみを受け容れまいとする弱い自分との決別だったのかも知れない。
強くなろうと心に決めることは、言い換えれば優しくなろうとする深層心理の表明で、しかし、、、、今までの歌詞が、父親への想いに包まれていたから、
この歌が、母を慕った想いなのだろうと思うと、亡くなった母に、それでも地球の何処かにいて欲しくて、遠く西の果てを目指したのかも知れない。
生と死を、”こんにちは”と表現出来る程、一青窈は強くなれたのだろうか、、、、、。
歌詞に込めた想いの強さが、気持ちとして歌われるのを、期待せずにはいられない。

「Banana millefeuille」
名刺代わりの1曲だそうで、、、、、、
名詞は机の引き出しにしまうことにしました。
また、聴きたくなったら、机の中を探してみます。
そんな感じです。

「ピンクフラミンゴ」
この歌が今の一青窈の心情をそのまま書いているとするならば、なんて可哀相なのだろうか。
片足で、立ち続けなくてはならない不安定な心理状態を言葉に託し、誰かに助けを求めているのでしょうか。
歌の世界の厳しさを垣間見ているだけで、、、、だけど、悲しい歌詞です。
フラミンゴが片足で立っているみたいな事を自分になぞられて、それを寝たふりと称することは、、即ち、一青窈はいっぱいいっぱいの状態なのに、それでも
余裕のあるフリをしていることなのだろうか。
歌手としての自分を追い込んでしまってから生まれる歌に素晴らしいものが出来上がる時もあるけれど、それは一時しのぎに過ぎないし、続けるものではない。
自己表明が辛く聞こえてしまった。

「アンモナイト」
心地良い音楽に載せて、リズム感が伝わる。
深海をモチーフに約2億年前の出来事に絡めた愛をテーマにしている歌なのだろうか。
普遍的な愛を求める心理が、この歌に託されているように思う。
歌詞の不思議さが曲によって見事にカヴァーされている。
喫茶店のBGMに似合うのかも知れない。

「&」の短い歌詞
この短さに何を感じればいいのか、考えさせられたが、、、、このアルバム全体が「&」なのだろう。
このアルバムが喜びと悲しみの全てを表現しているからこそ、その全てを包み込んだ結果が、「&」なのだろう。
しかし、なぜこんなにも短いのか、、、、だが、しかし、、短いからこそ「&」なのだと気付かされた。
意味がなさそうでありそうな、なにかを伝えたい気持ちが遠回りしても、「&」の一言で繋がっていける。

「さよならありがと」
これについては、あえてコメントしなでおこうと思ったのだけれど、、、、、
アルバム収録の中心が「影踏み かざぐるま」であるなら、「さよならありがと」は、シングルになっても不思議ではない程の出来だけど、
この歌があるからアルバムが活きてくるし、「&」が完結するのだろう。
別れても好きな人なのか好きだけど別れなくてはならないのか?
「さよならありがと」が「さよならありがとう」ではない事に注目すると、一青窈の拘りを思ってしまう。
「ありがとう」は相手に伝える言葉であって、「ありがと」は自身に留めておく言葉。そう想いながら聴いていると、このアルバムのテーマである「&」へ辿り着いた。
さすがは一青窈。


純粋にアルバムとして考えた場合、メインの曲とサブの曲が上手く絡まっている、所謂、良いアルバムだと思う。
しかし、、良いアルバムを超える程ではない事も事実だと思う。
アルバム「月天心」が、傑作であるだけに、、、、あの”心に突き刺さる”ような名曲の数々を超えることは、もはや出来ないのだろうか、、、、


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気持ち 2005年12月23日 9:13:17

一青窈は、自らも「気持ち」で歌う歌手だと言ったことがある。
あえて過去形で表現したのには、それなりの理由があるからで、それは、今日買ったアルバム「&」に収録されたDVDの「ハナミズキ」を観て、率直に感じたから。

京都祇園甲部歌舞練場「はいらんせ」での”ハナミズキ”に、本当にガッカリした。
歌に込めた想いを、”素直に表現”することが一青窈の持ち味だったのに、その歌唱を観て、一青窈が邪念だらけなのを知り、とても残念に思う。
歌に対しての真剣さも、純粋でないから、意味のないアレンジや、変な表情が目立ち、それが違和感として残るだけ。
ハナミズキ本来の平和への想いも、初期の頃の歌唱とかけ離れると、そんな想いすら伝わらない。
ハナミズキが、あんなに変に歌われると、そんな歌唱は観たいとも思わない。
いつからこんな風に変わってしまったのかと考えると、やはり、「花逢娘」がターニングポイントで、間違いないであろう。

このDVDを観て、一青窈のファンがどう思うのか想像につくが、それが果たして、真実を語るのかと思えば、また違った答えに行き着くのだろうと感じるファンは、
いったいどれだけ居るのだろうか?。
ファン心理が二極化すると、私のように想う者が居ても不思議ではないし、それが自然な事だと思えてしまうほど、このDVDには違和感しか感じない。
一青窈は、「気持ちで歌う歌手」では無かったのだろうか、、、、
時の流れによって、気持ちも変わって然るべきで、、、でも、、、”ハナミズキ”は特別な歌ではなかったのだろうか、、、、、
今度のコンサートでも、この「はいらんせ」のような歌い方であれば、ハナミズキの想いすら薄れてしまうし、何よりもまして、一青窈の歌唱の変化が、
とても大きいことが、一青窈ファンを惑わす事に、、、、、「それで良いの?」と投げ掛けたくなる。

表面上のパフォーマンスなんか、期待していない。
歌に対しての純粋な想いを、何も考えずに、ただ、没頭するつもりで歌うだけで良いのに、、、、魅せようとする演出を表情に表すことの弊害に、ただ残念なだけ。
歌が上手ければ良いもの、、、、などと考えてはいけないし、気持ちが乗らなければ、歌う必要もないのに、、、、このDVDを観て、こんなハナミズキは、
ハナミズキではないと、強く感じた。
必死そうに見せられると、、、違うでしょ!、、、、と、言いたくもなる。

一青窈の歌に対する気持ちは、ちゃんと表現されたのか、、、、、、歌に対する想いを、今一度振り返って考えて観ると、そう想えてしまう。


そんな中で、12月23日に一青窈がズームインSUPERで魅せた「さよなら ありがと」は、はいらんせのハナミズキとは違っていた。
歌に対しての真剣さなのか素直さなのか、、、、邪念が見えてこない。
これが本来の一青窈に備わった歌唱の心なのだろう。

だだ、この”さよなら ありがと”が、一青窈自身にとって、歌いたいものなのか定かではないが、多くのファンが望む歌であることに間違いないのであろう。
歌が上手いとの評価だけでは、一青窈には似合わないし、何よりもまして、他の歌手とは違うポリシーの塊が、一青窈の支持に繋がるのだから、
その一青窈が、デビュー以来から心に留め続けてきた歌に対する「変わらぬ想い」こそ、忘れないで欲しいものです。

なぜ、この時期に、アルバム曲を歌ったのか、、、、それは、朝から”指切り”では、似合わないのは明白であるし、選曲は正しかった。
それに一青窈は、一段と美しくなっている。それも表面上の美しさに、磨きがかかってきた。
では、歌唱に対しての美しさは一段と備わっているのだろうかと考えると、100%断言出来ない、、、、と、思える、、、曖昧な不安感。
それが、発売時のキャンペーンで終わらせるつもりでない戦略が伺えるから。

一青窈が目指すものと、ファンが望むものの違いはあって当然なのだけれど、そのアンバランスが許容範囲内に収まり、拡大しないことが望ましい。
変化を楽しむ余裕がどう受け容れられるのか、その進むべき”道しるべ”が曖昧なのが、一青窈の魅力なんだと言い聞かせている。

ただ、、、、歌詞解釈を奮い立たせる気持ちが湧かないのは、なぜだろうか。


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意識 2005年12月16日 21:55:23

一青窈が作詞に拘るのは、デビュー当時からの「詞は誰にも負けたくなかった。」との想いが強いからで、その強い想いがあるからこそ、支持されたのに、
その作詞が今、大きく変わろうとしている。詩が活かされるのも曲によるし、良い詞であれば良い曲に恵まれるものなのに、その一番大切にしてきた作詞への
想いが、その根底から崩れてしまいそうな、そんな時を向かえようとしているのかも知れない。
変化を望んでいるのか、それとも、変化を恐れているのか、、、、一青窈の詩の世界が、「絆」の捉え方すら、独自の世界観として表現出来なくなったのは、
自ら諦めてしまう心の変化によるもので、それが、走り過ぎてしまったかのような3年の歳月として、一青窈自身をも悩ませてしまう結果となったのかも知れない。

歌詞が大切なことは、歌い手にとっての想いの強さを表現する上では、一番大切なもの。想いが強ければ強いほど、詩も活きてくるし、曲も生まれるもの。
作詞に拘ることが、一青窈の世界を満喫できるものなのに、、、、、、新曲が生まれても、過去を乗り越える事が出来ないでいる一青窈を知るにつけ、
一青窈の詩に対する”意識”の変化が、なぜか寂しく感じてしまう。
歌が生まれるのが義務化すると、それは如実に反映されるから、そんなものを称賛する程、聞き手は優しくない時もある。
強い想いがあればこそ、それは自然と伝わるものだから、だだ単に、良い歌として生まれては消えてしまうようなものならば、最初から無い方がいい。
自信がなければ、発表しなくてもいいんじゃないかと思うほど、アルバム創りも意識改革を必要とする時代なのかもと、、、、、。

5年後、10年後に残される一青窈のうた。それが、いま生まれているのか、いないのか、そんなことも意識しながら、アルバムに期待すると、
無償の喜びとして記憶されるものでは”ない”ことに気づかされた。

「いつか、このアルバム(月天心)を超えられたらいいな、、、。」が、重くのしかかっている。


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一青窈の「うた」の証 2005年12月07日 21:51:06

第47回日本レコード大賞の作詞賞を「かざぐるま」が受賞した。
歌手である一青窈が自ら作詞したものが、作詞家達を飛び越えて、見事に受賞した。
それにはそれなりの力があり、喜ばしい限りです。

”かざぐるま”の歌詞は、全編美しい言葉がちりばめられており、古き良き日本の美学を意識したかのように、
それはまるで日常生活からは忘れ去られたかのような言葉からは、ただただ美しい風景の印象が強い。
優しさの中にある辛ささえも、一青窈の声として伝わると、心象風景として心地よい。
歌に込めた想いさえも、美の表現としての完成度も高く、正に名曲の名に相応しい。

この歌がヒットしないのは、ただ単に若年層の支持率の低さだけではなくて、セールスの甘さが大きい。
一青窈を支持する年代の高さには、いいものを見極める目があるからで、勢いだけではない歌の素晴らしさを享受できるはずである。
歌謡界の衰退の中でも、ひときわ異才を放つ一青窈の”うた”だからこそ、ヒットして欲しいものだけど、結果は芳しくない。

だけど、一青窈のうたは、誰が聴いても心に残る。その事が、ただ嬉しいだけ、、、、。


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「窈ちゃん」持論 2005年12月05日 22:30:21

反感を抱かれようとも、どうしても気になる。
それは、一青窈を呼ぶ言葉に、「窈ちゃん」があること。その事を活字にしたのは、2回目である。
他人を呼ぶ時は、「さん」であるべきなのに、芸能人だから「ちゃん」で呼ぶは、論理的ではない。
知らない人から「ちゃん」付けで呼ばれたら、一般的には不適切なことなのに、一青窈の場合、ほとんどのファンが、右へ習えで呼んでいる。
一青窈自身も、「窈ちゃん」と呼ばれることに親愛を示しているが、だからと言って、年上や年下も関係なく「窈ちゃん」と呼ぶことは、変な事である。

敬称を使わないのは言葉の乱れによるもので、「窈ちゃん」と呼ぶ人達は、その不適切さを考える時なのだろう。
自分が呼ばれる時に置き換えても気付かないのなら仕方がないが、相手を敬う気持ちからは、「一青窈さん」としか言えない。

ちゃん付けの根底は、自分と同等か下に見る場合で、年上には決して使う言葉ではない。
年下でも、尊敬すれば、使う言葉ではない。
まして、「姫」などもってのほか。

30代の人、40代の人に対して、「ちゃん」なんて失礼な事。
おかしな事や不適切な事に麻痺しないようにと心掛けている。
けだし、呼び捨ては、実は丁寧なことなのです。
賛否両論あろうとも、あくまで持論なんです。

なんて能書き書いていたら、一青窈思考2005「コンサート思考 2005年06月10日 22:21:51に、「歌姫」と書いていた、、、、
もうダメだ、、、、熱があるのかも知れない、、、

さて、コンサートでは、何と呼んだらいいのだろうか、、、
「一青さ〜ん」、、、、ちょっと不思議だけれど、新鮮でいいんじゃないかぃ。


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 2005年12月03日 9:46:29

歌で世の中が変えられたら、
歌で病気が治ったら、
歌で人の心の中に入っていけたら、

23歳の一青窈が、真剣に考えていたいたこと、、、、、そんな事が、一青紙10号に載った。

この想いが、本物なのかは、一青窈しか知らない。
デビュー前の一青窈が、そんな想いを抱いた、その根底がなんなのか、その真実は今もって曖昧な所にある。
歌手を目指したきっかけや、歌の無限のパワーを信じる気持ちや、自らの経験が、一青窈を動かしてきたし、それは今後も変わらない信念みたいなものだろうが、
多くの歌手が一青窈の想いとは全く別な所で活動する中で、一青窈の位置づけが大切なことであり貴重な存在でもある。
歌に対する姿勢が、今の一青窈を動かしているし、その想いに共感するファン心理も、本物であって欲しい。

一青窈の夢は、、、、、それは、「あらゆる欲」との戦いの中から生まれるものなのかも知れない。

しかし、そんな夢物語が現実となることがあり得るのだろうか、、、
3つの夢が叶えられたら、、、、一青窈は、どう変化するのだろうか、、、
少なくとと、一青窈は、歌で人の心の中に入ってきた。
こうして、こんな私でも、HPを創ってしまった。
人の心を揺する、、、その気持ちは持ち続けて欲しいものです。


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PV 2005年11月27日 19:08:11

数々のPVの中でも、最高傑作は、「大家」だろうと思っている。
映像美とかリズム感などは、比較対象ではなく、歌のイメージを的確に表現し、考えて練られたものとしても、まるで映画のストーリーにように、
”大家”のイメージが見事と言うしかないくらいに素晴らしい出来映えの中で、一青窈も美しく映し出させている。
特に、階段を駆け上がる後ろ姿のスローもションの妙も、最初と最後の展開が、実に素晴らしい。
その事は、blogにも書いたので、引用したい。
しかし、指切りPVからは強いメッセージが感じられないことが、少し気になった。




(一青思考blogより)
スローな曲の始まりに合わせた、まるで静止画のような雰囲気の中に、映像美を追求する力の入れようが感じられる。
もらい泣きのヒットの勢いをセカンドシングルに投入したのが良くわかる。
一青窈の路線を確立させようとして、そのノスタルジックで大陸的な魅力を十二分に表現している。
歌手らしくないどこか物静かな少女を思わせると同時に、何かしら影を感じさせる雰囲気を上手く表している。
階段で物想いにふけながら、どこからともなく吹き抜けていく風、花に囲まれた小舟に身をゆだねるしぐさ。
誰も居ないごちそうで溢れる食卓の寂しさに続く、作り笑いの後の冷静な顔、大家の曲のイメージが一青窈をアピールしようとしている。

でも、売れなかった。もらい泣きにほど遠い・・・・。
しかし、ファンの間では、大家は特別な曲として位置付けられている。

てとしゃんでは、大宮だけで歌った。
その後のライブでは歌わなかった。
それなのに、花逢娘では、数百万円をかけて紅葉を降らせる中、熱唱した。
もしかしたら、大家が切り札かもしれない・・・・・・。

階段を駆け登る少女が最後に振り返って見たものは、自らの過去かも知れない。


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魂歌 2005年11月27日 18:45:48

どんなに上手い歌手でも、一青窈の歌を超えていると思えないのは、一青窈の歌う声質に、「魂歌」があるからだろう。
歌詞を超えた想いの強さが、一青窈の歌声を魂歌に変えるのは、避けて通れない過去に遡る必要があり、
口先だけの抒情を歌う歌手に惹かれることがないのは、一青窈の歌を知ってしまったからに他ならない。
コンサートでの曲数が10数曲で限界なのも、それは、一青窈の歌が魂歌だから、仕方のないことだろうし、質の高い歌声ならば、満足度も高い。

考え抜かれた”もの”こそが人々の心に届くものだから、歌詞に込めた想いは、一生懸命に伝えて欲しいもの。
流れるようなライブの中でも、要所要所を締めるだけでなく、歌に対しても、自身に対しても、神聖であれば魂歌が生まれるもの。

原点回帰を試みる絶好のチャンスでもあるし、それが、デビュー当時からの変わらぬ想いを再確認する時でもある。
2006ツアー Yo & U が、最高の舞台である事を願っている。


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指切り 2005年11月26日 18:07:17

歌に対する感情移入を数値化したら、一青窈自身の想いが、非常に低いのが、この歌から伺える。
PVからも歌のイメージが伝わらないし、そもそも、この歌の歌詞に、一青窈としての感情表現に無理があるように思えてしまう。
切っ掛けが災害時における愛をテーマにしていることは NEWS MAKER 10月号 に記事されたが、歌からは、そんな想いが伝わって来ない。
それは、この歌が、、、ストレートな愛に基づかないからなのだろう。
経験してこそ、その想いが歌詞に反映されるもので、まして、、一青窈は、プロ作詞家でもなく、あくまで、伝えたい想いを歌に託してきた歌手なのだから。
歌詞作りに、身を削るほどの想いがないから、、、、まるで中途半端に完成したものに思えてしまう。

影踏み、かざぐるま、と続いた日本語の美しさに続くべく、思わせぶりの”指切り”のタイトルに、イメージダウンすら感じてしまう。
一青窈が「愛を自問する」ほどの感情の変化すら、その事への想いとしても、歌詞創りを迷わせてしまったのか、、、
一青窈の原点は、”伝えたい想いを歌詞に託すこと”だった。それが、怒濤のシングル発表の影として、受け容れることができない結果なのだろうか。

一青窈は、新境地を模索しているかのように過去の自分と戦っているのだけれど、
その発表される歌を、何でもかんでも褒め称えるファン心理に、迎合する事が出来ないファンもいる。
それは決して、ただの批判では無いことを理解出来るファンが、いったい、、、、どれほど居るのだろうかと、、、自問してしまう。


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背負った荷物の重さ、、、2005年11月25日 22:36:43

一青窈の人生が、実際はどれ程のものなのか、知る由もないが、、、大家の世界に、一青窈の人生の重さを知らされる。
この歌は、決して、、、、分かり易い歌詞ではなくて、、、想いが詰まり過ぎている。
それは、あまりにも、、、、荷が大きくて重すぎるからだろうか、、、。


失って、始めて気づくこと も あるけれど もとには戻れない
    (問)
    一青窈が失ったものは、何なのか、、、、元に戻れないと感じた事とは、何なのか。

誰かに云われて パパ。 に 逢いたくはなる よみうりランド の 観覧車を覚えてる
    (問)
    父親を失ってから、誰から、言われたのか、、、。失った人に逢いたい感情の強さは、なんて儚いことなのか、、、。
 
故郷を出ようか so she tear 墓、通ってみよか
    (問)
    一青窈にとっての故郷は何処なのか、、、歌詞として相応しくない「墓」を入れた意図は何なのか、、、。

失って、始めて 大事なもの が わかっても もとには戻れない なんてひどい人生 同じこと を くり返す 美しい人生
    (問)
    ひどい人生とは、自身のことなのか、、、、なのに、美しい人生とは、何なのか、、、。

誰彼傷つけ幸せになったね、と 家族は空気に 男らしい娘に
    (問)
    傷つけたのは一青窈なのか。空気とは、、、男らしい娘とは、、、、

やり直せない、まさか・・・  嘘で泣けない
    (問)
    嘘で泣けない想いとは、何なのか、、、、。

みんなひとりぼっち 生き急いでみるの、も 早く死ぬのもいい
    (問)
    皆がひとりぼっちな想いは、どこから生まれたのか、、、、なぜ「・・・いい」と言い切れるのか、、、。

心配しないで しないで あたしはほら! 一人でもこうしていきてける
    (問)
    一人で生きて行ける、、、と、決意する思いは、どうして生まれたのか、、、。

肌と手 重ねても 心、背中合わせたまま で そんなときもあった。 甘い夢だった
    (問)
    甘い夢だと後悔したのは、何なのか、、、。

失って始めて気づく事 も あるけれど もうもとには戻れない だいじょうぶ。 ダイジョウブ。 大家
    (問)
    だいじょうぶ。ダイジョウブ。大家・・・・・。誰に向けているのか、、、自身のことなのか、、、。

あなたのため に こんなに、ほら・・・泣く人、が いる
    (問)
    あなた、、とは、私(一青窈)なのか、、、。なぜ、なんのために泣く人がいるのか、、、。


以上の問いに、正確に答えられるファンなんて、誰も居ない。
一青窈が、「大家」に込めた想いは深い。
その事について、私は既に、歌詞解釈を試みて、、、、それは、決して、この”大家”が、分かり易い歌詞ではない事を物語っている。
一青窈自身、、、大家への思いは、とてつもなく大きくて重い。
だから、、、一青窈は、、、この歌を歌うのに、何倍ものエネルギーを要するのだろう。
そして、そう簡単な想いの歌ではない事を感ぜずにいられない。
だからこそ、そのエネルギーの詰まった歌声の素晴らしさを、体感したいと願っている。


165

煙に巻く 2005年11月25日 20:57:14

「CDでーた」の記事が気になり、少し考えてみた。
自ら考え練り込んで創り上げた歌詞を、「煙に巻く」と表現する程に、一青窈の作詞への想いが変化しているのを知ると、明らかに迷っているのを知らされる。
あれ程までに想いをぎゅうぎゅうに詰め込んだ歌詞に、その詩の素晴らしさを感じる程に、その奥深さに感嘆すると同時に驚愕さえしてしまう想いすら、
忘れようとしても忘れることは出来ないはずなのに、その素晴らしき歌詞さえも、作者自身が、”煙に巻く”と意識するのは、残念なことでもある。
歌詞に込めた想いは、誰にも負けない強い意志でもあったのに、、、、だが、それも、外部の目からすれば、”煙に巻く”と表現されるのが、自然なのかと、、、
そして、そう思われる事を意識してしまうことが、自然な成り行きなのかと、一青窈は自問していたのかも知れない。

だけど、、、決して、一青窈の歌詞は、「煙に巻く」ものではない。

私が絶賛する「大家」でさえも、ファンによっては、その凄さを理解されていない、、、、、。
詩が生まれた背景さえも、歌詞に込めた(秘めた)想い出さえも、、、、いわゆる難解な言葉の裏にこそ強いメッセージが詰め込まれているのに、
その想いを知るにつけ、一青窈の凄さを知らされることは、決して、煙に巻くことではない。
むしろ、その詩の凄さを理解できないでいるファンの方が、残念なことでもある。

大家の詩の世界を、その奥の奥まで探り出すと、益々、その深みにハマってしまい、悩んでしまう。
難解であればあるほど一青窈らしいのではない。難解であると思われるのは1つの結果であって、、、、一青窈の凄さは、その想いを、ぎゅうぎゅうに詰めること。
”歌詞創りから生まれる課程を込めた想い”の強さが、一青窈の世界観を裏打ちするのであって、”難解なこと”は、さほど重要な事ではない。
ぎゅっと詰まった言葉の重さが、一青窈オリジナルとして根付くのだから、煙に巻くと思われることは、重要なことではない。


164

迷い 2005年11月18日 22:32:15

良い歌とは何かと考えたら、一青窈の歌の中に答えがあった。
聴く者に響くのも良い歌、考えさせられるのも良い歌。
だけど、一番の良い歌に理由なんて無いことにたどり着いた。
ただただ、「聴きたい!」と感じるのが良い歌。
沢山の歌の中で、これだけは聴きたいと感じるのが、良い歌。

一青窈の詩の世界が、強さを失ってしまっても、良い歌の感情は残り、それを聴きたいと願うことがないと、良い歌の感覚も薄れてしまう。
新曲を発表しても、良い歌なのかを評価することの無意味さもあり、「遠回り」していても、その余韻を楽しめたらいい。
何を求めて歌い続けるのか、その本心を知らない方が良いし、発表されたものだけを、素直に感じれば良いことであり、そして楽なこと。
歌手の世界観を分析しても、それが意味を成さない程に、一青窈の詩が迷い始めたことが新たな一青窈の始まりだと信じなければ、
ファンを続けることが難しくなり、逆に、進化する一青窈の歌を認識することで、ある種の安心感が植え付けられようとしている。
あれもこれもと欲張ることが、新たな迷いを生じさせるのだろうけれど、一青窈の歌の「始まり」が忘れ去られる事への違和感すら感じなくなると、
それは、残念な事として終わってしまうだけで、勿体ない事だろう。

新曲が出る度に、一青窈の原点と比較してしまうのが、歌い手にとっても、ファンにとっても、苦しい選択に変わりないし、それは、一青窈に課せられた
命題なのかも知れない。それなのに、一青窈は、未だ原点を超えるどころか、変化を楽しんでいるように見える。
だが、その裏返しが、原点回帰にある事を知るにつけ、一青窈の歌に触れたいと感じる想いが強くなってしまう。
一青窈が言った、「いつか、このアルバム(月天心)を超えられたらいいな。」が、目標としてある限り、そして一青窈の歌に「迷い」が有る限り、
一青窈の歌を聴き続けたいと願っている。


163

作詞 2005年11月12日 21:24:19

一青窈の作詞が、ある時を境にして、大きく変化してしまった。
人の心や、家族の絆を根底にした大家や翡翠のように、よく練られたものが出せなくなったのは、一青窈自身の変化によるよるのかも知れない。
ハングリー精神が無くなると、たとえ楽な気持ちに走ろうとするものが無いにしても、変化せざるを得ない。
愛や恋をモチーフにしても、その言葉がストレート過ぎると、一青窈のオリジナル性が薄くなり、そんな歌は別に一青窈でなくてもいいんじゃないかと思われる。
それは、デビュー当時、一青窈自身が特に拘った、「この歌は一青窈じゃなくてもいいんじゃないか」との想いへ行き着いてしまう。
多くの歌手が、作詞効果としての「愛」と「恋」の伝え方に個性が無いのは、言葉としてのオリジナリティの欠如によるし、そのイメージの膨らませ方が安直で
あればあるほど、その想いが伝わっているようで、実は伝わっていない。

良い詩であればあるほど、いい曲に恵まれるもので、、、、その点で言えば、「翡翠」は名曲の名に相応しいのだろう。
好きだとか嫌いだとか、、、そんな想いが直線的で無くても、翡翠の愛の深さは、言葉としてのイメージの妙として、最高レベルにあると言える。

一青窈の詩が優れているのは、伝えたい想いを、直線的な言葉で表現しない事で、あえて間接的に表現することで、その伝えたい想いを広く、大きく、そして
深く表現出来る程の、その独特な言葉使いにあると言える。それが所謂、言葉遊びとしての表現力にもなるのは、一青窈にしか出来ないものでもある。
良い歌は、世代を超えて広まるもので、、、、、「ハナミズキ」のヒットは、いわば万人受けするものでもあった。
だが、一青窈の歌は「凄い」と知るにつけ、大家はもとより、今こそ「翡翠」の出番を待ち望んでしまう。
それは、翡翠の作詞法を実践する事なのだけれど、しかし、その良さを知る事が出来るのが、一部に限られてしまうのが残念でならない。
やはり、歌手は、、、、多くのファンを対象にして歌創りをすると、その枠にハマってしまいがちなんだけれど、その枠を意識しないで、伝えたい想いを言葉に託す
一青窈独特の本来の姿に戻ることは難しいのだろうか。想いをぎゅうぎゅうに詰め込んだ「うた」こそが、”一青窈のうた”であって、決して、”愛だの恋だの、と、
好きだ!”なんて直球な言葉に走らないことで、ぎゅうぎゅうに詰まった想いを表現出来ることに、一青窈の詩としての完成度が伺える。

作詞の中で、キラリと光る言葉こそが、一青窈を輝かせる。そんな歌を待ち望んでいる。


162

目の色 2005年11月05日 20:47:53

カメラマンの注文に対して、色々な表情を魅せても、その根底にある目の輝きまで、変えることは出来ない。
NEWS MAKER 12月号で魅せた顔は、正にそのとおりだった。
憂いの中で、何か遠くのものを求めているようで、ただし、その中の一枚だけは、他とは違っていた。

下目使いで遠くを見つめながら、半開きな口の横顔。

今の一青窈の気持ちが、良く出ている。

原点回帰をした時に、一青窈は、本当は何を感じたのだろうか。
雑誌のインタビューに答えたことは、ほんの一部分に過ぎないし、過去を見つめ直し、将来を考えた時に、いったい何を感じたのだろうか。

原点回帰から生まれる歌こそが、一青窈の力となり光となり始める。
歌手として考える時期を向かえて、新たな一青窈が動き始めても、また新しいものに挑戦しながらも、いつも原点を見つめ直している。
それが、失敗するのか成功するのか、そんなことはどうでもいい。なぜなら、一青窈はオリジナルなのだから。
いつだって、どこだって、一青窈は、その歌声を放って来た。
誰にも真似出来ない独特の「こぶし」が、最大にして最強な武器だった。

その一青窈が迷っている。
自らの進むべき道を、まるで手探りのようにして、探し始めている。
それが、あの「目」となったのだろう。

父は亡く、チャッピーも失い、母をも亡くした一青窈が戻れる唯一の場所は、失った家族の暖かさを感じられる「我が家」なのか。
多くの歌手が、自らの辛い過去を引きずっている中で、一青窈は、その過去をも背負い続けている。
そして、その歌声は天性のものかも知れないが、、、、、その荷は、余りにも重すぎたのだろうか。

だけど、一青窈に望むのは、その、ありのままの姿しかない。
考えて、悩んで、、、、、その結果として、自然と生まれる言葉こそが、一青窈のオリジナルなのだから、、、、。

原点回帰から、また、新たな一青窈が生まれようとしているが、そこはまだ、原点回帰でしかない。
一青窈の歌声を望む限り、一青窈であらんことを願う。


161

なぜ? 2005年11月03日 18:10:05

なぜ、影踏みはヒットしないのか、、、その理由がわからない。
歌としての完成度は高いはずなのに、一青窈らしさも良い具合なのに、それでも期待はずれで終わってしまうのだろうか。
時代は、一青窈を欲していないのだろうか。

売れないと不安を感じてしまい、それは雰囲気を変えざるを得ないし、飽きられる恐れが、一番怖い。
だけど、一青窈の歌は、、、、流行を突き進むものでもなくて、まるで演歌のような響きがあるし、全体的に美しいものである。
勢いでヒットするものでもなく、実力で広まるものなのに、、、、。
大ヒットなんか望んではいない。でも、ファンとしても、不安に思う時もある。

以前、一青窈は、もらい泣きのイメージを壊すために江戸ポルカを投入した。
それが、一度作られたイメージとの戦いであり、その結果としてハナミズキがヒットしてしまったことすら悔しがったのに、それが叉、繰り返されようとしているのか。
指切りがヒットしないのは目に見えているし、その事が「二の舞」と予測出来ないほど、賢くないはずはない。
なのに、いま、ロックを選んだのは、なぜなんだ。

まさかその次の、同じプロセスで第二のハナミズキを計算しているとしたら、、、、、さすが、と言うしかないのだが。
そのヒントが、アルバム「&」に秘められているのではと、期待せずにはいられない。だけど、、、、、。


160

期待 2005年10月26日 21:35:21

てとしゃんコンサートで初めて見た一青窈の姿を、忘れる事はない。
小柄なイメージのはずなのに、ステージ上の一青窈は、とても大きく見えた。
身振り手振りを大きくしている訳でもないのに、歌う姿に迫力を増し、そして歌声も力強くて凄かった。
まるで圧倒されるが如く、その姿に吸い込まれてしまった。

一青窈が放つオーラに、コンサートの素晴らしさを感じた瞬間だった。
そんな一青窈をも超える歌手を、未だ目の当たりにしたことはない。

自分の歌がどんな風に伝わるのか気にならない歌手はいない。
ファンの反応も気になるし、ヒットを願う心意気も強いはずである。
だけど、一青窈は自らの作詞に強い信念を持っている。
それがデビュー以来、変わらぬ想いとして突き進む中で、多少の変化として残された。

歌詞が生まれる切っ掛けを探さなくてはならなくなると、伝える想いが薄れることになりかねない。
例え一青窈らしい歌が生まれても、それはあくまで「・・・・らしい。」の世界。
そんな歌が増えて、コンサートで歌われるようになると、一青窈が伝えたいと願う歌の強さは、どう変化するのだろうか。
てとしゃんが集大成と評されると、今後の一青窈を表現することも難しくなる中で、一青窈らしさを求めることが、ただの難しさを増す結果となるばかり。

それでも一青窈は、歌手一青窈を追い求めなくてはならない。
その、らしさの中から、一青窈た伝えたいと思える歌が、いったい幾つ生まれるのだろうか。
その時こそが、一青窈の一青窈たる由縁を発揮するする事が出来るコンサートに結び付く時でもある。
あの、てとしゃんをも超える一青窈を目の当たりにする事が出来るのを、期待するばかりである。


159

低音の魅力 2005年10月25日 20:19:35

一青窈の歌声の本質は、低音に隠された声質によるのであろう。
譜面に忠実であれば決して出ないであろう、あの独特な抑揚から繰り出される「こぶし」に注目される中で、地声に近くて、そして透き通る程に響く
あの低音こそが、一青窈のうたを奏でている。
「かざぐるま」に多用され、代表曲である「月天心」「アリガ十々」「大家」等にも使われている。
その低音は、ほんのちょっとしか使われていないのだが、低音を意識しながら聴いてみると、その素晴らしさに気づかされる。
抑揚を交えて高音域を発するよりも、むしろ意図的に低音を表現しているようで、だけど、その響き方にはオリジナル性があり、それこそが一青窈の
凄さの秘訣なのだろう。
あえて低音を出す技術力もさること、それが透き通る程に美しい。それを意識して出しているから、一青窈自身も認めているのだろう。

こぶしとも思える独特な抑揚に秘められた低音質な声が、一青窈の歌唱力を輝かせていると感じながら聴いてみると、
「あぁ、やっぱり一青窈は凄い歌手なんだ。」と、再認識してしまう。
影踏み、かざぐるま、と続く低音の素晴らしさに注目すると、一青窈の歌声の楽しみ方も新たな段階に進む事が出来る。
果たして一青窈のうたに、どれだけの低音の魅力があるのか、その部分を探すだけでも、楽しきかな。


158

アリガ十々 2005年10月18日 19:48:19

オブラートに包んだような解釈をされても、それはつまらない。
もっとストレートに感じた想いを表してこそ、一青窈も楽しきかな。
まして、アリガ十々は、初期の作品なのだから。
一青窈の言葉遊びが非常に少ない、感情の詰まった詩なのだから。
近頃の詩のような「言葉遊び」とするには、、、、
と、公式が、火を付けたから、、、、一青ファンはこう解釈する。

じゃぁ、いつものとおり、独断と偏見でいってみましょう。

アリガ十々は、一青窈の回顧録。
幼き日よりずっと変わらぬ姿として庭にある石を忍ぶ石と名付け、
両親の在りし日を偲び、
その後の自らの人生を偲び忍んできた出来事を振り返ったのだろう。
一青窈がそんな心境になったのが何時なのかは定かではないが、
この歌は、一青窈にしか歌えない
一青窈の心のうたです。


隠し事があるのです。
はーぁー ママの方が実のとこ
ちょびっとばかしと好きなのデス、が
デートするならパパとがいい
  (解釈)
  歌詞として考えた場合、その想いはもう届かぬ想いでしかない。
  なのに最初にあるのは、正しく回顧録の始まりである。
  「はーぁー」は、ため息なのか。

忍石が庭に三つ
なんとなく眺めていたら
変わらぬものがあるのに気づく
うたた寝るように傍に居て・・・・・いて。
  (解釈)
  忍石が自宅の庭に父が置いた石であることは姿見一青也でも紹介されている。
  忍石をも眺めて気づいたのだから、変わらぬものとは、本当は忍石ではない。
  「傍に・・・・・いて。」から読み取れるものは、、、。
  そして、「もの」が「物」でないことから、
  その変わらぬものとは、まるでうたた寝するかのように傍にいて欲しいものなのだ。
  それは両親であり、その両親を想う気持ちが変わらないものだと気づいたのだろう。
  庭を眺めながら、一青窈は、亡き父とデートしている気分なのだ。
  そして、忍ぶ石とは偲ぶ石のことだろう。

ふたりがもし出合わなきゃ
あたしは生まれなかったの
1千回も1万回も
アリガ十々アリガトウ。
  (解釈)
  両親あっての一青窈。
  それはもう語り尽くせない程の感謝を込めての1万回のアリガトウなのだろう。

ヴァイオリンのおけいこごと
はーぁー ほんとは嫌々だった。
いい子いい子をして欲しくって
嘘じゃないの、パパが好きよ。
  (解釈)
  ここは2番の回顧録。
  伝えられなかった想いを、庭に向かって語りかける一青窈の姿が浮かぶ。

さくさく歩く姿が
すがすがしいと思った春
1千回の1万回も
アリガ十々アリガトウ。
  (解釈)
  両親の姿を清々しく思ったと解釈するよりは、
  実は、実際にサクサクと歩いたのは、一青窈なのでは。
  全てに吹っ切れて、清々しさを感じた春の訪れであった。
  だから、1千回の1万回もアリガ十々アリガトウと言えるようになったのだ。

早くみんな気づいてまえ
はーぁー 水はみな頬を伝え
ちゃんと分かるの
「お姉ちゃんとどっち好き?」
返事なくとも・・・・パパ、だものね。
  (解釈)
  早くみんな気づいてしまえとは、アリガトウの大切さを伝えたい想いだろうが、
  実は自分自信に対しても、早く踏ん切りを付けろと問うていること。
  表面上は吹っ切れたつもりでも、そうやって何時までも泣いてばかりではダメだ。
  頬を伝う涙も、みんな流れて無くなってしまえ。
  もう涙が頬を伝っていくことが無いようにと願うほどの信念だろう。
  忍石を前にして、いくら亡き父に問い掛けても、その返事が無くても、
  2人娘の両方が同じくらい好きなのは、ちゃんと分かっている。
  それが父親なんだと、、、。

ふたりが恋をしたから
ふむふむ、ナルホド、だらけ
1千回も1万回も
アリガ十々アリガトウ。
  (解釈)
  両親が恋をしたのは、
  ふむふむ=わかった、わかった。
  ナルホド=その通り、もっともだ。
  だらけ=そのことがいっぱいの意、と言いたいところだが、
  実は、ふたりの出会いを知らない一青窈にとっては、疑問だらけの意。
  そして、アリガ十々は、両親に対する言い尽くせない感謝の想いです。
  この歌は、どんなに歌が上手い歌手でも、歌いこなせない。
  なぜなら、一青窈がそれほどまでの想いを込めた歌なのだから。


あくまで、私見です。
なんて公式に書いたら、ふむふむ、ナルホド、反論だらけ


157

透明な壁 2005年10月16日 16:36:46

見えない壁があるように、、、、一青窈とファンの間にも、目に見えない壁が存在する。
それは、どの歌手にもあり、近くて遠い、そして厚い壁。
どんなに応援しても、それはファンの声に過ぎず、近づかないから離れやすい。
あの歌が聴きたいと願っても、それに答えてくれるはずもなく、、、
コンサートでのアンコールが形骸化しても、本当のアンコールに応えてくれることは、もうない。
一青窈も一青窈として振る舞い、その歌声を表現し、それを観て聴いて、ファンとして喜ぶだけ。
歌手とは、近くて遠い存在なり。有名になればなるほど、一青窈の壁は大きくなってしまった。

歌いたいから歌うのではなくて、歌うために歌う。
良い歌が生まれるのではなくて、良い歌を創り出す。

一青窈の歌に求めていたものが、ある時から、音を立てて崩れてきた。
FCに入ったきっかけは、一青窈のうたが聴きたいと思ったから。
決して、一青窈らしい歌を聴きたい訳では無かった。
あくまでも、一青窈のうたが聴きたいと願ったから。

多くの観客を集めるコンサートツアーに、一青窈のうたが聞こえないことも想像しやすい。
ツアーにはツアーに合った歌い方があり、1つのコンサートでは、全体として100%を目指す歌い方がある。
まして、一曲一曲を全力で歌う事なんて、体力的にも不可能なこと。
ツアー構成の中でも、一青窈のうたは、おそらく聴くことは出来ないのだろう。
それでも、一青窈のコンサートに、見えないものへの期待を膨らませ、参加することにした。
そして、この見えない壁こそが、一青窈のファンの証なのかも知れない。


156

心歌 2005年10月15日 19:55:06

一青窈の代表作がもらい泣きとハナミズキであることが広く認知され、多くの人が知ることとなり、一青窈の代名詞となるが、しかし、、、
一青窈の歌唱力の凄さとも素晴らしさとも思える、その歌う姿がライブDVDとして残っても、それが本当の凄さでも素晴らしさでもないことは、残念な事である。
ヒット曲が生まれてファンが増えても、その歌の本当の良さを知る機会に恵まれないファンが増えると、一青窈は、もっともっと凄いんだと、再び言いたくもなる。

その姿が残される事もなく、ただ、、、コンサートDVDだけが物語っても、それよりも、もっともっと良い姿が、、、、まして、もうそれを超えることもない姿が、
それこそ一青窈のうたの神髄が、広く伝わり、そしてもう残らないからこそ、一青窈のファンである喜びを感じる時もある。
こうしてHPを更新する事が出来るのも、その姿を知ってしまったから。
コンサートツアーに、その姿を求めることも、それが叶わぬ願いと知りつつも、生歌から本当の歌を感じたくて、FCを続けているのかも知れない。

FNS歌謡祭2004でのもらい泣き、初登場ミュージックフェア21でのハナミズキ。
これこそが一青窈の歌の神髄なのだと確信するに至った。

言わずと知れたもらい泣きを、120%の力で歌ったその姿と表情に、歌手としての力を超えた想いが、真剣勝負のもらい泣きとして表現された。
パフォーマンスを超えた想いと、張り詰めた会場の雰囲気を力に加え、想いの強さを吐き出すかの如く、もらい泣きを熱唱した。
熱唱こそが一青窈を大きくさせ、プロの中のプロに相応しい、歌唱として最高なもらい泣きだった。
ただそれは、歌唱として最高な力を魅せたことで、想いの強さが負けていたが、歌手一青窈のもらい泣きとしては、最高ランクに位置するほど、
素晴らしいもらい泣きだった。
演技も魅せない力と力のもらい泣きにこそ、一青窈の凄さを感じた瞬間だった。

そして、ハナミズキと言えば、、、ミュージックフェア21での気持ち良い程の歌唱を忘れる事は出来ない。
よく声も出ていて、非常に楽しそうに歌いながら、ハナミズキの想いは、正確に表現されていた。
間奏での声もよく出ていて、正に絶好調な一青窈のハナミズキだった。
表情だけを見ても、心身共に充実していて、そして、ハナミズキの歌唱では、ちゃんと抑えるべき所は抑えて、しかし、歌詞に込めた本当の想いは、
その表情も、美しくも素晴らしく表現されていた。楽しそうに歌うことの喜びと、詩に対しての深い悲しみが、「見事!」と言うしかないくらい、素晴らしい。
演技なんか感じられない、自然と流れる仕草にこそ、一青窈が伝えたいと願ったハナミズキの想いこそが、その姿に溢れていた。
こんなハナミズキは、もう二度と観ることは出来ない。

そして、2006年、、、、一青窈は、コンサートでどんな姿を魅せてくれるのだろう。
歌に込めた想いは、その気持ちに素直でなくては伝えることも、伝わることも、難しい。
言わば、コンサートこそが、観客との真剣勝負の場であり、自らを再確認する場でもある。
歌うことが、ただ楽しいだけでは務まらない。時にはリスクとの戦いでもある。
それでもファンの1人としては、一青窈の「うた」を聴きたいと願っているし、信じている。


155

雅(みやび) 2005年10月14日 21:38:05

SWITCH 10月号を買っておきながら、やっと目を通す気になれた。
祇園でのライブが特別なことは分かるが、反面、必然でないこともわかる。
参加したいと思ったことも、今となっては、参加しなくて良かったと思えてならない。
一青窈のうたに惹かれた想いが、あんな形の中で崩れてしまわないで済んだ事が、ある意味、救われた思いとして残った。
華やいだ街で華やいだ一青窈。しかし、それが、歌手としての一青窈を大きくさせたと褒め称える記事に、「本当にそうなのか?」と、問い正したいと思った。
一青窈の魅力とな何なのかと突き詰めて考えると、「それが決して祇園ライブでないことに気が付いた。」なんて言ってしまうファン心理の裏に、
一青窈が、一青窈で無くなってしまう程のもろさを露呈したのではと思えてならない。
その言葉の奥底に、、、、いつまでも残るイメージが、もらい泣きやハナミズキであると信じるのか、信じさせるのか、、、、、、、、。
その答え探しが、一青窈ツアー2006 であることに間違いない。

祇園で伝えたかった想いが何なのか、それが一青窈の想いとして伝わったのか、、、いや、言葉を換えれば、一青窈は、今、何を伝えようとしているのか。
祇園での姿は写真でしかわからない。しかし、その写真も、バラエティに富んでいるだけ、、、、。
そして、変化が有りすぎることの弊害に、だれも気付かない。

一青窈は、どんな歌手を目指しているのか、、、、。
もしも、、、仮に、、、、一青紙に載せた「カレーのように飽きない・・」ことを意識しているのだとしたら、、、、、その間違いに、、、、、だれも気が付かない。
そして来年は、一青窈ツアー2006が始まる。そこで、いったい一青窈は、何を魅せてくれるのだろう。
歌手としての進化なのか、歌手としての凄さなのか、、、、、。
華やいだ世界に身を投じ、華やいだ情緒をも演出するようになった。
それが、雅の世界を意識した結果なのか。

一青窈に惹かれたのも、一青窈に惹かれるのも、そんな雅でないことなんだと、自分自身に言い聞かせている。


154

蛍子にみる一青窈 2005年10月01日 19:22:54

上村一夫の「蛍子」を買った。
最初の一青窈のコメントに、さすがは一青窈だ!と感心しつつ、
あの「大家」にある「肌と手 重ねても 心、背中合わせたまま で そんな時もあった。甘い夢だった。」が、実は「母」のことではないのかと考える。
「・・・母の最後は綺麗だった。」その死に直面して流した涙が、慕わしい想いを生んだのだろう。
蛍子の中に一青窈が求めるものが、この、狂気の漫画に潜む愛の形が、母を慕う一青窈をも惑わせてしまったのだろうか。

この漫画は、普通の感覚では理解出来ない。
最初から正に、狂気だった。しかし、読み続けるうちに、「昭和抒情歌50選」が、凄く染み込んでくる。
ちりばめられた言葉が、一青窈の心を揺するのも理解出来る。

だが、蛍子になりたいと書いた一青窈は、やはり普通の女性ではなかった。
それも、一青窈のリップサービスと思えば気が楽になるが、しかし、そうでない想いが、一青窈を狂気の世界へ誘う。

私は、一青窈が思う程に、蛍子を美しいとは思わなかった・・・と同時に、その裏に潜む一青窈の陰の深さを知ってしまったのか。


153

らしさ 2005年09月27日 21:35:38

一青窈の創り出す歌が、いいものなのか、と考えたら、その答えは「むらがある」なのだろう。
その最たるものが、7枚目のシングル「かざぐるま」である。

かざぐるまは、これまでの一青らしさを表したもので、この歌があるから一青窈のファンでいられるのかも知れない。
バラード系がウケるのは、癒しを求めるからだけでは無く、特に、一青窈に関しては自身を投影する事もあり、それが等身大となることもある。
しかし、かざぐるまはイメージソングに過ぎない。と、されている。
これまでの一青窈からすれば、自身の想いが含まれていないから、何処かしら他人の歌に感じることがある。
自らの人生を問うた「アルバム月天心」と比べると、正直なところ物足りなさは歪めない。
いつの頃から一青窈は自身を表現しなくなったのだろうか。いや、もう表現する事が出来なくなったのだろう。
そこから新たな一青窈の歌が生まれるのだろうか、それが一青窈らしさとどう結び付くのか、難しいこともある。
新曲が出る度に、一青窈の世界が広がるのだろうが、しかし、新たな試みに挑むことが果たして本当の一青窈らしさなのかと考えると、いい答えが無い。
歳を重ねると凄さも増すのだろうが、結局は26年間の集大成であるアルバム月天心が、一青窈の重石として残るだけなのかも知れない。

そして、ホチKissを発表した。
裏テーマとしてのカチューシャが、この歌からは見えない事を意識しながら、あくまで裏テーマに拘ったのが、歌詞としての完成度の無さを如実に表している。
伝えたい想いをハナミズキのように込めれば、別に説明されなくても感じる事ができるのだが、この歌い方からは、裏テーマとして言葉遊びをする意味も無い。
デビュー当時の意思の強さがあれば、この歌い方に反発したのだろうが、それも一青窈の変化なのだろう。
歌に対する拘りも、周りに影響されると、一青窈の歌も変化せざるを得ないとしても、あれほど嫌がった高音域の結果が、一青窈の歌として、あの「犬」にも
及ばないメッセージ性の無さとして残された。
楽しそうに歌うことが楽しい歌ではないことの難しさが、ある意味、示されたのかも知れない。

空蝉に至っては、一青窈オリジナルを出そうとしても、”勿体ない”の一言に尽きる。
切なさを表現するのに、これもまた一青窈らしさを消してしまったかのように、声質の良さを台無しにしたとしか思えない。
アレンジが、こんなにも歌のイメージを壊してしまうのか、と言うよりも、この歌こそ一青窈の歌唱力を発揮する事が出来る歌なのに、あえてそうしない。
だけど、この歌には、自身をイメージしているから、アルバム月天心に通じるものがある。
そして、一青窈は、そのオリジナルな低音の魅力をもって、いつの日か「空蝉」を歌うのだろう。
それがある意味、拘りを捨てた一青窈の始まりでもある。

シングル曲になんでもかんでも詰め込もうとすると、こんな風に仕上がるのだろうが、しかし、今回は、ギャップを楽しんでいるように思える。
しかし、一青窈らしさとは、「かざぐるま」なのか「ホチKiss」なのか「空蝉」なのかと尋ねられたら、一青窈ならどう答えるのだろう。
全てが一青窈らしさなどと答えたり、かざぐるまが一青窈らしいと答えたり、なんて答えは望んでいない。
一青窈なら、「らしさ・・・の評価を、自身ではしない。」のだろう。


152

かざぐるま 2005年09月24日 17:48:45

歌詞解釈を楽しむには、極端な独創性しかない。
例え一青窈が解説したとしても、あえて無視し、その気付かない深層心理を探りながら新たな解釈をする事が、実の所、一青窈の心を知ることに繋がる事もある。
映画を意識すれば、全く別の解釈となり、それが正当なのだろうが、かざぐるまには、どうも裏メッセージがあるような気がする。
それじゃ、例の如く、映画のイメージを完全に無視した独断と偏見で言ってみよう。
但し、解釈も言葉を隠している。

あれは十四、五の
ほのか照れ隠し
ふたりで歩こうと決めた川ではないけれど
いつのまにここに
いつのまによそに
水玉模様の僕は
両手をふり返す

    (解釈)
    牧文四郎は15歳の過去を想っている。思い起こせば、”ふく”との出会いは、照れ隠しだったのかもしれない。
    蛇にかまれたその指が、2人の始まりだったのだろう。
    それも、いつの間にかふくは江戸へ行き、いつのまにかよその人になってしまった。
    水玉模様とは、牧文史郎が流した涙の跡。ただ、手を振るしか無かった。
       
        (裏解釈)
        風車は子供のおもちゃなので、15歳の一青窈の恋愛感情を比喩していると考えると、
        淡い恋心の想い出なのかも知れない。幼き日の愛の誓いが、照れとして残ったことを想い出したのか。
        彼の存在は、ここに居たりよそに居たりして、つかめなかった。
        その事がまるで水玉模様のように薄く散ってしまったようで、そんな彼にふり返って欲しくて両手を振っている。

ただとおりすぎただけ
君がまわるため
どこ吹いた風でした
くるりかざぐるま

    (解釈)
    この時の風は、ふくに向かって吹いている。
    かざぐるまのように、綺麗な風が吹くことを願った。
    
        (裏解釈)
        一青窈の前を過ぎ去った彼は、いい想い出として消えてしまったように思えた。
        まるで、かざぐるまを回す風の如く、何処か遠くへ行ってしまったような気がした。
        しかし、淡い恋心は消えていない。

幸せだから、と
急にいい人に
いつか帰ろうと決めた町ではないけれど
いつのまにかわり
いつのまにふたり
幸せな夢の中で
きれいに泳げたの
   
    (解釈)
    ふくは幸せだと信じていた。だから、一歩身を引こうとした文四郎。
    ふくは、いつか戻ろうと考えていた。
    だけど、その想いも、幼き日の照れ隠しとして、いつの間にか変わり、いつのまにか2人だけになった。
    その想いの中では、なんの障害もなく美しい2人であった。
   
        (裏解釈)
        私の心の中を去った彼が再び現れた。
        しかも、幸せそうなふりをして。
        だけど、もう帰る場所がない。
        また以前のように、幸せな日々が始まるのではと、期待したのだが、、、
        それは夢物語に過ぎないから、その夢の中では、せめて綺麗に振る舞うしかなかった。

ただお目にかかるため
君がまわるため
どこ吹いた風でした
くるりかざぐるま

    (解釈)
    その想いが現実となりそうでも、ただ、ただ、逢うだけでよかった。
    ふくに、幸せの風が吹くことを願って、、、。
        
        (裏解釈)
        しかし、逢いたいと願っても、それは叶わぬ夢のようでした。
        ただ、それはどこからともなく吹いた風のようでした。

ただ遠くはなれても
君が笑うため
どこ吹いた風でした
くるりかざぐるま
待つことも恋でした
くるりかざぐるま

    (解釈)
    この時の君とは、2人のことだろう。
    お互いの幸せを願った。そして、どこからともなく吹く風を待ち続けていたのだろう。
    そして、風は吹いた。
 
        (裏解釈)
        たとえ遠く離れたてとしても、あなたの事を想っていました。
        決して、どこにも風は吹かないけれど、、、、。
        あなたが振り向いてくれるのを期待するだけでも、それが恋心でした。
        ずっと、ずっと待ち続けたのだけれど、、、、、。

君が沈むまで
僕と沈むまで
幸せな夢の中で
きれいに泳げたの

    (解釈)
    沈むとは、風が静まることだろうか。
    2人を取り囲みながら吹き続けた風も止むと、、、。
    だけど、、、、もう、今となっては、もう二度と帰ることも出来ない、あの想いでの川が、夢として残った。

        (裏解釈)
        沈むとは、想いの死を意味するのか。
        たとえあなたが居なくなっても、そして私が居なくなるまで、
        しかし、そっと想い続けることだけでも、ただそれだけで幸せでした。
        まるで幸せな夢を見続けているようでした。
        その夢の中では、いつも私は綺麗でした。あなたも綺麗でした。
 

        (もっと解釈)
        だが、しかし、このかざぐるまに隠された「君」とは、実は、誰にも知られまいとした隠し言葉で、
        亡き両親のことではないのか。歌詞を、両親に当てはめると、そう思えてならない。
        そして、いまでも父親に恋心を抱いているのでは。夢物語として、子供心のかざぐるまを選んだのでは、、、、。
        一青窈は、一生、亡き父と母を想いながら、両親への想いを背負いながら生きて行くしかないのか。
        こう解釈するのは、私だけ。だけど、そう思ったら、こんな”かざぐるま”が生まれた。
        映画のイメージソングは3年経てば映画すら忘れさられ、一青窈の「かざぐるま」だけが残る。
        その時に解釈すると、こうなるのだろう。
 
        こんな解釈に点数を付けるとしたら、30点以下なのは承知している。


151

こぶし 2005年09月24日 16:09:36

一青窈の声を「こぶし」と称するファンは、私だけだろう。
その一青窈が、自らの声を「こぶし」と言ったNEWS MAKER 10月号の記事が気になった。

一青らしさの源がバラードや情念の奥底にある”こぶし”である事を知っている限り、一青窈のうたが生まれる。
ただ聴いて心地良いだけや楽しいだけでは、一青窈が拘った一青窈にしか歌えない歌なんか生まれやしない。
この”こぶし”が健在なだけに、発売されたCDかざぐるまのこぶしが一青らしさであるかぎりに、、、、と。

しかし、一青窈の真骨頂である大家や月天心に比べると、そのこぶしは静かで、、、一青らしさとして適当なのかは疑問が残るのだが。
それでも一青窈自身は、かざぐるまのこぶしを意識したのに、演歌っぽいこぶしは意識しなかった。
演歌っぽいこぶしとは、渋谷AXとトップランナーで歌った大家のことだろう。
それこそが本来の一青窈のこぶしである。

演歌っぽいこぶしとポップスのこぶしを意識しているとすれば、いつの日か一青窈から、一青窈の凄さとも言える演歌っぽいこぶしが歌われるに違いない。
ただ、その時がいつ来るのか誰にもわからないし、もしかしたら、もう来ないのかも知れない。

かざぐるまが発売され、バラードが続く。そうなると次に一青窈が考える事は、再度、一青窈のイメージを壊すことにある。
歌がヒットすればその方向性を重視することを、知っていながらそうしない。
ある種の変化を望むのも、実は、それこそが一青窈らしさの一端なんだと言いたい気持ちも、それが”一青窈らしさ”なのだろう。

かざぐるまは一青窈らしくて良い歌ではあるが、しかし、一青窈独自の、誰にも真似できない程の「こぶし」を出すことは出来ない歌でもある。
すなわち、それは、大家や月天心を超えることは出来ないから。
なぜなら、一青窈が背負っている想いの違いなのだから。
そして、もうそれは、不可能に近いことなのかも知れない。

私は、一青窈のファンとして、一青窈にはいつまでも高いバードルを課し続けるだけしかないのか。


150

山下町公園 2005年09月23日 22:39:54

東京旅行の目的が珈琲時光の旅のカモフラージュとしても、この機を逃すと、もう東京へは一生行けないような気がした。
初めての東京の街に戸惑いながらも、目的地の中の1つ、横浜中華街の中にある「山下町公園」へ向かった。
なぜここを選んだのかは、一青窈が一青紙8号で紹介したから。
有名な山下公園ではなくて、山下町公園を選んだからには、何かしら理由があるからだろうと思ったから、
紹介されてるとおり、天長門をくぐり、紅花の真向かいにある公園に着いた。

その公園には、中央に大きな木があり、片側にブランコ、砂場、滑り台があるだけの小さな公園だった。
まるで近所の憩いの場のようで、三方は建物に囲まれていた。
一青窈が何処に住んでいるのか知らないが、ここを選んだからには何かがあるはずだと思い、注意深く見渡すが、
それらしいものは見つからなかった。しいてあげるとすれば、その公園は、中華街に溶け込んでいること。
いや、むしろ中華街の住宅に溶け込んでいること。

一青窈が、本当はどうしてこんな場所を知っているのか気になるが、デートスポットとして紹介するからには良い想い出の地に違いない。
中華料理が好きな一青窈が、デートスポットとして紹介する反面、もしかしたら、家族の想い出の場所なのではとも、、、、。

恋人同士が語り合うには相応しくなく、友達と遊び語らうには不自然に思えた。
しかし、何かを考える場としては、喧噪な中華街とは思えないくらい恵まれていた。
もしも、この場所で、あの名曲「月天心」や「ジャングルジム」がイメージされたとしたら、、、、ふと、そんな想いにさせる
まるでタイムスリップしそうな不思議な空間だった。

紅花で食べた”かに玉セット”が、胃にしみた。

その後、この山下町公園についてWEB検索したろこと、2000年06月に改修された事を知る。
となると、一青窈は、それ以前の山下町公園を知っているはずだ。
更に検索すると、昔は静かな公園だったらしい。
今よりも静かだったとは、、、、益々、興味が湧いてしまった。


149

プロ風 2005年09月18日 7:58:19

以前、一青窈が”プロらしくなった”と書いた事があるが、その事を確信するような記事が雑誌に載っていた。
「はいらんせ」で魅せた姿が、一青窈のプロとしての姿であった事が、プロとして成長すれば喜ばしいはずなのに、しかし、、、
プロとして演出をこなす事が、それが本来の一青窈の姿ではないはずだと思うだけに、少し寂しく感じた。

想いを伝える歌手が、演出を意識するだけになってしまわないのだろうか。

昔の方が良かったと思えるのは、今のような演出が感じられないから。むしろ、今の演出を意識する事が違和感として表れた。
歌い方を変化させるのが演出で、意識的であればあるほど、その歌い方が魅力的とは思わない。
一青窈の良さは、その難解な歌詞にストレートな気持ちを込めて表現しながら歌う姿であったのに、、、、伝える気持ちも純粋であったはずなのに、、、
歌い方に変化を付けて新たなジャンルを魅せようとするだけでは、聴く者に伝わる”赤い糸”は細くなるばかりで、それは一青窈本来のものではない。

「いつか、アルバム月天心みたいなものが出せたらいいな」と言った事が、違う形で実現したとしても、それは遠く及ばない。
一青窈が目指すスタイルを意識することが、実は、一青窈の迷いなのかもしれない。

一青窈を褒める人は多い。それは今の一青窈が素敵だと感じるからだろう。
空蝉がそうさせるのか、ホチKissがそうさせるのか、、、、
しかし、私は一青窈を褒めても、何かしら、、、、、まるで月天心のような”心のすきま”を感じてしまう。


148

名残うた 2005年09月13日 22:15:42

新曲を重ねると、コンサートで歌われるものが、おのずと限られてしまい、聴きたいと思った歌を聴くことが難しくなる。
あの歌を聴きたい、この歌を聴きたいと思っても、思い通りにならなくて、過去の名曲も、限られた時間の中で削られるのは仕方のないことなのかもしれない。
一青窈自身が歌いたいものと、ファンが聴きたいものの相違から、コンサートの質が問われることもある。
はたして、次のコンサートでは、どんな選曲になるのか楽しみではあるが、近頃の新曲を思うと、コンサートで歌われる歌と言うよりは、
一青窈のコンサート自体の雰囲気の変化を予想せずにはいられない。

コンサートこそが歌手の実力を発揮する場である限り、一青窈のコンサートも例外ではないはずなのに、一青窈だけは別だと信じている自分がいる。
そんな事を考えるのも、新曲「かざぐるま」にある2つの歌のせいだろうか。
今までも、良いうたと一緒に正反対な歌を発表してきたが、、、、、それが一青窈らしいと言ってしまえばそれまでなんだが、、、、そんな歌が
コンサートをどう色づけるのか、少し心配してしまう。

歌に対する思い入れが作詞家から離れていつか別な想いへと変化する中で、本来の想いが忘れ去られるどころか、最初から変わらないものがある。
それどころか、歌が想いに溢れすぎていて、、、、そんな歌は絶対に聴きたい。

それは、”てとしゃん”で歌わなかった歌であり、一青窈の代表作。
大家は勿論であるが、「ジャングルジム」も聴いて観たい。

ジャングルジムは姿見一青也でしか観ることが出来ないが、一青窈は、ジャングルジムについてTVで語ったことがある。
一青窈自身が10代後半の時期に、「だいじょうぶ。と、言って欲しい時期があった。」こと。

スタジオパークでハナミズキを歌う一青窈は嬉しそうだった。ただ・・・ただ、歌うことだけが嬉しそうだった。
楽しそうに装うだけがコンサートの歌ではない。
嬉しそうなことは、言葉をかえると伝えたい想いなのかもしれない。
伝えたい想いを込め喜びを感じながら嬉しそうに歌う一青窈が、本来の姿なのだろう。


147

臨場感 2005年09月12日 21:59:20

数ヶ月前に、ある人から、一青窈思考について指摘されたことがあった。
しかし、私の想いは変わらない。
一青窈思考の原点が渋谷AXである限り、その想いは変わることが出来ない。

一青窈が、あんなに汗して歌うことが再びあるのだろうか。
会場の皆が、あんなに嬉しそうな笑顔を振りまく雰囲気が、再び訪れる事があるのだろうか。

アーティストでもない。シンガーでもない。人間一青窈を表現するライブが、再びあるのだろうか。
何も飾ろうとしない一青窈の魅力が全て詰まった渋谷AXこそが、歌手一青窈の原点であり、この一青窈思考の原点でもある。

一青窈の眼力がライブ会場を一本の線にして、あんなにも光り輝いている一青窈を見ることはもう出来ないのか。
てとしゃんでも、しゅるりでも、多くのTV出演でも、渋谷AXには勝てない。
一青窈は、とびっきりの美人じゃないのに、すごく美人に見える。それが、決して外見だけじゃない。内面の美人性を感じる。

そんなパワーを発したのは、アルバム月天心があるからなのだ、と思うことは間違いではないと思う。

確かに、今の一青窈は昔とは違う。
だけど、歌手としてデビューした時の想いは忘れてはいないはずだ。
不安だらけなのに一生懸命を楽しんだ想いは残っているはずだ。
たった1人の声援にも感謝した想いは残っているはずだ。
アマチュア時代の精神は、プロになっても変わらないはずだ。
そんな想いが、今の一青窈を動かしているはずなんだ。

今の一青窈を応援することは容易い。
だけど、こんなファンで居ることは容易いことではない。


146

歌う喜び 2005年09月10日 19:43:21

最初で最後かも知れない一青窈のコンサートに行きたくて、仕事を休んでまでして参加したのは、「姿見一青也」の世界を感じたかったから。
しかし、てとしゃんの中には姿見一青也の一青窈は居なかったが、、、アーティストの一青窈が居て、それは今と違う一青窈でもあった。
歌うことが楽しいだけじゃない。歌う度に喜びを表現し、歌の持つ素晴らしさを素直に感じ取っている一青窈が居た。
歌に上手さは必要なく、伝える想いに溢れんばかりの喜びを放つ一青窈の美しい姿が、コンサートの醍醐味として凝縮されていた。

歌唱力のあるべき姿と、その魅了された空間に、一青窈は大きく羽ばたいていた。その姿見一青也は、遠い過去の想いとなった。

歌う喜びの原点とも言える渋谷AXが、歌手一青窈の始まりでもあり、その時に感じた想いは一生忘れることが出来ないはずなのに、
しかし、最近の一青窈は、変わってしまった。
歌い方の変化も、最初はあれほど嫌がったであろう「高いキー」での新曲を出し、一青窈独自の歌唱法を捨て去ったかのようである。
歌手の変化と共に、ファンも変化を余儀なくされた。その根底が歌手の進化であったとしても、伝える想いと歌う喜びは変わらないものだと信じていたのに。

沢山の想いも、数を重ねると薄れてしまい、、、そして、歌う喜びも、歌手としての仕事となってしまう。
固執することがかえって、一青窈への負担になる事が、、、、、いいことでは無いのかも知れないが、しかし、、、、固執しないで済ませるのは楽な方向でもある。
ファンとしての応援が、褒めて育てる精神だけで果たして良いのだろうかと考えるに、結局、その結果については無責任でもある。
誰だって褒められると嬉しいに決まっている。しかし、褒められっぱなしでは良くない。
ファンの反応も気になるし、その事で本来の自分を失うこともあるのに、言い放つだけのファンの立場は自由気ままである。
それでも、、、、歌手としては歌い続けなくてはならないようになる。
では、今の一青窈はどうなのか?
逆に、今の一青窈で本当に良いのだろうか?

数字が結果となる世界では厳しいのかも知れないが、、、、私は、今の一青窈を残念に思う。
歌唱力が自信となり、一青窈はアーティストになろうとしている。
自らの歌を聴かせようとするのが当然の如く、、、

一青窈から、歌う喜びが失せようとしているのか、それとも、楽しさの表現ばかりで、自身の内なる喜びを放てなくなったのか。
一青窈が次のコンサートで、歌う「喜び」としての想いを表現出来るのか注目したい。


145

一青窈 2005年09月06日 20:27:50

一青窈の歌は、一度聴いてしまうと強く心に残る。
大学で培った作詞力とアカペラが、今の一青窈を作っていると思われがちだが、その源は、ベールに包まれた幼少時代に遡る。
小学生の時に父を亡くし、高校生で母を亡くした。
失った想いをたぐり寄せ、それがまるで強がりのように歌う様が、他人と違う世界を創り出した。
だから、一青窈の歌は一青窈にしか歌えない。

多くを語ろうとしない想いを、歌詞に詰め込んだ。
ある者は涙し、ある者は共感する。
それでも一青窈は、歌い続けている。

失った想いの大きさを埋めるには、歌い続けるしかなかった。
だが、そんな想いに共感されることを潔しとしなかった。
その強がりを見せなくなった一青窈に、スケールの大きさを感じなくなった。
荒々しい程の情熱を秘めていた頃の一青窈が懐かしいく、キラキラ輝いていた。
それはもう過去のこと・・・・・・・・。


144

歌詞 2005年09月04日 9:16:16

影踏みが期待された程もヒットしない理由が、何となくわかるように思えた。
それは新曲を発表す時のPVの影響力を無視しているからだろう。
歌のイメージ戦略を忠実に実行してこそ、ヒットが生まれる。
なのに一青窈は、せっかくの影踏みPVを、活かしていない。

ライブでは、いつものような一青スタイルで、歌い方もハナミズキのままで、、、、
あんなに良い具合に仕上がった影踏みPVの、どこか物悲しくて懐かしい描写を、歌い方に取り入れていないから、郷愁を誘うことが出来ずに
ただ、普通の良い歌で終わろうとしている。
なにも煌びやかな衣装に包まれて歌うだけが歌手ではなく、歌に想いを込めてこそ、一青窈の、そして影踏みの良さが伝わるものなのに。
PVの衣装も使われることもなく、勿体ないことです。
もうすぐ「かざぐるま」が発売されるが、何処を切っても金太郎飴では、せっかくの歌詞が泣いてしまう。

一青窈が、影踏みPVの衣装のままで、PVと同じ雰囲気や表情をして歌えば、影踏みは、もっともっと広まっただろうに・・・。


143

言葉の壁 2005年09月03日 23:27:48

言葉で感情表現するように、歌でもその想いを表現し伝えることが出来る数少ない歌手のひとりとして一青窈の魅力を考えると、
ファンサイトで褒めるだけに終始するのに疑問を感じても、その想いを求める場がなくて、こんなHPを続けている。
そして、ファンの間で一青窈の評価が高まるにつけ、その結果が一枚岩となっても、本当にそうなのかと考えることが増えた。
ファン心理は「風」と同じで、あっちで吹いたり、こっちで吹いたり、時に大きな渦巻きとなる。
一緒に同じ方向に吹いていたら安心するし、違う風が吹いたら乱れる。
だが、その源には、同じ風が吹いている。

新曲をリリースする度に、歌手としての一青窈が確立されていくようで、、、、、その先に見えるものが、ただぼんやりと浮かんでは消えていく。
歌い方が同じと感じる以前に、一青窈のうたから初期の凄みが影を潜めると、まるで新曲がコピーマシン化のようで、ただ漠然と心配してしまう。
デビュー当時に一青窈自身が考えていた、例えば、「高いキーで歌うのは嫌だった」とか、「この歌はこうゆう風に歌いなさい」と言われることへの反発心が、、、
それこそが一青窈のオリジナル性の強みだったのに、「独特の世界観」を全面に出してきた姿からは、すこし離れてしまったのか。

28歳の一青窈が、29歳の、そして30歳となる中で、自分にまとわりつく欲と戦いならが、どんな歌を発表することが出来るのか、楽しみでもある。


142

それでも、大家 2005年09月02日 21:28:18

一青窈は、「はいらんせ」と「お堂イベント」で「大家」を歌った。
その時の出来がどれくらいなのか知る事もできないが、いずれDVD化されるだろうから楽しみに待つしかない。
最近の歌唱の変化から、私が期待する程ではないことが想像されるが、それがかえって、聴いてしまわなかったことに安心すらした。
大家PVを見返して、今の一青窈と結び付かない想いから、もはや大家は、一青窈のうたでは無くなったのかも知れない。
花逢娘での大家の雰囲気が、いまの大家であろうが、上手く歌うだけが大家でないと思うのは私だけだろうか。PVを観ればわかること。

いずれ一青窈は、コンサートツアーで大家を歌うのだろう。
あれほどエネルギーを要すると言ったのに、コンサートで大家を歌うのだろうが、それが望まれたことなのに、何かしら勿体ない気がしてならない。
年に一度のスペシャルライブでは、まともな大家は期待出来ない。
いや、むしろ大家に、初期の大家を望むことが無意味なことに気が付いた。

一青窈が、大家を歌うのにエネルギーを要すると考えている限り、本物の大家は歌えない。
大家は、力を入れて歌うものではないし、意識すればするほど失敗してしまう。
歌唱力を見せつけても、ただの凄さで終わってしまう。
力なんて必要ない。あの独特のこぶしと心で歌う大家が魅力であり、その歌う姿の一青窈こそが本物の大家になるのだ。


141

言葉 2005年08月30日 20:38:27

一青紙9夏号で、一青窈は、今まで続けていた自筆コメントを止めた。
その代わりに、無気質な文字を連ねた。しかも、狙いすぎるイラスト構成にSupervisorとしての過ちに気付かない。
なおかつ、その記した文字に、一青窈の狙いを正そうとしない、いや、出来なくなった一青堂の将来に、一抹の不安を感じた。

ファンに向けた会報に「あなた」と称してメッセージする手法が、そんな事を繰り返すと、いずれ、まともなファンは離れてしまう事に気付かない。
しかも、意識した戦略を悟られるようでは、、、そんな事も止められなくなったスタッフ、、、、まるで、末期のようです。

歌手として売れる中で、明らかに初心を忘れ、芸能人とファンの間の親密度を見せ掛けるだけの、とても危険な手法です。
そんな言葉を載せて、いったい何が言いたいのか。何がしたいのか。
もう、忠告しなければならないのに、誰も出来ない。
そんな言葉を、お堂BBSでも使うようになった。
その計算された言葉に惑わされるファンではない。
一青窈!いったいどうしたのだ!

私は、そんな一青窈の変化を考えながら、不満と恐れを感じた。
表現として悪いかも知れないが、もしかして一青窈は、歌手として売れて天狗になっていないのか。
言いたい事は沢山ある。だけど、一青窈。お願いだから目を覚ましておくれ。
その後のページをめくる気にもなれない。

なぜ、ぱーらー・ひとと ヒトトリビア のように素直になれないのだ!


140

初心忘るべからず 2005年08月28日 21:53:06

一青窈は、歌唱力は進歩した。顔つきも美しく見える。ヒット曲もある。そして、集客力のある歌手になった。
だがしかし、一青窈の魅力は、ちゃんと伝えられているのだろうか、、、、、いいや、ちゃんと伝えようとしているのだろうか。

私は、何かあると、姿見一青也を出しては渋谷AXの一青窈を観ている。
最近のテレビ出演を観ても、やっぱり渋谷AXに戻ってしまう。

コンサートから遠ざかってしまい一青窈を肌で感じなくなってから、一青窈を見る目が変わっていくのを意識するようになった。
そして、花逢娘から今日に至るまでの一青窈の言動や歌唱を考えると、一青窈が変わってしまったことが、「初心忘るぺからず」の言葉として残った。
あれほど参加したいと思ったコンサートですら、その内容を知るにつけ、「一青窈!どうしたんだ!」と言いたくもなる。
確かに、歌は上手い。感情表現も上手い。それがプロの証。だけど、それを上手く魅せるだけでは一流のプロとは言えない。
もしかして、そう魅せる事を意識しているのではと思えてしまう。

良い歌は聴きたいし、、、、それはファンの気持ち。だけど、良い歌を聴かせようとする歌は聴きたいとは思わない。
私が一青窈の魅力の全てが詰まっている姿見一青也の渋谷AXに固執するのが何故なのか、、、、その答えを一青窈ならわかるはずだ。


139

24時間のハナミズキ 2005年08月27日 20:08:17

一青窈は24時間テレビ愛は地球を救うで「ハナミズキ」を歌った。
亡くなった少女の想いを知らされて、涙が頬を伝いながら、その歌声は震えていた。しかし、その歌い方に、一青窈のプロ根性を見た。
今まで築き上げたハナミズキの歌い方を魅せようとしながらも、しかし、声を詰まらせ音を大きく外した瞬間に、見事なアレンジで乗り切った。
だけど、笑顔を魅せようとしながらも、その眼は泣いていた。
いつもの一青窈ではなかった。

あれが咄嗟のアレンジなのか、予定されたアレンジなのかの疑問は残るが、あの状況下では、咄嗟のアレンジだと信じたい。
なぜなら、予定のアレンジにしては、短すぎる。しかし、2ヶ所のアレンジは、うまく出来すぎている。
じゃぁ、予定された歌い方だったのか。そんなことはどうでもいい。

1番の「君と好きな人が・・・・」はまだしも、2番の「・・・続きますように」には、説明が付かない。
やはり、予定のアレンジだったのか、、、、。それでも、私は、咄嗟のアレンジだと信じたい。

あの状況下でまともに歌う事が出来ない事を誇りに思う。こんなハナミズキを観たのは、NHK青春メッセージ以来である。
飾らない歌い方が、一青窈の歌唱を素晴らしく大きく魅せた。
一青窈は、歌う事に集中していた。おそらく、今までに経験した事もない程の緊張感だったのだろう。
1年前の一青窈なら、歌い切ることが出来なかったのかも知れない。

ステージで仁王立ちするプロとして成長した一青窈の姿に熱いのもを感じた。
などと、こんな風に多くの一青窈ファンが感じたのかも知れない。

だがしかし、私は違う。
一青記2004の2004.04.03ミュージックフェア21にも書いたが、その時のハナミズキこそが、一青窈のハナミズキなのだろう。
24時間TVのビデオは、何度も観たいとは思わないが、2004.04.03ミュージックフェア21のハナミズキは、何度でも観たい。


138

「大きくて強くなるぞ! と心にちかった気がする。」 一青紙8 春号 2005年08月27日 11:32:44

もう直ぐ夏号が届くのだけれど、春号の記事が気になった。
この時期に遠い過去を想い出すことがどんな想いからなのか。。。
特に「強くなるぞ!」と心に誓う程の想いがどこから生まれたのか少し気になった。
今の一青窈ならいざ知らず、当時の、、、おそらく小学生の頃の一青窈の思考回路を考えると、無邪気な少女が誓いたくなる想いは、ひとつしかない。
遠い記憶の中から消すことの出来ない想い出(出来事)が一青窈を包んでいる。

大きくて強くなるぞ! その負けん気は、その時に生まれ培われてきたのだろう。その時の出来事とは。
そのことを、今もって心に溜めるから、一青窈の”うた”が生まれるのだろう。
一青窈から、”せき止めていた涙が還る”のは、いつの日になるのだろうか。


137

生きざま 2005年08月25日 21:53:22

一青窈は、ジャングルジムを歌わなくなった。それは歌う機会が無いだけでは無いような気がする。
名曲は愛をテーマとせずに人生を問い掛けている。その頂点が大家であり、2番目がジャングルジムである。

ハナミズキは受けがいいから外せない。もらい泣きは代表作。だけど、一青窈のうたの素晴らしさは、聴く者の人生を投影させるが如くの想いに満ちて、なおかつ、
考えさせられる歌詞に他ならない。それが幅広い年齢層の支持に繋がって、評価を高めている。
言葉の意味を理解しようとしても、その背景を知らなければ、その深みを享受できない。
一青窈が伝えたかった想いの深さを知ってこそ、その涙を共有できたと思える。それがファンの自己満足に過ぎない想いだとしても、感傷に過ぎないとしても、、、、。

♪ホントのことは誰も教えてくれやしない♪
この歌詞がお気に入りです。


136

ポップジャムもらい泣き 2005年08月25日 0:08:54

デビュー間もなくNHKポップジャムで歌われた「もらい泣き」を知っている一青窈ファンは、どれ程居るのだろうか。
もらい泣きの歌い方が変化する中で、新人賞での歌唱や、その後のコンサートでの歌唱、ましてや渋谷AXや池上本門寺での歌唱でも無いホップ感いっぱいのもらい泣き。
それこそが本来のもらい泣きなのだろう。
過去の一青窈がいないことはない。替え歌は別にして、むしろ、今のもらい泣きの一青窈こそが過去のもらい泣きの一青窈なのだろう。
実は、もらい泣きは楽しい歌なのだ。それは、リズム感からも伺え、誰もが抱いているもらい泣きのイメージは、一青窈自身が創り上げたイメージに過ぎない。
カウントダウンジャパンでのもらい泣きも、楽しそうだった。最近も、楽しそうだった。それはPVが物語っている通りで。
どんなに悲しそうな歌でも嬉しそうに歌う一青窈の気持ちは、歌うことに喜びを感じるからだろうか。

一青窈のイメージは一青窈が創りだし、変化させ、楽しませてくれる。
その時代の変化を、一青窈自身が先取りしようとして、なおかつ、そんなイメージをファンに植え付けようとしている。それに惑わされるファンもいる。
だから、過去の一青窈がもういなくなったという考えは正確ではないのだろう。
むしろ、一青窈は、過去の自分に近づこうとしているのだろう。そして渋谷AXに近づこうとしているのが一青窈の本心なのだろう。
それは、ただ単に、歌い方の問題ではない。あの時の空間を共有したい想いからだろう。
ただ、一青窈はそうなる事を望んではいない。試行錯誤しながら、今の自分に出来ることを試そうとしている。
ポップジャムの一青窈は何も飾らずに純粋だった。
だから、今の一青窈は、迷っているのだろう。


135

1人でもつまらなそうにしていると歌う気がなくなってしまう 2005年08月24日 21:33:43

この言葉の意味が理解できるまでに1年4ヶ月を要した。
この言葉は一青窈の内心を表現しているものだと考えてばかりいたが、しかし、その内心が二段構えになっているのに気が付かなかった。

1段目が、コンサートに来ている客を見ての想いから生まれた言葉で、普通に考えたら、そこまでで終わってしまう。
そんな悪い考えに終始する想いに、多くのファンが違和感すら感じる。
聞いてはならないような言葉に、そんなはずは無いと思いたくなる感情が、思考停止に陥った。
一青窈は単なるわがままなのかと、信じたくもない想いに直面してしまう。
それが2段目の思考に進むと、また違った想いが生まれた。

一青窈は、”自分の気持ちに対して嘆いている感情”を、そんな言葉にして表したのだろう。
こんなにも一生懸命なコンサートに於いて、これほどまでの想いを込めて伝えているのに、しかし、その想いが伝わらない。
ある1人の何気なくつまらなそうな態度を目の当たりにして、どうして私の想いが伝わらないのだろうかと、嘆いてしまった。
その嘆きの果てに、歌う気力さえ失せてしまう程だった。それが、歌う気がなくなる程の感情として、言葉に変換された。
即ち、一青窈は、歌う気が無くなってしまうのではなくて、歌う気がなくなる程も「落ち込んでしまった想い」を表現したかったのだろう。
歌う気が無くなってしまうのは結果であって、それまでのプロセスが説明されていないだけで、、、、、

「つまらなそうにしているのは、想いが伝わらない事への自分の努力の不甲斐なさに対してであって、伝えたい想いが表現出来ない自分に対する苛立ちでもある。」
即ち、「1人でもつまらなそうにしていると(私の歌い方、伝え方が間違っていたんじゃないのかと不安になる。だから、歌うのが怖くなり)歌う気がなくなってしまう。」

他人を批判するような一青窈ではないはず、、、、我ながら、、、、、、すこし正解に近づいたのだろうか。
だが、こう思われたのなら本望だろう。


134

HAPPY 2005年08月22日 21:18:12

一青窈のコメントが載せられた。
長くはないけれど、その想いは感じられる。
ちゃんと”です体”で書いているし、感謝の気持ちに溢れている。
飾らない文章ほど相手にしっかり届くもので、それは歌唱も同じ。
衣装に懲りずぎず、歌うことに集中してこそ、その想いは伝わるもの。
一青窈ガンバレ。

「はっぴ」と「HAPPY」をかけてるつもりでも、さらに、「ハッピーの居た庭で今日もあたしは誰かを想う。」を込めていると推測するのは私だけか・・・。


133

堂ダ!2 2005年08月21日 18:52:53

お堂イベントだからって、特別な催しをする必要もなかったのかも知れない。
むしろ、歌そのものに対して全力を傾けるだけでいいのかも知れない。
一青窈の凄さは、その独特の歌唱力に尽きるし、その歌声さえ聴けたのなら、益々ファンになる事でしょう。
それなら普通のコンサートと変わらないのではなく、たった1日のライブだから、それこそ倒れるくらいの力を注ぐほどの意気込みで突っ走れば
その結果が最高なライブを創り上げる。そんな事はいつもしているかも知れないが、しかし、一曲ごとの想いを語りながら、切々と物語るように歌えば
悲しいまでも嬉しい一青ワールドが生まれる。

私は、姿見一青也の渋谷AXこそが一青窈の素晴らしさの原点だと思っている。
楽しいだけではない。一青窈の想いが素直に伝わる空間こそが一青ワールド。
なにも青筋たてて歌うだけが全力じゃない。一青窈が、その想いを込めて素直に表現するだけでいい。
上手さを魅せるだけじゃない。
一青窈が、歌手としてデビューした時の想いをふり返りながら、歌うことの喜びを噛み締めながら、その想いを伝えてくれるだけでいい。
もし再び、お堂イベントが開催されるのなら、、、、、。
一青窈は歌手なのだから。


132

堂ダ!1 2005年08月21日 8:20:21

お堂イベントが終わった。
案内のハガキには、電話での問い合わせはダメで、不明な点はメールするようになっているのに、返事は来なかった。だから、応募も出来なかった。
もう二度とそんな事はしないで欲しい。なんて不満をHPに載せるのは私だけだ。
一青窈のコンサートを観ることが、こんなにも難しい状況では、はたして、次のツアーはどうなることやら。

どの様な事が行われたのかは、FC限定であるから、公開する訳にはいかない。
それは暗黙のルールであるから、なんて、私が言うのも変ですが、、、、。

もしも、次回お堂イベントが企画されるのなら、また今回のような少人数の参加イベントを願っている。
当選の喜びもさることながら、大人数のコンサートの弊害を味わいたく無いから。
おそらく、今回の参加者全員は、一青窈の魅力に大満足したことだろう。
それは何よりも、一青窈を間近で観られる喜びに勝るものは無いから。
ファン心理としたら、遠く離れた一青窈の姿では、その表情すら伺えない。
それは、残念な思いしか残らないのだから。
気持ちで歌う歌手の気持ちを酌み取るには、目線の範囲内でなければ。

だが待てよ、お堂イベントは本当に成功したのか?
開催までの不手際は問題外として、イベント自体はどうだったのか。
その答えは、一青窈自身の書込みに期待したい。
ありきたりのコメントでない事を願うばかりです。


131

はいらんせ 2005年08月17日 20:54:11

幾つかのサイトで、その内容を知る事ができる。
ある意味では変化を付けたコンサートの様子が伺えるが、ある意味に過ぎない。
一青窈のライブなのに、一青窈らしさが感じられない。
それが、他人の歌を多用することへの違和感から、一青窈自身の「拘り」は何処へ行ってしまったんだ、と思う程に、
さほど魅力的な内容で無かった事への変な安心感すら生まれてしまう程でした。
セットリストを見返しても、期待した程でもなく、聴きたいと思えるだけの強い気持ちが湧かない。
それが、一青窈が言っていた、「他人の作ったものは歌えない」の精神と相まって、オリジナルな選曲へのギャップしか見えてこない。
今の一青窈は、迷っているのだろう。

他人の歌にしても、ファン層とかけ離れているし、何よりも、狙い過ぎている。
その感覚の楽しみ方に、とても付いて行けない。

一青窈のオリジナル性は、、、、誰にも負けない歌への想い入れは、、、、、どうしたのだろうか。

せっかくのワンマンライブの良さが、他人の歌のオンパレードでは半減してしまう。加えて、衣装の失敗はどうにもならない。
もしも、今の一青窈に感動を受ける人がいたとしたら、それは大きな誤算なのでしょう。
観てもいない私がコメントするのは筋違いかも知れないが、公式をはじめとするあらゆるサイトを見ても、、、、
楽しかったに終始するコンサートの印象しかない。

音を楽しむから音楽だと称し、楽しむ事は良いことなんだとの意見の中で、「それ意外のものを求めるファンもいる」。
ラジオから流れる歌声を聴き、TVで観て、CDを買い、歌のイメージを膨らませて想いを抱いた者は、その姿を観て、どう思うのだろうか。
歌唱力のアップが凄いとは思えない。その歌唱力を全面に出す歌い方が凄いとは思わない。
私が聴きたいと願い、凄いと感じた「大家」は、もう無くなってしまったのか。

一青窈は、変わってしまった。それが、もう元には戻れない、にしても、、、、
良い意味で進化したのなら、なんて思えやしない。
CDの売り上げは正直で、それはもう心配すらしてしまう。

今回の「はいらんせ」は「花逢娘」と比べてどう評価されるのか。
上手くこなすコンサートに、魅力を感じない思いから、最初に一青窈を「凄い」と感じた想いへたどり着いた。その凄さへの想いは失いたくない。

多くの一青窈ファンが一青窈の全てに満足し癒されている。
恋が盲目であるよに、、、ファン心理もしかり。しかも、それがファンの証。
もはや、一青窈の「うた」は何処かへ飛び去ってしまったのだろうか。
そう思わずにはいられない。

一青窈は、拘りを持っていたのに、、、。「この歌は私でなくてもいいんじゃないか・・・・・・。」、・・・と。
演出に凝り固まったコンサートは、それは見栄えが良いかも知れないが、、、、何度も観たいと思わない。
それは、一青窈本来の、歌に対する気持ちの純粋さが感じられないから。
だから私は少数派。
だけど私は少数派。

一青窈が楽しんだら良いコンサート?
ファンが楽しんだら良いコンサート?
お堂からのハガキには、「この公演でしか聞けない楽曲も数多く用意しております!」と書かれている。
持ち歌が無い訳でも無いのに、、、、、
華やいだ街で華やいだ衣装で華やいだ一青窈。
それは普通の芸能人と同じ。でも、一青窈は普通とは違うはずだ。
外見じゃない!素朴な美しさと歌唱に対する純朴なまでの想いを素直に表現した”一青窈の美”の神髄は、もう見られないのだろうか。


130

翡翠色 2005年08月13日 20:51:45

一青窈グッズにして最強かつ最大の価値! それが、「ART BOOK ええいああ」。
それを開いて最初に目にするのは、一青窈の詩。
その中には、気になる言葉がある


   同じように今日
   が
   あなたにとって
   あっという間に過ぎてしまった
   翡翠色の時間
   と、なることを。


「翡翠色の時間」とは、いったいどうゆう意味なんだ!
翡翠色が色彩だけを指してい無いのは明らかなのだが、歌詞としての「翡翠」からは、翡翠色の想いが探りきれない。
”翡翠色の時間”を探るには、”翡翠物語”しかない。

翡翠物語は、別れの想いを、走馬燈のように表現しながら一青窈の感情を表現した詩。
その感情の昂ぶりが一瞬の時間軸で表現され、想いの深さに包まれている傷心風景。

この詩で一青窈は、悲しい想い出だけを振り返ったのではない。
嬉しくも悲しいキスをねだった、、、その一瞬の想いを詰め込んだ時と同じように、”ART BOOK ええいああ” を手にしたあなたに、
私(一青窈)の想いを共有して欲しいとねだった。

翡翠色の時間は、楽しかった想い出に浸りながら、しかし、同時に悲しい想い出でもあった。
一青窈は、ART BOOK を手にした”あなた”に、”元彼”を求めていたのかも知れない。
しかし私は、ART BOOK をめくりながら、翡翠色の時間を過ごした。姿見一青也と共に、、、。


129

過去の遺産 2005年08月13日 23:18:52

一青窈の姿をTVで観ることもままならず、ましてやライブなんて以ての外で、コンサートもコンビニみたいに気軽に入ることが出来なくなった。
単独ライブがプラチナチケット化する現象に憂慮する中で、一青窈の歌の変遷を想い出しながら、一青窈思考の原点に立ち返ってみた。
そんな時にネットサーフィンする中で、一青窈に似た歌手に出逢った。
それは、歌い方が一青窈にそっくりで、心の底から歌うシンガーソングライターだったが、しかし、軽薄に見えてしまった。
口先だけではダメだ。やはり、一青窈の歌こそが最高である。

そして、デビュー曲の「もらい泣き」を聴き、歌詞を読み返しながら、歌詞解釈を試みた幾つかのサイトを見ると、
いずれも、あるサイトを参考にした受け売りに過ぎないつまらないものだった。
あるサイトでは理路整然と解釈を試みている。それは一見説得力がありそうでも実は的はずれな事である。
私は、一青窈の歌詞解釈に論理性を求めない。あえて感受性をもって解釈している。
だから歌詞だけ読んでも、歌の意味はわからない。なのに、歌う姿を観ると、歌詞の意味がわかるような気がする。
それが、まるで自然体のようで、なんの違和感もないのが不思議なくらいです。
その、訳がわからないのが一青窈の魅力の1ページで、かつ、「過去の遺産」であることに気付くまでには、そんなに時間が掛からない。

一青窈は、一青窈の殻を壊そうとした。しかし、その結果は失敗だった。
それからハナミズキをリリースし、影踏みが生まれた。
そのいずれも、一青窈の心の内では、失敗だったのだろう。

歌手である限りには、ヒット曲を出したいと願うのは普通の事。
作曲家の武部氏すら、「もらい泣きは売れる」と思った邪心。
では、一青窈の本心はどうだったのか。

今では、売れるための歌創り、売れるための歌い方、、、、、、そんな事を意識しているように見えてしまう。
しかし、もらい泣きには、そんな雰囲気は無い。
ただ純粋に、この想いを歌に託したいと願った一青窈の姿があった。
周りを気にしないで、ひたむきに歌う姿の一青窈がいた。
その事が過去の遺産だとしても、上手く活かせたら良いこと。
しかし、技法に走ると悪いこと。

さて、一青窈は、どんな姿を魅せてくれるのだろうか。


128

反二面性 2005年08月05日 23:28:25

また同じ事を考えてしまった。
優しくて温かくて、純粋で、心美しい人。
そのイメージを覆す記事として、再び検索してしまった結果、、、
そんなイメージを抱く一方で、歌に対する姿勢と、一青窈の本心は、キャンのスペシャルインタビューで知ることが出来ることを再確認する。
歌手なのに売れて悔しいなんて事を公言する愚かさの果てに、その悔しいイメージを続ける儚さが、一青窈の苦悩として感じとれるうちに、
最近は強気な発言もなりを潜め、逆に自らが否定しようとした歌のイメージを意識する中で、何を求め伝えようとして作詞しているのだろうか。
歌詞としての言葉の鋭さが出ない中で優しいイメージを大切に創ろうとしているが、イメージを打破したつもりでも打破しきれていない。

ヒットした歌すら受け容れようとしないのに、創られたイメージを大切にし続けるのは、歌手として生きていく為には必要なのかも知れない。
それが、、、、結果としてイメージに振り回されているのは、一青窈自身なのかも知れない。
そして、そのイメージに翻弄されているのも、一青窈のファンなのかも知れない。

めくるめく混乱の世界へ
その時は自信と強気の一青窈から、優しさが溢れていた。
それが26年間の集大成として爆発してしまった。
時代の歌手が、いつかしら次代の歌手と思われ始めると、鋭さを失いつつある。
いつまでも時代の歌手でいて欲しいものだが、それを突き進めようとすると、諸刃の剣としての二面性が顔をだしてしまう。
最大の武器にして最後の弱点。それが一青窈の二面性である。
歌以外での姿を探ると、また別な姿が見えてくる。それが意外性でない事を知ると、なぜかしら興醒めした。


127

お堂イベント2005年08月05日 21:21:10

なぜ、この時期に、お堂イベントが開催されようとしているのか、本当の理由がわからない。
夏の想い出にしては、人数限定で、ファンクラブの為と称しても、これだけ落選者がでると、ファンクラブの為のイベントとしての意義が薄れてしまう。
少人数を相手にしてのライブをしようとの発想は良かったけれど、FC限定は大義名分と化している。

誰の為にするのかとの問いに答えが見えない。
何の為にするのかとの問いにも答えが見えない。
歌手としての表現なのか、、、、ただ、プラチナチケットを配布したに過ぎない結果で終わるのは否定出来ない。

限られた空間で、一青窈は何を試そうとしているのだろうか。
十分な席を用意していない中で、いったい何を伝えようとしているのか。

今後、今回の様なお堂イベントが開かれることは、、、まず無いだろう。
しかし、今回は、形として見られるだけの、ただそれだけの形として、成功のように思われて終わるのだろう。
だとしたら、再び考えねばならない。
このイベントは、いったい誰の為にするのか。

こんな不満も、ただ参加しないからだけではない。
今回のイベントについては不手際が多すぎるし、そんな事がもし繰り返されるようでは、二度とお堂イベントなんかに参加したいとは思わない。
だけど、もう今回限りで、お堂イベントは行われないだろう。だからこそ残念に思う。

少人数のコンサートをするのは、良いことでもある。
しかし、その良いことが、歌手としての価値を高める事を狙っているとしたら、、、、、その事が確信となりつつある中で、
その結果としてファンを増やしたとしても、しかし、その陰でほんの少しのファンが去っていく。
その繰り返しが、歌手一青窈を大きくする。それが歌手一青窈の仕事。
仕事に過ぎない。


126

人相笑顔 2005年08月04日 21:32:00

一青窈の顔は、見れば見るほど味がある。
ある時は厳しく、ある時は優しく、時に悲しい時もある。
八方美人的な時もあるが、基本的には頑固そうに見える。それは意志の強さの表れでもある。
いつも愛想を振りまきながら、作り笑いのような引きつった時の表情も、面白く感じる事もある。
TVに出た頃は、「ちゃんと歌えますように」と、こっちもハラハラドキドキしていたけれど、今はもう、余裕すら感じる。
そんなことが、ただ何となく寂しいと感じるようになった。

笑うことは良いことなんだけれど、笑い過ぎるのは良くない。
笑う行為は良いのだけれど、笑いに秘められた重い(思い)を感じてしまうと、考えさせられてしまう。

一青窈は、作詞のモチーフに「平和」を意識しようと心掛けているように思えてしまう。
だが、その事を実践しながら歌手活動に心掛けるのが、はたして良いことなのだろうか。

平和を願う事は、悲しみを受けとめる事でもある。
一青窈は、笑顔で平和を願う事をしない。だが、その笑顔の裏には、強い悲しみを秘めているように思える時がある。
だけど、笑ったり悲しんだりする表情を魅せながら歌う姿は、人相笑顔。
そんな変貌を意識して魅せながら歌う姿も、人相笑顔。
歌は見るもよし聴くもよし。そして一青窈の歌は、魅て聴いて考えてよし。


125

再びの黒髪 2005年08月03日 21:08:42

一青窈が茶髪から黒髪に戻した。
茶髪だろうが黒髪だろうが本人のしたいようにすればいいと放任したくもないのが、ここの管理人である一青窈ファンの気持ちです。
一青窈がしたいようにする度に「それはいい」と迎合しないのが、放任主義のファン心理から脱却した事を意識しているファン心理でもある。

茶髪よりも黒髪の方が似合ってるから、、、、なんて、ただそれだけの理由じゃなくて、一青窈が歌う姿や伝えたい想いをストレートに表現するには、
黒髪の方が説得力があるし、なんてったって、周りに流されない意思表示としても、黒髪の方がいい。
黒のイメージは「何色にも染まらない」。強い意志の表明でもあるし。

しかし、あれほど茶髪に拘った一青窈が、なぜ今更、「黒髪」に戻したのだろうか。

茶髪がファン心理を煽るのだとしたら、黒髪も同じ。
それもイメージ戦略だとしたら、ファンは良い迷惑。
確たる理由も明らかにせず、好きなようにすることを容認するのもまたファン心理。
だけど私は、一青窈にはずっと黒髪でいて欲しいと願っている。
そのことはもう何度も書いている。

今後、一青窈は茶髪にすることはしないだろう。
なぜなら、黒髪の方が良いのを知ってしまったから。
その真の理由が何なのかは、「手入れが面倒だから」なんて事が、案外、、本心だったりする。なんて事はカモフラージュで、
実は、意外と不評だったりして、、、、、。


124

人気 2005年07月30日 18:53:47

もはや、、、一青窈の人気は高く、そして遠い存在となった。
コンサートチケットは入手困難となり、ファンクラブ会員ですらコンサートに参加する事が出来ない。
生歌を聴きたいと願っても、ダフ屋が横行するようになり、普通の人には、益々、近寄りがたい人になってしまった。
僅かな小遣いを握りながら楽しみ勇んだ少年は、買い占められたチケットに手も足も出ない。
純粋に一青窈のコンサートを楽しみたいと願った若い芽が、理不尽な世界に悩まされている。
需要と供給に名を借りた、悪徳商売の犠牲者が居る中で、一青窈は、何を思うのか。
大阪てとしゃんのMCで、「ダフ屋がいた」事を楽しそうに話した事が想い出される。
そんな事で良いのか!一青窈!
京都でのコンサートしかり、お堂イベントしかり。
平等でなくてもいい。しかし、公平でなくてはならない。
今後も、転売目的の買い占めが横行するだろう。
そんなコンサートなんか、観客の中に、ダフ屋に荷担する者が多くいるようなコンサートなんか、
例え一青窈が心を込めたとしても、それでいいはずがない。

限られた人しか一青窈の生歌を聴くことが出来なくなった。
コンサートチケットが取得出来ないのなら、もう、一青窈の歌が聴けないのと同じだと思うファンがいる。

一青窈のCDだけ聴いて、ファンを続けることは難しい。それでも一青窈の歌が聴きたいと思う人がいる。
高まる人気が、一青窈をどう変えてしまうのか。
人気が高くなるにつけ、もはや応援する必要も無くなった。
でも、その人気も、いずれ落ちてしまう。
そうなった時に、一青窈は、どんな歌を発表するのだろうか。

売れる歌を意識するのか、作られた一青窈のイメージを意識し続けるのか、それとも、素直に伝えたい想いに帰るのか、
いずれにしても、変革を余儀なくされる。そうなるのなら、いっそ、引退した方がいい。
5年後の一青窈は、どんな歌手になっているのだろう。10年後はどうなっているのだろうか。

だからこそ、一青窈の「うた」が聴きたかった。


123

渋谷AX 2005年07月26日 21:46:14

辛い時や悲しい時には、一青窈の姿を想い出すことがある。
なんてこと無いのに、なんとなく観てしまう姿見一青也。その中でも、やっぱり、初の全国ツアーとなった、ええいああコンサート。
その中で一青窈は、、、、一生懸命に、そして、誠心誠意な気持ちを込めて歌っている。

いつも私は、一青窈に、渋谷AXの姿を求めていた。
歌への想いが溢れて、嬉しさいっぱいで、そして、その姿は誰にも真似できない。
歌手一青窈の素晴らしさに満ち溢れた最高の舞台が、全てのファンを魅了している。
こんなにも素敵な一青窈が、その姿を再び魅せてくれるのを期待しながらも、ずっと一青窈を聴いていた。

だけど、そんな想いが、時と共に薄れていく。
てとしゃん以来、生歌を聴きたいと願っても、その限られたチャンスですら、得られていない。
何のためにFCに入ったのか、その動機の浅はかさが、今の一青窈思考を創ってしまった。
それでも、一青窈の「うた」を聴きたいと思っては、その事が過去形となって変化しても、一青窈を思考しようとした。

ファンなら、一青窈を応援しなくてはならない。生歌が聴けなくても、一青窈を応援することは出来るのに。
応援出来なければ、その資格がない。どう思われようとも、FC会員である限りは、自然な結末。
例えどんな形であれ、、、だけど私は、本当に堂員なのかと、思考するようになってしまった。

渋谷AXこそが一青窈の原点であり、最高の舞台であった。一青窈自身も、その意義を感じているように見える。
そう思えば思うほどに、自問自答してしまう。


122

もらい泣き替え歌考 2005年07月18日 22:00:44

ap bank fes '05つま恋で、一青窈はまたしても替え歌をしてしまった。
つま恋公式HPでは、好意的に捉えているが、私は否定したい。
替え歌についての批判は何度も書いてきたが、もう詳しく説明する必要もない。
カラオケBOXや宴会じゃあるまいし、替え歌なんかすると、もらい泣きが軽々しい歌となってしまい、そんな歌を聴いたところで、もらい泣きなんかしない。
どうして替え歌にするのですか。もらい泣きは楽しい歌なのですか。持ち歌を替え歌にして、それでもプロですか。その場が楽しめればいいのですか。

それでは、ハナミズキも、影踏みも、替え歌にして歌って下さい。そんなことしたら、そんな歌なんか聴きたいと思いません。

サービスするのがプロ意識だとしたら、とんだ思い違いです。プロなら、歌に対しても真剣であるべきです。
それでも替え歌を続けるのが一青窈のポリシーなら、残念と言うべきか、、、むしろ、「止めてくれ」と言いたい。
こんなことは、思っていても、誰も言わない。そう思うことが少数派だとしても、魅力を半減させることは、とても残念なことです。


121

かざぐるま 2005年07月17日 10:13:53

まだ全容すら知られていないが、蝉しくれ公式HPで聴く一青窈のうたに、心惹かれるのはなぜだろう。
この唄を、映画を意識せずに聴くと、より一層の一青窈「会心の作」と思えてしまう。
影踏みよりも人々の心情に響くのは、一青窈のうたに相応しくて、まるで大家の第2弾のようとも思えるが 、
そしてファンの間では、大家に近いものとして紹介されるだろうが、むしろ私は、翡翠に近いものだと紹介したい。
翡翠を現代バージョンとすれば、かざぐるまは古き良き時代パージョンとなる。

一青窈が、そんな「うた」を創ったのは、映画を観て感じる想い以外に、どんな心情(心境)が込められているからだろうか。
本心として、どんな作詞を目指しているのか、、、、まだ確立されていなとしても、独特の世界観から生まれるその言葉が、聴く者の心情に伝わるのは、
最大の武器にして、最強なオリジナル言葉があるからだけではあるまい。時に、「あれっ?」と思わせながら、ここぞという時には、しっかりしたものを出してくる。
これだから一青窈のファンを止められない。

一青窈がファンを惹き付けるのは、その歌以上に、人としての雰囲気の良さなのだろうか。
良い歌を上手く歌う歌手はいくらでもいる。しかし、一青窈はそんな歌手よりも歌に対する姿勢が数段違う。
それがクルクル廻るかざぐるまの如く、広く認知されるのを望みながらも、反面、頂点を極めて衰退しない事を願っているファン心理がある。
かざくるまは良いうたなんだろうなぁ。それを歌う姿の一青窈は、もっといい人なんだろうなぁ。


120

拝啓  2005年07月17日 6:38:50

一青窈のファンでいられたのは、一青窈の歌が好きだから、、だけではない。
独特の抑揚や節回しが好きだから、、だけではない。
歌詞に込めた想いの強さを感じた、、、だけではない。
やはり、一生懸命に歌う姿に惹かれた、、、だけでもない。

奇しくもメールが返信すらされなかった、お堂イベントが、、、、
FC限定イベントって、何なんだ。
FC会員一部限定参加可能イベントって、いったい何なんだ。
参加できない立場で考えると、辛くなるだけ。

姿見一青也があったから。てとしゃんがあったから。そしてまだ見ぬ大家があったから、でも、、、。
結局、もうコンサートへ参加することも出来ない。

せめてあと2日、お堂のインフォメーションを知っていれば、、。
重要なことなのに、どうしてメールで返信してくれなかったのか、せめて「一青堂だより」にしてくれなかったのか、でも、今となってはもうどうでもいい。

誰よりも強く、一青窈の「うた」が聴きたかった、観たかったのに、それが叶わなかったのが、残念でならない。

大家を観たかった。最初で最後のチャンスなのに。
なのに今回は「大家」を封印して欲しいと思った。

限られた人達だけでお堂イベントが開催されようとしている。落選なら納得できたのに。


119

「1人でもつまらなそうにしていると歌う気がなくなってしまう」 2005年07月09日 22:02:58

一番難解にして最大の疑問。結局、最後はこれになってしまった。
お堂イベントに当選した者は喜び、そうでない者は悲しむだけ。
おそらく、歌あり、演奏あり、ダンスあり、ゲームありで、コラボレーションも、、、、限られた人達を交えての、楽しみな企画(演出)が期待されている。
そして参加者みんなが満足して終わるのだろう。

一青窈は、気持ちで歌う歌手。
でも、その気持ちって何なんだ。
3時間に及ぶ公演は魅力だけど、ハガキを出さない事を後悔しない。

今はもう、デビュー当初の気持ちは、歌う姿からは感じられない。
それが当たり前の事だとしても、プロなら、そんな演出にもチャレンジして欲しいと思ったが、無理なこと。
ファンとして期待したり願ったりするのが悲しい時もあり、思考の果てが、こんな形で終わるとは、予想もしなかった。

不参加とした不満を思うと、文春の記事が脳裏を過ぎった。
その事が最大のタブーとしても、真実に変わりない。だからもう、コンサートへ行くことはしない。
そして言葉は、その真意が伝わらなければ意味が無いし、表面だけを捉えて理解したつもりでも、それは大間違い。

だけど、
私には時間が無いのだから、そして、1人(自分)でもつまらなそうにしていると歌う(聴く)気がなくなってしまう。
(この文字から私の思いをどれだけ感じ取れるだろうか・・・・・・おそらく不可能だろう。)
その気持ちと同じくらいの一青窈思考も落ち込んでしまった。それでいいのかも知れない。


118

優しい眼 2005年07月05日 21:15:08

歌には、それぞれに歌い方があり、影踏みも例外ではない。
良い歌でも人それどれに感じ方も違うから、どれが一番だと決めつけるのは適切でもないかも知れないが、私は、うたばんでの影踏みが好きです。
一生懸命に歌ったミンナのテレビよりもいいと感じるのは、その優しさを感じたから。

うたばんでは、ゆったりと流れる中で、決して力が入ることもなく、まるで女神のような雰囲気をかもし出していました。
その眼差しは落ち着いていて、表情だけ見ると余裕たっぷりです。
一青窈が歌う姿に、安心すら思えるのはいつ以来だろうか。遠くをしっかり見据えた視線が、とても優しく見えます。
顔をしかめる事もなく、だけど、ちゃんと心を込めて歌っています。
一青窈は、こんな歌い方も出来るんだとアピールしているようです。

影踏みはそんな歌い方が似合う歌です。
ミンナのテレビみたいに必死に歌うと、厳しい顔つきだけが印象に残るだけで、これはもう、「気持ちで歌う」域を超えた演出となってしまって・・・・・。
その事が、少し残念に思います。

優しい眼・・・・・それは安らぎを与える大切なこと。


117

大家再思考 2005年06月27日 22:34:40

私は、この歌への想い入れが非常に強い。
まず、一青窈が中国語の題名を選んだ拘りからして、この歌に対する情熱とも情念とも言える自己主張ゆえに、聴く者としてもそれなりの覚悟を要する。
大家の日本語訳が「みんなみんな」であるらしいが、そんな意味をも吹っ飛ばす歌詞の連続攻撃に、驚かされる。では、順を追って「大家」を旅しよう。
イントロは、何故か懐かしさを漂わせながら、しかし異国情緒溢れる旋律にして、かつ、心躍らせるが如くに割と強く流れてくる。
抑揚に包まれた音調から、一気にサビの言葉へ向かう。そしてまず最初に、この歌の中で最も優れた言葉にして強烈なサビの部分が、一番最初の歌詞として歌われる。

「失って、始めてきずくこともあるけれど、もう もとには戻れない」
この歌(言葉)を聴いて、一体どれほどの人が心を打たれたのだろうか。殆どの人が「初めて」と思っていたのだろうが、「始めて」を伝えようとした。
幾難も経験し、その都度、大切なものを失いながら人は成長するもの。それがわかっていても、いざ失う事に直面すると、その時になって初めてその大切さを知って後悔しても遅い。
失ってから、ああすれば良かった、こうすれば良かったと思っても、過去には戻れない。そんな言葉を歌にして聞かされると、失った過去を想い出し、後悔の念に悩まされる。
しかし、失うことは、後悔の始まりではない。失うことを恐れるばかりでは、その先に進むことなんか出来やしない。失うことはあくまでも始まりのきっかけでもある。
失ってから新たな想いが始まるのだ。そんな前向きな想いを込めて、「始めて」が生まれる。だけど、前向きに始めてから、色々なことに気付くけれど、やっぱりもとには戻れない。
だからこそ、もとに戻れないから、失ってから始めることの大切さ、もう後悔なんかしない始まりを大切に歩んで行く必要がある。
その意味を知らされて、歌詞の奥深さを心に刻み込んだ。

「誰かに云われて パパ。に遇いたくはなる よみうりランド の 観覧車を覚えてる」
誰かに言われなくとも、亡くなってからも父には逢いたいと思っていた。父に連れられて行ったよみうりランド。
大人になってからも、どこかの遊園地で観覧車を見ると、よみうりランドの観覧車がフラッシュバックしてしまう。
幼くして失った父との想い出が少ない分だけ、残された貴重な想い出だからこそ、観覧車が懐かしい。

「故郷を出ようか so she tear 墓、通ってみよか」
日本を出ようか そして、台湾へ行って父の墓へ行ってみようか。
台湾人と日本人の血が、計り知れない想いとなってしまった。
2つの祖国でありながら、台湾への思い入れの強さが、大家の根底にある。失って始めても、しかし、失って初めて気付くこともある。
台湾を出ることも出来ない。まして、日本を出ることも出来ない。
でも、しかし、心の拠り所は、幼少の想い出の地であり、父が眠る地の台湾であろう。

「失って、始めて 大事なもの が わかっても もとには戻れない」
「なんてひどい人生 同じこと を くり返す 美しい人生」

失って始めてから大事なものがわかった。失いたくない大切なものだった。
だけど、もとには戻らない。
大事(大切)なものとは、形あるものに限らない。人の業は、取り返しの付かないことすら平気で行う。
そんな不幸がくり返されて今の時代がある。そして、その繰り返しから、人生の始まりが生まれ、またくり返されてきた。そのことが美しくさえあるのだろうか。
ひどい人生を経験すればするほど、人は美しい人生を願う。始まりがあるから美しい人生へ向かうのか。

「誰彼傷つけ幸せになったね、と 家族は空気に おとこらしい娘に」
「やり直せない、まさか 嘘で泣けない」

幸せの裏返しに不幸の土台が隠されていても、失ったことをいつまでも悔やんでも仕方がない。幸せを掴む為に、人を傷つけたのかも知れない。
家族を失い(空気)、自らも強く生き抜こうと決意した。女として生まれながらも、まるで男らしい女であった。そして、沢山のものを失って来た。
だけど後悔はしない。たとえ泣きたい時があったとしても、泣かなかった。だから嘘でも泣けない。
語り尽くせない沢山の想いがあった。強がりだったのかも知れない。

「みんなひとりぼっち 生き急いでみるのも 早く死ぬのも いい」
「心配しないで しないで」
「あたしはほら! 一人でもこうして生きてける」

みんなひとりぼっち それは究極的には人はみな独りぼっち。
肉親や親友が居ても、最後はみんなひとりぼっち。だから、自由に生きていくのも死んでいくのも、人それぞれだから、、、、
両親を亡くして、姉も出て行った。残されて、、、1人で生きて行かなくてはならない。
結局はみんな一人になってしまう。自分の人生だから、誰も傷つけずに生きてゆきたい。
好きなように、たとえ短い人生だとしても、有意義であればいい。お父さん、お母さん、お姉ちゃん、心配しなくてもいいです。私は私の人生を、精一杯生きてゆきます。
「みんな独りぼっち」と想うのは、孤独の証。人を信じる事は難しい事。そして自分が信じる道を進もうと決意した。それは、自らに課したクサビでもある。
一人で生きてゆくことがどんなに辛い道程だとしても、そうすることを心に誓った。

「肌と手 重ねても 心、背中合わせたまま で そんな時もあった。甘い夢だった。」
大切な人との信頼関係は、心も通じ合い、無防備な背中さえもさらすほど。またいつか、そんな時が来るのを願ったときもあったのか。
しかし、失った今となっては、夢物語でしかないのだろうか。

「失って、始めて気づく事 も あるけれど もう もとには戻れない」
「だいじょうぶ。 ダイジョウブ。大家」

ここは第二のサビ
だけど、独りぼっちだとしても何も心配する事はない。だってみんなみんなの大家だから。
がむしゃらに突き進んで、それがまるで生き急いでいるようでも、或いは、早く死んでしまう結果になったとしても、それはそれでいいじゃないか。
たった一度の人生だから、悔いのない最後を迎えられたらいい。私は後悔なんかしていない。

「あなたのため に こんなに、ほら・・・・泣く人、 が いる」
私は、大家を聴くと、こんなことを想うことがあった。
私の為に泣いてくれる人がいるのだろうか。嘘ではなくて、本当に泣いてくれる人がいるのだろうか。
渋谷AXで歌う姿は、泣き歌だった。
一青窈は、この大家を、最初は泣き歌として紹介した。
この歌に託した想いを噛み締めながら歌っているのに、込み上げる想いが表情となって泣いているいるように見える。
その表情を見ると、悲しくなってしまう。なのに一青窈は、大家を歌う中で、ほんの一瞬だけ笑顔を魅せた。
その一瞬の笑顔に、みんなみんなの大家の精神を知る。だけど、こんな能書きなんかはどうでも良いこと。今の私はただ純粋に、大家を聴いて涙したいだけだ。
お堂イベントが開催されようとしている。
恐らく、キャッチフレーズを意識した構成をもくろんでいるのだろう。
コンサートは、盛り上がれば楽しい。夏の夜の想い出として、一青窈のファンが一同に介して、楽しく弾けるのがいいと思っている人が大勢集まる。
ペンライトが降り注がれる中で、一青窈も嬉しいだろう。その反面、一青窈の「うた」が聴きたい人もいる。
一青窈が歌に込めた想いを語りながら、TVでも、てとしゃんでも、しゅるりでも、見せたことのない想いを抱きながら歌う姿を望んでいるファンもいる。
FC限定で、一青窈は、どんな姿を魅せてくれるのだろうか。
歌手として最初に望んだ「想いを伝える」ことが、ちゃんと出来るのだろうか。しかし、ハナミズキや影踏みがヒットして、一青窈は変わってしまった。
今はもう、ええいああ渋谷AXに戻ることも出来ない。失って始めて気づくこともあるけれど、もう もとには戻れない。
それでも、真っ暗なステージから、スポットライトに照らされて、歌に込めた純粋な想いを確かめるかのように、優しく丁寧な、そして力強い、本物の「大家」を聴きたい。
なんてことは、公式に書くことではない。


116

伝わる、るべく想い 2005年06月25日 18:26:33

一青窈思考に辛口が続くのは不満の表明からなのか、最近のTVを観てからなのか。
歌詞に込めた想いを伝えようとする一青窈の姿にこそ応援のし甲斐があるものなのだが。
それは影踏みを歌う姿に一青窈の”本来の姿”が映し出されていなかったからなのか。

歌がダメな訳ではないのに、たったあと3%の違いに過ぎないのが、些細な拘りとして惜しく感じる。

それは、一青窈のオーラが見えないから。
表情を崩してまでも歌う姿が一青窈の神髄なのに、ほんの少し使い方を誤ると、神髄ではなくなる。
それは、微笑みやパフォーマンスにも言えること。
今の一青窈に諸手を挙げて賛成しないのは、比較対象の姿見一青也があるから。

TVでの影踏みを観ても、一青窈自身の嬉しさが小さかった。
別に、嬉しさを示すのは笑顔に限らない。歌う姿で表現できるものだが、観客の居ないスタジオでカメラを前にしては、酷な注文でもあるのだけれど。

ミンナのテレビで、 ♪いないときも頑張れたことが 今になって 自信になって♪ と歌う・・・・。
この時の、「今になって」と歌った直後に、左手を胸に当てながら、右肩と頭を約10センチ後方に動かす約0.2秒の一瞬の仕草に、無意識の気持ちが込められている。
そんな事は誰も注目しないし思わないし感じないだろうけれど、その0.2秒の気合いがあったからこそ、この日の影踏みを歌う姿に込められた想いを感じることが出来た。
なのに、その笑顔がどんなに素晴らしくとも、笑顔が切り札であったとしても、その切り札を使わないことが切り札なこともある。

一青窈は、影踏みで何を伝えたいと願ったのだろうか。
リップサービスではない、新曲として発表した時でもない、今現在、ロングヒットの予感がする中で、一青窈は、何を願い伝えたいと考えているのだろうか。

夏だ!祭りだ!堂だ!
7月11日必着 確実に参加出来る人のみ!
当たり前の条件に、そんな事はわかっていたのだけれど、、、、必ず参加出来るって”約束”する事が出来ない。
だから、理解と協力の上、涙を呑んでしまうしかないのか。
今年は、コンサートへ行けないと思う・・・・・。来年のことなんかわからない。
夏の想い出が1つ減り、これでまた、一青窈(思考)から遠ざかってしまう。
いっぱい感動したかったけれど。大家を聴きたかったけれど。「てとしゃん」だけが、良い想い出として残ってしまった。
マイナス思考は嫌いだけれど、自分自身に言い聞かせるしかない。


115

君影想(草) 2005年06月24日 21:29:55

私は、一青窈という人間を、空恐ろしく感じた。と同時に、一青窈を批評することの浅はかさと無力感をも感じてしまう。
加えて、痛烈な自己嫌悪感に身震いするほどまでに包まれた。

一青窈は、君影想(草)について、「影踏み」のモチーフに「君影草」があったが「でもやっぱり幼年時代のおはなしを書きたくなった・・・」と・・・。
要するに、君影想のモチーフは幼年時代の想いが強く関係している。
一青窈は「君影草」ではなくて「君影想(草)」なのを伝えようとしたが、お堂へは、願うことしか理解されず、その真意は伝わらなかった。
むしろ、感じ取るだけの想いが足りない。
逆にそのことを残念に思ったのかもしれない。詳細はお堂の6月16日を参照されたい。

君影草の動機が、幼年時代なのだと考えると、即ち、体験談なのか?
その事を前提に詩の意味を考えると、僕=一青窈  君=亡父  を連想させられる。
それを詩に当てはめて読み返すと、君影想(草)の詩が、怖くて読めない。

一青窈は幸せなのか?
過ぎ去った”過去”だから、、、もう、もとには戻れないのに。
一青窈は、本当に幸せだったのか?・・・・・

考え過ぎでないことを願う。


PS 2005年06月25日 5:23:49
久しぶりに一杯飲んだから変な書込みをしてしまったのか。
だが、まてよ。あながち間違いではないような気がする。
幸せが戻ってくる気持ちを前提にしても、君=一青窈 僕=患者 或いは、 君=患者 僕=一青窈  更に、 君=僕=患者 などと考えても、
幸せって、、、、、
なぜだか、もらい泣きしそうな、そんな気持ちさえも感じてしまう。

空恐ろしいことが適切な表現かどうか、だが、一青窈が心に秘めた想いの深さとも傷とも思える詩が、そう思わせた。


114

仕草 2005年06月23日 22:47:36

歌う直前の緊張感を滲ませる一青窈の顔が、実は美しく見える。
誤解があってはいけないから、昨日の一青記のコメントの「声が、、、出ていない」も、本来あるべき姿ではないことの意。

昨日のビデオを見直しても、歌い始める直前までずっと左手を胸に当てていたし、歌の最中も、左手を強く胸に当てていた。そんな仕草が印象的でした。
歌の最中も、なんだか不安だらけのようで、だらか、歌い終わっての安堵の笑顔が生まれたのかも・・・・・・・。
だけど、影踏みを歌う最中での意識した笑顔は、、、、この歌には似合わない。

一青窈の癖は、歌う姿勢が前かがみになること。
それは緊張感からでもあるが、必死になる時によく出てしまう良い癖でもある。
そんな仕草さえも一青窈に期待するのが独特の世界観からだと思うにつけ、一青窈のうたが良い歌だと認知され広まるにつけ、一抹の不安を感じてしまう。
それは、一青窈が一青窈で有り続ける道しか見えなくなってしまうのではないのかも、、、、、と。

昨日の一青窈には、余裕が無いように見える。
手を抜くことをしないのは当たり前だけど、ほんの少しの、せめて3%の余裕があれば、影踏みは、もっともっと美しく歌えると思った。
そして、この時のビデオを再び見直して、一青窈の「いい顔」を探してみたら、意外にも、歌っていない時だったとは不思議でした。
@イントロでの一見無表情でありながらも緊張感に包まれた顔、
A間奏での無防備な「パァー、パーパーパー」の素顔、
Bそして最後に緊張から解き放たれた安堵の笑顔。
それらが、顔をしかめて歌うのよりも美しく見えた。

そんな表情からでも影踏みがロングヒットするのが嬉しいはずなのに、何故かしら一抹の不安を感じてしまった。


113

お堂イベント 2005年06月22日 0:18:28

深夜に一青窈を思考するのが癖になりだし、このHPの更新も、殆どが寝る前に済ませている。
この度、一青堂のイベントが開催されることになったが、実際に参加することが出来るのかどうか、微妙なところです。
そもそも、当選するのも未確定で、だけど、凄く参加したい気持ちがいっぱいです。

思い起こせば、一青窈を最後に見たのは「てとしゃん大阪」だから、もしも8月20日に観られたら、1年5ヶ月ぶりとなる。
その間に一青窈がどれほど進化したのか、肌で感じる一青窈の歌の素晴らしさを堪能出来る機会が、そっと訪れようとしている。
TV出演を観ては、いろいろと批評してきたが、実際の一青窈の力は、ライブで発揮されるものだから、、、、、
しかも、今回は、初の一青堂主催イベントだから、参加したい気持ちが強い。

そこで一青窈が、どんなパフォーマンスを魅せるのか注目したいところだが、私は、近頃のようなパフォーマンスは期待しない。
むしろ、一青窈のライブの原点でもある、”姿見一青也の世界”を望んでいる。
一青窈の人気が、「もらい泣き」から「ハナミズキ」によって広まったとしても、一青窈の歌の凄さを実感できるのは、
本気の一青窈による、「うたの世界」しかない。
何が本気にさせるのか、一青窈の本気とは何なのか、その答えを探すのは難しいのかも知れないが、沢山の堂員を前にして、
リラックスするのか、ガチガチに緊張するのか、どんな気持で想いを込めながら歌うのかにかかっている。

それは有る意味、プレッシャーとの戦いでもあるが、一青窈が歌手を続ける限り、避けては通れない道である。
一青窈のファンもいろいろで、特に私は極少数派。勝手にこんなHPを続けているのも、極少数派たる由縁。
その極少数派をも惹き付ける一青窈の魅力を、この目と耳で再確認したい。
イベントでは、どんな歌を歌うのだろうか。きゃーきゃー騒ぐのも楽しいのかも知れないが、「やっぱり一青窈は凄い!」と感じさせてくれるライブがいい。

注文ばかりで一番嫌なファンだろうけれど、一番熱心なファンなのかも知れない。
どうか、当選しますように、、、、と、願った花逢娘は落選したから、今度のイベントに願いはしない。


112

大家 大家 2005年06月19日 22:16:55

何度も書いているが、大家を知ったのは姿見一青也でした。
一青窈の歌の中でも、「大家」が一番のお気に入りです。
なぜ大家に惹かれるのか、正直なところ自分でもわかりません。ただ、その歌詞が等身大だから、恐ろしいくらいです。
歌う姿も切なくて、、、、だけど、以前、一青窈はNHKの番組で、「失って、始めて・・・・・」について、「初めて・・・」ではない事を説明してくれました。
だけど私は、この歌を聴くときは、「初めて・・・・」の気持ちのを強く感じてしまいます。

最近も、約1ヶ月間、毎日、何度も、大家ばかり聴いていたことがありました。
いくら聴いても、聴き足りることがないくらい、それこそ、藁にもすがる思いで必死に聴いていました。

姿見一青也の大家を観る度に、口ずさむ余裕もないくらい魅入ってしまう。
一青窈自身としても、気持ちを込めないと歌えないから、歌い方が真剣です。
ニコニコしながら歌うようなものではないから、会場も張り詰めている。
もしも、大家を、歌唱力をもって歌い上げると(花逢娘)、気持ちが伝わらない。
一青窈が、歌に込めた想いだけに集中してこそ、大家を聴いて涙するのです。
これこそ一青窈の最高傑作で、大家を超える唄は、もう二度と生まれる事は無いでしょう。

一青窈のファンには、それぞれが想い入れのあるお気に入りの歌があるでしょうが、私にとって、大家は、、、、、大家だけは、、、、、特別なんです。
今後のコンサートで、大家を歌うこともあるでしょうが、大家だけは、精一杯の力を込めて歌って欲しいと思います。
演出なんか必要ありません。力むこともなく一生懸命に伝えたい想いを込めて、素直な気持ちになって、渋谷AXでの歌い方を想い出して、歌って欲しいと思います。

一青窈の歌い方が優れているのはどこかと考えるに、コンサートなどで大勢を前にしても、まるで、10人位の目の前で歌っているかのような雰囲気を出す事です。
それが、まるで1人の為だけに歌っているかの様に思え、親近感となって、気が付けば引き寄せられてしまう。
アカペラで鍛えられた声質も、いわゆる活きた声で、他の歌手にない魅力です。
素敵な歌手を紹介する時によく使う言葉に、「言葉を紡ぐ人」があります。しかし、そう評するのはあまり好きではありません。
私は、一青窈は「言葉を奏でる人」と評したい。

あぁ、一度で良いから、この眼で、大家を歌う一青窈を観たいものです。


111

期待2 2005年06月14日 21:35:31

一青窈が他の歌手と決定的に違うのは何なのか、、、、
その答えが何なのか、やっと消化出来るほど理解するようになった。
それは、歌い方の違いなんだと、”当たり前”のことを再認識することで確信する。

毎年何人もの新人が誕生しては消えていく。
バラード系で売り出しても、ヒット曲に恵まれず去っていく。
シンガーソングライターも、例外では無い。
そんな歌手も、結局の所、歌に対する想いが”表現する事”になってしまっているから。
歌詞に込めた想いも、それを表現する事に終始すると、たとえ上手く歌ったとしても、所詮、表現しているに過ぎない。
歌として魅せる為の表現方法なら、それは当たり前過ぎて面白くない。
いいフレーズでも、歌い方次第で表現しようとするだけに聞こえるのは、「魂の叫び」がないからなのか、
伝えたい想いを歌に込める一青窈に、歌うことで”表現”する歌手がかなうはずがない。
歌として綺麗に表現されるのは、良いメロディの中で聞こえるだけで、、、、、

「かざぐるま」を少しだけ聴いて、少し「ほっ」とした。
一青窈!やれば出来るじゃないか!

「かざぐるま」の評価は影踏みよりも高い。
ハナミズキの後の影踏みがあればこそ、この「かざぐるま」の良さを知る。
歌い方が昔へ戻るのがいい場合もあり、まさにその時が来た。
一青窈独自の”こぶし”に近づいた感があるのは、そのメロディの素晴らしさからだろう。
映画を意識した作詞効果を差し引いても、その”こぶし”を感じたのは、率直に「あれっ!この歌いいね!」と思える程の懐かしさと、
もしこれを歌う姿を想像するならば、歌うことに集中している一青窈を思い浮かべたから。

一気にならなくてもいいから、徐々に、そしていつの日か、、、一青窈のうたが再び「一青窈自身の想い」から生まれるのを期待している。


110

期待 2005年06月12日 19:59:00

期待が大きい分だけ、言いたいことも増えてくるが、そんな気持ちにさせることも、ファンとしての本心の表れだと自分自身に言い聞かせている。
この秋に予定されているアルバムの準備も順調だろうと推測するが、「影踏み」や「かざぐるま」などが盛り込まれると、それなりのものに仕上がるだろう。
ただ、それらが一青窈なりの合格点に達した歌だろうと思えてしまうのが、少し残念に思う。
一青窈らしい歌である事は間違いないが、しかしそれは同時に、良い歌であるのだけれど、過去の自分(一青窈)を超えることが出来ていない。
一青窈自身の人生観が向上したから、もう過去の想い(=伝えたい想い)を表現することも無いだろうが、今の一青窈の想い(=伝えたい想い)が、
過去に比べて浅いのは、本当に仕方ないことなのだろうか。

もらい泣きでデビューし、強烈な印象を植え付け、大家で、熱心なファンの心を打ち抜いた。
金魚すくいで、イメージを変え、江戸ポルカで、ぶっ飛んでしまった。
そして、ハナミズキのロングヒットによって、一青窈は、歌い方さえも変えてしまった。
影踏みで回顧を試みたが、それらは、見方を変えれば進化しているのだが、反面、退化もしている。
それが一青窈自身の気持ちの変化なのか、それとも、今まで表に出なかっただけなのか、真実はわからない。

1年1度のアルバムが歌手としての大成なら、一青窈は、何を想っていたのだろうか。
10年20年経っても色あせない、聴く度に心揺する歌が、今後いくつ生まれるのだろうか。

アルバムが出ると、どうしてもファーストアルバムと比較してしまう。
いくら聴きやすい歌や懐かしく感じさせる歌を発表しても、それらがどんなにヒットしても、アルバム「月天心」を超えることは難しいだろう。
一青窈がデビューするまでのいろんな想いが「ぎゅっ」と詰まっているから、超えることは不可能に近い。

これからも発表されるであろう一青窈の歌が、アルバム月天心と比較され続ける運命だとしても、
いつの日か「これぞ一青窈」と言わしめるアルバムが出されることを期待したいのだけれど、しかし、それはやはり不可能だろう。
26年間の想いを超えることなんか出来やしない。出来るはずがない。
それ程までのアルバム「月天心」だからこそ、それを超えることを期待している。


109

コンサート思考 2005年06月10日 22:21:51

一青窈のコンサートへ行きたいのに行けないと考えていたのは遠い昔のように思う。
姿見一青也を見なければ、てとしゃんコンサートへ足を運ぶ事も無かった。
数々のTV録画も、「ええいああ」の前では、色あせてしまう。
一青窈が一青窈であるのは、初のツアーである「ええいああ」を語らずしてあり得ない。
いくらメジャーになったとしても、ライブの一青窈の魅力の原点は、”ええいああ”であることに間違いはない。と、言い切ってもいい。

これ程までに表情豊かな歌い手が、他に居るのだろうか。
歌に対する姿勢も、”歌うこと”の姿勢も、全力を傾ける姿も、観客を楽しませる仕草も、、、、全てに心のこもった超一級品で、
歌手本来の術である「聴かせる」ことの技法を超えた天性の力の持ち主たるや、その凄さに魅了された人々に包まれながら、力の限りに歌い続けている。
一青窈の歌に引き寄せられたのが当然の如く、その透き通る程に、かつ、優しくて力強い歌声に圧倒されながらも、何故かしら親しみを感じてしまうのは、
その目線の低さによるのだろう。
観客に近づこうとする腰の低さに加えて、まるで「自身の語部」のようで、その一青窈が発する一言一言を聞き漏らすまいとする嬉しさが、張り詰めた空間の中にあって、
とても、とても、心地良い。
緊張を和らげる為に「座る」ことで観客との距離を短くしている一青窈の歌う姿に共感せずに居られない。

歌にミラクルパワーがあるとすれば、その”夢”は叶ったのかも知れないが、渋谷AXでの一青窈こそが夢の伝道者なのでしょう。
ライブの醍醐味は、その一体感にあるけれど、一青窈には既存の一体感なんか必要ない。
自らの人生を歌に託しながら、伝えたい想いの大きさと深さに感激しながら、一青ワールドが生まれ育って来た。
ファンの期待もさることながら、一青窈は一青窈にしか出来ない歌に対する想いを伝えて来た。
その想いも華開いた今、一青窈を考えるに、どうしても姿見一青也に行き着いてしまう。
渋谷AXでの一青窈こそが、ライブの一青窈の魅力そのものなんでしょう。
決して洗練されていない、”伝えたい想いがいっぱいの一青窈”こそが、一青窈の魅力なんです。

しかし、一青窈は”カワイイ”。
カワイイにも色々あるが、このカワイイ歌姫を、色んな意味で応援するのが、一青窈思考です。


108

隠れた名曲 2005年06月05日 19:41:39

一青窈の歌には隠れた名曲がある。
あこるでぃおん ジャングルジム 心変わり アリガ十々 翡翠
いずれも初期の作品で、TVではもう歌われる事もない。
コンサートで聴く事が出来る一青窈の想いがぎゅうぎゅうに詰まっている心の歌です。

名曲たる所以は、その歌が静かで、かつ、叙情的だからです。

ハナミズキのように、、、「君と好きな人が百年続きますように」とか
もらい泣きのように、、、「もらい泣き、、、、」を続けたりして、
その強いメッセージを全面に押し出すような歌では無いのが、隠れた名曲なんです。

静かな曲調もさることながら、サビの部分の言葉が、決して強いメッセージでは無いことが、、、、
そして、そのサビは、一度聴いただけでは理解出来ないような言葉であるのが共通しています。
隠れた名曲のサビだけ聴くと理解が難しいけれど、その歌詞の全体を読み返すと、その歌の想いが感じ取れます。
即ち、感情表現と情景表現の強さの割合で、歌詞の重みを感じ取る事が出来ます。
聴き終わってから繰り返し歌詞を読むと、”じーっと考え込みたくなり”、そして、自然とその場の情景が浮かびます。
歌の生まれた背景の深さや人の絆を根底にしているから、一青窈が伝えたいと願った想いの大きさが、歌う姿と共に綺麗に表現されている。

一青窈の歌詞の不思議さは、その言葉だけにとらわれると、何を言わんとするのか分からないけれど、
前後の歌詞と繋ぎ合わせて考えると、言葉としての歌詞から情景や風景が浮かび上がってくることです。
一青窈は、「詞は負けたくなかった。」と思う強い信念をもってデビューしました。
その想いをストレートに表現するのは簡単だけど、そうしない所に、一青窈の凄さを知ることになります。

そう考えると、「影踏み」は、感情表現が強すぎるから、そして、そこそこ売れてるから、隠れた名曲とする訳にはいかない。
コンサートで、 もらい泣き や ハナミズキ を聴くよりは、 あこるでぃおん や アリガ十々 が聴きたいと思う。
眼を閉じて聴いても、一青窈の歌う姿が浮かぶような、、、、、そんな、隠れた名曲が再び生まれるのを期待している。

隠れた名曲は、たった数曲だけのコンサートで歌っても、活かされることはない。
次の全国ツアーコンサートでは、アリガ十々を聴いて、涙したい。もちろん”大家”も。


107

もらい泣き 2005年06月05日 10:15:38

もらい泣きが生まれたのは、段ボールに引き籠もった友達からのメールだと、一青窈は言った。
その事はファンの間では、”良く知れた事情”となっている。
TVでのインタビューでも言われた事なので、その事を知ったファンは、もらい泣き誕生の秘話として、何の躊躇も無く理解している。
一青窈が、この歌は、こんな事情から生まれました。と、言ったら、それをそのまま信じている。
それが全てだと信じる事は楽なのだけれど、一青窈が本当に思っている事とは、少しズレているように思えてならない。

ここには、”一青窈の原点”ともいえる「ART BOOK ええいああ」がある。
その中の「もらい泣き」のページに、一青窈の詩がある。



あなたがわたしを想う気持ち、は
スクリーン越しでも
ちゃんとちゃんと
伝わったのだから

今度はあたしのばんだ ね
                       〜ART BOOK ええいああ より〜


@
この詩を理解しようとすると、、、、、
スクリーン=TVと理解してしまうのは、、、、ちょっと、、、、
TVを通しても、ファンの気持ちを受け止める事が出来るから、今度は、私(一青窈)が伝えるよ。と理解するのは不自然です。
むしろ、スクリーン=携帯画面と理解すると、友達のメールの事だと信じ込まされる。
それでも、最後の、「今度はあたしの番だ ね」が、少し引っ掛かってしまう。


A
この詩が、ART BOOK ええいああ の、もらい泣きのページに載っていることを重点にして考えると、もらい泣きの深さに共鳴する。
即ち、引き籠もった友達から「段ボールの中から出られない、、、、」とのメールを受け取った時に、
その心の傷の深さに共鳴したから、一青窈は「もらい」泣きした。
それは、自らも引き籠もりたい程の状況だったのか、或いは、引き籠もった経験があるからこそ、その気持ちを知って、もらい泣きしたのだろう。
作詞は、きっかけに過ぎない。
だから、今度は、私があなたをもらい泣きさせてあげる。との意味が隠されているのでしょう。

”あなた”とは、その友達のことなのか、それとも、一青窈を取り囲むファンをも含むのか、、、、、、
「今度はあたしの番だ ね」に、一青窈が伝えたいと想い願う気持ちの表明だけじゃなくて、
自らも「泣きたい」「泣いてあげたい」との気持ちが込められているとしか思えない。
一青窈が現実に引き籠もった経験が無いにしても、精神的に引き籠もった事があるのだろう。
だから、もらい泣きを歌う時に、泣き姿となるのだろう。

ファンは、一青窈の為に泣くことができるのだろうか、、、、


106

♪猿もかまわず。♪ 2005年05月30日 23:05:41

素晴らしい風景を前にして感動したり、見事な絵画に驚嘆したり、映画に感動したり、音楽に感動したり、、、、、
日常の出来事に感動したり、、、、感動も増えると有りがたさも薄れてくるが、
感動したいと思った時に感動出来ないのが、、、、、、

一青窈のファンは、一青窈の何に感動するのか、ちゃんと説明できるのだろうか。
適確に説明なんか出来るはずもないが、、、、こんな事を書くのも、「一青窈が嫌い!」と思っている人に出会ったから。

曰く、「歌い方が気に入らない!」

不思議なもので、その歌い方が素晴らしいと感じているのだが、人によって捉え方が違ってくる。
ロック好き、演歌好き、ジャズ好き、クラッシック好き、等々、色々あるから、嫌いなジャンルがあっても当然なこと。
だけど説得力をもってしても説明できないものが、感動の本質なんだろう。

どんな歌手のファンでも、それが一番最高だと思っているのは、ファンの証なのかもしれない。
盲目的なこともファンの証なのかもしれない。

てとしゃんコンサートは、感動した。
だって、良いものは良い。その、気持ちを込めたライブが、待ち遠しいのだが、しかし、次のコンサートでは、もしかしたら、
一青窈が変身するかも知れない。
こだわりを捨てた一青窈が魅せる姿に、戸惑うのかも知れないが、しかし、猿もかまわず。


105

苦悩 2005年05月29日 19:49:05

サンスポ.comのインタビュー記事を見て、一青窈は、いろんな意味で変わってしまった、と思った。

「わぁい。秋だぁー」

弱音を吐きつつも、インタビューに対して、リップサービスをするようになるし、影踏みに競馬のイメージなんか感じられない。
一青窈の良さでもあり武器でもある個性的な「声質」までも変えようとするならば、もはや、一青窈では無くなる。
まさか、そんな事はしないだろうが。

そんな気持ちでは、「アルバム月天心」を超えることなんて出来やしない。

どんなに良い歌でも、気持ちを込めて歌わなければ伝わらない。
ハナミズキにしても、影踏みにしても、歌い方によって、全く別の歌になってしまう。
アルバム月天心が素晴らしいのは、一青窈の想いがぎゅうぎゅうに詰まっているからで、一青窈の世界が前面ではない。
自らが伝えたいと思ったことを、ストレートに表現すればいいんだ。
変に意識したり構えたり、しかし、その結果が影踏みだとしても、良い歌が一青窈を創る。

一青窈が、「歌手の一青窈」を演じていると意識する必要もない。
意識しないのも意味がないが、強気の一青窈が一番楽しい。
肩に力が入り過ぎているのか、それも一青窈らしいと思えるのが変なんでしょう。


104

資質 2005年05月25日 22:08:21

一青窈を癒し系とか泣かせ系と形容するのが良いのか悪いのか、、、、難しいところでもある。
ヒットしたうたの雰囲気が当てはまったとしても、本当はどうなのかと尋ねられたら、正解とするにはいかない。
確かに、歌う姿を観れば、静かな雰囲気をかもし出しているが、時に一青窈自身が、あえてその雰囲気を否定するのが、よくわからない。
考え抜いた末に発表した影踏みの雰囲気や、ハナミズキの雰囲気や、もらい泣きの雰囲気などは、
聴く者を和ませるのを意識しているバズなのに、それ以外の場所では、自らに染み着いたイメージを払拭したがっている。
ライブでの「犬」なども、弾ける姿としては、癒し系の延長でしかない。やはり、本質は癒し系に傾いている。

固まったイメージに対して、こんな一青窈や、あんな一青窈や、そんな一青窈を、知って欲しがっているのか、、、
或いは、一青窈は、自由奔放を演じているのだろうか、、、、

歌詞創りの現場に於いてのプロセスの詳細を知る事が出来ないが、作詞に没頭する一青窈の姿こそが、一青窈の本質なんだろう。
1人部屋にこもり、歌詞のイメージを創る姿こそが、他人に見せない一青窈の本当の姿なんだろう。
歌は、その表現方法の一部に過ぎないし、意図的に創られる要素が強い。
特に、一青窈が一青窈を創り上げることを意識する限り、その癒し系とも泣かせ系とも言われる姿を意識し続けなければならない。

それは楽しい事かも知れないが、、、辛い事でもあるからだろうか。


103

聴きたい 2005年05月23日 21:55:58

生で聴きたい、、、と思ったからコンサートへ行った。その姿を目の当たりにして、益々、ファンになった。
一青窈の歌声に感動しながらも、あの若さで、なんて凄い人なんだろうと思った。
そう想わせる事も、あやふやになろうとしているのか。

一青窈の基本は、月天心路線だと思い続けているのは、
コンサートで、たとえ色んな変化を魅せたとしても、それはギャップに過ぎないと信じているから、
楽しむ形があったとしても、それを求めるのがファンなのか、、、、、支持するだけがファンなのか、、、、、
変化を受け容れるのは容易いが、受け容れないのも容易いこと。去るもしかり。
飽きさせないようにと不安がるのは、実は楽しむだけがコンサートではないと悩み始めた反動なのか、
いつの日か一青窈が、コンサートで本気で泣いたのなら、その悩みも解消するでしょう。
(何を言わんとしているのか・・・・・・・その答えは、『歌うのは何故?』と聞かれると、答は、泣きたいから、、。です。)

久しぶりに難解です。だって、一青窈「思考」だから、、、、


102

蝋燭 2005年05月21日 23:45:47

歌う一青窈の本当の姿なんて誰も知らない。
何を想い、慕い、求めているのか、誰も知らない。
いつか、時が来ても、誰も助けてくれない。

一青窈思考が続く本当のことなんて、風のように流れなくても、誰も知らない。それでいい。


101

いないばぁ 2005年05月21日 12:09:51

一青窈思考の全てを読み返して見た。
気が付けば薄い本にすれば良い程の量になっていた。
ここは有る意味、公式に書けない想いの吐き出し口で、一個人の意見に過ぎないことを承知してもらいたい。
しかし、いろいろ書いていて、自分でも滑稽に思えることがある。熱い時があった、、、。
一度、整理しておきたいが、そんな暇もないから、、、、、。

公式の過去ログが復活しないのは、残念に思うが、しかし、個人的には良かったとも思う。
ただ、一青窈自身の書込みさえも見られなくなり、復旧させない管理体制は疑問だが、、、、
公式への書込も、いずれまた「残されない」のなら、それもまたBBSの宿命として割り切るしかない。
でも、せめて、公式サイトなのだから、ちゃんと管理して欲しいものです。
まっ、、そんな事はどうでもいい、、、かも。

それよりも、「影踏み」はいい。「うれしいこと。」もいい。という意見は聞くが、「いないばあ」が最高!って意見は皆無です。
せっかくのシングルなのに、みんな冷たいから、ここは一青窈思考の一青ファンの出番でしょうか?

じゃぁ、例の如く、独断と偏見でいってみましょう。

「いないばぁ」(解釈)
足りない 足りない とは、あなたの気持ちなのか
ジェットコースターに乗る時の恋人同士のドキドキして楽しい気持ちが感じられない。
その楽しさは、まるで母が、寝る前に聞かせてくれた「お話」と同じ楽しさなのに、、、。
そんな楽しさが、あなたと居る時には、足りない・・・・足りないなぁ・・・。

チャチャ=アニメのキャラクターグッズのこと?
いつも待ち合わせていた、つくし野の改札(町田市つくし野)で?

私の想いは、砂のお城を創り上げるくらい真剣なのに、あなたは、その砂浜の波のように崩してしまいました。
壊れた私の気持ちをちゃかす、あなた、、、、、それでも私は、あなたを嫌いになりたい、と、想うけれど、、、、。


足りない 足りない 私があなたに体を寄せるわざとらしい仕草に、気持ちが足りない。
楽しそうに笑うあなたに合わせて笑う私。
でも、足りないな。なんか無いなぁ。
雨降りの水族館で、いくら喧嘩しても、仲直り出来ていた時があった。
そんな想い出を顧みることができた、楽しい出来事でした。
それでも私が、あなたを好きで好きで、、、、と、想うことが、「嫌」になりました。

ほんとうのことが言えなくて、、、好きで好きで大好きなのに、、、、ずっと言えなくて1年が経ちました。
「すごく好き」で、大好きな気持ちを告白した時には、もう、あなたの気持ち(=彼の大きかった手)を逃がした後でした。

そんな私の気持ちを、彼は、茶化します。
それが、辛い、辛い。
私も茶化し返すけれど、それでも大好きな彼を、嫌いになりたいのに嫌いになれない。
好きだった私の「彼」=もういません=いないいない=いないばぁ
そんなにも茶化されると、わたしは、「いないいないばぁ」したい!


この歌に込めた想いは、影踏みなんかよりストレートで、切ない。
「茶化す」の言葉に隠して、辛く悲しい気持ちを代弁しているようです。
曲調も暗くて重いです。


もしかしたら一青窈は、この歌に、「今の気持ち」を込めたのかも知れません。
などと想像させるとは、流石です。
でも、そんな普通の解釈しか思い浮かばない、、、実はもっと深い意味が隠されているのを感じさせないのが、、、足りないな ないない、、、、。

それは、いかんせん曲調が、、、、聴きたい、聴き続けたい、、、、と、思わせる感じが、乏しいからです。・・・残念!。 


100

 2005年05月14日 21:58:48

デビュー当時の一青窈を知らないのに、残された映像やネット上の記事を見て、「あぁ、昔の一青窈はいいなぁ。」
と思う感情を考えると、歌唱力の進歩や洗練された顔つきが影響していないのが残念に思う。
TVでの露出が増えると、親近感も増す反面、歌手一青窈を見るファンの目が、
少なからずも麻痺しているのに気付く第三者的立場の冷めたもう1人の自分がいる。

一青窈の歌が、恋愛だけをモチーフにしたり、他人からの影響に左右されるだけになると、
一青窈自身が言っていた「いつかこのアルバムを超えるものが出せたらいいな。」が、益々、難しくなってくる。
今よりも一歩、常に真価を問われ続けながら、全力を傾けているつもりでも、何処かで守りに走りそうで、
そんな不安を振り払うかの如く、時に、「あれっ?」っと思わせるものを発表してきたが、
それでも飽きることなく惹き付けられるのは一青窈の魅力とは別の不思議さにあるのだろう。

自身の作詞に拘りながらファンの心を掴みつつ、その積み重ねの中から一青窈が認知された。
歌う度に違うその姿に、ハラハラドキドキする楽しみもあるが、根幹の声質よりも、その独特の「こぶし」が薄れてきたのが寂しくも感じる。

昔が良かったと思う感情にも近い感覚は、コンサートでの一青窈とTVでの一青窈とラジオでの一青窈と雑誌での一青窈を知るにつけ、
私自身の身勝手な幻想が根底にあると意識するようになる。
ある種の不安感がそうさせるのかも知れないが、そんな事を感じるようになったのが、皮肉にも1年2ヶ月ぶりのシングルだった。(花逢娘かも知れない)

歌手としてよりは歌い手としての進歩に、たった1人のファンが注文を付けるとすれば、「独特なこぶし」である。
私が「大家」の「独特なこぶし」を絶賛しているのはこぶし本来の意味である=独特な節回し、だけではないからである。
抑揚としてのこぶしが影を潜めるようになると自然と歌詞(言葉)にも「こぶし」が出てこない。
昔の一青窈の歌には、歌い方だけの「こぶし」に加えて、言葉としての「こぶし」があった。
それが一青窈独自の「鋭さ」でもあり「感性」でもあった。
歌詞に込めた自らの想いを伝えたい気持ちが、その「こぶし」に含まれていたから、一青窈のファンになってしまったと言い切ってもいい。

難解な言葉を駆使せずに易しい言葉で作詞するのがはたして良いのか悪いのか、一青語と言わしめた擬音を封印するのとは別に考える必要があるのかも知れない。
万人に支持されようと意識すればヒットするのかも知れないが、一青窈の良さは、一青窈独自の「こぶし」にあると信じてきたからには、ただただ、
人々を感動させたり和ませたりするだけの言葉の集まりに終始することなく、昔のように、「アルバム月天心」のような鋭い感性がぎゅうぎゅうに詰まっている
一青窈の「うた」を待ち望んでいる。

泣きたくなる程に嬉しい言葉もいいけれど、泣きたい程に考えさせられ、聴く度に心に突き刺さる言葉がもっといい。
「大家」「月天心」「アリガ十々」「翡翠」「あこるでぃおん」「ジャングルジム」には、一青窈オリジナルの「こぶし」が、ぎゅうぎゅうに詰まっている。


099

一青ファン 2005年05月12日 21:58:32

TV出演も一段落すると昔の映像が懐かしくなり、PCに保存してあるライブラリを楽しんでいる。
2003年は一青窈にとってもらい泣きの1年だった。数々の賞に輝きながら充実の1年を過ごしている。
その中からは、やはりFNS歌謡祭2003が注目される。
ハナミズキや影踏みがヒットしても、やはり「もらい泣き」にはかなわない。
一青窈が、叫びにも近い必死さで歌うのがとても美しくて、有る意味、このもらい泣きがあるからファンでいられる。

影踏みを歌う姿もいいが、TVでは、やっぱり一青窈と言えば、2003年のFNS歌謡祭だ。
緊張の中でも一生懸命で、腹の底から声を出し、歌うというよりは訴えるように吠えている。
それがとても心地よくて、もう二度とTVではこの時を超えることは無いだろう。

意識した態度ではなく、自然とそうなったように見える。
顔をしかめながら、時に微笑みながら、楽しみと嬉しさを表現しながら、ちょっと引きつっている。
でも、その姿からは、一青窈が全力を出し切っているのがよくわかる。

何がそうさせたのかは、その場の雰囲気だが、だからこそ一青窈の凄さを知ることになる。
本気モードの一青窈がじっとしていられない。
TVカメラも気にせずに、歌うことに全神経を集中していて、見応えのある一青窈がお気に入りです。

TRの「大家」を歌う一青窈も、とてもいい。大家だから、、、、とてもいい。その事は、長文になるから次の機会にしよう。

多くの人を惹き付ける一青窈が、今後どう変化しようとも、一青窈は一青窈なんだ。一青ファンも一青ファンなんだ。


098

本気度 2005年05月07日 15:21:14

影踏みが100%を超える力で歌われるのは、いつ来るのだろうか。

一青窈は素直な少女なんだろう。
それを強く感じたのは、「うたばん」で影踏みを歌う時の表情からです。

一青窈には全力をもって真剣に歌って欲しいと願って来ました。
精一杯に集中して感情を込めながら歌う姿こそ美しいものですが、その時々の歌う姿からの本気度は、表情だけでは読み取れない。
しかし、眼の輝きさえ見れば良くわかるものです。

うたばんでは、真剣に歌っていました。
しかし、それは全力だったのかは・・・・。
それは、眼の輝き具合を見ると良くわかります。

表情も歌い方も合格点以上でしたが、しかし、本気印の目印である眼力は、残念ながら普通でした。
一青窈は、ここぞという時には実力以上のものを魅せてくれました。
うたばんでは実力通りの力を魅せてくれました。
だけどそれは1年2ヶ月ぶりのものだから・・・・・。

私は、一青窈に、実力以上の力強さの印である「眼の輝き」を望んでいます。
それが出来るのはコンサートしかない。


097

壺外し 2005年05月07日 14:39:27

人は、辛い時に聴いたり見たりしたものに強い感銘を受けるものです。
影踏みを聴いて、そう感じてしまう私は、、、、

ミュージックフェアとめざましTVを見ることが出来なかったが、もはや、裸足の一青窈は卒業した。
録画ライブラリも「うたばん」しか無いが、それでも充分である。
歌っている時と、そうでない時のギャップは気にしない事にしたつもりなのだが。

作詞をする時に、どんな事を意識しているのか気になるが、まさか、ここでこうしたら・・・・・・とか、ここは、こんな風に・・・・・とかが、100%の選択でない事を願っている。
一青窈の歌詞に感銘を受けるのは、一青窈のファンだからなのかがハッキリしない。
良い歌なら自然と支持されるだろうが、、、、、

演出と演技は違う。
それはロングヒットしたハナミズキにも言える事で、その時も今もそうだった。
それが繰り返されないことを信じている。

過去のライブDVDと比較するには早過ぎるが、影踏みの歌い方が演技となる事だけは思いたくもない。
影踏みが生まれた瞬間に、一青窈はどう思ったのだろうか。
良い歌が出来た。満足する出来映えだ。一青窈らしいものだ。と、思っていたのならいいのだが、間違っても、「安心した」なんて感じていたら、それこそ壺外しなんです。


096

本当は何者? 2005年05月05日 19:22:18

一青窈は、いったい何者なんだろうかと思う事が、ずっと続いている。
歌手であるが、ただの歌手ではない。
芸能人であるが、普通の芸能人ではない。
それよりも、なぜ、あれほどの歌詞を発表するのだろうか。

第一線を退いたり引退したりする歌手に当時の感想を尋ねると、殆どの人が意外な答えをする。
当時を楽しそうに振る舞っていても、実は辛かった、とか・・・・・等々。
では、一青窈の場合はどうなのだろうか。

好きでなった職業でも、現実とのギャップを感じるものだが、、、特に歌手であれば、売れる(ウケる)ものを出さなければとの使命感すら生じる。
何かをしたい、何かを伝えたい、何かを・・・・・・・。
一青窈が、そんな気持ちを持ち続けている限り、一青窈で有り続けることが出来るのかも知れないが。
だけど、職業として意識するようになったら、一青窈で有り続けることが負担となるだろう。

イメージが固定すると、手かせ足かせとなってしまう。
それでも、自然体で進むしかない。
誰かに何かを言われても(書かれても)、それに惑わされないのがいい事もある。
一青窈とは、そんな人なのだろうか。


095

影踏み 2005年04月21日 21:46:30

「うたばん」での影踏みが観られて、とても嬉しかった。
歌う姿、その表情、その心の内を、、、一青窈の歌に対する想いが、、、素直に表現されていました。
決っして、演技したりとか、良く魅せたいとか、必要以上に意識したりする雰囲気が、全くありませんでした。
とてもシンプルで、素直で、だけと、歌う事に集中していて、震わす左足も緊張感の表れで、、、、、、
でも、全てが綺麗にまとまっていて、少ない手振りが栄えていて、その事が、体の内面から歌う事や伝えたい事を放っているようでした。

影踏みは、そんなゆったりとした雰囲気の中で、静かに、そっとささやくように語りかけるように歌うことが似合っています。
今後は、いろんな場所で歌う事でしょう。
でも、影踏みを歌う時は、周りの雰囲気に惑わされないように、自らの一青ワールドを創り上げるくらいの自信をもって歌って欲しいと思いました。
真っ赤な衣装も素敵でした。
歌い終わった時の無駄な笑顔も見せない余裕の表情に、歌い終えた自信すら感じます。

この「影踏み」は、無表情で歌おうとする気持ちを持ちながら、そして、手振りを意識せずに自然と体が揺れるように歌う気持ちを持ちながら、
少しの余裕を魅せつつ、しっかりと歌うことが大切であり素敵だと感じました。
歌い手は、「うた」そのものに、その紡いだ言葉に気持ちを乗せて語りかけるように表現することが、聴く者の心に響くものです。

今日は、本当に良かった。
一青窈の影踏みが観られて、本当に良かった。
一青窈の活躍を願っています。


094

一青窈の本当の魅力 2005年04月15日 21:15:12

新曲の「影踏み」をTVで観られて、嬉しいと思う反面、悲しいと感じてしまった。
ラジオで聴いた歌声から、この歌は一青窈が自らの原点に帰ろうとする気持ちが込められているんじゃ無いかと、期待していた。
スローな歌い出しからサビに至るまでの抑揚の仕方などは一青窈らしい歌い方だと思っていたが、いざ、TVで歌う姿や表情を見ると、
ハナミズキの歌い方を引きずっているとしか思えない。
一青堂の称賛も当たり前と化しているし、、、、、でも、本当にそれで良いのだろうか。

一青窈の魅力は、独特の抑揚と表情から生まれる歌詞の力強さに加え、誰にも真似できない情念の叫びでもある。
アルバム月天心に込められた想いを発表した初ツアー「ええいああ」が、「てとしゃん」ツアーよりも数段上なのは、その想いの強さである。

一青窈は変わってしまった。花逢娘から、一青窈は変わってしまった。

影踏みを・・・・表情を崩しながら歌い始めたと思ったら、次の瞬間は必要以上の微笑みと手振りを織り交ぜながら、、、、、
それで、いいのだろうか、、、、、しかし、それは間違った表現方法ではないのだろうか、、、、、

一青窈は変わってしまった、、、、
それは本心の現れなのか、、、、

影踏みは、真剣に、そして表情を変えないくらいの想いで歌い上げてこそ、心に響く歌なのに。

「音楽・夢くらぶ」の一青窈は、今後のTV出演で、どんな表情を魅せてくれるのだろうか。
FCの中に居ると、安心する。でも、木を見て森を見ない。


093

影踏み 2005年04月14日 21:40:14

♪卒業したら ジグザグの前髪 少しそろえ♪
♪ママからの手紙で 2回泣きそうになった♪
♪うそでも 天の川で 1年1度の約束したい♪
 ♪居ない時も 頑張れた事が 今になって 自信になって♪
 ♪気づいてみたら たくさんの人に♪
 ♪かこまれてた♪
 ♪君が僕を信じている♪

(解釈)
在学中は気にもしなかった前髪を、卒業したら切りそろえた。
母親からの手紙で泣きそうになったのは・・・1回目は、母が私をこんなにも想ってくれていた手紙でした。2回目は、父の便りでした。
離れてしまった父だけど、嘘でもいいから会いたいと、1年に1度の願いをしたい。
 父親が居なくても、頑張って来ました。くじけなかった。その事が今となっては自信だと思っていたけれど・・・・
 実は、気が付いた時には多くの友達に恵まれていました。ありがとう。
 そのたくさんの友の中で、君=新郎が、僕=新婦を信頼している。
と、言いたいところだが、実は、君とは父のこと。


♪日記みたいに 何もかも知りたいと 君が話す♪
♪散歩道の途中 ツツジの甘いミツを吸った♪
♪突然、夢が覚めて 迷子の気持ちで悲しくなった♪
 ♪いつの間にか 大きくなって も 僕より うんと 幸せがいい♪
 ♪いつからずっと 強くて弱いの♪ 
 ♪君は知ってて♪ 
 ♪同じ空見ててくれたの♪

(解釈)
父は、離婚してからの娘の様子を知りたいと言った。
楽しかった両親との想い出は、まるで散歩の途中でかいだ甘い蜜のようでした。
そんな楽しい想い出も、突然の離婚によって、まるで迷子になった時の気持ちのように悲しかった。
そんな娘もこんなに大きくなったから、こんな父よりも幸せになって欲しい。
いままでもずっと頑張っただろうし、くじけそうになったこともあろうし、
父は、そんなことも知ってはいたが、例え離ればなれとなっていても、何処かで父親も見ていたであろう同じ空を、いままでずっと見上げていてくれたのだろうか。


♪縄跳び 放りだして♪
♪見つけた背中に「おかえりなさい」♪
 ♪いつの間にか 大きくなって も 僕より うんと 幸せがいい♪
 ♪いつからずっと 強くて弱いの♪
 ♪君は知ってて♪ 
 ♪同じ空見ていたの♪

(解釈)
子供の頃は、縄跳びの最中でも、父を見つけたら「おかえりなさい」と駆け寄っていたました。
ただ、その時の父の記憶には笑顔がありませんでした。背中だけの姿が記憶に残っています。

いつの間にか歳をとっても、私より幸せになって欲しい。
父は、娘が大きくなるまで、ずっと同じ空を見ていました。



一青窈が「影踏み」としたのは、影踏み遊びをしたかった時にはもう居なかった父親の想い出の寂しさに共鳴したからだろうと・・・。
解釈の前提を友達の父の事とすれば上記のようになるが、しかし、一青窈を前提にすれば次のようになる。

わたしは、大学を卒業した時に前髪を少し揃えました。
その時、生前の母からもらった手紙を読み返した私は、2回分泣きそうに成りました。
亡くなる前に書かれた母の手紙には、残される2人の娘を想う気持ちが綴られていました。
それを読むと2回分の涙が出そうに成りました。
今となってはもう、亡き両親に会う事が叶わない無駄のようだと分かっていても、せめて1年に1度だけでも天の川にお願いしたい。
両親が居なくとも頑張れて来れた事が自信になりました。
そして気が付いたら沢山の友達に恵まれていました。
いつの日か大きく育って、私達の分まで幸せになって下さいと願った両親に、
これからの人生で強い時や弱い時があったとしても、一青窈も見上げている同じ空を見ていて下さい。
などと、一青窈も気付かないであろう深層心理を想像しながら聴いています。

ただ、この影踏みの歌詞には、一青窈らしさである鋭い感性が無いのが残念です。
言葉の優しさが全面に出ているから言葉の重みがありません。
ただ、聴く者の心に共鳴させようとする言葉があるだけです。
その違いはアルバム月天心や大家と比較すると分かるでしょう。
君と僕の使い方に、ストーリーとしての一貫性が無いから、解釈を惑わせます。
今までのシングルに無い技法が本来の泣かせ系に加えて鋭さをも兼ね備えた一青窈らしさを感じさせないだけです。

一青窈は、どんな表情をして歌うのだろうか。
今までの場合は、必ず、歌の最中に笑顔を魅せていた。
もし、今度の影踏みで、一青窈が笑顔を見せずに真剣に集中する様を見せてくれたのなら、どんなに良い歌となるのだろう。
期待しているのだが、、、、。

珈琲時光DVD裏面にある文章が印象的です。
「陽子は東京の街で暮らす自分が 大切な人たちに囲まれていることに気づき始める
まるで影踏みのサビの部分と重なるように意識させる言葉です。


092

明朗快活 2005年03月20日 22:40:16

一青窈の本質は、本当に明朗快活なのだろうか。
茶髪は明朗快活を魅せたいが為の行動なのか、一青窈に抱くイメージと、歌う姿のイメージが正面からぶつかると、ギャップしか残らないもので、
だとしたら、どうして一青窈からアルバム月天心が生まれたのか、、、
うた声を支持するから個人を支持するのでは無いことを頭では理解していても、これまでのイメージを一変させるような変化を望んでいないファンがいる。
「影踏み」を発表しながら明朗快活をアピールするのは、いいことなのか。逆に今までの歌のイメージが崩れることにも成りかねない。
「実は、そうじゃない。」ことを言いたいだけなら、自然と認知させたらいいだけなのに、それがかえって、デビューの呪縛を払いたい一青窈の本心を見せたように思う。

プレッシャーの中から発表した歌は、それだけのものに過ぎないが、ただ、不安だらけな気持ちも理解出来ない訳ではない。
だけど、考え抜かれた戦略としたら、疑問がない訳でもない。

一青窈の個性の正体が、作られたものなのか、そうでないのか、との疑問は、素のままだと言った珈琲時光が物語っているし、
それは、二面性を魅せてきた一青窈の影でもある。

明朗快活な一青窈が、どちらかと言えば暗いイメージの歌を歌うのは、無理があるが、しかし、、、
もしかしたら、一青窈の術中にハマッタのかも知れない。それもまた楽し。


091

茶髪 2005年03月19日 21:27:13

黒髪にしようが茶髪にしようが、本人の自由である。
それぞれの良さを認識した結果も、本人の意思である。
だけど、その結果が100%で無いこともある。

一青窈は、とうとう茶髪にしてしまった。
それは当たり前の事なのかも知れない。
でも、あえて黒髪を維持することがどんなに素晴らしいことなのかを認識しなかったのが、一青窈らしいのかも・・・・。

あれほど「黒髪でいて欲しい。」と言われ続けて来たことが、逆に、茶髪を増長させてしまった感がある。
茶髪にプラス効果があれば別だが、所詮、一過性のものだろう。
髪をバッサリ切ったのは良いとしても、なにも茶髪にする必要もないのに、あえてした。
新曲の「影踏み」には相応しくないのに、茶髪にする意味があるのか不明である。
それとも、茶髪を実行する事でファンサイトでの様子を伺っているのだろうか。

恐らく、ファンサイトでは、茶髪が認容されるだろう。
でも、”今の時代”だからこそ、「黒髪」をつき通すことに意義があるのだ。

周りのみんなが茶髪だから自分も茶髪にするなんて安易な考えでなければ良いのだが・・・・
茶髪に反対されるから、あえて茶髪にするなんて安易な考えでなければ良いのだが・・・・
茶髪が浸透しているからこそ、あえて黒髪にするほどの意識の持ち主であれば良かったのだが・・・・・

歌い手である前に、1つの個であるから、それをどう表現しようがどうでもいいことでもある。
でも、今までの一青窈のイメージ戦略からは似つかわしく無いのに、、、、、茶髪とするメリットがどこにあるのか分からない。
一青窈が、てとしゃんコンサートを茶髪でしたら、どんな風になったのだろうか。
一青窈が、池上本門寺でのコンサートを茶髪でしたら、どんな風になったのだろうか。
イメージを打破する方向が違うように思える。
イメージ転換期だとしたら、拘りを持ち続けてきた一青窈は何処へ行ってしまったのか。

今後は茶髪で歌い続けるのだとしたら、そのイメージ戦略に翻弄されるような柔なファンでないのが、ここの管理人である一青ファンなのです。


090

”生路” 2005年02月09日 22:58:31

生路は3種類ある。
@生路〜CIRCUIT〜
A生路〜MAZE〜
Bアートブック「ええいああ」に載っている”生路”

@は、姿見一青也の池上本門寺で歌っている。最後の日本語の歌詞が印象的です。
Aは、江戸ポルカに収録されている。青春メッセージで軽やかなステップを駆使しながら歌ったのが印象的でした。
問題は、Bの”生路”だが、私はこの歌を聞いたことがない。

@でもAでも無い”生路”の歌詞は、全て日本語で書かれている。
望春風の意訳と歌詞が相違するのと同じように、生路にも相違があるのだろうか。
アートブック「ええいああ」にあるのだから、どこかで歌ったのだろうか。
ただ、Bの生路は、持っている人しか知らないこと・・・・。

アルバム「月天心」が一青窈を表現したものなら、アートブック「ええいああ」も、一青窈を表現したものである。
一青窈の「伝えたい」と願う気持ちに重点を置いて思考すると、ここの”生路”には深い意味がある。
それは@の生路をゲーム曲としての解釈を試みると、なるほど・・・と思えるが、しかし、一青窈がアートブックとして発表した”生路”には、歌詞としての意気込みを感じる。

一青窈の歌詞は自らの人生を詰め込んでいるから、この”生路”も、実体験に基づいていると思う。
歌詞なのか・・・詩なのか・・・その事を想い描きながら何度も読み返していると、「あなた」の文字が「わたし」に思えてしまった。
もし、この詩の「あなた」が「わたし」なら、なんて切ないのだろう。
”生路”の次のページが「月天心」なのも関連するのだろうか。

潮時よ  ← だから・・・・・そう想ってしまう・・・・・


089

こだわり 2005年02月06日 20:02:46

一青窈は、ハナミズキが受け容れられる事を悔しがった。
それは、もらい泣き路線を打破すべく、金魚すくいと江戸ポルカを発表したのに、それが受け容れられずに、
結局、もらい泣きの延長であるハナミズキがヒットしてしまったから。
一青窈の目指す音楽とは、本当の所、目標があるわけでもなくて、ただ、今よりも常に進化することなのだろうか。

売れなければ生きて行けない世界では、結果として良かったのだけれど、ハナミズキが何故受け容れられたのか、説明出来ない。
歌詞はおとなしくて、曲も緩やかで、もらい泣きほどのインパクトは無い。
いい歌だとは思うが、一青窈が拘る「一青窈の歌」なのだろうか。
結婚式で歌われたり、カラオケで楽しく歌われるのは、本来、一青窈が伝えたいと願った「ハナミズキの想い」からは、遠くかけ離れているし、
売れてしまえば、それを否定する必要もないが、ただ、一青窈の歌として、もらい泣きに続く代表作として広く認知されたのが、ファンとして納得出来ない。
いまや、一青窈のイメージは、もらい泣きからハナミズキへ移行しつつある。そのことがファンとして悔しいと思う。

一青窈の歌を紹介するには、もらい泣きやハナミズキでは不十分である。
デビュー曲となっても不思議ではない「月天心」、一青窈の心の叫びでもある「大家」、生半可な気持ちでは歌えない恋のバラードの「翡翠」・・・・等々。
それらを知らずして一青窈の凄さは感じ取れない。
なのに、一般には伝わらなかった。

一青窈の良さは、ハナミズキに代表されるべきでなく、むしろ、もらい泣き路線から続く”月天心路線”なんだ。
ハナミズキが恋愛の歌と認知されてしまう失敗よりも、もっとストレートに、人、心、絆、夢、後悔、涙、影、等をモチーフにして、
人の心を揺すり、聴く者をも涙させるような歌を、世に出して欲しいものです。
それは、決して癒しを求めているのではありません。
作詞に拘る一青窈が、その拘りを持ち続ける限り、その歌創りに共鳴したファンの為にも、歌い続けて欲しいからです。


088

一青窈 2005年02月05日 12:12:35

一青窈が活躍すればするほど、一青窈は変わったと感じるようになった。
デビュー3年目だから歌い方や話し方、自己アピールの仕方が変化するのは当たり前の事だけれど、最近のライブDVDや録画をみたりしても
いい歌だと思う以上の想いが一段と湧かなくなった。同じ歌を聴いて観ても、消化不良を感じてしまう。感動が薄れたと片づけるにはいかない。
何がそうさせるのか、その答えを求めて、再び、一青窈の成長の跡を遡って観た。

一青窈の集大成と目された「てとゃんコンサート」のDVDを観ても、そこではパフォーマンスを取り入れ、意識した構成が目についてしまう。
比較対象が無ければ、誰が観ても素晴らしいと感じるコンサートだろう。だがしかし、一青窈の凄さは「あんなもんじゃない!」と信じている
一青窈ファンとしては、実際に行ったコンサートの臨場感ならまだしも、DVDだけでは、その凄さを感じ取れない。
ライブで観た姿がDVDとなって残る事のマイナス効果を、何となく気にしてしまう。
良いものを観たら、それよりももっと良いものを追い求める身勝手さも自覚してしまう。
人の気持ちは顔に表れるもので、てとしゃんでの気持ちも、その時の素直な姿だろうが、しかし・・・。

本門寺ライブにマイナス効果が無くても、集大成のてとしゃんコンサートよりも良いと思ってしまう。
野外ライブへの意気込みなど取るに足らない。本門寺の一青窈には、てとしゃんで見せない表情があった。
それが歌に対する必死度として、顔をしかめながらの表情として現れている。
”目は口ほどにものを言う”
その言葉どおり、一青窈の目は、必死だった。
必死にさせたのが何なのか・・・・その答えは、一青窈なりにすくいあげた言葉として一青紙Vol.1夏号に載っている。
アマチュア時代のライブの時から、今、プロとなってのライブの時までも、変わらない考えがある・・・・と。

これからもいままでも
一青窈に関わってくれた皆々様!
ありがとうございます 

短くも忘れてしまいそうな「ありがとう」の精神が、一青窈の気持ちだった。
本門寺は寒くて大変だったそうだが、厳しい環境だからこそ素敵な空間として今後も語り継がれることだろう。

そして、一青窈の凄さの源である、ええいああ渋谷AXを観ることになる。
映像美や高音質なんか必要ない。
一青窈の歌を観たいと思ったら、ここしかない!
歌ごとに、リズムが違う。
当然、それぞれの気持ちも違う。
歌う姿、その表情、目の輝き、必死度、全てに於いて満点以上の評価です。
額に汗して気持ちで歌うその姿は、伝えたいと願う気持ちの強さは、二度と観られないのかもしれない。
観客の表情も素晴らしい。
大家も聴き惚れてしまう。
近頃の新人なんか足下にも及ばない。

一青窈は変わってしまったのだろうか。
花逢娘が今の一青窈だとしたら、変わってしまったと言うしかない。

これからもいままでも
一青窈に関わってくれた皆々様!
ありがとうございます

この言葉が一青窈の気持ちだとしても、花逢娘で遠く離れてしまった。
気持ちで歌う歌手の一青窈は、復活するのだろうか。
artistでなくてもいい、、、、、singerの一青窈を待ち望んでいる。


087

デビュー 2005年01月31日 23:30:04

年齢的には遅いデビューであったが、もし、10代でデビューしていたら、今の一青窈は無かっただろう。
歌手の低年齢化が進む中で26歳でのデビューは遅すぎる感もあるが、しかし、
その事が逆に、ファン層を広める利点となり、一青窈の雰囲気の良さを知らしめたから、強みでもある。
どんな歌手にも浮き沈みがあるが、沈んだとしてもなお動き続けられるだろうし、また、そうであって欲しい反面、
今後の活動の中でバラエティ志向も選択肢の1つになるだろうが、デビューの気持ちは忘れないでいて欲しい。
などど、まぁ、いらぬ心配だが。

そもそも、デビュー当時の一青窈がどんな風だったのかも知らないが、コロンビアのHPにあるインストアライブの映像が、初々しさを感じさせる。
TV出演も、ハラハラドキドキしながら、「ちゃんと歌えますように・・・・」と、変な応援をして来たのも懐かしい。
てとしゃんは、堂々としているように見えるし、花逢娘は、どうだ!と言わんばかりです。

でも、一青窈の素晴らしさは何か?と、尋ねられたら・・・・
それは、”しゅるりの本門寺”を観て下さい。いいえ、本当は”ええいああの渋谷AX”を観て下さい。と言いたい。
デビューの気持ちを伝えるものは、もう、それしか残っていません。
歌が上手いとかの次元じゃなく、歌がもつ本来の良さ、即ち、聴く者を感動させる力、が、凝縮されています。
歌う事に集中して、全力を出し切ること、それが、一青窈の全てだと言っても過言ではありません。
人前で常に全力を出し切るのは難しいことですが、それに近づけるように・・・・・・。
デビューの気持ちは、忘れないように・・・・・・と、思ってしまった。


086

アリガ十々 再び  2005年01月31日 23:19:24

アリガ十々は、まるで想い出日記のような歌で、、、
ゆったりと、或いは切々と、時に木訥と、一青窈自身が伝えることの出来なかった想いを、優しく語りかけるように歌っています。
静かなメロディに揺られながら・・・・・想い出すことを楽しむかのように・・・・・・・しかし、しんみりとしています。

コンサートでMCの後に聴くアリガ十々は、それはもう感動ものです。
両親への感謝の気持ちは、失うことでより一層増すものだけど、歌詞の中では、母の方がちょっと好きだった。と。
父の記憶が少ないから、心の中では今も大きく膨らんでいても、現実的には母の方が好きだった。
1千回も1万回も、アリガ十々なんて、毎日1回言っても27年。現実には、一生掛かっても1万回も「ありがとう」は言わない。
だけと、歌を聴くと、1万回の言葉がよく響きます。
両親への感謝を、当たり前だけど、だけど、言葉にして言えなかった・・・・。
そして、亡くなった後も日記を書き続けていたそうで、書く行為こそが、心の拠り所だったのに・・・・、
伝えたくても、もう応えてもくれないのに、一青窈は何を話そうとしたのだろうか。
一青窈は既に1万回以上も「ありがとう」を伝えて来たのに、未だ届かぬ想いとして残っているのだ。
伝えたいと思った時には既に遅く、伝えたい人にはもう届かない。その後悔を繰り返さないことを伝えたいと願いながら歌い続けている。
「ありがとう」に込めた想いは、後悔と寂しさでしかないのだけれど、渋谷AXでは、嬉し笑顔満面で歌っていた。
本当は、悲しくて切ない歌なのに、一青窈は嬉しそうに歌っている。
だけど、アリガ十々は、じっくりと、そして、しんみりと聴いてしまう。


085

原点 2005年01月26日 23:52:50

私は、一青窈について何も知らない。
CD買って、FCに入って、コンサートで感激し、ファンになっただけ。
知り合いでもないし、話をした事もないし、どんな人物でどんな考えをもっているのか、どんな性格なのか・・・本当のことなんて全く知らない。
なのにこんな事をHPに、名も無きファンが、ただ、気に入った歌手の事を、ああだこうだ思いながら、好き勝手な事を。
これも、インターネットの利便性ではあるが・・・・・・空虚な時もある。

それでも一青窈の魅力の源は、「情熱大陸」だろう。
残念ながら見ることも出来ないが、「情熱語録」が、一青窈の力の源だと思う。


(情熱語録より)
小学校の頃からずっと、アルバムを見るとか、写真を見るとか、映画を観るとか、ミュージカルを観るという行為の全てが、泣きたいという衝動のもとにあった。
だから、『歌うのは何故?』と聞かれると、答は、泣きたいから、、。
(自分の歌が)売れないわけが無いという思いがどこかにあります。
これだけ真剣に思いをぎゅうぎゅうに詰めて作っているものが、伝わらないはずが無いと思います。


一青窈の魅力は情熱語録を抜きにして語れない。
泣きたいから歌うのではない。歌うのは何故?と聞かれることの答えが泣きたいからなのだ。
つまり、泣く目的ありきではなくて、日常行為の全てが、泣きたい衝動に基づいている。
アルバムを見て泣きたいのと、歌うことで泣きたいのは・・・・やはり、その衝動のもとが両親の死なのだろう。
泣きたいのは、泣かないとダメになる事を恐れての行為でもあるし。
そして、泣きたいと思う歌に関しては、伝わらないはずが無いと思うほど想いが強い。

これ程までに想い創ったものの、その想いの強さが伝わらないはずがない。と思っている一青窈の強がりを思うと、、、
やはり一青窈は、心に深い傷を負っているのかと思ってしまう。

2年前に、「今注目の“時代の歌い手”である」と、記事された。
今でも、それが一青窈なんだ。


084

パワー 2005年01月24日 23:27:07

一青窈は、アルバム「月天心」を超える事が出来るのだろうか。

月天心のコンセプトは、一青窈の人生でもある。
ファーストアルバムとして並々ならぬ心血を注ぎながら全てをさらけ出した傑作であった。
歌に込めたメッセージも深く難解で、ある意味、一青窈らしいから、いつまでも飽きない。
でも何時か、このアルバムを超える日は来るのだろうか。

CANのスペシャルインタビューで、「かなり練ったもので、どうだ!ってものをやれたらいいな。」と答えた。
その一方で、ハナミズキが受け入れられたことを悔しがった。
金魚すくいや江戸ポルカで変化を望んだだけでなく、今後の進むべき道を示したのに、それが受け入れられなかった事は、大きな誤算だったのか。
自らの進む道を切り開いて来たつもりなのに、結果として少し歯車が合わなかった。
何をどう修正すべきか、その答えを探そうとしたけれど、少し辛いと思ったのだろうか・・・・・・・そんな時に「一思案」が生まれた。

作詞は、持てる力を切り出すだけでは、いいものが出せないから、何かをきっかけとして、思いもよらないモノが生まれる場合がある。
いろんな所に行ったり、いろんな芸術にふれたり、沢山の出会いの中から、新たな想いが湧いてくる。

一青窈にとって、歌うことは自らを表現する事だった。
その目的は、既に叶ったと言える。
だが人は、夢が叶うと、また新たな夢を探そうとする。

一青窈の場合は、3年目のジンクスかもしれない。
そのプレッシャーも楽しまなければやって行けない。
これからの沢山の出会いと、そして別れの中から、何を感じ、何を想うのだろうか。
失って始めて気づくことが・・・・・一青窈を大きくする。
新たな思考と共に、月天心を超えるリリースを期待している。


083

翡翠2 2005.01.22

一青紙Vol.3ふゆ号に、翡翠についての一青窈のイラスト風メッセージが載っている。
翡翠の原詩とは、「ええいああ」に載っている「翡翠物語」のことだろう。
私は、2004.11.01に翡翠について書いたが・・・・今、一青紙の、一青窈のデザインを見て、一青窈の詩に対する「深さ」を感じている。

原詩である翡翠物語から「翡翠」が完成するまでに、どれ程の時間を費やしたのだろうか。
翡翠には原詩から直接引用されている言葉(文字)は殆ど無いのに、原詩の言葉のイメージは、ふんだんに込められている。
そのイメージは、翡翠物語だけで読み取る事が出来たと思っていたが、実は、少し違った。

ぎゃらんDo.Vol.2に、「溶け出した想ひ(い)をぎゅっと手の中に閉じこめたかったの」・・と、一青窈は書いた。
しかし、その....「手のひらの涙」のデザインは、「溶け出した想い」を閉じ込めることが出来なかった・・・・。

デザインと翡翠物語が生まれ、そこから「翡翠」が完成した。
だから、それを知らずして、歌詞に込められた想いを深く感じる事は出来ない。
別れのキスと知りつつも、深く切ない想い出として残っても、一青窈は、もう1回のキスをねだった。

一青窈は、翡翠物語を知って欲しかったのだろう。
そして、翡翠に込められた想いは非常に深いのだろう。
だから、翡翠を歌う一青窈は、笑顔を見せないのだろう。


082

泣く 2005.01.22

私の知る限り、一青窈が泣いたのは4度ある。
@2003年ゴールドディスク大賞
A2004年青春メッセージ
B2004年ラジオ
C2004年日本レコード大賞最優秀新人賞

@は、写真でしか知らない。
感極まって泣き崩れながらもらい泣きを歌う姿は、見る者をも泣かせるようで、受賞した感激の涙を想うと、美しく見える。
デビューして不安だらけの日々ながら、この時が一番嬉しかったのだろう。

Aは、TVで見た。
青春メッセージでの歌唱で、もらい泣きと生路を歌い、そして最後に歌ったハナミズキで、一青窈は涙を流した。
決して、泣き崩れる事はなく、涙がそっと溢れた。

Bは、ラジオで泣いた。
ラジオで・・・自分が思ってもいない事で非難を受けることの悲しさを・・・、声を詰まらせそうに語った。

Cは、TVで見た。
もらい泣きで受賞したからではなくて、恩師の武部氏を前にして、いろんな想いが溢れて泣いた。

人は、嬉しくて泣く場合もあるが、ほとんどの場合は悲しいから泣く。
自身が悲しくて泣くのは分かるし、他人の悲しい出来事を思って泣くのも分かる。
一青窈は、@BCで、自身の事を思って泣いた。
それは、嬉しかったかも知れないし、悲しかったかも知れない。
それでは、Aで、涙を流した理由は何なんだ。

9.11を思い出して泣いたのか?
ただ、その時だけ・・・感情の強さで涙が溢れたのかも知れない・・・・のか。ただ、それだけでは無いような。
その後のハナミズキで、泣きそうな表情をする事があっても、涙を流すことはない。

歌の最中に泣くのは、その歌を想っての事だろう。
ハナミズキが、幸せの連鎖による平和を願う歌だとしても、涙を流すほど悲しむ必要があるのか?
悲しみを表現しても、涙を流すのは何故なんだ。
思うに、一青窈が願う平和への想いは、人並み以上に高くて重いのだろう。
歌詞に詰め込めなかったいろんな想いを思い出して歌うからなのか・・・。
だが、しかし、その想いとはうらはらに、一青窈のハナミズキは、一人歩きをしてしまった。
もはや、一青窈が・・・ハナミズキを・・・・・泣きながら、涙を流しながら、歌う事はしないだろう。
そのことを一番悲しんでいるのは・・・・・一青窈なのだろうか・・・・・。


081

コンサート嫌い? 2005.01.15

@てとしゃんコンサートは「絶対無理・・・・・」「こんなじゃー死んじゃうー」と思いながら、スタートしたそうです。
A一青紙vol.1によると、本門寺ライブは「無理、無理・・・・」と言い続けたそうです。

一青窈は、コンサートが好きではないのか、好きだけれど自信がなかったのか?

一青窈のプラス面、或いはマイナス面を捉えながら、色々と思考して来たが、その根底が崩れそうになった。
デビュー間もない歌手が、ビックチャンスを前にして、ただ怯んだだけなのか・・・。ただ・・・・曲数が多すぎると思っただけなのか・・・。

コンサートは、自身をアピールする最高の舞台であるのに、そして、最高のチャンスであるのに、一青窈は尻込みする気持ちを表した。
遅かれ早かれ経験しなければならない事なのに、弱気を公開した。
でも、コンサートが始まると、そんな素振りは見せまいと、必死に演じていた。
てとしゃんコンサートでは、舞台の袖から一青窈の動きを見つめつつ、チェックしているスタッフの姿を見てしまい、
それは当たり前の事だけれど、それが・・・・・訓練された演出の技だと知ると同時に、プロとしての厳しい一面を感じてしまった。
それでも、一青窈は、てとしゃんコンサートを見事に乗り切った。

人前に出ると凄く緊張してしまう。だが、その気持ちがあったからこそ、コンサートは大成功に終わったのだ。

コンサートを終えて、「また、コンサートしたい!」と言わしめる程、楽しかったのだから・・・・、
多くのファンが、その歌声が聴きたいと願っている素晴らしい歌い手なのだから・・・・・・、
今年も、コンサートを、そして、「大家」を歌ってくれるよう願っている。

花逢娘は、いい教訓として・・・・。


080

BS花逢娘2 2005.01.15

BS花逢娘がどうも心に引っ掛かってしまう。
歌が悪い訳でもないのに、「あぁ〜、一青窈のライブはいいなぁ!」と、素直に思えないのが、ずっと心に残っていた。
だから、もう一度、姿見一青也を見返して、一青窈の変化を探ってみると、明らかな違いがあった。
それは、一青窈の最大の特徴である表情に注目すると良くわかる。

歌の最中に喜怒哀楽を示しながら、歌以上に表現してきたのに、花逢娘では、表情に生気が無い。
冷たく見えて、気が重い。
特に、「大家」にいたっては、気持ちが入っていない。
ただ、歌っているだけにしか見えない。
これほどまでに大好きな大家を、あんなに気の抜けたように歌われると、「それでも大家か!」と言いたくもなる。
渋谷AXでの大家、TRでの大家、どれも、気力充実だから歌に込めた想いがヒシヒシと伝わって来る。
独特の抑揚とこぶしが、持ち味が、誰にも負けない力強さを出していたはずなのに。

なのに、花逢娘では・・・・・、全ての歌が、同じ歌い方に見えてしまう。
歌それぞれの感情の変化が表現されていないのか。
だから、まるで1人芝居のように見えたのだろう。
せっかくの野外ライブなのに、スタジオセットのようになっているし。

結局、一生懸命の度合いの薄さが、表情に出たのだろう。
純粋に、「歌うこと」が出来なかったのだろうか。


079

年賀 2005.01.05

年賀状が届きました。
ちょっと薄紙だけど。

いつもながら、見事なお言葉です。
そんな言葉が大好きです。
いろんな意味を想像しつつ、その言葉のキーワードを探り当てる楽しさ。
これが、当たり前の年賀状じゃないから、と、嬉しく思うのが、一青病なのかもね。


ツバメが飛ぶイラスト付きのキャンパスを見て、それに合わせて直感で書いた文章と思います。

−最初の2行が意味することは−
群れから離れたツバメが一青窈なんでしょう。
群れの中にいると、それはそれで安心だけど、群れと一緒に行動しなくてはならず、いつまで経っても群れの一員にしか過ぎません。
それよりも、一歩引いた位置で群れを見ると、今まで見えなかった「もの」が見える。
それは、新たな出会いかもしれないし、1人だけの試練かもしれない。

−次の2行は−
「みんな」は、一青窈を応援する全ての人だろうか。
「道」は、一青窈と共に歩んで来た2年間の道程を想ってのことなのか。回顧録?

−最後の1行は−
広がっているのは、無限の可能性ってこと?

すっ・・・・・即ち、人の群れから離れたい・・・・きゅ・・・休業宣言ですか!

いや、いや、違う!2005年は、”もっと大きな視点で翔ばたきたい”と願う、一青窈の目標を、アピールしたんだと思います。
一青窈は、言葉遊びか大好きで、あえて不思議な言葉にしてるから、堂員は、いろいろ考えないとね!
年賀状なんだから、プラス思考でなくちゃ!

「いいときだってある。」に注目して深読みすると、休業宣言なんだけど・・・・・


078

歌詞に込めた想い 2005.01.03

一青窈の歌詞を考えれば考えるほど、答えが出ない。
それが、一青窈の意図なんだ。
言葉遊びが前提だから、おそらく、沢山書き連ねた詩の中の言葉をピックアップしながら、
元の詩のストーリーポイントだけを作詞に使ったのだろうから、何通りにも思えるのだろう。
一見、連続する言葉のようでも、行間には、一青窈しか知らない文章があるんだろう。
ファンは、一青窈の歌詞を理解したかのように共感するかも知れないが、そのもっと深い意味は、一青窈しか知らない。
だから、歌の最中に、あんなにもいろんな表情をするのだろう。その表情の真相は、聴いただけではわからない。
カラオケで歌っても、感情移入する人は居ないだろうし、逆に、歌詞の意味を知れば、まともには歌えないはずだ。

私も、歌詞の背景を探って解釈してきたが、答えが出るような、そんな単純な歌詞じゃないのを知りつつある。
想いを、ぎゅうぎゅうに詰め込んだ、一青窈ならではの、言葉だからいいんだ。
一青窈が伝えたいのは、その想いであって、歌詞の意味ではないから、聴く者も、その想いを感じればいいんだ。

伝えたい想いを、真剣に、たった数分で表現しようとするから、広く支持される。
これが、中途半端な想いなら、支持されない。
歌は、聴く者によって、感じ方も違ってくる。
万人に受けるのがいいとは思わないから、一青窈には、個性溢れる想いを詰め込んだ歌を望んでいる。

久々に、大家を、おもいっきり感情移入して歌ってみたら、不覚にも泣けてしまった。


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