一青窈思考2006

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特別感謝 2006年12月31日 22:27:20

昨年と同じく、年末に「特別感謝」をすることが出来るが、、、、ただ一青窈のファン歴だけが長くなるだけで、
こんな形でしか応援出来ない事に、申し訳ない気持ちが募ってしまった。
一青窈に関するファンサイトとしても独自路線を突き進んでいるのは、本音を語りたいからだろう。
しかし、ここに書いてある事は、私の独断と偏見に基づく個人的思考に過ぎないから、、、、歌詞解釈にしても、正解なんて有りはしない。

一青窈のコンサートへ行けたのが、一青窈思考の始まりで、それがここまで続けられたのは、やはり何と言っても、一青窈の魅力に尽きる。
一青窈が、どんなに「歌手一青窈」を演じていても、やはり私は一青窈のファンなのです。
コンサートの日に休めなくて、、、、申し込んでも外れるし、、、、それでも「てとしゃん」と「Yo & U 」で生歌が聴けた事は、凄く嬉しかった。
歌に対して感情移入している自分と、一青窈の頑張っている姿に感銘する自分が、一青窈のファンとして気持ちを高めていった。
こんなHPを褒めてくれる人もいれば非難する人もいたけれど、もう、更新する事が、本当に難しくなってしまいます。

発売されたCDやDVDが一青窈思考を支えているし、一青窈の歌声が、私の気持ちを素直にさせてくれた。
今度は、いつ、どこで、生歌が聴こえるのかも分からないけれど、その時までファンで居られる事が、残念ながら分からない。
それに、一青窈思考に2007年は無いのかも知れない。

2007年が一青窈にとってどんな年になるのか、、、、、楽しみを願いながら素晴らしい1年になることを想う。


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よみうりランド 2006年12月24日 19:02:05

一青窈が、よみうりランドで”泣き歌”を歌った。
大家は勿論なこと、ハナミズキやアリガ十々でも”泣き歌”を歌った。
”特別な地”だから泣き歌になったのか、感情を込めた結果が泣き歌になったのか、だけど、一青窈は今までに魅せたことがないような泣き歌を歌った。

気持ちを込めて歌うことが一青窈の持ち味で、それが示される場としては当たり前な程のよみうりランドだから出来たことなのか、


よみうりランドの想い出が、強く心に刻まれているから泣いているだけではないはずなのに、、、、、
よみうりランドの想い出は、一青窈にとっては記憶も薄れた過去の出来事のはずなのに、、、、、
それなのに、、、、今までにも何度も歌った歌なのに、、、一青窈が泣いていた、、、、一青窈の心が泣いていた。

感情のコントロールが崩れたのか、、、、、。
かつて一青窈は、、、「わたしは泣くために歌う。」と言った事があるが、それは、涙を流しているから泣いているのではない。
それはむしろ、涙が流れなくても泣いていることで、即ち、それこそが一青窈の心の歌だった。
久しぶりに聴いた月天心にしても、、、、よみうりランドの一青窈は”泣き歌”を歌っている。
それはまるで「原点回帰」のようだが、同時に、歌手「一青窈」のイメージを植え付けるものでもあった。

一青窈に対して、、、一青窈から失われたと思われた気持ちは、失われるどころか、強く刻まれてしまったのは一体なぜなのか。


一青窈の歌に惹かれるのは、一青窈自身に人を惹き付ける力が備わっているからで、それはやはり一青窈の歌の持つ力にほかならない。
アリガ十々を聴いても、まるで時が止まったかのように思えるのは、、、、じっくりと聴き入ってしまうからだろう。
それなのに私は、よみうりランドへ行くことが出来なかった。
これからも、一青窈のコンサートへ行くことは難しくなる。

私の中で、生歌が聴けない気持ちと、ファンで居続ける気持ちが、、、、、戦っている。
それと同じように、一青窈の脳裏に去来した家族の想い出は、よみうりランドの観覧車へと消えていった。
それはもう、一青窈が「大家」を封印することを予感させるコンサートであったと感じるしかなかった。


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追体験 2006年12月1日 22:44:10

もう、ここに書くことはありません。
もう、コンサートへ行くこともありません。
一青窈の人気が上がれば上がるほど、気持ちは反比例してしまいました。
一青窈のコンサートは、益々、魅せる方向へ進み、、、、、歌の華やかさを追求していくから、、、、逆に私は、魅力を感じなくなってしまいます。
それは、一青窈の歌に、何かしらの寂しさを感じたからです。
アルバム月天心の想いが、大きな壁となっています。


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ライナーノート 2006年11月29日 23:40:15

一青窈の歌の歌詞解釈を、独自の視点から解釈してきたが、それが100%の正解で無いにしても、、、、楽しかった。
答えを見つけられない想いすら、考える楽しみがあった。
そして、今日、一青窈のベストアルバムBESTYOが発売され、その中にある「ライナーノート」が、私の一青窈思考に、安心感を与えた。
歌詞解釈と歌詞の背景に間違いは無かったし、恐ろしいまでに一致する想いの感性に、驚かされた。

解釈の相違も大きく外れることは無かったと思えるが、不正解すら楽しくもある。
その中でも、翡翠の背景や解釈が、見事な程に一致した事がとても楽しくて、一青窈の歌への想いが、一段と深まった。
しかし、一青窈の歌は「ライナーノート」に書かれている事が全てではないから、あくまで、解釈の指針に過ぎない。
初回限定版がどのくらい出回るのかは不明だが、今まで世に出なかった「言葉」が日の目を見ることになる。

しかし、私は、、、今回のライナーノートは、もっと詳細なものが出されるのではと期待していたが、、、残念かな、、、
部分的には、、新たな解釈を強いるものさえ見られた事が、再思考と思えてしまったが、、、しかし、ライナーノートの意義は大きいし、
16曲のBESTYOが、活きた言葉を奏でているのを、歌詞カートを眺めながら楽しむと、、、文字の美しさが、一青窈の言葉の美学として記憶される。


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もやもや感 2006年11月26日 21:02:18

「一青窈という人物像」「一青窈の歌詞」「一青窈のライブ」・・・・これらの共通点よりも違和感の方が、ずっと気になっていました。
一青窈の露出度が増すと、それらのギャップが増すばかりだけれど、それに反発しながら、一青窈思考を続けて来たことが、良いのか悪いのか、
一青窈の本質が何なのか、分からなくなってしまいました。
少なくとも、私の思う一青窈が本質からズレていることに気付きはじめたことが、モヤモヤ感を生んでいるようです。
一青窈が、例え外見上は明るく振る舞っていても、内面的には違うはずだと思い込んでいたけれど、、、どうやら思い違いでした。
私は、一青窈の歌を応援していたから、、、、変化してしまう一青窈を応援するつもりはありません。
一青窈の集大成と称された”2004てとしゃん”を終えてから、このモヤモヤ感が始まり、それがずっと拭えないでいたけれど、
最後は綺麗に終わりたいと思うようになりました。

こんなホームページを続けていると、一青窈に関しての悩み相談を受ける事がありました。
そんな悩めるメールに対して、もっと前向きに考えることを示唆して来たけれど、、、私自身が悩んでしまっては、もうおしまいです。
いつまでも同じ事をしていては進歩しない事が分かっていても、一青窈だけは違うはずだと思い込んでいた事に、自信を失ってしまいました。
私は、一青窈のファンなのかと自問していて、その答えが見えてきました。

私の心をえぐるような思いの歌詞を見つけることが難しくなりました。
一青窈の歌の歌詞解釈をする情熱が湧き起こりません。
それは決して、一青窈が嫌いになった訳ではないけれど、
一青窈の歌声が私を勇気付けてくれたことに変わりはないし、それは今後も変わらないと思いますが、
もう、一青窈のコンサートへ行くことは難しいし、その歌声を、じっくりと聴くことが不可能となりました。
それでも、テレビ等で見せる一青窈の姿は、”歌手を意識した姿”だと思っています。
私は、普通のファンになってしまいます。


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コンサート再思考 2006年11月26日 20:45:58

CDやDVDやTVでの姿を目の前にしても、大きな感動を享受したいから、コンサートを楽しみにしているのである。
CDやDVDと同じ姿でも、そこで歌われる姿は”本物の証”だから、”同じもの”ではない。
一青窈のコンサートへ足を運ぶのは、生の一青窈の歌声が聴きたいからで、パフォーマンスを楽しむ為ではない。
ただただ、一青窈の生の歌声を聴きたいから、コンサートを観たいと思う。
コンサートホールの大舞台で、どんな歌声を披露するのか、、、、その雰囲気を堪能しながらコンサートを楽しむのである。
それは、クラッシックのコンサートへ行くのと同じ感覚なのだから、、、CDやDVDとは違う。

DVDで感動した姿をこの目で見たいし、コンサートの雰囲気も感じたいから、「楽しさ」は、その場に居るだけでも感じられることである。
それを、一青窈のコンサートに”楽しさの制限”を持ち出して、それ以外を排除する意見なんて、本末転倒であるし、
そんな事をよしとする者には、一青窈のコンサートの良さを知ることは出来やしない。

「小さな幸せ」や「大切な想い」を考えない人が、多くなってしまった。
それが一青窈のコンサートをその場限りで終わらせてしまい、一青窈ならではの個性を削いでしまう。
だから、アーティストの要求に応える以前に、”うた”本来の素晴らしさを考える時なのだろう。


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もらい泣き思考 2006年11月24日 23:49:56

一青窈の情報に溺れると、その本質を見失い、感性を麻痺させてしまい、、、、その結果として、情報に流されてしまう。
そして、客観性を失う事にも気付かなくなってしまう。
だから私は、一青窈に関する雑誌などは、殆ど見ないことしている。

歌が、どんな風に伝わり、心に残るのかは、、、その歌手から放たれる”もの”のみを、どんな感性で感じ取れるかにかかっているから。
どうやら私は、コンサートへ行けなくなると不満が募ってしまい、過激になってしまうようです。

ロック風なもらい泣きに対する意見が分かれるのは、、、、、、、哀しいかな、現実である。
無論、私は、、、、じっくりと座って本物の歌が聴きたい派。

一青窈は、ぎゅうぎゅうに詰め込んだ想いの歌詞を、それが伝わらないはずが無いと思って歌っていたのに、
近頃の意味のないパフォーマンスからは、一青窈の”もらい泣き”が失せてしまい、歌詞の良さを台無しにし、、、
聞き終わっても感動すらしないのに、目先の楽しさに奪われて、それがあたかも良いような事を助長させる事が、全く理解出来ない。

ロック風なもらい泣きが誕生するまでには、もらい泣きは豊富なバリエーションに支えられていて、そのどれにもハズレは無かった。
いつ聴いても、どんなもらい泣きでも、それは正真正銘な”一青窈のもらい泣き”であったのに、
ロックバージョンを意識してからのもらい泣きは、ワンパターン化してしまい、益々、その場限りで、虚しさに包まれた。
歌の質の低下もさること、その声質の低下が、もらい泣きをダメにしてきた。
昔のもらい泣きと聞き比べると一目瞭然であるから、その違いが分からない人は、一青窈のもらい泣きを知らない人に過ぎない。
それでも、あえて、今のもらい泣きを支持するならば、それは一青窈の良さを封印したことになるだろう。

もらい泣きの良さは、その歌詞の世界観を忠実に再現することにある。
歌詞が忠実に再現されないと、歌声も素直に出せないし、ましてや、その想いなんて伝わるはずがない。
それを安易に変えて、歌詞すらも捨て去るパフォーマンスに走る一青窈のもらい泣きを聴いて、、、、いったい何が残ると言うのだろうか。
3年先も、5年先も、10年先も聴きたいのは”一青窈のもらい泣き”であるから、今のもらい泣きが良いなんて言えるはずがない。
一青窈は「もらい泣き」について、友達が段ボールに引き籠もったと言ったけれど、、、、私は、引き籠もったのは一青窈自身ではないかと思っている。
実際に段ボールに入らないとしても、一青窈は段ボールに入るくらいに心を閉ざした事がなければ、あの「ジャングルジム」や「月天心」や「大家」は生まれやしない。
やさしいのは誰です やさしいのは誰です と、問い掛け続けて、、、、やさしいのは、(聞いてくれる)君です との答えを求めた。
即ち、一青窈が「やさしいのは、ここに居る皆さんです」と歌い続けるのは、フラッシュバックを隠してまで優しさを求める弱気な一青窈の声に過ぎない。

もしも、池上本門寺で歌われたもらい泣きが「やさしいのはここにいる皆さんです。」となったら、一青窈は、一番大切なものを捨てたことになるだろうし、
一青窈が、観客に対して、どうパフォーマンスすべきか悩み苦しんでいる過程が、今のもらい泣きの姿なのに、
そんな姿を支持することは、逆に、一青窈の歌をダメにすることに早く気付くべきだろうし、
そして、例の”鋳型”発言の意図を考察すれば、その矛盾点に気付くであろう。


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情熱語録 2006年11月23日 20:00:24

一青窈の原点が、情熱語録にあることや、泣きたいから歌うのが、涙を流すことではないことは、既に書いてきた。
「一青窈の歌が聴きたいのは何故?」と聞かれると、、、、それは泣きたいから、、、、だから、涙を流すことではない。

歌うことに何を求めているのかを考えさせられたのは、それが、今までにない歌手の誕生であったのに、、、、。
だから私は、迷った時は、情熱語録を思い起こしては、その魅力を再確認している。

「他人が書いたものは歌えない。」と言った、、、。それが、一青窈の全てであった。
その事を否定したくはないし、、、出来やしない。
一青窈はレールのひかれた上を歩くようなメッセージを発する人ではないのだから、
それでも、「時代の歌い手」と紹介された一青窈の実力は、未だに眠ったままなのか、、、、しかし、、、
歌い手によって変化されようとも、、、だが、、、その歌の受け止め方が違っても、、、一青窈の歌は一青窈にしか歌えない。

「他人の書いたものは歌えない」
その言葉が、私を支えている。


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切望 2006年11月20日 22:49:32

一青窈が、もらい泣きに込めたものが、失われてしまった。
もはや、一青窈に、期待することも無くなってしまった。
それと同時に、一青窈のもらい泣きは、もう聴くことは出来ない。

一青窈のもらい泣きを聴いて一青窈のファンになったのに、、、、もう、一青窈のもらい泣きは、、、聴くに耐えない。
あんなもらい泣きは、、、一青窈のもらい泣きではないのに、、、、いつまで経っても、、、、もう1年近くも、、、一青窈は、、、、ロック風と称して歌い続けている。

一青窈のもらい泣きを聴きたいと思った時には、一青窈らしいもらい泣きが聴きたいのであって、あんなに変化した歌なんか聴きたくはない。
いくら、、、今のもらい泣きを聴いても、、、、なにも感動することはないし、なにも残らない。
変わって行きたいのなら新曲で変化すべきなのに、一青窈は、安直な方法で変化を魅せようとしているから、代表作を台無しにしてしまった。
そのツケは、いつかきっと跳ね返って来るだろうし、、、、そして失望する。

初期のもらい泣きが今とは違うポップ感であったのは、意識された演出ではなく、その湧き上がる躍動感が歌に込められていたからで、、自然な勢いがあったのに、
今の一青窈のもらい泣きは目先の変化に力を入れるばかりで、、、、何度聞いても、、、何も心に響かない。

ただ、、、、普通に、、、心を込めて歌うだけで、一青窈のもらい泣きは、自然と素晴らしいものになるのに、、、、、。
変わっていく中でも、、、変わらないものを魅せるのがプロではないのか、、、、。
一青窈は、進むべき道を間違えたのかも知れないし、振り返る勇気があれば、別の道が進めただろうに。

一青窈は、Yo & U ツアードキュメントで、今までのファンを裏切るつもりはない旨を言ったけれど、
それは、、、、「裏切るつもりではない」と表現した時点で、そう思われても仕方がないことを意味している。
だから、今の一青窈を見て、、、、私は、一青窈のファンでいられるのかと問い掛けたなら、、、、何も言えない程に哀しく思うだけである。


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輝ける言葉 2006年11月17日 22:23:20

Yo & U ツアー最終日の沖縄の地で、一青窈は、その本心を話した時に口に出た言葉が、
「・・・・家族みたいなものに凄く憧れて生きて来ました・・・・」 だった。

両親を失った一青窈が想い描く家族の風景が、満たされない寂しさの裏返しとして消えないのは、、、その境遇に基づくものなのか、、、、、それとも、、、、
だだ、感受性の強さに基づくものなのか、、、。
人生の一番大切な時期に、一青窈が自らの満たされない想いを形作ったことが否定出来ないが、しかし、それが全てではない事も事実である。
だけど、今の一青窈を形作っているものが、それらの事実である事は間違いではない。
失った者への想いが一青窈の存在を意味することも、失なわなければ気付かない現実の中で、一青窈には、心の奥に秘めたる想いがあるように思える。
幼くして父親を失っただけで家族が失われたことにはならないし、、、、、高校生で母親を失ったから家族が失われたことにもならない。
一青窈にとっての「家族」とは、「家族の風景」とは、形あるものでも、形なきものでも、そのいずれでも”ない”認識であって欲しかったけれど、
認識出来ない想いであるからこそ、憧れる想いとして形作られてきたのかも知れない。
家族の大切さを知っているから家族に憧れるのか、それとも、失われた家族を追い求めて家族の大切さが身にしみたのか。
いずれにしても、、一青窈は、「失って初めて」気が付いたのだろう。

もしも今、一青窈の両親が健在だとしたら、歌手「一青窈」は存在しなかったであろう。
そう考えると、今の時代と一青窈に、感謝するしかない。
一青窈が放つ言葉(歌詞)の数々に輝けるものがあるのは、ともすれば気付かない時もあるけれど、しかし、、、、その輝ける言葉を見つける楽しさもある。
けれども、憧れが満たされると、、、、、、輝きは失われてしまいそうになる。

もうすぐ、一青窈のTV出演ラッシュが始まる。
テレビを通してのライブで活きる歌唱方法によって輝ける言葉を生む事が果たしてプラスとなるのかマイナスとなるのか曖昧だけど、、、どちらにしても、
今の一青窈からは新曲として作詞する為に生まれた言葉が一人歩きをしている限り、輝ける言葉は放たれないであろう。
いくら感情を込めて歌っている風に見せても、それはそうする為に生まれた言葉だから、、、それを、活かす言葉に変えられるのか。

一青窈は、今まで生きてきて、、、本当に幸せだったのか、、、。
家族への憧れの中から、一青窈が、何を考え、何を望んで、どんな言葉が生まれるのか。
それは即ち、一青窈が、新たな一青窈のイメージを作ろうとして、もがき苦しみを乗り越えてこそ生まれるもの。
そして、その苦しみの中から、、何時の日か、一青窈の本物の”うた”が生まれる日を望み、待ちこがれるしかないのだから。

輝ける言葉があるとすれば、「家族みたいなものに凄く憧れて生きて来ました。」と言った、一青窈の心の中にあるのかも知れない。
そして、その中にあるものが、一青窈のうたとして放たれることに凄く憧れて惹かれながらファンを続けて来ました。


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一生懸命 2006年11月13日 23:34:01

一青窈が、歌唱に対して、本当に、、、一生懸命で必死に歌っているのかどうかは明らかではない。
それなりに心を込めて歌っているのだろうが、、、、全力で、持てる力の全てを注ぎ込んでいるのかといえば、、、そうでは無いように思える。
そこそこの力を込めるのが良いときもあるけれど、、、本当に本気な一青窈が歌う姿を見たのは、、、、もう、ずっと昔のような気がしてきた。

これまで、ずっと一青窈ばかりを見てきたけれど、、、、本気を魅せない・・・見られないのなら、、、、一青窈の実力さえ、、、忘れそうになる。
お堂からの案内が届いても、、、、やはり東京へ行けないのは、まるで断られたかのようで、、、近くて遠い存在となった。
一青窈が、変化することの宿命に追いたてれられている限り、私は、一青窈を直視することが出来ないでいる。
良い歌が聴きたいと思っても、、、、変化を楽しむ一青窈からは、良い歌なんか生まれないし、歌唱が真剣でないのなら、、、良い歌声も沈んでしまう。
そんな一青窈を応援し続けることが、、、本当に難しくなりつつある中で、、、、別に、、、、一青窈に飽きた訳ではないのに、
一青窈を見る目が一歩も二歩もひいているのは、、、、、やはりギャップなのだろう。

一青窈の持ち味は、、、やはり気持ちを込めて歌う姿であるし、真剣な態度でもあるのに、、、、
一青窈は「こうあるべき」から「こうしなければ」とシフトすることに意識が行くばかりでは、一青窈の本来の良さが、活かされることが難しい。

可愛らしい一青窈には、、、惹かれるものが少ないと感じるのが、特異な意見ではないと信じているし、
懸命な姿にこそ、一青窈の鋭さが発揮されるものだと信じている。
何時になったら本来の力を出してくるのか、どんなきっかけで眠っている力が飛び出してくるのか、、、、それを待ち遠しく見守るしかないのか、、、、
それとも、その姿を見ることも出来ずに終わってしまうのか、、、、

てとしゃんDVDを観ながら、一青窈から失われた想いを引き戻そうとする虚しさの中で、、、、。


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期待 2006年11月11日 22:01:54

一青窈が、何を目指して歌手をしているのか、、、、どんな歌手に成りたいのか、、、、そんな事よりも、、
一青窈の歌が聴きたい・・・・・・・・ただ、それだけを願っていた。
どんな時でも、、、一青窈の歌の根底は変わらないものだと信じていた。
だけど、、、、今日、てんとう虫を試聴して、残念と言うしかない。
人と同じ歌い方を否定してきたのは、他ならぬ一青窈自身であったのに、、、まるで信念を捨てたかのような歌声を聴いて、私は、失望した。
今までにない、素直でストレートな想いが込められたのが「てんとう虫」だとするならば、大いなる誤算が生まれた。

言葉や歌詞に何を込めるかで活かされて来た一青窈の歌声が、大きく音を立てて崩れてしまったかのようで、そして呆れてしまった。
これが、、、今後の一青窈の歌の道しるべであろうが、、、、一青窈の歌に、、と言うよりは、一青窈の歌声に、魅力が感じられない。
明らかに、一青窈の声が、その方向性を変えてしまった。

女性であれば、可愛く魅せたいと思うことが当たり前な事なんて、一青窈には似合わない。
可愛い歌い方をしたいのなら、、、、それはもう一青窈の歌とは言えない。
本当に、これが、一青窈が歌いたいと思って作られたものなのか、、、、もしも、そうであれば、、、今後の一青窈からは、一青窈の歌が生まれるはずがない。

人の絆をモチーフにしてきた一青窈の歌詞が、人と人の絆から人と人々に変わり、一見してストレートな想いのように見せかけていているつもりで、、、、
しかし、言葉のイメージが漠然としている。
今までのような身近な題材よりも広い視野を見せかけようとするあまり、まるで”もやもやした想い”が羅列された言葉でしか聞こえない。
今の一青窈には、何かが欠けている。
歌手として、、一青窈として、、、最も大切な”何か”が欠けている。
こんな事では、もう、、、アルバム月天心を超えることなんて不可能なことだろう。

てんとう虫は、、、、一青窈らしくない。
その理由は、デビューに臨んだ一青窈の信念が捨て去られた、あんな甘えた声なんか、聴きたいとは思わないから。
それに、既にリリースされいる一青窈の優れた歌の数々が、てんとう虫よりも優れていることが明らかなことだから。
一青窈の歌の中で、、、、てんとう虫の価値を見つけられないでいる。


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真摯 2006年11月4日 22:35:43

一青窈のライブを、他の歌手と見比べる事は少ないまま一青窈のファンを続けて来たが、昨日のWOWOWで、大塚愛のライブを見ると、一青窈とは大きく違うものがあった。
大塚愛は、なるほど一生懸命に汗を流しながら全身でパフォーマンスをしていたけれど、、、しかし、何か物足りないものがあった。
それは私が大塚愛のファンでないことから、冷めた目で見ているからだけではない。大ヒットした”さくらんぼ”でさえも、TVで見た時とライブ映像では、大きく違っていた。
それが何なのかを突き止める為に、一青窈のライブ映像と見比べたら、一目瞭然なことがあった。
それは、歌唱に対する真摯な態度だった。

何も一生懸命に歌う事だけが全てではないから、、、、歌唱の基本として「しっかり歌う」ことが大切である。
歌詞のひとつひとつにしても、丁寧に歌わないと、その想いは伝わらないから、声を張り上げるだけでは聞き苦しいだけだ。
一青窈の歌唱法は、言葉の最後までもしっかりと発声しているから、、、、「雑」な事など全く無い。
それこそが一青窈の歌に対する想いであり、聴く者としても惹かれる一要素である。

言葉を丁寧に発声する事が出来れば、歌手として大成するであろうから、、、、何も難しい言葉を連ねる必要もないが、、、しかし、現実は難しいだろう。
それでも一青窈の魅力は、その「声の質」によるから、、、、両者が上手くかみ合えば、素晴らしい「うた」が生まれるのだろう。
それらを突き詰めて考えると、一青窈の良さの見本となる歌手がいた。
それは、中島みゆき である。

2人の共通点は、その外形だけに止まらず非常に多くて、特に、その声質は、深いところで一致している。
だから、一青窈には、目先の変化で改革を目指すのではなくて、むしろ中島みゆきを目指す方向に進むのが良いのかも知れないと思うようになった。
歌手は、言葉を丁寧に伝えなくては、その想いは伝わらない。
それが作り物ならば、、、伝わるはずがない。


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大いなる錯誤 2006年10月31日 20:51:33

一青窈のファンの誰もが、一青窈のアレンジする歌声を褒めている。
新たな一青窈の始まりであり発見でもある歌い方を、楽しんでいる。
だけど、私は、、、、そんな歌い方を褒めることは出来ない。

自身の代表作をアレンジして歌うなんて、、、、しては成らないことなのに、、、、それとも、アレンジしなくては成らない理由があるとでも言うのだろうか。
以前、一青窈は、一青紙に於いて、「カレーのように飽きない唄を」意識していた。
もらい泣きにも、豊富なバリエーションがあったが、それは、アレンジとは違い、歌う気持ちの数々であって、アレンジとは全く別のものだったのに、、、、、、、
一青窈が、持ち歌本来の良さを犠牲にしてまでも変化を望んだ結果が、今の一青窈のアレンジ崇拝とも言うべき変化への依存性は、
聴く方としても、逆に、飽きてしまう。

テレビから流れる夏川みりの「涙そうそう」を見ながら、その正統な歌い方こそが「夏川みりの涙そうそう」であって、いつ見ても聴いても、美しい歌であった。
アレンジなんか必要としないものこそ、いわゆる本物の歌であり、、、、、アレンジを多用する歌は、自信のない歌であろう。
一青窈が、アレンジして歌えば歌うほど、オリジナルから離れてしまい、、、それは、一青窈の歌としての価値を見失うものでもある。
なぜ、こんなにも、自らの歌に自信を持てなくなってしまったのか、、、。

代表作を、アレンジしてばかりの歌手を、、、、応援したくて、、、、そんな歌を聴きたくて、、、、一青窈のファンになったのではない。
飽きない唄を、どう表現したら良いのか分からないのなら、もはや、アレンジする”もらい泣き”は、止めて欲しいと思っている。

一青窈の、本物の”もらい泣き”が聴きたい。

だけど、、、そうやって一青窈は自分の思うように歌い続けて来たけれど、それが、期待を裏切る結果となってしまう。
変化を望むのならば、もっと違う方法があるのに、、、、一青窈は、何処を向いているのだろうか。


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最後の言葉 2006年10月30日 22:30:58

この一青窈思考は、管理人である私が、一青窈の歌に出合った感動を記したくて、2004.05.15から公開を始めました。
それから約2年以上も、一青窈のファンサイトには無い本音を交えた独自路線を突き進んで来たけれど、、、、、
途中には、紆余曲折ありながら、今日まで続けて来られたのも、一青窈の魅力に尽きる。
だけど、、、私は、もう、一青窈の生歌を聴くことが出来なくなりました。
一青窈の生歌が聴ける機会には、応募すら出来ない事ばかりで、、、、応募しても、落選するし、、、、
一青窈の生歌を聴けずに、この一青窈思考を続ける事も、難しくなりました。

当初の内容からもかけ離れて、、、、一青窈を批判することが多くなってしまっては、、もはや、一青窈ファン失格と言われても仕方ありません。
HPを止める止めると言って来たことが、、、、嘘つき!と言われ続けてしまっては、、、、そうでは無いことを説明する意欲も失せてしまいます。
それに、ここは私の個人的意見だらけなのに、その事を匿名で批判され続けられては、更新することが嫌になりました。
匿名の堂員にも、、、閉口してしまいました。

一青窈のデビューが10月30日だから、、、、ちょうど今が止め時だと思いました。
この一青窈思考は、そのうち終了としますが、私の個人的な一青窈思考が終わる訳ではありません。
一青窈の歌は、今尚、私の心に響く名曲ばかりなので、、、、一青窈の歌に対する想いが消えてしまう訳ではありません。
ただ、、、HPとしては、、、せめて300回まではと考えていたけれど、もう終わりなのかも知れません。
そしていつの日か、一青窈がこの一青窈思考を見つけた時、こんなファンが居た事の「プレゼント」となれば幸いです。

などと、、、考えるようになってしまっては、、、、、おしまいです。


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迷い迷わされて 2006年10月28日 18:53:23

私は、一青窈のファンであるけれど、一青窈の魅せる変化に合わせて、その時々を褒め称えるほどの器用さは持ち合わせていないから、決してしません。
一青窈の、、、、良いと思った所は褒めるけれど、、、、悪いと思ったことまで褒めるほどの気持ちも持ち合わせていません。
自分の思った信念を曲げてまでして、一青窈の歌の演出を称賛することは、自らの想いを否定するから、、、出来ません。
そんな事に惑わされる柔な感覚で、一青窈を応援するなら、、、、、こんなHPは作りません。

見ることの出来ないライブの状況は、ネットサーフィンするしかないけれど、、、
一青窈の歌の良さを引き出すことが、ロックを意識した姿を褒めながら、今回はその正反対をも褒め称えて、、、結局、なんでも良いとする想いの意見なんて、、。
原点回帰に通じるものが、、、一青窈の全てであることは哀しい現実路線だけど、しかし、私は、ロックと言う曖昧な言葉も意味も、受け容れることはしない。
そんな中で、一青窈は、鶴岡八幡宮でのコンサートで、”あこるでぃおん”を歌ったらしい。
一青窈は、一青窈らしさに耐えられたのか、それとも耐えられなかったのだろうか。

ありのままの姿と、一青窈らしさを、、、、、、その両方を受け容れるような無責任な事はない。
ファンの在り方が、しっかしていないから、目先ばかりに一喜一憂どころか一喜一喜していることが、、、結局のとこと、
一青窈が、、、、勘違いしているファンに影響されて、、、その結果として一青窈が迷い、、、その繰り返しの悪循環が、、、、始まろうとしている。
ネットの意見なんて、ほんの一部の考えなのに、、、、、それに影響されるような一青窈ではないと思うのだけれど、、、、、まるでお堂のような雰囲気、、、。

一青窈が、そこを見ているとしたら、、、、一青窈は、、、、どう判断するのだろうか、、、、、それは大きな分岐点でもあるが、、、
しかし、一青窈は、デビューからの姿がファンを惑わしてしまったことと同じ事に直面している。
一青窈らしさも、過去の一青窈も、そして今の一青窈にも、変わらないものがある限り、一青窈は一青窈で有り続けることが出来るのだから。
だから私は、、、、何でも褒めてしまうファンには成らない。

そんな中で、一部のサイトでは、ハナミズキを9.11から開放させて理解しようとしている。
しかし、それは、、、ハナミズキの本質をないがしろにしようとする意見であるから、、、、、それが多くのファンの間に広がることだけは避けたいと思っている。
歌の解釈に正解は無いかも知れないが、、、、、少なくとも、、ハナミズキに関しては、、、作詞家である一青窈が、自らの想いを伝えてきたものだから、
その歌詞に込められた想いすら、MCから無くすことは、一青窈の歌詞への想いそのものをも否定する結果につながってしまう。
深い想いがあればこそ、、、一青窈の歌が活きることは、、、その歌唱法を見ていればわかることで、、、、、それが当初の想いから解き放されて開放を促すことは、
言葉としては優しそうでも、逆に、無責任であり、歌そのものの喪失感を意味することになる。
いつまでも9.11を引きずることは良くない側面があるかもしれないと思うことなんて、、、一青窈がハナミズキを歌う時に、、、、9.11の事を話す事の意義を考えたら、、、
その想いを知らない人に対しても伝えるべき事柄であり、必要不可欠ではないのか。
歌の解釈という観点だけで考えると、誰かが最初に言った「開放」が一人歩きをしてしまい、意味もなく賛同しようとすることを優しさとはき違えているかも知れないが、、、
一青窈が9.11の事を話すことの本質を考えたら、、、そんな安直な示唆なんて生まれやしないだろう。

9.11の事を、今もって言う一青窈の心情と歌詞をリンクさせるだけの想いでは、ハナミズキに込められた想いを、理解することは出来ないだろう。
なぜ、「ハナミズキ」なのか、、、、、歌詞のひとつひとつが、なぜ、その位置に配置されているのか、、、、、
なぜ、「君と好きな人が百年続きますように」なのか、、、、、
一青窈の歌詞説明に含まれる、、、、まだ伝え切れていない想いが何なのか、、、、
MCが無くなると、、、ハナミズキは恋愛の歌としか理解されないであろう、、、、
それを考えたら、、、、ハナミズキを開放させるなんて考え方は、、、、、理解出来ない。

一青窈は、決して、歌詞解釈を求めることはしない歌手である。
だからこそハナミズキは、、、「究極的な世界平和を願っている」のだから、、、その想いを変える必要なんて、、、あろうはずがない。
ただ、平和を願うだけの歌ではないのだから、、、究極的手法論とも言える平和論がハナミズキの本質なのだから、、、
そして、その想いに潰されるような一青窈ではないのだから。

今の一青窈も、昔の一青窈も、同じくらいに応援することは、簡単なことだから。
だけど、、、その簡単な事をしないのも、一青窈の応援に変わりはないのだから。


277

潮時 2006年10月26日 22:15:49

一青窈の本質を見極めたくても、それを知ることすら出来やしないけれど、一青窈の言動からは、その本心を探ることが出来ると思っていた。
歌う姿が歌手一青窈を演じているように見えることが間違いでは無いことが、歌以外の一青窈の姿から、充分に伺えると思っていた。
歌う姿に、何かしら特別な想いを感じる事は、、、一青窈という歌手のフィルターに包まれている限り、、、、、拭えないものだろうと思っていた。
一青窈とは、、、歌のイメージとかけ離れた本質の持ち主であると信じ込まされたのは、、、、、もう通用しなくなるだろうと思っていた。
だから、、、、一青窈は大きな変革を迫られる時を、肌で感じているのだろと思っていた。

デビューから創り上げてきた一青窈らしさが終わりを告げようとしている中で、歌手としての在り方を探すばかりでは、一青窈の未来は限られてくる。
結局の所、一度付いたイメージは、拭えないで終わるのか、、、それとも、何かを魅せるのか、、、、
いずれにしても、、、、まだ、輝けるものを見つけられないでいる。

一青窈とファンを繋ぐひとつの手段が、一青堂である。
一青窈のコンサートに参加すら出来ない堂員がいる。
お堂に、魅力を感じなくなってしまっては、もうおしまいです。
そして、、、、、長く続けて来た一青窈思考を続けることが出来ないと思わされた。
一青窈を応援することに疲れてしまった。


276

歌手 2006年10月24日 23:30:06

一青窈の素顔なんて、誰にも分からないだろう。
歌を発表しなければならない苦悩すら、誰にも分からないだろう。
歌手デビューしてから、一青窈が自らを意識しないつもりでも、”歌手一青窈”が動き出してしまった。
一青窈の”素顔”は、何処へ行ってしまったのだろうか。

人前に出れば、歌手を演じなくてはならないし、日々の行動の全てが”歌手”である事を意識する必要があるのだろう。
その立ち振る舞いを見ても、それは一青窈本来の姿ではない”歌手”という”虚像”に過ぎない究極的には空虚なもので、
即ち、形無き憧れに付加価値を求めているだけ。
時が過ぎれば、憧れも薄れて、いつしか忘れられる存在なのだろう。
歌に込めた想いすら、、、、結局のところ伝わることもなく終わってしまうだろう。

だけど、、、、それは、今までに出合った”歌手”に言えることだった。
そして私は、、、、、一青窈の”うた”を聴いてから、、、、、、一青窈は、今までの歌手とは違うことを知ってしまった。
私は、一青窈マニアかも知れない。

しかし、一青窈が、いくらお堂にコメントを載せたとしても、、、一青窈の本心は、なかなか見えて来ない。
一見、親しみやすく見せかけても、実の所、本心が不明であることが多い。
それは即ち、歌手とは孤独な職業であることを物語っている。
それが私がお堂から遠ざかっている原因かも知れない。

一青窈は、何のために、誰のために、お堂にコメントをするのか、、、
ただのファンサービスならば、、、、、、歌手が泣いている。


275

泣きたい夜 2006年10月22日 2:39:50

招かざる。
あと半年なら、、、せめて、あと3ヶ月。
最後に何がしたいのかと、冷静に考えられるのは、もう無いのかも知れない。
いずれ何も分からずに、思考すら出来なくなっても、、、、それでも苦しむのだろうか。

諦めたら、、、そこで終わる。
だけど、、、、現実は甘くない。
いずれ泣くことも出来なくなるだとう。

覚悟は出来ている。
だから、いまのうちに泣いておこう。
最後は美しくありたいから。

「一青窈のファンでよかった。」
「悔いは無い。」
そう思えるだけでも、、、千回も1万回もアリガ十々。

それはもう、過去の夢だから。


一青窈は、歌うことが好きだからプロ歌手になったのであろう。
デビューから、、、歌うことが自らを表現することであったし、それにも増して、歌うことそのものが大好きだったのであろう。
好きだから、、、、歌うときも活き活きしていたし、、、、、それが一青窈を形創っていたとしても、、、、、、、。

私は、そんな一青窈が大好きだった。

泣きたい夜に。


274

衣装 2006年10月21日 20:40:17

一青窈のライブDVDを見返して、Yo & U ツアーの衣装がNGであったのではと思わずにいられない。
後半とアンコールの衣装は良かったのだけれど、、、、、前半の、あの白い衣装は、一青窈には似合わないと言うよりは、楽曲に合っていなかったのではと・・・。

衣装によって歌の雰囲気も変わってしまうし、、、、、その点は、てとしゃんの時の衣装は、素晴らしいものであった。
ええいああ と しゅるり の時も、その場所に凄く似合っていた。
なのに、どうして、今回の Yo & U では、あんな衣装になってしまったのだろうか。
それまでが良すぎたのかもしれないが、、、、、、しかし、はいらんせを検証した結果がYo &U に繋がっていたのかも知れない。
一青窈の感性は、どうしたのであろうか。
変化を望んだから、あんな風になってしまったのであろうか、、、、、。

実は、、、衣装の変化が、、、一青窈のコンサートに対する考え方を色濃くしている。
はいらんせは問題外にして、過去のコンサートでの衣装は、、それぞれの地でも凄く似合っていたのだけれど、
今回の Yo & U ツアーでは、どうしてあんなものなのか、、、、あの白の衣装は、、、何だったのか、、、
考えるだけで、、、、疲れてしまった。


273

変化 2006年10月15日 19:46:45

大家については何度も書いてきたし、恐らく私が「大家」を聴いた回数は世界一であろう。
繰り返し繰り返し聴いても、その数の分だけ、大家がある。
仮に一青窈が、コンサートで、「大家」ばかりを20曲連続で”うた”ったとしても、私は、その全てに感動するであろう。
それくらい、私は、大家が大好きな”うた”である。

大家は、スポットライトがよく似合う”うた”でもある。
それは一青窈も集中して”うた”えるから、感情移入もし易くなるから。
時には、”うた”うことが辛くなるかも知れない。
だけど、大家こそが、、、”一青窈のアカペラ”を、最大限に引き出せる最高の”うた”だと思っている。
そして、アリガ十々にも、大家と同じことが言えると思っている。

この2つの”うた”は、コンサートで聴きたいものだけど、、、、、、、
しかし、一青窈の心理の変化から、今後のコンサートでは、「大家」が”うた”われる事が少なくなると思う。

私は大家のファンとして根強く、大家があれば、一青窈のファンでいられる。
そして、一青窈の”うた”の良さを求めて、てとしゃん や Yo & U のDVDを観れば観るほど、、、、あの最高傑作である姿見一青也の「ええいああ」に行き着いてしまう。
一青窈の素直な感情が”うた”に対する無欲を生み、無欲なればこそ素朴に美しく輝いて見える。
歌うことが好きで好きで、、、、だだその事だけに一生懸命な姿に見えることが、一青窈そのものであった。
その事を求て行ける限り、私は、一青窈のファンでいられるのだろ。

けれども、、、、、
一青窈は、「二十一世紀の言霊」の最後で、「変わらないわたしのまんま、、、変化して行く私にも付いてきて欲しい。」と言った・・・・・。
そう言った言葉を考えると、一青窈の世界観は変わらないけれど、歌は変化していくことが言いたかったように思えたのだけれど、、、、
よくよく考えたら、、、、一青窈の世界観も歌に対する想いの根底も変わらないけれど、、、、それにプラス α が加わって変化することが言いたかったのだと思ってしまう。
変わっていく一青窈と、変わらない一青窈が、、、、少しだけ眩しかった。


272

うた 2006年10月13日 23:47:36

一青窈の歌が、作曲に恵まれてヒットしたのが「ハナミズキ」であったと思うし、、、、一青窈の歌が、作詞力でヒットしたのは「もらい泣き」であったと思う。
しかし、、、ヒットしなくても、一青窈の歌には、多くの優れた歌詞があった。
その優れた歌詞があればこそ、一青窈のコンサートが成り立っているし、多くのファンを惹き付ける魅力そのものであった。
難解な歌詞は、ひとつの表現方法であるが、難解な故に、考える楽しさも備えていたけれど、
何も、擬音を多用することが一青窈らしさではないから、、、、、”しゅるり”以来の擬音は、もう必要としない。

これからの一青窈に必要なものが”過去の遺産”でないことも、そして新たな一青窈の歌が生まれたとしても、作詞の根底が「原点」を必要とする時が必ず来る。
作詞が難しいと思うようになると、そこからは何も生まれないだろう、、、、、。しかし、溢れる感情からは、素晴らしい「うた」が生まれるのだろう。
じっくり練ったものが出せたとしても、それが受け容れられるのかは、歌詞に対する想いの強さに左右されるであろう。
それは、歌い方にも反映されていたから、一青窈の表情にも、一青窈ならではの想いがあった。

”しゅるり”以来、一青窈のうたは、歌唱力でカバーされていた側面があるが、”ええいああ”では、歌唱力をも超える想いの強さがあった。
ヒットする歌を創りたいのがプロの仕事だけど、ヒットしてしまうと、別の道を進まざるを得なくなる。
一青窈には、ヒットする歌なんか望んではいない。だから、良い歌を創って欲しい。
結果としてヒットすることが喜ばしいことなのに、、、、、、ハナミズキのヒットを結果論と考えると、、、一青窈の”うた”には期待せずにはいられない。


271

姿 2006年10月12日 22:30:15

一青窈は、歌う時の姿勢が猫背な時ほど、力を入れて歌っているが、それに加えて、足の位置が前後している時が本気の印である。
いや、、、本気と言うよりは、、、気持ちが全面に出ている証拠であろう。
ツアーによって歌い方が変化しても、それは一青窈なりの気持ちの表れであろうし、示し方でもあろう。
Yo & U ツアーDVDでの大家を見ても、その事が良く分かる。

そして、アンコールで歌う時の姿こそが、、、一青窈のライブの見せ場であるし、これなくして、コンサートは成り立たない。
普段着がリラックス感を生み、無駄な力が抜けて、一青窈らしい「良い感じの歌声」になれる。
コンサートも終わりに近づくと、緊張感も和らぐからであろうか、、、、それはやはり、気持ちの表れであろう。
それまでに出した声量によって、、、余力をもって歌えるから、、、無理なく良い声が出せる。

衣装変えをもってアンコールとする必要もないから、一青窈のコンサートには、アンコールなんて存在しないと考えると、それは心地良いものとなる。

それにしても、一青窈は、歌が上手い。
歌手だから当たり前の事だけど、良い声をしている。
むしろ、、、、味わい深い。

私は、新曲を聴きたい気持ちよりも、、、、一青窈が、持ち歌を120パーセントの力を出して真剣に歌う姿が観られたら良いと思っている。
それが出来るかは、一青窈の気持ち次第であろうから、、、出来ることなら、お堂イベントで披露して欲しいと願っている。


270

華南体感 2006年10月11日 0:12:47

ダ・ヴィンチ11月号の詩が、一青窈らしさをかもし出している。
一青窈は、まだまだ、こんな詩が書ける力をもっている。
一見、滑稽とも思える型にはまった、、、写真を意識したポーズも、強い志を表す目の輝きと表情からは厳しいまでの闘志がみなぎっている。
そして一青窈は、父の願ったように、きれいなままに生きていたいのだろう。

しかし、それよりも興味を抱いたのは、対談の冒頭にある「まだまだみるべき夢がある。」だった。
この言葉は、何処かで見たような気がして、、、記憶を遡ると、、、一青紙 vol.1なつ号にたどり着いた。
一青紙創刊号に次ぐ第1号は、本門寺ライブ特集号であるが、その中には一青窈の渾身の作とも言える詩が載っている。
その詩が、どうして生まれたのか、本当のところが分からなかったけれど、ダ・ヴィンチ11月号によって、謎が解けたように思えた。
そして、その詩を読み込んでいると、、、、、それが、華南体感に通じる事であることを確信するに至った。

一青窈は、言葉でストレートに表現する時もあれば、逆に、考え込む余り、考えさせられる時もある。
言葉のイメージも、何かに影響されていても、それが何なのか分からない時もある。
それが正に、一青紙第1号に載った一青窈の詩であった。

今までのダ・ヴィンチで書かれてきた、対談相手をフォローするような詩とは、ひと味もふた味も違う。
それこそ、真剣に考えて発表した詩なのだから、、、、
だけど、こんな詩は、もう、書いてはくれないのだろう。

まだまだ見るべき夢がある、、、、、それは、写真家「星野博美」の言葉だけど、
それは、一青窈の思考回路に強い影響を与えて、今日の一青窈を支えているのであろう。
一青紙に、、、「日本には見なければならない夢が多すぎるから」と、書いた一青窈は、いったいどんな夢を見ているのであろうか。


269

16通り 2006年10月11日 0:00:17

BESTYOのリリースにあたり、一青は次のコメントを寄せている。
「くりかえしくりかえしなぞって欲しい。16通りの私。-BESTYO-」

「てんとう虫」以外は知っているものだから、その中の15通りの一青窈だとしても、私には、2通りの一青窈しか見えて来ない。
繰り返しなぞっても、一青窈の歌として見たら、16通りでは無いだろうし、、、、、、それはむしろ、「16の想い」であるから、「16通りの私」ではないと思う。
曲順を通しての1つの完成品として見ると、ベストとは言い難いが、一青窈が、「くりかえしなぞって欲しい。」と言っても、歌の連続性(関連性)を思うと、難しい場面もある。

一青窈の歌は、自らの想いを吐き出した歌と、自らの想いを秘めて創ったものに分類されるから、、、、、その2通りを比べながら聴くと、16通りは感じられない。
では、一青窈自身の気持ちはどうなのだろうか。
自身の歌を繰り返しなぞることはしないだろうし、、、、最初から16通りを意識して創ったとは思えない。
そうなると、やはりリップサービスに思えてしまうけれど、、、、しかし、本当に16通りの一青窈があるのだろうかと想像しても、、、
しかし、ここは、、、、一青窈の手の平で遊ぶのも、良いのかも知れない。


268

写真 2006年10月9日 7:58:55

一青窈が、カメラを意識した写真よりも、、、、、カメラ目線では無い写真こそが、一青窈の美しさを表現している「もの」である。
そんな、カメラを意識していない写真として、最初のファンクラブ会報に載ったものが、、、、一青窈の初ツアー「ええいああ」での歌う姿である。
姿見一青也としてDVDとなった”ええいああ”でのチャイナドレス姿も良いけれど、一青紙創刊号での人としての味わいが見うけられる姿は、どんな写真よりも美しく見える。
勿論、アートブック「ええいああ」での写真には叶わないが、、、、、会報として載ったもので、、、、かつ、その飾らない表情や姿に、一青窈の美しさが出ている。
カメラを意識したポーズよりも、真剣に歌う姿が美しく写るのは当たり前な事だから、、、、、自然体なほど綺麗なものはない。

一青窈の写真の多くが、カメラ目線でぎこちないのは、それこそが一青窈の「作られた姿」であるけれど、
創刊号に載った写真には、そうではない、心惹かれるものがある。
一青窈が言った、「伝えたい想い」が具体化した姿が見られるのも、意識しない真剣な表情だからこそで、、、、、
こんな顔で歌う一青窈こそが、、、一青窈の”凄さ”の表れであろう。
この時の様な姿が、、、、今はもう見ることも難しくなり、、、、、一青窈の真の姿が感じられなくなっても、、、、一青窈の心の中には、その時の気持ちが残っているはず。

初のツアーは、小さなライブハウスから始まった。その時の写真は、どれも良い顔をしている。
そして今は、一青窈は、大きなコンサートホールを満員にして、何万人も楽しませてくれるまで成長しているが、、、
観客の表情も見えない場所では、自身が、どんな風に思われているのか、知ることも出来ないだろう。
観客にライブパフォーマンスを求める事は、不安の裏返しに思えてならないし、、、
しかし、一青窈は、本当は、、、、どんな気持ちでコンサートをしているのだろうか、、、、、私は、その答えを見つけられないでいる。

だけど、少なくとも、、、「ええいああ」の時のような想いとは違う姿が、、、、Yo & U の一青窈であった。
写真は、、、一青窈が言った鋳型とは違い、真実を写す。それは、変わらない姿でもあるのだから、、、。


267

BESTの影 2006年10月7日 6:50:59

ベストアルバムが不要なことは、私見に過ぎないかもしれないが、、、、、
一青窈を表現する場合に、必ずしもベストアルバムが優れている訳では無い。
一青窈の歌を、ベストアルバムで表現することは、逆に、一青窈が言った「鋳型」の集大成でもある。
それを今、あたかも一青窈の代表作の如くにアピールすることが自己矛盾であることに、大いなる疑問が生まれてしまう。
一青窈の集大成としても、それがベストアルバムの名のもとに示されることは、一青窈そのものが理解されない結果でもあるから、安直には歓迎する事が出来ない。
一青窈が伝えようとしたもののベストが、上辺だけの論理では、全く意味を成さないからだ。

うれしいこと 一思案 よりも 生路 音木箱 ジャンルジム は何処へ行った・・・・。

商品化を意識した選曲を、ベストアルバムと称する事は間違いであろうし、、、そもそも、一青窈の歌としてのベストを考えたら、選曲も絞られて然るべきであるのに、
一青窈は、一青窈の神髄から、少しだけずらしたものを発表してしまった。
一青窈の歌として「ベスト」と言えるものが詰め込まれてこそベストアルバムに値するし、それこそが一青窈の「うた」そのものであるべきなのに、
一青窈が歌に込めた想いのベストでない事に、、、、ベストアルバムとして喜べない気持ちが、素直に感じられた。
「BESTYO」が、アルバム「月天心」に迫るものであることは否定しないが、超えるものでは無いことが証されると、
アルバム月天心が一青窈26年の歩みである限り、、、それを超える事はもう不可能になってしまったのだろうか、、、と、考えてしまいそうだから、、、
だから、、、今、一青窈は、自身と戦おうとしているのだろうか、、、。
それは、、、また、自らを精算することでもある。
BESTアルバムを発表することで、過去の一青窈に一区切りを付けたのかも知れないし、、、、自宅の取り壊しの一区切りを付けたのかもしれない。

しかし、やはり私は、、、、BESTYOよりもアルバム月天心が一青窈らしさの集大成だと思う。
それはまた、ええいああの渋谷AXと同じ事でもある。
なぜなら、歌に込められた強いメッセージが失われては、一青窈の進化(真価)はあり得ないのだから。

影のBESTを考えたら、一青窈のBESTが見えてくる。


266

鋳型という名の鋳型 2006年10月2日 23:16:23

鋳型という言葉が一人歩きをしても、一青窈のイメージ戦略に翻弄されることなど決してしないつもり。、
一青窈が、自らが創り上げてきたイメージからの脱却を試みても、それはむしろ不可能に近いことだろうと思うしかない。
一青窈に望むものが、、、、自由奔放な姿なのか、それとも、一青窈らしさなのか、
そのどちらかを選んだとしても、一青窈のイメージに対しては、その結果として新たな鋳型を創り上げてしまうことに過ぎないのだから。
それは、先の見えない”もの”だろうし、一青窈自身も、気づいていることだろうし。

だけど、一青窈は、過去に、その鋳型によって大きな不安を体験してしまったから、、、、、自らが、その鋳型に戻ることを、恐れているのかも知れない。
もらい泣きでデビューし、アルバム月天心も大ヒットしたのに、、、、あの名曲と言われる「大家」が、思いのほかヒットしなかった事が、
大きな誤算となってしまい、そこからの不安が拭えないでいるのだろうか。
確かに、「大家」を細かく分析すると、一般的にはヒットする要素が乏しいと言わざるを得ない。
歌のイメージも深くて暗いから、カラオケで歌うには、難しい側面もある。
Yo & U で魅せた歌い方によっては、「大家」のイメージも少しは明るくなったけれど、、、、、しかし、それでは本来の「大家」に似合わない。

一青窈が作ってきたイメージの一要素に「暗さ」があるとすれば、それは「大家」そのものかもしれないが、、、、反面、強力なエネルギーでもあった。
それを暗さと捉えることは断片的な見方でしかなくて、実は「大家」を歌う一青窈のイメージは、根本的には明るいものであることが伝わらなかっただけのことであろう。
だけど、一青窈にとっては、「大家」は、もはや過去の歌になりつつあることが伺え、少しだけ寂しくなってしまった。
一青窈は、過去のイメージを払拭しなければ新たな自分が生まれないと考えたようだけれど、
Yo & U のように、歌本来の良さを犠牲にしてまで変革する必要があったのだろうか。

鋳型、鋳型と言い続けることに、いったい何の意味があると言うのだろうか。


265

月天心な夜心(よごころ)に 2006年9月15日 22:29:23

一青窈思考を続けて来て、、、、大きな壁を感じている。
一青窈のファンになった時の想いの強さも薄れ、求めるものが無くなってしまった。
年に一度の単独ライブも、、、、お堂イベントも、、、、いずれも縁遠くなり、、、、もう、観たいと願う事も、思わなくなり、
唯一の全国ツアーですら、、、、今後を期待する事も、、、「二十一世紀の言霊」を見てしまっては、もう、難しくなってしまった。
一青窈の歌が、、、、ライブでの演出に重点を置かれて、うた本来の「もの」が失われると、応援する事も虚しくなってしまい、
一青窈が変化しても応援したい気持ちが無いわけではないけれど、私の心の中には、まるで月天心の様な心の穴が空いたままで、
その穴が、暗闇を覆い尽くそうとしている。
一青窈の歌がどれほど優れていようとも、あんなにアレンジを多用する歌い方には、正直なところ魅力を感じる事が出来ないでいる。
アレンジが活かされるには相応しくない演出方法が、一青窈の歌の魅力を損ねていると思うようになっても、
それでも応援しようとは思わないようになってしまったのは、それは、ファン心理を失った結果なのだろうか。
そんな事を感じるのは、もう一青窈の生歌を聴く機会が失われたからなのか、、、、次の全国ツアーに、憧れるものを見つけられないでいるからなのか、
いずれにしても、私は、一青窈の”うた”が聴こえなくなってしまう。

姿見一青也に衝撃を受け、てとしゃんに感動した頃が、一番楽しい時だった。
過去に、優れたファンサイトが終了して消滅していったけれど、この一青窈思考も同じ道を歩むのだけは避けたいと考えていたけれど、
パスワード化しても、どうしても見たい人がいる限り、公開した方が良いのかも知れないけれども、、、公開したくない気持ちが揺れ動いている。
ホームページが、公開だけを目的としていなことを実践してきたつもりなのに、、、、、、
こんなものでも、何かの役にたち、第二、第三の一青窈思考が生まれる事を期待したい。


264

何かが違う・・・・  2006年9月11日 21:38:45

一青窈がパフォーマンスしてまでも求めようとするもの
一青窈に対するファンの心理
一青窈自身の気持ち

それらが、Yo & U ツアーによってまるで1つになったかのように思えたと信じることは、、、、実は、正しくないだろう。
それらは、Yo & U ツアーに違和感を感じられる人のみが理解出来ることでもある。
ツアーの楽しみ方もいろいろあるけれど、一青窈のパフォーマンスに限って言えば、やはり、僅かばかりの違和感が残ってしまう。
それは、歌う時の表情に如実に出ていて、コンサート中の変化を読み取れる人のみが分かること。
そして、その違和感を、、、、一青窈なら理解していることだろう。
一青窈は、まだまだ悩み続けているけれど、その答え探しが試される時でもある。

急がば回れ・・・・・・のことわざが、当てはまりそうにないのだが・・・
近い将来、その答えが、一青窈の口から証される時がくるように思えてならない。


263

アリガ十々 アリガ十々 2006年9月9日 18:21:20

ライブで歌い続けて欲しいし、歌い続けなくては成らない名曲で、ツアードキュメントDVDのエンディングに歌われたアリガ十々。
この歌を聴くと、どうしても涙ぐんでしまうのは、、、、、それは一青窈のせいなのかも知れない。
アリガ十々の歌詞には、「パパ」も「ママ」も「お姉ちゃん」も「わたし(一青窈)」も、そして「忍石」がある。
これは、とても凄いことで、一青窈の作詞に、こんなにも家族が出てくる歌はない。
家族4人全員が、歌詞の中にある歌なんて、、、歌えば歌うほど想い出が蘇るから、、、、一青窈は、泣きながら歌うのだろう。
だから、人の心に響く歌で、、、、しかも、一青窈の歌にしては難解ではないけれど、、、、、心に響く名曲である。
例え何年も経ったとしても、永遠に歌い続けて欲しいし、一青窈にしか歌えない心の歌である。
ドキュメントDVDを観ながら、、、、一青窈の家の庭にある「忍石」の映像を観ながら、、、感慨深いものと同時に、感傷に浸ってしまった。

だけど、、、、、もしも一青窈が、観客をスタンディングさせられた事に何かしらの満足感があるとしたら、、、それは、大きな間違いであろうし、
今回のツアーで、観客がスタンディングしたことは、FCの先導あってのことで、、、それは、インターネット情報に惑わされた結果に過ぎないから、
一青窈が、自分の歌を聴いて立って欲しいと願っているとは思いたくもないし、、、、、
それは逆に、立たせる事を余儀なくさせる演出を選ばなくては成らなくなった結果に、乗らざるを得ないだけであったから。
そして、それは、今後のコンサートの方針を決定させたFCの功罪であって、一青窈のコンサートに於けるターニングポイントでもあった。

それでも、、、一青窈には、アリガ十々だけは、、、いつまでも変わらない歌で歌って欲しいと思っているし、、、、
もしも変わるようなことになれば、一青窈の歌は一青窈の歌で無くなってしまうだろうし、、、
一青窈が、アリガ十々を歌う時の気持ちが変わらないでいて欲しいのと同じように、、、その歌のスタイルも変わらないでいて欲しいファンがいるのだから。
例え、今後も変わっていく一青窈でも、、、、変わっては成らないものがあるのだから、、、、。

それに、私は「もらい泣き」のアレンジが良かったとは、どうしても言えない。
アレンジとして観た場合は、上手く表現させられたと思えても、しかし、あれでは、一青窈のもらい泣きではなくて、誰でもいいただのもらい泣きだったから。
もらい泣きに込められた想いが、アレンジすることで消失してしまう。それを、進化していると考えるなんて、理解すら出来ない。
もらい泣きが、あんな風にアレンジされては、、、、、、、だから、どうしても、もらい泣きとして褒めることは出来ない。

あれでは、リズム感だけの歌に過ぎない。言葉に哀愁の気持ちが込められず、歌詞が死んでしまった。もっとできるはず、、、。

Yo & U ツアーで、一青窈のファンが増えたことだろう。
既にファンであった人も、益々、ファンになったことだろう。
ツアードキュメントDVDが真実を語っているとすれば、スタンディングに拘ったのは、ほかならぬ一青窈自身であった。
だけど、一青窈が今までのファンを裏切らないつもりで Yo & U ツアーを企画演出したとしても、、、
その事で逆に、私のように一青窈から一定の距離を置きたくなった人もいるだろう。

それでも、アリガ十々と言わずにいられない。


262

生まれて良かったです。2006年9月9日18:05:48

Yo & U ツアーDVD 初回限定版のツアードキュメントで、、、一青窈が発した言葉が、はからずも、、、「生まれて良かったです。」だった。
私は、、、あんなにも無防備な一青窈の素顔を見たことはなかった、、、、、。
コンサート中に、どんなに感動的な言葉を奏でても、、、、どんなに一生懸命に歌っても、、、、、それは、本当の意味での素直さではなかったのだけれど、、、、
一青窈は、スタッフとの打ち上げで、本当に無防備な表情を見せた。

生まれて良かったです。
この言葉が言える人が、果たして、、、、居るのだろうか、、、、と。

ツアー最終日の沖縄ライブで、一青窈は、涙ながらに、、、両親の死について語った。
それに、、、亡くなって、もう何年も経つのに、、、両親の死を語る時の一青窈は、いつも涙ぐんでいる。
両親の死を精算したつもりの一青窈ですら、、、未だに、心残りがあるからだろうか、、、。

奇しくも、、、、ダ・ヴィンチ10月号に載った詩を前にして、一青窈の素顔が見えたように思う。

生まれて良かったです。
失った悲しみと、始まった喜びが、一青窈を大きく成長させていることが、、、、まるで「大家」そのものだった。

私は、こんなHPを作っていても、まだまだ未熟なんだと、、、、一青窈から教えられたように思う。

生まれて良かったです。・・・・・・・・崩れそうになりながら、そう話す、一青窈が、一番、素敵な姿でした。


261

時計草 2006年9月8日 22:19:27

ダ・ヴィンチ10月号に載った、一青窈が高校一年生の時の詩に、その時の一青窈の心情を察することの出来るファンが、どれほど居るのだろうか。

あの詩を読んで、
母の死を目の当たりにして、、、、
消えゆく命に対する無情の憤りと虚無感。
癒されぬ想いと後悔の念。
それが、僅か高校一年生の少女の詩の中に偲ばれていること。
だが、それは普通に感じる想い。

「悔やんでるんです もっとできたはず」
この言葉に、この詩の想いの強さを感じる。
悔やんでるん「です」。
この「です」の意味する所は、、、ある人へのメッセージにほかならない。

最初の「悔やんでるんです」が、亡き父に向けたメッセージで
最後の「悔やんでるんです」が、亡き母に向けたメッセージ。

家族を失って、広く感じる家に残されて、、、一青窈の心の中に、深く哀しい「後悔」が生まれた。

なぜ、詩の題名が「時計」「草」なのか、、、、、、それは、母の蒔いた種を取り戻したいが為に、その「時」を戻したい少女の哀しい願いなのかも知れない。

一青窈は、この詩を、「たぶん、もう書けない詩なんだと思う。」と言っている。
残念ながら、私も、そう思う。
なぜなら、、、この詩は、”創られたもの”ではないのだから、、、、、
コンサートで歌う姿も、また同じように、、、創られたものには、、、、、創られた想いしか残らないのだから。

時計草を思い出しても、時間が戻ることはないけれど、、、しかし、思い出だけは心に沁みている。
そして、取り壊された家と共に、一青窈の想い出も、心に刻まれるのだろう。


260

二十一世紀の一青窈 2006年9月6日 23:33:08

Yo & U ツアーDVD初回限定版が届き、早速、食い入るように、そして、かじり付きながら、一青窈の「姿」を追い求めた。
ツアーに挑みながらの迷いも、面白いくらいに楽しめた。
最初からの違和感が中盤まで続き、、、、Yo & U ツアーが、ある種の演出の上に成り立っていることが再認識できて、私の想いに間違いがなかった事も確認できた。
一青窈が、自らの歌に対してのアレンジに拘る理由の一端が、、、、、自らも変わらなければならないと考える必要性からで、それは、アーティストとしての宿命でもあった。
ライブの演出に拘ることの大切さと、その反面としての意味の無さが発見出来ない一青窈に、今後の一青窈のコンサートの進む道が確立されようとしているけれど、
それよりももっと大切なものがあることも、再認識することが出来たのは、図らずも沖縄で歌われた「童神」であったことに、一青窈は気が付いているのだろうかと。
それは、歌手とは「歌い手」であってアーティストではないことに行き着くのだけれど、、、、。

童神を歌う一青窈にアレンジは必要ないし、、、、そもそも、アレンジは何の為にするのかと、、、、、
演奏のアレンジに惑わされることもなく、うた本来の気持ちに重点を置いて聴くと、アレンジが聞こえなくなるのは、目先の変化に惑わされない証拠でもある。
逆に、アレンジを褒め称えることは、一青窈の将来に対する一抹の不安でもある。

コンサートが進むにつれて、、、一青窈も成長しているけれど、、それは、演出が洗練されただけのことで、、、、、
一青窈が伝えたいと思ったことが、強くなった訳でもないと感じることが、不思議なくらいに安心する。
変わらない一青窈を求める事が、一青窈にとっての辛さであることも、、、、それに応える事が出来てこそ、一青窈の凄さの証でもあるのだけれど、、、
一青窈が進歩することに合わせて、ファンの想いも進歩しなければならないと投げ掛けられているけれど、
次の全国ツアーでの一青窈のパフォーマンスが証されたことが、違和感を生んでしまった。

アルバム月天心が70万枚のセールスを生んだ事や、姿見一青也が、一青窈の最高傑作であることに挑戦するには、今のままでは弱いけれど、
自らの歌唱の持ち味も、一青窈が自ら求めた演出に負けてしまいそうであった。

私は、一青窈のコンサートの舞台裏を見てしまい、少しだけ後悔をしてしまった。
物事には、明らかにされない方が良い事もあるのだけれど、、、、、

一青窈が生活してきた家が、取り壊されることになった結果、今後の一青窈から、どんな歌が生まれるのか楽しみでもあるが、、、、、、
もはや、座って、じっくりと聴くことが不可能となった「もらい泣き」を残念に思うばかりで、、、
2年後のツアーまで、、、、とても待つ事ができないで、、、、この、一青窈思考が終わってしまう。

あと何回、一青窈の生歌が聴けるのだろうか、、、、、と、思う悲しさと戦いながら、、、、
一青窈がせき止めていた涙が沖縄の海に消えてしまっても、一青窈に幸あらんことを願わずにいられない。


259

薄い影   2006年9月2日 18:39:10

一青窈の歌が、ライブでロックと評する愚かさを、、、、一青紙ですら、、、Yo & U ツアーで、すっかり定着したロックアレンジの「もらい泣き」と紹介してしまう始末。
確かに、見た目はロックかも知れないが、、、、
しかし、私には、、、、、ロックを装う、哀しい歌に聞こえてしまう。

伴奏がロック風だから、ロックを歌っていると思い込まされているだけで、一青窈の歌から演奏を取り除いて聴いていると、
一青窈は、今まで通りの、もらい泣きを歌っていることに気付かされる。
声質は、全く変化していないのに、表面上の音楽に惑わされているだけなのに、ロックにアレンジして魅せようとする意図が、哀しくなるだけだった。
むしろ、一青窈は、演歌を歌っていた。

ライブで、一青窈た伝えたいとしたものがいったい何だったのか・・・・・
もうすぐ、Yo & U 初回限定版DVDが発売され、「二十一世紀の言霊」を観ることが出来る。
そして私が、一青窈のライブで感じた事の答えが、見つけられそうな気がする。

私は、本物の歌が聴きたくて一青窈コンサートへ行ったけれど、本物と言えるのは、「2004てとしゃん」までの一青窈であった。
アレンジに変化した歌なんか聴きたいとは思わないし、、、、そんな歌ばかりの一青窈では、興味が薄れてしまう。
多くのファンが、、、、一青窈の変化した姿に声援を送ることも、、、、「それは違うだろ!」と思い続けていた。
そんな歌を聴きたくて、ファンクラブに入っているのではないし、、、、今の状態が続けば、もう、どうでもいいと思う。
だけど、、、本気になった時の一青窈の「うた」だけは、もう一度だけでも、生で聴いて観たいと思っているのに、、、、、一青窈は、そうはしない。

一青窈には、薄い影と、濃い影が共存していて、、、、それが、気持ちの変化と共鳴している。
その中の濃い影こそが、一青窈のうたの神髄であるのだけれど、、、、、それは、そう簡単には魅せてくれない。
揺れ動く光と影の中で、、、、一青窈は、楽しさを見せようとしているだけなのに、、、、、


258

笑顔の裏 2006年9月1日 23:35:43

一青紙 夏 13号が届いた。
一青窈の詩が、、、何か、虚しく感じてしまい、、、、、、
楽しそうにすればするほど、、、一青窈の影とも言える、、、、裏側が見えてくる。

ファンクラブ会報でありながら、、、、「あなた・・・・・」の用法が間違っていても、、、、、、
違和感という言葉が、似合い過ぎている。

一青窈の詩から、、、何が伺えるのかと考え、、、期待することすら、、、、もう、意味を成さない。
ライブの写真も、、、、楽屋で楽しそうに振る舞う姿も、、、沢山の笑顔の横顔すら、、、一青窈から、かけ離れてしまった。
一青窈の笑顔満面からは、本当の一青窈が見えてこないし、もしも、それが本当の姿だとしたら、この一青窈思考は、意味が無い。

歌手だから、、、誰にも愛されたいと思い、スマイルを意識しているのか、、、、、、
それとも、本当に、一青窈は、、、、こんな人だったのか、、、、、
私は、本物の歌手を求める以前に、歌本来のもの凄く強い力を、一青窈の歌から学んできた。
楽しいとか、嬉しいとか、そんな在り来たりの感情をも超越した、歌手の持つ無限の力を、一青窈から知らされた。
それは、作られたものでは無いし、与えられたものでも無かった、、、、、、。

なのに、、、、一青窈は、、、、表面上は、時代に逆行してしまった。

そんな笑顔は、もう見たくない。


一青窈は、グッと考えたり、ジッと思考していると、別人の顔を見せる。
それこそが、本当の一青窈の顔で、、、、ある。
だから、、、、道化師の笑顔からは、裏の顔が見えてしまう。
もう、、、、良い子にしなくても、良いじゃないか。

笑顔の裏には、いったいどんな顔があるのか、、、、、それは、、、、過去の失言として蘇り、重くのしかかってしまうのだろう。

一青窈の笑顔を見て、私は、虚しく感じてしまった。
一青窈の詩に、感情も沸き起こらなくなってしまった。
笑顔を、笑顔と見えないのは、間違いであって欲しいのだけれど。


257

泣く 2006年8月28日 23:57:13

一青窈が、Summer Holiday'06〜Love songs Collection〜で泣いた事は、ネット情報から伺える。
中止になったコンサートでも、ファンが待っていてくれたことに、気持ちが昂ぶったらしい。
それを見たファンの誰もが、感激したらしい。
だけど、私は、そうは思わなかった。

一青窈は、プロの歌手として活動しているのだから、、、、そんな事で泣いていては、プロとは言えない。
泣くことは、最後の切り札みたいなものであることは、一青窈自身が一番良く知っているはずである。
心が未熟のせいなのか、それとも、感受性の高さなのか、、、、だけど、結果として泣いてしまった。
しかし、それで、本当にいいのか一青窈!

泣くのなら、、、、歌で泣いてくれ!

恐らく、こんな事を書くファンなど、誰1人としていないだろう。
一青窈の素直な気持ちを受け止めて、素直に感動するファンがほとんどであろう。
でも、それは、本当に、、、、、、それで良いのだろうか、、、、、、と、問題提起したら、また、反感を買われて、嫌がらせをうけてしまうけれど、、、、、
だけど、、、一青窈は、プロ歌手である。
コンサートが中止になっただけで、泣いて良いものなのか、、、、、

私は、泣いた行為を批判しているのであって、泣く姿を批判しているのでは無い。
結果として泣いた事に疑問を感じる。だだ、それだけのことなのだ。
その答えが、、、9月6日発売のライブDVDに示されているように思えてならない。


256

だいじょうぶ  2006年8月27日 23:36:14

2004.03.01 NHKスタジオパークからこんにちは 一青窈の詩の世界

一青窈が、自らの歌詞に対して、その想いを説明したテレビ番組は、これが最初で最後かもしれない。
人生に於ける喪失感から生まれた歌詞が、一青窈の人間としての成長と相まって、独自の世界観として発表された言葉の中に、その人間性が見え隠れしている。
人生に対する応援が歌詞の節々にちりばめられた結果、全てに於いて前向きな姿勢を示されたように思うけれど、、、、そこに至までの深い悲しみを体験していないと
あの歌詞は生まれやしないのだろうし、歌詞として表された結果だけで、一青窈の人生観を前向きと評価するには、安直に思えてならない。
だから、やはり、一青窈は、強くなった”ふり”をしているだけで、深層心理としては、”後悔の念”が、いまだに消化出来ない想いとして悩まされているのだろ。

全てを吹っ切ったように思える一青窈だけど、
なぜ、、、月天心の世界が生まれたのか、、、、
なぜ、、、一青窈は、歌いながら涙するのか、、、、
その理由を考えると、一青窈には、心に重くのしかかった隠された秘密があるように思えてならない。

ジャングルジムに於いて、「だいじょうぶ」と言って欲しい気持ちが、自らに振り返って来ても、、、だれも一青窈に「だいじょうぶ」と言ってくれる人はいない。
なのに、全てを消化して理解しているように振る舞っても、一青窈は、「だいじょうぶ」と言ってくれる人を求めているのではないのだろうか。
反発して払いのけたい気持ちすら、何処にもぶつける事も許されない中で、自分自身に問い掛けているのではないのだろうか。
それらは決して、過去の出来事ではないのだろう。

一青窈の詩の世界は深い。
それは、歌詞が、一見して客観的な内容と言い切れないからで、例え意図的だとしても一青窈自身の問題を含んでいるからなのだろう。
しかし、今は、、、その深さが、少しづつ失われていることが、気に掛かるだけ。

だいじょうぶ・・・・・・・・と、そう簡単に声を掛けられないでいる自分がいる。


255

色あせない 2006年8月24日 0:09:06

姿見一青也の世界が、今なお光り輝いているのは、それこそが一青窈の原点の証であり、渋谷AXを語らずして一青窈を語れないからでもある。
想いを伝えたいと願ったことが、例え、鋳型だとしても、、、、、そんな事など、どうでも良いくらいの最高傑作を前にして、
人間一青窈を、間近に感じられるのは、その姿が純粋であるからであろう。
上手く歌う事を魅せるだけでは、普通の歌手と同じで終わってしまうけれど、、、、、一青窈には、普通なんてあり得ないし、、、、、、
一青窈自身も知り得ない、歌手として大切な想いが、、、、、この姿見一青也には、たくさん詰め込まれている。
過去の自分に、将来の自分の姿が映し出されている事すら、一青窈は気付いていないのかも知れないが、
「ええいああ」こそが、一青窈の全てと言っても、、、、、、言い過ぎではない。
だから、、、、今でも、色あせることはしない。

姿見一青也があるから、ずっと一青窈のファンでいられるし、、、、、ファンである限り、姿見一青也の世界を、追い求めようとしているのかも知れないが、
以後、一青窈は、姿見一青也を、意識して消そうとしてきた。それは、とても残念なことである。

新曲に悩んでも、逆に悩まされないのは、「月天心」の世界に通じる想いでもあるし、
いつかまた、一青窈は、、、、本当の意味での原点回帰を試みるであろから、その時を、じっと待つしかないのかも知れない。
原点回帰が、過去の姿のコピーを意味しないことは、一青窈も充分に承知していることであろうから、、、、、これからの一青窈が、どんな姿で原点回帰を魅せるのか、
凄く、楽しみでもある。
だけど、、、、、、一度で良いから、、、、姿見一青也の世界を、再現して欲しいと願うのは、、、、ファンとしての”わがまま”であろうが、
昨今の、一青窈を見るに付け、、、、その思いが強くなってしまった。
サービスとしての演出も、、、、それを意識する気持ちすら伝わってしまうと、、、、逆に、色あせてくるけれど、、、、姿見一青也に関しては、全くもって色あせることはない。
それは、凄いことでもある。

以前、一青窈が言った、、、、「カレーのように飽きない唄を・・・・」が、どう反映されているのか分からないけれど、
一青窈の歌の世界というよりは、、、、、”詩の世界”の素晴らしさがある限り、一青窈の歌は、色あせないのだろう。

難解な詩の世界から脱却することばかりが、一青窈の成長の証ではないのだから、、、、、ここは今一度、原点に立ち返り、
想いをぎゅうぎゅうに詰め込んだ一青窈らしい歌創りに、没頭して欲しいものです。
それが結局、色あせない一青窈の世界を呼び覚ましてくれるのだけれど、、、、それは逆に、難し挑戦でもあるが、
形にとらわれることが、良い効果を創り出すこともある。


254

原風景 2006年8月21日 23:47:31

一青窈のライブから、知らず知らずに本気の歌声が消えつつある中にあって、アレンジに影響されない本物の歌が、翡翠であり、アリガ十々である。
特に、裸足で歌われる時は、知らず知らずに、裸足の効用が活かされていて、靴を履いて歌う時に比べても、その違いが感じられる。
ひとつのコンサートで、裸足と靴を比較出来るのが、あの「はいらんせ」であり、
その時の裸足と靴の違いによって、歌に込めた想いの違いが、如実に表されている、ある意味、面白い場面でもある。
一青窈が、なぜ裸足で歌い始めたのか、、、、、なぜ、はいらんせで、最初は裸足で歌ったのか、、、、
そして、今の一青窈は、もう二度と裸足で歌おうとしないのは、なぜなのか、、、、
それらの表面上の理由よりも、、本当の理由が知りたくても、その答え探しよりも、、、、裸足の効用の方が、興味をそそる問題でもある。
だけど、、、、それよりも、アレンジを多用することの弊害が、知らず知らすに問題となりつつあるのに、、、、その事を、誰も意識しない事を、残念に思うばかりである。

一青窈の歌の良さと凄さが、アレンジによる多面性に評価の意義があるとする考え方には同調すら出来ないのが私見の根底にあるのは、
一青窈の歌の本質こそが、その、最もシンプルな歌い方によって、最大限に引き出されるに違いないからである。
音楽性の変化に惑わされては、本質を見失うのに、目先の変化に一喜一憂することすら滑稽なことであるし、そんなことは、一青窈の歌の評価に値しないと考えている。
想いを込めて歌う姿こそが、誰にも真似できない一青窈の優れた才能であるのに、その事を封印する一青窈から、
鋳型宣言などが発表されてから、多くのファンが、一青窈の言動に翻弄され続けていることに、、、、それこそ一青窈の術中にハマってしまった結果である。
一青窈が「こうだ!」と言う事に、全く疑問を抱かない方が不思議なくらいで、、、、、同じ考えを共有する事が、無意味な事すら意識出来なくなったのだろうか、、、、と。
それでも、一青窈には、一青窈の姿でいて欲しい気持ちもあるが、「鋳型宣言」が思った程の効果を発揮しないのは、むしろ、一青窈自身の問題なのかも知れない。

私は、今までのPVを、時と共に見直して、一青窈の鋳型が、何処にも存在しないのを確信した。
もらい泣きの一青窈から、指切りの一青窈に至まで、どこにどんな鋳型が存在するのか、理解すら出来なかった。
目先の変化を取り払って見た時に、一青窈の本質は、変化していない事に気が付いてしまっては、何も心配する事はなかった。
ライブは、あくまでライブ用なのだから、、、、、、そんな事に惑わされていた自分から少しだけ成長したのかも知れない。
それに、そんな期待に応えてくれるのが、一青窈の一青窈たる由縁なのだから。


253

目 2006年8月14日 23:50:59

一青窈が歌う時の表情が豊かなのは、その「目」の力が、凄く大きなウエートを占めている。
時に楽しそうに、時に哀しそうに、、、、嬉しそうな時もあれば、寂しそうな時もある。
それらは、口や頬の変化だけでは表現しきれなくて、特に、一青窈の場合は、目の艶で、雰囲気も大きく違って、険しい時もある。
歌の最中は、それらが目まぐるしく変化するけれど、特に、最近は、嬉しそうな表情を魅せることが多くなった。

一青窈が躍動感に包まれると、その姿を見て、観客も楽しくなるが、、、、しかし、私は、一青窈の表情が、今の状態になる前の、
あの、NHKポップジャム初登場で、ステージに座り込んで歌った「もらい泣きの一青窈」を忘れる事が出来ない。
早速、昔の映像を探し出し、見返して見ても、、、、今の一青窈と比較すると、大きな違いがあった。
それは、その目の表情が、、、余りにも無防備なことだった。

一青窈が、歌に対する気持ちが、、、素直であると同時に、謙虚であることだった。
それが、伝えたい気持ちに発展して来たが、それを凝縮していたのが、初期のもらい泣きであり、その表情を残している映像が、ポップジャム初登場であった。
決して、綺麗とは言えない歌い方だけど、一青窈は、躍動感に溢れていた。
歌の表情すら、緊張のあまり口も頬も震えている。だけど、一青窈は、必死に「もらい泣き」を歌っている。
それは、まるで無防備なもらい泣きだった。

そこには、演出する余裕もなくて、、、だけど、、、これから光り輝くであろう「原石」のように感じられるのは、誰の目にも明らかであろう。
右足を前に出して歌う姿も、この頃には完成していたのだろう。
気持ちで歌う一青窈の姿の、、、貴重な映像であった。


252

4分間の奇跡 2006年8月13日 23:02:43

歌う時間は、たったの約4分間なのに、、、、、たったの4分間なのに、、、、それを聴いただけで、もの凄く感動してしまう。
例えそれが同じものでも、何度も聴いても、感動してしまう。
歌手の持つ「うた」が、言葉が、見えない力となって感動を呼び起こす。
そんな中にあって、一青窈の歌は、そこから放たれる1つの単語だけでも、心にグッとくるものがある。

奇しくも、WOWOWで四日間の奇跡を観た。
死を前にして、最後にしておきたい事が、まるで一青窈の”うた”に通じることが、何の違和感もなく受け容れられるのは、何故なのだろう。
一青窈が背負っているものの真実なんで、誰にも分かりやしないのに、、、、、、。
一青窈がデビューしてからも、、、数々の歌手が誕生しても、、、誰1人として一青窈を超える者が居ないのは、、、
一青窈の中にある、日本人が忘れてしまった「奥ゆかしさ」のせいだろう。
人を大切に思う気持ちが、言われてみなければ分からないし、人の心の美しさと儚さも、、、、知らされて気付かされて、、、不覚にも涙してしまった。
涙が頬を伝うだけが泣くことでもないし、、、涙は、心の中で流すことだってある。
一青窈のうたに触れて、色々な事を考え、大切な想いを考え、教えられて、、、、、私は、少しだけ成長したのかも知れない。

失って始めて気づくこともあるけれど・・・・・・・・・その代償は、あまりにも大きかった。


251

死の意識 2006年8月12日 22:25:53

一青窈の、8月7日のメッセージが、気になっている。
いつものリップサービスかと思っていたが、どうも、そうでないような気がしてきた。
一青窈が、正式に「死」について触れた事は、私の記憶の中では、
一青堂の「MESSAGE」と、コロンビアHPの「シトナリ」に続いて3回目ではないのだろうか。

「死」を身近に感じた一青窈ならば、死の意味も、人一倍に敏感なはずであるのに、、、、
あえてお堂のBBSに記したことは、言葉以上の特別な意味が隠されているはずである。
一青窈にとっての「死」は、正に、、、「意味もなく泣きたい夜」に直結していて、それこそ、「死」と隣り合わせな毎日なのだろう。
その気持ちは、一般人が漠然と感じる概念より遙かに高度なもので、悔いのない人生を終えるに早すぎる概念でもある。
一青窈が、そんな事を、何度も言ってしまうと、概念だけが一人歩きをしてしまい、心配な事である。
だけど、一青窈は、「死」という言葉を、デビュー当時から使って来た。
言葉を選び考える一青窈なればこそ、、、、その真意を探ることが難しいのに、、それが、お堂にメッセージとして書き込まれてしまった。
まるで難解な宿題を課せられたのに、例の如く、寂しい回答が続いてしまっては、、、何の意味も無い。


250

CD 2006年8月12日 21:47:39

レコーディングして、CDに詰め込んだ歌声を、ただ真剣に歌うだけで良かった。
かっこよく魅せたり、必要以上にアレンジして変化させる歌い方なんて、聴きたいとは思わない。
譜面に忠実でありながら、その「ことば」に気持ちを込めながら魂を注ぎ込むように力強く歌う姿が、見たかった。
オリジナルを、心を込めて歌う姿こそが、一青窈が一番輝いて見えるから、変なアレンジに力を注ぐ演出なんて、邪道だと考えている。
一青窈の歌に惹かれるのは、オリジナルの強さを感じ取りたいからで、、、、、ライブでの演出なんて、作られた型にしか思えない。
変化を称賛されて、あるいは変化を創り上げることに意義を感じているようでは、一青窈の「うた」は、もう生まれやしない。

ライブについて、どのファンサイトを巡っても、みんな同じような意見ばかりでは残念に思えて成らないし、自然と遠のいてしまう。
一青窈の「うた」が、型にまった「歌」になり、みんな同じに聞こえてしまっては、一青窈の存在が、薄らいでしまうから、
何時の日か、リセットされる時が来るのだろう。

年齢による声質の変化を考えると、一青窈が、渋谷AXの声に戻る事は、もう不可能になってしまった。
それはもう、「戻らない」のではなくて、「戻れない」ことだから。
そして、歌に対する気持ちの変化も、同じようになってしまった。

一青窈は、お堂のBBSに、 「私は めいっぱい 向き合ったと思えるくらい がんばりたい」 と書いた。
楽しくさせるだけが、歌手ではないから、、、持てる力を、100%発揮することが、歌手の使命でもある。

一青窈は、自身の気持ちとして、ライブで、めいっぱい頑張ったと、、、自信を持って言えるのだろうか。


249

スタート 2006年8月11日 23:48:58

デビューから、色々なモノに挑戦しながら、色々なモノを試しながら、一青窈は突き進んできた。
時に感情を込め、時に安らぎ、時に荒々しく弾けながら、、、色んな姿を見せつけてきた一青窈だけれど、、、、今、一青窈は、何を考えているのだろうか。
歌い手としての技量も、時に封印しながら、期待を裏切ったと思わせながらも、その期待も見え隠れさせられて来た。

しかし、一青窈に期待するものは、1つしかない。
一青窈を応援するのも、その1つの期待に応えてくれるのではないのかとの、ある種の願望ですらあるが、
その事を、未だもって実践してくれない一青窈の歌に、期待の持続が困難な状況になりつつある。
アルバム「月天心」を超えることが不可能だと感じてからは、過去を顧みることが不可能なくらいに、
一青窈の歌声の変化すらも、残念に思うことがある。

気持ちを込めようとしても、それが作為的であればあるほど、歌から感じるものが薄れてしまう。
例えどんなに演出しても、気持ちの変化を見つけられない程には成っていないから、虚無感を感じれば感じる程、一青窈がよく見えてしまう。

一青窈のCDの売り上げが、思った程も伸びない事が、単に、人気の変化と割り切って考えて良いものなのか、、、、、
売れようとする歌作りだけが一青窈の持ち味ではないけれど、ヒットしそうにない歌を闇雲に褒め続けて良いものなのか、、、、
何の為のアレンジなのか、、、、、アレンジする事でしか自己表現が出来なくなってしまっただけなのか、、、、、

一青窈が言った・・・・・・「詞は負けたくなかった・・・・・。」気持ちすら忘れ去ろうとしているのか、、、、、

渋谷AXの一青窈が、歌手一青窈の原点だった。
その事が意味することすら理解出来ないのなら、一青窈のファンとは言い難い。
なのに、ファンの間では、今の一青窈を褒めることばかりで、、、、、、それこそ、まるで裸の王様。
しかし私は、今の一青窈こそ、迷路に迷い込んで泣いているように思えてしまう。
だから、、、今だからこそ、、、一青窈は誰にも惑わされずに自身の原点を見つめ直して”スタート”する時なのだ。


248

命題 2006年8月10日 22:54:36

一青窈は、artist なのか それとも singer なのか・・・・・いったい、何処へ進もうとしているのか・・・・・

自身の音楽性を確立しきれないでいる一青窈に、深く注文することが意味を成さないと知りつつも、
コンサートに「静と動」を入れ込むことの繰り返しばかりでは、一青窈離れを拡大するだけで、、、、なんの進歩も感じられない。
目先の技法に走り過ぎると、自身をも見失い、言ってる事とやってる事の齟齬が、アンバランスを通り越してしまう。
長所と短所も曖昧に見せては、結論すら生まれないのに、一青窈は、曖昧な綱渡りから、一歩も踏み出せないでいるように思えてならない。

一青窈にとっての「うた」が、ファンの願う「うた」から離れても、それでも・・・・ファンとして応援しなければならない事はない。
だから、支持出来ない歌い方には、応援しないことにする。

一青窈独自の「装飾音符」が、生きるも死ぬも、一青窈の気持ちにかかっているから、曖昧なものには、ハッキリとNOが言える。
一青窈は、 artist なのか それとも singer なのか。
観客を楽しませる方法は、1つではないし、そればかりでもないのに、コンサートの演出に凝りだすと、コンサートの質も低下してしまう。
その事に気付いていない一青窈ではあるまいに、、、、

ええいああ までは singerの道  そして、、、、、、、しゅるり以降は、artsit の道を選んだように思えて成らない。
一青窈が、お堂に書き込んだ意義は決して、小さくはないのだから。


247

形ある物 2006年8月4日 19:40:37

一青窈の家が、取り壊されるらしい。
幼き頃から慣れ親しんだ家が、無くなるらしい。
いっぱいの思い出に包まれた懐かしい我が家から離れて、新しい家での生活が始まるらしい。
それは、今の一青窈にとっては、千載一遇のチャンスなのかもしれない。

思い入れが強ければ強い程、それが無くなっても、、、、、想い出だけは失われることはない。
それが今、一青窈自身の出来事として身に降りかかった時、一青窈は、どんな歌詞を創り上げるのだろうか。
父母に対する喪失感を繋ぐ形ある物が無くなってしまうと、肌で感じる想いは、もう生まれて来ないだろから、、、、
その、最後の想い出が失われる時にこそ、一青窈の真価を発揮する時でもある。

父親を失って、家を建て替えて、、、、、そうして、過去の想い出から遠ざかる。
まるで、私と同じ。
そうやって同じ事を繰り返す・・・・・・美しい人生。

一青窈の歌が、、、これまで「進化」しているともてはやすことの間違いに気付かされるのだろうから、、、、、、。
本当の進化は、、、、、失ってから始まるのだから、、、、、今後の、一青窈にこそ、その進化(真価)が問われる。


246

立たない 2006年7月29日 22:10:39

一青窈のファンとして、コンサートで、どう振る舞うのがいいのか、、、そんな議論が発展すると、今後はどう振る舞うべきか、、、と、シフトすることの恐ろしさが見え隠れする。
コンサートで立つか立たないかの議論をする愚かさに加えて、、、、、なぜ、立つのか、なぜ、立たなければならないのか、、、の根本がないがしろにされ、、、、
ただ、アーティストの要求に、いかに応えるべきかと考えることが、「音楽を楽しむもの」と言わしめたことに相反することすら考えようとしない。
安直なパフォーマンスを返すことに何の拘りもなくて、、、、特に、ファンクラブとしては、「立たなければならない」とする意見が増えてしまうと、
一青窈の歌はそんな「もの」だったのかと、、、、、失望する。
立つか立たないかは個人の問題なのに、、、、、今もって、「立つと喜ばれるから」との意識があることすら残念に思う。
みんなが立つから立つなんて思わせることは以ての外なのに、持ち歌から自然に立ちたくなるように思わせることなんて、本当は論外である。

一青窈のコンサートスタイルが、一部のファンの影響から始まり、ネット上での悪影響へと拡大された結果から、
周りの迷惑を顧みず、ファン自身が勝手にコンサートを楽しむことに終始していることすら、自覚していないことが増えてしまった。
パフォーマンスに対してパフォーマンスで返すことが、その場限りの繰り返しで終わる弊害すら意識出来ないでいる限り、一青窈のコンサートは、退化し続けるのだろう。

この一青窈思考を続けていて思うことは、
批判される立場に直面してから、その事を実感するから、、、、と、思った事に加えて、
批判しないことも、もっと問題な時があることを知らされた。
だから、一青窈の歌のどこがどう進化しているのかも語らずして、なんの進歩も感じられずに、終わることが情けない。

一青窈は、鋳型を取り払おうとしていると、自ら言っていたけれど、、、、
Yo & U を見返しても、一青窈の鋳型なんて、最初から意識されていないことを感じてしまい、複雑な心境だけが残ってしまった。

アップテンポな歌が「もらい泣き」を払拭していると信じる事は、本末転倒であるが、
歌に込めたメッセージの変革も、同じかもしれない。


245

変わらないもの 2006年7月29日 21:20:02

一青窈がデビューして以来、いったい何が変わったのかと考えた場合、実は、その根底は、あまり変化していない。
外形の変化に惑わされずに、一青窈の歌手としての姿勢に注目すればするほど、その変わらない姿勢の一青窈が居る限り、一青窈に惹かれてしまう。
コンサートが様変わりしようとしても、一青窈に集うファン心理からは、求めるものが大きくなるばかりであるが、その目先の変化ばかりを楽しむことばかりで、
今の姿の一青窈を応援することは簡単なことだけれど、それは、過去の一青窈があってのことで、比較対象も見つけられずに、ただ振り回されるだけではなくて、
目先の変化に惑わされないことが、一青窈を応援出来る信念でもある。
一青窈の多才を認めた上で、その楽しさを信じても、一青窈の変わらない部分を見つけられたことが、嬉しさに繋がる。

一青窈が、ことさら世界平和を願い歌手活動をする事を、何となく違和感として捉えてきたが、
デビュー当時からの変わらない想いの具体制を模索し続けていると、1つの答えに行き着いた。
一青紙vol.1号本門寺ライブ特集号に書き留められた最初で最後の一青窈の渾身の「詩」には、今の一青窈を示唆する強烈なメッセージが込められている。
一青窈が、一青紙に寄せた、最初で最後の「詩」の中には、一青窈が願った「春の夜の夢」があったが、その後の一青窈は、一青紙に於いて、そんなメッセージを
載せることはしなくなった。だから、この一青紙vol.1本門寺ライブ特集号に載った一青窈の詩を読み返したくて、再び、考えてしまった。

一青窈の歌を、人間愛とか人類愛とか、はたは家族愛や無償の愛とする評価の根底すら、この詩を前にしては、薄れてしまう。


244

ファンもいろいろ 2006年7月25日 21:38:49

一青窈のファンサイトも増えてくると、個性的なサイトに出合う時がある。
一青窈について、想いを書き連ねると、時として過激になる時もあるが、、、、、ありきたりな意見を述べているサイトからは、遠のいてしまう。
だけど、本音を語るサイトには、興味も湧いてくる。
個人的な意見だから、別に反論する気持ちもないが、、、、真っ向から相違すると、、、、どうしてそう思うのだろうかと、意見交換したくなる時もあるけれど、
個人的意見は、お互いに尊重したいと思うようになった。
だけど、、、、、、明らかに勘違いしているのかと、、、、、逆に、考えさせられてしまう。
果たして、私の考えが100%特異なのかと思われていると、少しだけ不安になるが、、、、なんて事は全くないから、ここは、私見を整理した方がいいと考えた。

一青窈の歌が、一青窈にしか歌えないのは、その、とても優れている独特な歌唱法によるところが大きい。
それが、何時しかファンの間では、、、、新曲の度に進化しているともてはやされたが、、、、、進化の方向性が全く違う認識となり、意見も二極化してしまった。
一青窈に心酔すると、その全てを応援し、、、、決して批判はしない。
そのことが進むと、一青窈のどんなパフォーマンスも受け容れてしまい、一青窈と同調する事を望む心が強くなり、自他共に一青窈のファンとなる。
しかし、それは、今までの歌手のファン行動と全く同じで、実の所は、また同じ事を繰り返すファン心理に過ぎない。
歌手としての歌唱法や演出に進歩が見られても、そのことがイコール=進化と言ってしまうことは、安心論に過ぎない。

一青窈の歌で一番何が聴きたいのかと問われた時に答えたものが深層心理なのに、進化と捉えてしまっては、意見のしようが無い。
いろいと説明されてから理解したと思い込むことがいかに無情なことだろう。
だから私は、一青窈の姿から感じられる事だけに重点を置いて思考しているから、そんな部類には入らない。

一青窈のライブで、また観たいものはと尋ねられたら、私は迷わず、「姿見一青也」の世界と答えるし、それを非難される道理などありやしない。
昔の一青窈は良かった。それは間違いではないし否定されることも無い。
良いものは良い。だから、昔の一青窈の姿に憧れることを批判される道理など存在しない。

一青窈の為に、、、一青窈の思うがままに応えようとすることが、、、スタンディング反対派の気持ちなんて考えていない証拠でもあるし、
それが、一青窈が言った ハナミズキの想い に反していることすら、理解出来ていない証拠でもある。
それなのに、、、、、、、ファンとは身勝手な存在であるばかりか、利己的で、、、、、。

一青窈には、普通の歌手でいて欲しくないから、色々と意見したくなる。
言い換えれば、、、意見したくなるくらい気に掛かる歌手である。
されど、その事を知った上で意見するかしないかの違いでもあるが、ここを一青窈が見たら、苦笑いするだけだろう。


243

惑わされ 2006年7月22日22:04:26

一青窈の歌が変化してから、その変化を受け容れる気持ちが湧かないのは、私の心の狭さなのかも知れないが、しかし、、、
”歌うこと”が、”一青窈の力強さを計るもの”だった頃が、一青窈が一番輝いていたのに、、、、、今の一青窈の歌からは、一青窈の本当の気持ちが感じられない。
歌詞に、明らかなメッセージを込めることばかりに気を取られると、待ち遠しかった”一青窈のうた”から遠く離れてしまい、
そこに込められたメッセージに感動することが難しくなってしまった。

一青窈が、新たな一青窈を魅せようと努力すればする程に、「それでいいの?」と、考えてしまう。

「詞は、負けたくなかった。」
その気持ちを大切にして来た一青窈なのに、、、、、一青窈の歌からは、その気持ちが感じられない。
今の一青窈が、ことさら社会問題を題材にしても、、、、「詞は負けたくなかった」と言った、、、その時の気持ちが、失われてしまったのか。
即ち、一青窈の歌から、、、「絆」が消えてしまった。

何かに影響されて一青窈の歌が生まれてきたのは、一青窈が感じたままの想いを”うた”にしただけでは無かったはずであるのに、
一青窈の歌が、ストレートな感情表現と化してしまえば、、、、、誰にも負けたく無かった詩は、、、、もう、生まれない。
誰かの為に歌詞を創ることが目的化するばかりでは、、、、その詩は、もう進化することはない。
負けん気を力にして生まれた一青窈の詩(うた)は、一青窈にしか歌えなかった。
なのに、最近の歌は、一青窈でなくてはならないものが無い。
失ったものに気が付くのは、その大切さを実感した時まで分からないものだから、今の一青窈には、その事が分からないのだろう。
ネット情報すら、時としてプラスにもマイナスにもなる。まるで、その陰に惑わされた結果が、、、今の姿なのかも知れない。

一青窈から、また一歩・・・離れてしまったのか・・・・。

新曲が・・・発表されても、、、、単に一青窈らしい歌で終わってしまうように思えるのは、一青窈が、”一青窈らしさ”を意識する限り、変わらない。
メッセージを放つことも大切かも知れないが、それは、二次的な事なのに、、、、一青窈が、一次的を意識し過ぎることが惜しいと同時に、残念でならない。
それは、、、、いつまで経っても、アルバム「月天心」の想いを乗り越えることが出来ない一青窈の陰の部分なのかも知れない。
何時の日か、アルバム月天心を超えることが出来るのだろうかと、願わずにいられない。


242

言葉の迷い 2006年7月20日 23:46:51

一青窈は、もう、アルバム「月天心」を超える事が不可能になったと、断言出来るほど、言葉に迷っているのだろうか。
良い歌が出来たと褒めるばかりが一青窈らしさに比例しないから、何故かしら消化不良の感が歪めない。
そして、難解な言葉を駆使することと、想いを詰め込むことが交錯してしまうと、逆に一青窈らしさが示されていないのに、
新曲が出ると、「一青窈らしい」と思い込み、誰もが無条件に褒めてしまう。

だけど、その事を疑問視する人は、もう誰も居ないのだろうか。

一青窈が目指す歌手像が、一体、誰に対しているのか、
一青窈が、歌手として目指すものが何なのか、
その表現方法からは、分かっているようで、実は、本当の事は分からないことが多くなった。

一青窈が目指す平和への願いとエコロジーが、歌手活動からは、どれ程の効果があるのかも未知数であるばかりか、
一青窈自らが、自身の進むべき道を模索した結果としてと言うよりも、、、、無理に、その道を作ろうとしているとしか思えない。


241

ドキドキ感 2006年7月7日 22:00:23

一青窈のTV出演を見て、ハラハラドキドキしていた頃が懐かしくて、昔の映像を探し出しては懐かしんだ。
本番で歌う姿に、「ちゃんと歌えますように・・・」と、変な応援をしていた頃が、一青窈に夢中だった。
上手く歌えなくても気持ちが伝わると嬉しく思えて、音を外すことにも親しみを感じた。
緊張する姿すら、一青窈の美学でもあった。
そして何よりも一生懸命な姿こそが、一青窈そのものだった。

しかし、最近の一青窈には、そんな雰囲気が見られなくなってしまった。
歌唱にしても、想いを伝えたいとする気持ちも、その全てが、歌手としての「演技力」に思えるのを通り越して、明らかな演出に過ぎない。
作られた姿からは、本当の気持ちなんて伝わりやしないし、、、、と、思うことが多くなってしまった。

一青窈は、楽に歌唱している。

余裕をもって歌う姿に、歌が上手くなったことと反比例して、、、、、伝えたい想いの強さと優しさがにじみ出なくなったのは、
一青窈としての鋳型を外すと決めた意識改革の結果なのだろうけれど、、、
それが一青窈自身の気持ちの変化なのだろうから、もう、昔のような想いで歌う事は出来やしなのだろう。
一青窈の歌を聴いて、私はもう、ドキドキしなくなってしまったのか、それとも、一青窈の歌には、ドキドキさせる力が無くなってしまったのか、、、
私は、その答えを確かめて納得する事を、拒んでいるのかも知れない。


240

売れない方が良い・・・・2006年7月5日 21:02:56

歌手ならば、自らの作品がヒットした方が良いに決まっていると考えていた。
だけど、一青窈に関しては、ヒットしない方が良い・・・・・売れない方が良い・・・・・と、考えていた事に変わりはない。
大ヒットしてしまうと、歌が変化してしまい、、、、、その結果として、歌手自身が潰れてしまうことは、歴史が物語っているし、、、、、
それに負けない歌手なんて、ほんの一握りしかいない。
良い歌を出せばヒットして、その次の歌のプレッシャーになってしまい、その結果として、次の歌が変化してしまう。

一青窈がハナミズキのヒットで得たものは、「一青窈らしさ」と言われる虚像に過ぎないから、、、、、その後の 影踏み や かざぐるま が、
一青窈にとっての足かせになってしまった事に気付いたのは、外ならぬ一青窈自身であったのだろう。
一青窈らしいと言われるような歌が求められても、一青窈にとっての「らしさ・・・・」は不要なものだから、それに反発するかのような新曲を発表しては、
まるで反抗期のようで、、、、その事が、ギャップを生んでしまう結果になってしまった。
歌いたい! と思う歌が出せないでいるのは、「鋳型」と称して、実は、鋳型でも何でもないものに対しての重圧を感じているからだろうとも考えてしまう。

溢れる才能だけでは、多くの人に支持されない。なのに、なぜ一青窈の歌が、幅広く支持されるのかは、、、
形にとらわれない姿に共感出来ると感じたからで、計算高い戦略なんて、感じられなないほどの自然体のような歌い方だから、、、、。
だけど、、、一青窈は、今、、、、、初心を、忘れ去ったかのようにしているとしか思えない。

歌が、なぜ、人の心に響くのか・・・・・・その答えを思い出させてくれたのが、一青窈が出演したトップランナーにあった。
何故、一青窈の歌を聴いてもらい泣くのか、、、に対して、一青窈は、嬉し泣きな状態で歌っているから、その気持ちに共鳴するのだろうと答えている。
即ち、それは、ストレートな感情表現が、歌に込められている事を物語っている。
だとしたら、、、今の一青窈に、その時のような想いがあるのだろうか、、、、、と考えると、、、、実は、残念な結果に行き着いてしまう。

私は、一青窈の歌は売れない方が良いと思っている。
それこそが、そこから、、、一青窈が生まれ変わるのだろうと信じているファン心理に繋がるのだから。


239

 2006年6月28日 22:01:01

一青窈が、スカパー!の番組「二十一世紀の言霊」(フジテレビ721)に出るらしい。
番組紹介HPを見て、私は、違和感しか感じ得なかった。
書いてある事の全てに、、、、、この番組が見たい!と思えなかった。

デビュー以来の印象が作られた鋳型であり、そこから自らをさらけ出すことを覚悟したそうだけど、、、、、
それが、アルバム「&」であり、Yo & U ツアー であったそうだけど、、、、
番組の紹介文だけをみると、とても興味をそそる内容だけれど、私は、あえて見たいとは思わない。
ましてや、「言霊」と称することに、、、言葉を「紡ぐ」と表することに、、、一青窈を、ことさら特別視することに、同調することが出来ない。
一青窈の歌に「言霊」なんてありはしないし、「言霊」と信じさせられる非現実性に、拒否反応してしまう。

一青窈は、音楽が好きで、歌うことに自らを問うて来たのではなかったのだろうか。
なのに、アルバム「&」が新たな一青窈の始まりとも思えないし、ましてや、Yo & U ツアーから、新たな一青窈が表現されたと感じさせられることは、
それこそ、一青窈の言うがままに思わされてしまい惑わされているだけではないのだろうか。

見た目のパフォーマンスに惑わされると、まるで新しい一青窈のように思えることは、むしろ錯覚で、、、これまでにない一青窈の姿があるとすれば、
それは、逆に、新たに作られた一青窈の姿ではないのだろうか。
むしろ、WOWOWで放送された Yo & U の音源だけを聴いていると、その声質は、「姿見一青也」に近づいたように思えてならない。
アルバム曲として歌われた Banana millefeuille や ピンクフラミンゴ にしても、その表面的なパフォーマンスに惑わされているだけで、
指切りやアンモナイトの歌唱が、、、、その事が新たな一青窈だと信じ込まされるほど安易なことはない。

強いてあげるとすれば、一青窈の歌詞の特徴が変化しただけではないのだろうか。
恋愛の歌詞にシフトすることで、、、、素直な一青窈を表現する風に魅せることが良いのか悪いのかが問題ではない。
一青窈が、歌手としての過去を振り返った時に、いったい何が残っているのかが大切なことなのに、、、
好きなように振る舞うのもいいが、一青窈が一青窈であることが、どんなに大切なことなのか、、、、、その答え探しが、難しい時なのかも知れない。


238

蘇る感動 2006年6月23日 23:54:22

WOWOWでYo & U 東京国際フォーラムを見て、やはり一青窈は素晴らしい歌手なのだと知らされた。
歌唱力も、演出も、表情も、その全てが"一青窈"になっている。
前かがみな猫背も懐かしくて、それも美しい女性に見える。
アンモナイトで活き活きとした姿を魅せてからは、一青窈ワールドに包まされた。
歌手としてのキャリアが一青窈を成長させているのが、逆に歌手としての演出なのかは、それはもう、どうでも良いくらいに、Yo & U の中で、一青窈は輝いていた。

全国ツアーを重ねる毎に、歌手としての力を身に付けてきたことが、一青窈の人気を支えているのだろうが、、、、反面として派手さが気になるところでもある。
しかし、熊本Yo & U の方が、歌唱に於いても、唇を尖らせながら必死に歌っている姿すら美しくて、そして素晴らしかった。
一青窈の凄さを知るには生のコンサートに限るのだけれど、その善し悪しが、一青窈の気持ちに左右されていることも知らされることがある。
ライブの回数を重ねる事で、試行錯誤が行き着くのも、一青窈の魅力でもあるのだが、そして、その度に、一青窈は上手くなっている。
その微妙な変化を知ることも、ファン冥利に尽きるが、ただ単に歌だけを聴くのでは、その根底の凄さと素晴らしさを実感出来ないことが残念なだけ。

一青窈は、歌手として、素晴らしい程に成長している。
ライブでは数々のアレンジもこなし、変化も満載で、全ての人が満足しているのも良く分かる。
新曲に期待するファン心理も、理解できない訳でもないが、、、。

そして一青窈は、アンコールで、アリガ十々を歌った。大家も歌った。
それは、スポットライトがよく似合う、一青窈の名曲であった、、、、
大家を、楽しそうに、時に悲しそうな表情をしながら、、、、。
どうして、大家を、そんなに悲しそうな目をして歌うのか、、、なかなか歌わなかった大家を、どうしてそんなに想いを込めて歌ったのか。
熊本での大家とは一味違うけれど、本物に近づいたような大家を、、、どうして歌ったのか。
アリガ十々も、まるで渋谷AXのようで、、、、、、映像として見ると、私は泣きたい気持ちになった。

そんな Yo & U で、一青窈が躍動する姿を目の当たりにしても、、、、やはり私は、最後は、別の想いに至ってしまうのは、、、、
一青窈が、どんなに上手に歌って演出しても、、、それが、どんなに優れた歌唱力だとしても、、、、今の一青窈が、どんなに気持ちを込めたとしても、
気持ちで歌う一青窈の原点と比較してしまう。
Yo & U で、一青窈が、演出することに慣れ親しんでしまったことが、少しだけ残念なことだから。

一青窈が、ライブを上手にこなしているように思えてしまうのは、なぜなのだろうかと自問しながらも、はいらんせよりも何倍も優れた Yo & U を楽しんだ。
それがコンサートに於けるエンターテイメント性を、素直に喜ばしいと思った複雑な心境と同時に、一青窈の歌で涙しなくなった理由なのかも知れない。
私は、本物の音楽は楽しむものではないし、本物の音楽なればこそ楽しむだけのものでもないと思っている。
何時の日か、全てが本物として、、、、一青窈の、飾らない歌声が聴けたらいいと思ってしまった。


237

手のひらの遊び 2006年6月17日 23:44:59

一青窈の歌に翻弄されているのを知りつつも、その手のひらで遊ぶのも、心地良いと知らされるのに相当な時間を要した。
逆に、一青窈の手のひらだからこそ、遊んでいられるのも、心地良いと感じるようになった。
変幻自在な一青窈の、その時々の姿に、、、、時に落胆したとしても、、、、それは、一青窈の手のひらでの遊び。
コンサートスタイルがアーティスト風に変化しても、それは、一青窈の一面に過ぎないから、その一時をもって真剣に考える事も、手のひらの遊びに合わせている。
だから、一青窈に、あまり高望みをしない方が楽な時もある。

だけど、一青窈には、多くを望んでしまう。
それが、デビュー当時の想いに繋がるのだから、、、、。

ありきたりの歌手ではないものが、一青窈の中にある。
それが、時として”オーラ”となり、とてつもなく素晴らしい一青窈に出合う時がある。
それが、また何時の日になるのか分からないけれど、それまで、一青窈の手のひらで遊ぶしかないのだろう。


236

望春風 VS 蘇州夜曲 2006年6月17日 23:04:09

望春風は、言わずと知れた一青窈のコンサートで歌われて、何度聞いても良い歌だと思う。
蘇州夜曲は、はいらんせで歌われた。
デビュー前のレコーディングで、どちらを歌うのか悩んだそうだけれど、望春風を選んで正解である。
はいらんせDVDを観返ししても、蘇州夜曲は、望春歌には叶わない。

一青窈の歌は聴いて心に響くものだけど、蘇州夜曲には、それが薄いように思う。
即ち、歌唱に、、、、訴えるものが無い。

人の絆や心情が、短い歌詞にも溢れると、一青窈の独特な抑揚にプラスされながら、まるで訴えるかのように表現されるものなのに、それが蘇州夜曲には感じられない。
私は、”はいらんせ”に関しては、前半の歌唱を除いては、辛口にならざるを得ないから、、、、。
NEWS MAKER 2005/No.199 を読んでも、ライターの意見に同調すら出来ない。

抑揚こそが一青窈の気持ちの表れだから、、、、。
てとしゃんの望春風を観ると、歌い終わってからの満足感が伝わってくる。

一青窈がやる事成す事の全てが素晴らしいと絶賛できるほどの感覚には、成りきれないでいる。
それが普通なのだと思える事に、なんら不安も感じない。


235

学歴 VS 人歴 2006年6月17日 21:23:02

一青窈は、いわゆる高学歴な部類に属し、かつ、血筋が高いとされている。
しかし、そんな肩書きは、何の役にも立たないのが、歌手の世界。
ファンとしても、そんなことなどに関心はない。
それなのに、そんな事を知らされると、ある意味、一歩退いてしまう。

歌が全てであり、一青窈の価値基準でもある。
一青窈は、歌手であり、それで勝負をしているから、ファンも、それに応えなくてはならない。
良い歌を発表すればファンも増えるし、そうでなければ、ファンも去ってしまう。
過去の実績も、いつの日か忘れ去られる時が来ても、一青窈が、歌手としていられるのか、その気構えを持ち続けられるのかが、一青窈の技量でもある。
それに、引き際が美しいと記憶に残るけれど、続ける事の方がもっと大切なこともある。
しかし、肩書きだけは、一生付いてくる。

一青窈は歌手だから、歌うことが全てのはずで、常に新曲を意識する厳しい世界にいる。
良いものが出せなくなると、悲しい結果となり、、、、、、肩書きは助けてくれない。
歌手としての一青窈に惚れ込んだのだから、そして、その実力に魅力を感じるのだから、バックグラウンドはあまり意識したくない。

そんな事で人を見る目が惑わされるほどに、ファン心理が麻痺しないように心掛けている。


234

凄さ 2006年6月15日 23:03:13

一青窈の歌を聴いて、「凄い!」と思ったのは、姿見一青也の世界だけど、それ以外に凄いと感じたのは、2004てとしゃん であったり、2003FNS歌謡祭である。
感情を込めて歌う姿に加えて気持ちを込めた歌い方こそが、一青窈にしか出来ない表現方法だから、その演技力を超えた心象表現こそが、一青窈の凄さである。
上手く歌う姿よりも、気持ち全開な想いこそが聴衆にも伝わるものだから、その時々の偽りのない姿に、一青窈の美学すら感じる。
その事は、何度も書いてきたのだが、、、、。

一青窈が本気になった時の歌は、凄い!
それは、一青窈が、一青窈自身と戦っている姿だから、つけ入る隙も無いくらいの瞬間だから、、、、心底に一生懸命な姿にこそ、美しさが残るものだから。
そんな姿を、、、、一青窈は、封印してしまった。
・・・残念なことである。

歌手としての表現方法として、一青窈は、一青窈の姿を封印してしまった。
それから、”さよならありがと”のような優しい歌い方が生まれてしまい、それがまるで、、、、一青窈の路線変更を示すかのようで、、、、。
一青窈は、その凄さを、魅せようとしなくなってしまった。
歌唱の上手さからは、一青窈の凄さは感じられない。それは、一青窈の”本当の凄さ”ではないのだから。


233

翡翠の物語 2006年6月10日 19:31:49

梅雨時の今だから、一青窈の一押しの歌は「翡翠」です。
私は、翡翠について、今までに何度かコメントしてきたが、それが男女の恋愛をモチーフにして作られているとするのは、一部分の解釈に過ぎなかった。
翡翠の本質的な解釈が、歌詞としての翡翠からは理解出来ないことは明らかなので、、、
なぜ、翡翠が、玄人好みの歌なのか、、、、それは、ART BOOK ええいああ の翡翠物語に、大きなヒントがあるから、

宝石の翡翠と、雄雌の翡翠を基礎にして歌詞を解釈することは、ネット検索の限界でもある。
だけど、”翡翠物語”には、男女の恋愛だけではない、もっと深い翡翠の意味がある。
一青窈が、ART BOOK ええいああ に、わざわざ載せた翡翠物語だから、、、その詩の中には、もっともっと深い想いが偲ばされている。

”翡翠物語”を載せた ART WORK に注目すると、その詩は、前段と後段に分かれている。
それが、想いをぎゅうぎゅうに詰め込んだ歌詞としての”翡翠”に繋がっているから、その両方を読み比べると、歌詞としての翡翠の素晴らしさに驚らかされる。
特に私が惹かれたのは、、、翡翠物語の「・・・ママの宝石箱に閉じ込められた・・・・・・。」の一節です。

一青窈は、宝石の翡翠と、男女の翡翠を、ただ単に、言葉の遊び心で用いたのではない。
宝石の翡翠こそが、亡き母の想いとしての深い悲しみに包まれているのは、ART BOOK ええいああ を手にした者だけにわかること。
そして、その重さは、、、、宝石に詰め込まれた想い出よりも、、、重いものはない。

翡翠物語と翡翠を読み込むと、、、、、翡翠が、母の宝石箱の翡翠(ピアス)に詰め込まれた深く哀しい想い出であることに気付かされた。


232

 2006年6月7日 20:41:43

歌謡曲としての歌詞が活きるも死ぬも、その歌い手の技量によるから、例えどんなに優れた歌詞でも、死に滅んでしまうかも知れない。
想いを込めた歌詞が、そう簡単に理解され共感されると言われても、本当に理解しているのか疑わしいし、言葉だけで理解出来るほどの”もの”を備えている人は少ない。
だから、安直に、「届いた!」なんて言えないし、そんな無責任なことなんて書けやしない。
言葉ほど優しくて、易しくて、そして難しいものはないのに、表面上で理解したつもりでは、本質を見誤るばかり。
何時からあんな場所になってしまったのか、誰ひとりとして、本質を述べているものは居ない。
何に共感出来たのかも、抽象的な文字ばかりでは、、、、、、考え込んで作ったものを、簡単に理解されたと言われることが、時として虚しいこともある。
公式で、、、作者不明の歌詞ならば、そこに何が見えますか?


231

純粋 2006年6月5日 22:36:49

デビュー当時の一青窈が、歌に対しても、芸能活動に関しても純粋だったのは、姿見一青也やトップランナーを見ると良く分かる。
コンサートに於いて、伝えたい気持ちを素直に表現するのも、例え「歌手一青窈」を意識していたとしても、一青窈は、1人の人間として、歌うことに真剣だった。
それは、誰にも負けない歌詞を創った自信でもあったはずである。
デビューから、全力疾走をした結果が、今の一青窈の姿であるし、それは、実力でもあった。
だけど、歳月は人をも変えてしまう。

一青窈に、こんな質問をしてみたい。
「あなたは、純粋ですか?」
この問いに、一青窈なら、どう返してくるのだろう。

一青窈は、自分のポジションを意識し過ぎているように思える。
それが、最近のコンサートスタイルに示されているようで、特に、アレンジと評されるものを意識してからは、一青窈のスタイルは大きく変化してしまった。
持ち歌ですら、全く別の雰囲気へと変革すれば、一青窈のイメージを壊してまでも、気持ちだけが弾けている。
それが、評価を失い、いずれ自身へ跳ね返って来ても、その時まで、ずっと、続けるのだろう。
しかし、歌手一青窈の原点は、例えそれが創られたものだとしても、「歌うことへの純粋な気持ち」だったはずである。

以前、一青窈は、「泣くために歌う」と、言っていた。
その深層心理は、泣きたいから歌うのではないし、泣くために歌うのでもないと思っている。
むしろ、歌うことは泣くことに等しくて、泣くことの裏返しが、歌うことでもあるのだろうと思っている。
泣く行為は歌うこと、即ち、歌うことは泣く行為そのものだったはずである。
一青窈が、歌に対して純粋であれば泣けるし、その純粋さは、気持ちが美しいだけでは無いのだから。

泣く、、とは、ただ涙を流す事ではない。
歌いながら泣きそうな仕草を魅せる演出ではない、、、、。
一青窈は、泣いているのだろうか。
ただ純粋に、泣くために歌っているのだろうか。

デビュー当時の一青窈は、純粋だった。歌に対しても純粋だった。
なのに、、、今の一青窈は、、、、、泣いていない。

もう、泣けなくなったのか、、、。


230

残り・・うた 2006年6月3日 23:15:14

一青窈が、アレンジを多用するようになってしまうと、一青窈の本来の歌が、聴けなくなってしまう。
特に、Yo & U から、アレンジだらけのコンサートを見せられては、一青窈としての歌の良さが無くなってしまい、
生歌を聴きたくてコンサートに足を運ぼうとする気持ちすら、期待外れに終ってしまう。
初期の、、、月天心の世界がアレンジされ続けると、そんなアレンジなんか聴きたいとは思わなくってしまった。
一青窈の歌として、「本物」が聴きたいのに、まるで違う雰囲気の歌なんて、、、、それは、一青窈の歌ではない。

もらい泣きが、今後もアレンジされた歌に化してしまうと、それはもう、一青窈のもらい泣きでは無くなってしまい、その想いや気持ちも失せてしまう。
大家も、オリジナル性が出されないと、それはもう、一青窈の大家では無い。
面影モダンも、、、、はいらんせ で歌われたものは、一青窈の歌では無い。

聴きたいものは、アレンジでは無いのに、、、、それが繰り返されることは、聞きたくない歌を聴かされる結果となる。
良い歌を聴きたいし、良い歌を歌って欲しいから、苦言を呈してしまい、あんなアレンジを褒めるようなことはしない。
もしも、あのアレンジを高く評価する者がいるとしたら、それはもう一青窈の本当の凄さを知らないか、それとも、感性の麻痺だろう。
そんな事を知りながら、一青窈は、何故、アレンジを多用するのか、それとも、何かを試しているのだろうか、、、、それがよく分からない。
歌いたいように歌う事を、ただ褒めるだけでは、一青窈の良さが失われてしまいそうである。

その原因を探ると、それは、やはり、一青窈の気持ちの変化に外ならない。
情熱大陸で言った時の想いが、3年の歳月を経ると変わってしまうのが悪い意味で歌に表れてしまい、
一青窈が伝えたいと思ったことすら、聴く者には伝わらなくなってしまう。
歌手として進歩する課程で、一青窈は、知らず知らずに大切なものを失っていることに気付いていないから、
エコロジーに気を取られて、ファン心理も迎合するだけになってしまう。

デビュー以前から、、、、デビュー当時から、、、そして、池上本門寺を終えても、変わらないと感じた一青窈の気持ちは、
歌手として大成する中で、少しずつ変化せざるを得なかったのだろう。
その積み重ねが、今の一青窈を作ってしまったから、その変化に違和感を覚えてしまった。
進歩する事は、プラスαを身に付けることなのに、一青窈は、新たな一青窈を身に付けた分だけ、大切なものを失いつつあり、それすらも負担になっている。
だけど、一青窈の歌は一青窈にしか歌えない。その、一青窈にしか歌えない歌を信じているから、ファンを続けられるのだろうと、信じるしかないのか。

このままでは、いずれ、私は、、、ファンとしての気持ちも失せてしまう時が来るのだろうが、それは、もっと、ずっと先の事かと考えていた。


229

楽しむ 2006年5月22日 0:09:40

コンサートは、楽しくなければ、、、、と思う人が多い。
それは、一青窈の場合でも、楽しいコンサートを期待する人が多いだろうし、、、、一青窈も、それに応えようとしている。
何事も、楽しいに超したことはないけれど、、、、楽しい楽しい、嬉しい嬉しい、楽しかったぁ、、、、で終わるコンサートだけでは、楽しくない事もある。
音楽は楽しむものとの考え方だけには同調出来ない部分もあるし、こと、一青窈に関しては、それだけで終わって欲しくないこともある。
MCで楽しませることには賛成するけれど、歌い方で楽しませることばかりに力を入れないでいて欲しいこともある。
はいらんせ が、ひと味違ったDVDとなっても、繰り返し観たいと思わないのは、、、
それは、一青窈の変化を楽しめない自分自身との葛藤でもあるし、一青窈に対する問い掛けでもある。
コンサートの楽しみ方は、気持ちが楽しいと感じるだけでは浅はかなことも分かるし、表面だけ嬉しそうでも、実は、それは楽しくないから、、、、。
一青窈は、観客を楽しませようと思ってコンサートを企画しているのだろうけれど、そんな事は期待していない、、、ほんの一握りのファンがいる。
だけど、一青窈は、、、コンサートに関しては、全体を意識して音楽活動をしなければならないし、その方向性は、仕方ないことだろう。
だからこそ、一青窈には、1年に1回、、、2年に1回でもいいから、、、楽しみを意識しない本物の音楽(うた)を期待したい。

魅せようとする歌い方よりも、歌いたい気持ちの表れを感じ取れることが、一青窈を支持する由縁だから、
変な意識をしない・・・・・気持ちを込めた歌い方こそが、一青窈の歌の素晴らしさであり、魅力の全てであると言っても過言ではない。
ヒットを重ねようとして、、、意識している限りは、、、、良い歌は難しいし、、、、、
変化を進化(真価)とはき違えるほど、一青窈は浅はかではないはずだし、、、、、

てとしゃんですら、、、最初は、魅せるコンサートだと感じたけれど、、、、今はもう懐かしくて、時々、見返している。
姿見一青也は、、、、もはや別格。
楽しいと感じた2004てとしゃん、、、、、、それは、Yo & U のような楽しさとは全く違っている。
一青窈の歌を聴いて、コンサートを観て、楽しいと思う感情は、、、、一青窈の歌声から、歌本来の良さを体感出来たから、、、、。
ただ、純粋に、一青窈の歌を聴いて、素晴らしいと感じたから、、、、自然と嬉しくなった。そして楽しいと感じた。

Yo & U の楽しさよりは、、、、てとしゃんの楽しさが好きだった。
楽しい時間が、、、、今は懐かしい。


228

アートブック再び 2006年5月18日 22:10:07

一青窈が、全国ツアーの度に出した、写真集のようなもの。
一般的には、一青窈の全国ツアーは、2004てとしゃん と 2006 Yo & U  のように思われているが、2003ええいああ を忘れる事は出来ない。
2003ええいああ こそが、一青窈の魅力の塊で、それを超えるライブは、残念ながら、無い! と言わざるを得ない。
そして、3度の全国ツアーで販売されたアートブックの中で、2003ええいああ から 2004てとしゃん にかけて、コンサート会場で販売された、
幻のアートブック「ええいああ」の素晴らしさを超えるアートブックも、残念ながら、無い ! 。

姿見一青也の世界を知るためには、”アートブックええいああ”が不可欠で、その中にある「写真」と「詩」こそが、今の一青窈の原点でもある。
art work の良さと、感覚の共有が、いまだに色あせることなく残るのは、正に、姿見一青也に通じるもので、最高傑作に相応しい出来映えである。
アートブックええいああ は、限られた部数しか出回っていないから、限定品でもある。
てとしゃん や Yo & U のアートブックとは一線を画す、その独特な art work なればこそ、永久保存版である。

美しく配列された歌詞が、活き活きとした言葉を創り出すから、見慣れた歌詞すら、読み応えがある。
しかし、それ以上に素晴らしいのは、一青窈の目の力。
キリッとした芯の強そうな眼差しこそが、一青窈の深層心理を表しているから、何時まで見ても飽きることがない。
そんな表情は、二度と魅せてくれはしないだろうから、正に限定品である。
写真と歌詞が、遠くに離れているようでも、実は、しっかりと繋がっていることを、、、繰り返して眺めていると、感じられ、そして知らされた。

私は、一青窈と、同じ感覚を共有できる事に、少しだけ近づけたのかも知れない。


227

涙歌 2006年5月13日 0:25:19

「私の場合、両親を亡くした経験がなければ詩は書かなかっただろうし。」は、広告批評Bに載っている一青窈の言葉。
両親の死によって詩が生まれたのではなくて、死は・・・・詩の始まりに過ぎないことを、まるで大家の「失って 始めて」の如く説明されている。
”詩は書かなかっただろうし”・・・は、裏返すと、、”詩は書けなかっただろうし”・・・ではない。とは、断言出来ない部分もあるが・・・・・。
一青窈の詩の世界は、喪失感もさることながら、、、、「届けたい気持ちが、人一倍強いんです・・・・」との思いも書かれている。
その、届けたい気持ちが、、、、一青窈の、あの独特な涙歌となって、聴く者にも深い感動が生まれていた。

亡き両親への届かない手紙に込めた想いすら、涙歌に転化され、、一青窈の満たされない感情をコントロールしてきたのに、
その感情の深さが、これからは変わらなければならないと思い始めた一青窈から、、、、失われようとしているのではないのだろうか、・・・と、心配される。

伝えたい想いの言葉を表現するにしても、伝えることの難しさの中では、言葉が一人歩きする事もあるし、曲解される時もある。
だけど、、、一青窈の歌には、伝えたい想いが、強く、、、、そして深く、、、刻まれていたのに、、、、その想いが、まるで過去の出来事のように感じられてしまう。
一青窈の歌に対する想いも、、、、ファンとしての想いも、、、あの姿見一青也の世界では、一直線に繋がっていたのに、、、、
2006 Yo & U を経ると、直線から曲線へと絡まった繋がりになってしまったように思う。
それは、一青窈自身の、歌に対するスタンスが、多角的に思考された結果なのか、、、、それとも、単なるファン心理の変化なのか、、、良く分からない。
だけど、私は、、、、一青窈の歌は、、、涙歌から始まり、涙歌で終わる・・・・と、思っている。
伝えたい想いがある限り、、、、一青窈は、一青窈で有り続けるし、、、、、有り続けなければならない。
その結果として、一青窈は、大きな「足かせ」とも「鋳型」とも言われるものに束縛され続けるだろう。
涙歌から「涙」を取り去った時に、一青窈は、大きく生まれ変わるのかも知れない。

失って 始めて 気づくことも あるけれど  もう もとには 戻れない のかも知れない。
しかし、、、歌に込めた「絆の深さ」は、失われることは無いのだろう。


226

真価 2006年5月6日 17:57:03

姿見一青也には、外面の可愛さよりも、内面の可愛さがあった。

今の一青窈には、外形の可愛らしさを目立たせる戦略が見え隠れする。
しかし、その表面上の可愛さを取り去った時に、一青窈の真の力が見えてくる。

さよならありがとは、甘えた声で歌っているし、ホチKiss は、一青窈らしさが微塵もない。
影踏み や かざぐるま には、いわゆる一青窈らしさがある。
一青窈らしさの本質は、気持ちで示されるが、、、、しかし、本来は「うた」そのものに、一青窈らしさが備わっているものなのに。
それは、一青窈の特徴である「低音の声質」「こぶし」「抑揚」に含まれている。

最近の歌では、、、「影踏み」「かざぐるま」が一番一青窈らしい声をしている。
それに比べると、「さよならありがと」の魅力は半減してしまう。

2005.09.16 ミュージックステーションで歌った かざぐるま 
2005.09.25 カウントダウンTVで歌った かざぐるま
その他、、数々の かざぐるま を、、、一青窈は、気持ちを込めて歌っていた。
それは、かざぐるま には、甘えは不要だから。むしろ、妥協を許さない歌でもある。

一青窈は、今、、、Yo & U の成功を、勘違いし始めているのだろうか。
或いは、ファンにウケることを意識しているだけなのか。。。
カワイイ姿の一青窈からは、、、一青窈の「うた」は生まれやしない。
そんな歌を歌いたくて歌手を目指した訳ではないだろうに、、、、そんな歌を聴きたくて、一青窈のファンになった訳でもない。
私は、一青窈の内面に惚れ込んでファンになった。カワイイだけの一青窈なら、ファンになっていないだろう。

一青窈が言った、「原点回帰」とは、一体何だったのか・・・・・・。


225

重い歌 軽い歌 2006年5月5日 20:56:26

一青窈の歌が、、と言うよりは、一青窈の歌い方が、、、最近は、軽くなってしまった。
楽しそうに歌う姿は、それはそれで良いと思う反面、一青窈は、Yo & U 以来、アレンジを多用し、繰り返している。
歌が活きるアレンジなら、、、、例えば、指切りやアンモナイトは、それは素晴らしい変化だけれど、、、、
sunny side up や もらい泣き 等に関しては、明らかに相応しく無いと思う。
本来の歌い方を捨ててまでして、アレンジに走るのは、、、安易な結果を求めているようで、本当にそれで良いのかと・・・・・。
それが続くのが、、、残念なことに、、、ファンのうけがいい。いや、むしろ、ウケていると思われていることに、、、、、残念に思うことが多くなった。
一青窈が求めた歌が、伝えようとした想いが、そんな形では本当に伝わるはずもなく、簡単に会場の雰囲気に呑み込まれているとしか思えない。
これまでは決して見せなかった一青窈が楽しそうに歌う姿は、ただ楽しさの演出を魅せているだけなのに、その演出に乗ってしまうほど安易ではない私が居る。

影踏み や かざぐるま は、正統に歌ってこと、その想いが伝わるから、、アレンジはしない。
なのに、、、、あの歌を、、、一青窈は、まるで伝えたいことを忘れてしまったのだろうか。
盛り上がりに楽しさを追求すると、それが一青窈の鋳型を無くした結果と同時に、あれほど考え抜かれた歌詞の意味すら、台無しにしてしまう。
その結果として、軽い歌が生まれてしまい、持ち歌が持ち歌では認識されないくらいに失われてしまい、信じられない気持ちになってしまう。

楽しいのはその場限り、、、、、
一青窈は、まだ、試行錯誤を繰り返している最中なのだろうか。
ただ歌うだけの、、、、、口先だけで歌う歌手に成り下がってしまわないでいて欲しいと思っている。

重い歌、、、、軽い歌、、、、
なにも気持ちが重くなる訳ではない。
一青窈の歌は、、、、考え抜かれた歌詞は、、、、拘りの歌詞は、、、、、、、そんな表現方法では、、、、活きることは無いのだから。
それに、カチューシャも、泣いているのだから。
そして、その事は、、、、、書き疲れてしまった。


224

お気に入り 2006年5月4日 11:59:48

誰にでも、お気に入りの歌があり、お気に入りのコンサートがある。
私のお気に入りは、勿論、大家であるし、渋谷AXである。

しかし、大家にしても、最高級に素晴らしいと思える生歌には、残念ながら、巡り逢っていない。
目にした姿に感動する人もいれば、私のようにDVDの世界に憧れる人もいる。
コンサートを観ても、もっと凄い一青窈がいるはずなんだと、いまだに信じて止まないのが、
人の気持ちが変わっても一青窈の気持ちは変わらないと思う信念を持ち続けることが、一青窈思考の基礎でもある。
2004てとしゃんのDVDを観ながら、2006Yo & U の一青窈が、どんな映像となって出されるのか、楽しみでもある。

てとしゃんを観ていて思うことは、歌う言葉に「優しさ」があること。歌詞が綺麗に聞こえるし、表情も温かい。
眼を閉じて歌うシーンも多くて、、、、それは即ち、気持ちの表れなのだろう。
ライブ映像として観たら、流石は一青窈の集大成と評されたものはある。
歌の気持ちは顔に出るもので、一青窈の活きた顔として、何度でも見返したいのが”てとしゃん”である。
アリガ十々を歌う姿にも、、、、Yo & U で魅せた全ての歌よりも、「いいなぁ」と感じるのは、当然な事である。
てとしゃんDVDを観ても、立ち上がりたいとは思わなくて、むしろ、じっくりと聴き入ってしまうのは、やはり、一青窈の歌は、「じっくり聴く」のが相応しいからだろう。
歌詞に拘る言葉には、それを聞き漏らすまいとする想いがあるから、一青窈の歌は、、、、いつまでもじっくり聴きたい。
しかし、良い声をしている、、、それこそが、、装飾音符の成せる技なのだろう。

Yo & U で、一青窈の歌は変化してしまった、、、、、それを受け容れるのには時間が必要なのだろうか。


223

ライブ 2006年4月30日 21:16:56

コンサートへ行く前には、一青窈の歌を聴く時は、その歌に込められた想いや背景を常に意識しながら、感情移入して、歌の世界に浸透しようと考えていた。
一青窈が歌うことに合わせて、同じような意識を共有できるのではないのだろうかと、勝手に考えていた。
だけど、いざ始まってしまうと、そんな想いは、どこかに吹っ飛んでしまい、一青窈の一挙手一投足に気を取られてしまい、当初の予定なんか実行出来なかった。
ただ同じ時間に、歌に合わせて口ずさむだけだった。
でも、それだけでも、一青窈の歌に、少しだけ近づけたのではないのかと、錯覚すらしてしまった。
想いをぎゅうぎゅうに詰め込んだ歌詞を、一瞬にして理解することなんか出来やしないし、そんなことに共感出来る訳もなかったから、、、、
ただ、一青窈が歌う姿を目の前にして、集中するだけだった。

歌に込められた想いが強ければ強い程に気持ちも高まり、一青窈の歌の世界に引き込まれてしまいそうだけれど、なにか意識してしまうと、全く別の世界が見えてくる。
意識する事を意識すると、一体どんな感じになるのか考えていたけれど、一青窈の歌を前にしては、結局、そんな事はどうでも良かった。
あれだけの人を前にして歌うだけのことはあったし、それほどの歌の持ち主だった。
全ての人を満足させる事は難しいかもしれないが、しかし、一青窈のコンサートは、なぜかしら「また見たい!」と、思ってしまう。
聴くことだけに集中しても、コンサートが終わってしまうと、その記憶すら薄れてしまいそうで、、、、だから、その時の想いを、記録してみたくなった。
その想いを、、、文字にする難しさもあるけれど、一青窈の歌を聴いて、どう感じるのか、素直に表現してみたかった。それが、一青窈思考に繋がっている。

このHPが、独自路線を突き進むのも、素直な気持ちを残したいだけで、しかし、思考の根底が崩れると、更新することは不可能となってしまう。
いつもの綱渡り的な感覚が、思考の基となっている。

熊本 Yo & U で、私は、一青窈の歌と共に、その世界に心酔していた。
なにも、スタンディングして同調するだけではないし、手拍子に乗るだけでもない。
FC席でありながら、、、やはり私の頭の中は、FCを拒否していたのかも知れない。

一青窈のパフォーマンスに応えるのが、FCの使命であろう考え方は、理解出来る。
しかし、FCの意見を取り入れる一青窈の考え方は、理解出来ない。
仮に、、、FCの多くが、一青窈の歌はじっくり聴きたいと言い出したら、一青窈は、どんなパフォーマンスを返してくるのだろうか。
一青窈のコンサートが、魅せる演出を意識している。それでも、一青窈のコンサートは、じっくりと観たいし聴きたい。
そんなコンサートが、1回だけ行われても、いいんじゃないのかと、、、、、、?。
この相反する意見の深層もまた、一青窈思考の深みです。


222

変化 2006年4月30日 20:13:19

私は、一青窈が、花逢娘から、変わってしまった、、、と、書き続けてきた。
ビデオを見返しても、、、確かに花逢娘は、、、映像美の世界に包まれているから、一青窈も、、、美しく見える。
だけど、それは、、、伝える想いの一青窈から、魅せる一青窈に変わってしまった瞬間であもる。
その変化の時から、一青窈は、コンサートで、魅せる事を意識し始めたのだろう。

それが、、、、はいらんせ で、示された。

どのコンサートも、その場で感じる個々の想いに違いはあれど、それよりも、もっといいコンサートがある事も事実。

花逢娘から一青窈が変化したのは、なにか原因があるはずなのに、、、、、。
そして、Yo & U で、一青窈スタイルを示した。
今後、一青窈のライブが、どの方向へ進むのか、、、それとも、益々、盛り上げようと意識するだけになるのか、、、、。
ギャップを感じると、、、それでも離れられないが、、、それはマイナス効果になってしまう危うさが残るだけなのか。


221

2006 Yo & U を、終えて、、、、2006年4月29日 16:53:38

熊本へ行かなかったら、、、私は、一青堂を止めていた。
てとしゃん以来の、この一青窈思考も、削除していた。
こうやって、HP上に公開しないのに、まるで日記みたいに、一青窈思考が続こうとしているのは、私自身に、まだ、消化しきれない想いが残っているからで、
多くのファンサイトが褒め称える 2006 Yo & U ツアーに、100%の満足感が無いからなのだろう。

一青窈の歌を、じっくりと聴きたい気持ちは、おそらく今後も変わならない。
今の一青窈のコンサートスタイルが、今後、どう変化していくのかも見極めたいし、
一青窈自身が言った「変わらない気持ち」が、コンサートに、どう反映されるのかも、その本当のところを感じ取りたいからなのか。
ライブが終わった直後の言いしれぬ虚無感が、、、一青窈思考を奮い立たせたのが一体何だったのかも、、、ある種の原動力になっている。
ライブに対する一青窈の本心が、果たして、どの程度示されたのか、、、、ただ、楽しい嬉しいで、終わっていいものなのか、、、、、。

Yo & U が、いわゆる良いコンサートであった事は否定しない。
だけど、、、、、何かが違っていた。
一青窈に対する一般的なイメージを払拭したいが為のコンサートツアーだったのか、、、、それとも、一青窈自身が、試行錯誤の途中なのか、、、、。
純粋に歌に感動する気持ちが、2004てとしゃんとは違っていたのが、拘りのスタンディングに加えて、FCの功罪によるものだとしても、
一青窈の歌が、本来の姿ではない変化を見せたのだとしても、、、、、それ以上に、何か見えない力が、一青窈のコンサートスタイルを確立させようとしている。
一青窈も、観客も、コンサートの定型にはまってしまった2006 Yo & U だったのか、、、。

だから・・・姿見一青也を見返すと、、、、やはり、一青窈は、もっともっと凄い 本物の singer なのだと信じている。

熊本 Yo & U は、良かった。それは間違いでは無い。
だけど、、、、それは2年ぶりのコンサートだからなのかも知れないと思うようになった。
一青窈は、鋳型を取り払うことを意識していたのだろうか、、、それとも、新たな鋳型に、しがみ付こうとしていたのか、、、。
でも、素敵な部分を、チラリと魅せて、、、、もっと凄い部分を残したまま、、、Yo & U が終わってしまった、、、、。
普通のFC会員ではない私は、辛くなると、渋谷AXのDVDを見てしまう。
そこには、非の打ち所がない一青窈の「うた」が溢れている。
歌唱力をも超えた、気持ちで歌う一青窈の姿にこそ、、、底知れぬ魅力を感じてしまう。

Yo & U よりも、てとしゃん。てとしゃん よりも しゅるり。しゅるり よりも ええいああ。これが変わらないのが、少し残念なだけ。
歌唱力なんて問題じゃない。気持ちを込めた分だけ、想いが伝わるのだから。


220

熊本 Yo & U を、終えて、、、2006年4月24日 21:34:34

どの歌も、気力が充実していました。
好調時に見せる足の蹴り上げもあったし、気合い充分の左手の高速巻き上げ連続3回転を見ることが出来ました。
一青窈は、全力で、熊本 Yo &U に挑んでいたのが良く伝わって来ました。
観客も、それに応えるかのように、立つべき時には、皆が立っていたと思います。
私が福岡で感じたぎこちなさは、完全に払拭されるほど、一青窈の歌は素晴らしかった。
別の言い方をすれば、カッコ良かった。
それは、4月22日が、一青窈の母の誕生日だから、熊本で頑張ることが出来たのかも知れません。
緊張感も、最初だけだと思います。それからは、思う存分に、持てる力の限りに、全てを注ぎ込んだかのような、熊本 Yo & U でした。

ハナミズキの想いも、2004てとしゃんの時と違って、自らの言葉で、「(心が)狭いな・・・」と感じた心情を・・・・
一思案での・・・・・一青窈が、熊本を散策する風景も、楽しそうな食事の雰囲気も・・・気に入った建築物を訪れて、考え込んでいる姿や仕草・・・・等々、
それだけでもDVDにして欲しいくらいです。
紅蘭亭でのチャイナドレスのスリットに、、、、まるでパンツを身に付けていないかのような事を、興味津々な風に話すMCを織り交ぜながら、
楽しさの中にも力強さを示した歌唱の数々に、一青窈の凄さを知りました。

手紙のコーナーで、「誰も悪くはない・・・・・」で涙した思いは、、、、その真実は、一青窈の心の中で、いまだに葛藤しているから、涙となってしまったのだろう。
デビューから、ここまで来られたのも、人知れぬ努力のたまものだったのだろうか、、、、
それら色々な想いが、コロンビアエンターテイメントの人からの手紙を読んで、一気に思い出されたのだろうか。
それは、美しい涙でした。
ライトに照らされた瞳の輝きは、本当に綺麗だったし、歌う時の表情も豊かで、その姿だけでも、気持ちいいくらいに安心しました。

喉を痛めやしないかと思わせるくらいの全力で歌ったアンモナイトや指切りに、心の底から、シビレてしまいました。
もう、脱帽です。
あっと言う間の2時間でした、、、、。
だけど、もっと話が聞きたい!もっと、歌が聴きたい!なんて贅沢は言いません。

私は、大家を聴きたいが為に熊本まで行きました。
一青窈の本物の声として、大家を聴きたい一心で、熊本を目指しました。
その期待に、一青窈は、応えてくれました。
「♪失って 始めて 気づくこと も あるけれど もう もとには 戻れない♪」
この短い大家の歌詞を、一青窈の凄さ120%のアカペラで、聴かせてくれました。
たった、それだけのアカペラだけど、しかし、「うた」に込められた想いと、その力強くて美しい声が聴けただけで、私は満足でした。

一青窈のコンサートが様変わりしても、一青窈の「うた」の根底は、変わることはありませんでした。
私は、熊本へ行って、良かったと思います。
一青窈が、熊本で涙した思いの真実を、、、、その事について、、、自らも、あえて説明しなかった一青窈の辛い思い出を心に受け止めて、
今後も、一青窈を、応援しようと思います。 

2004富山てとしゃんでは、一青窈に、オーラを感じました。
その想いは、、、2006熊本 Yo & U でも同じです。
走り続けている一青窈に、温かい手を差し伸べるのも、叱咤激励するのも、友達であったり、スタッフであったりします。
だけど、時には1人で我慢しなければならない事があります。
人に言えない苦しみにすら、耐えなければならないけれど、、、、
流した涙の数だけ、人は強くなれるし、優しくなれます。
それが、一青窈の凄さの証でした。
そして、それに応えようとするのも、ファンの力でした。
その凄さの一端に触れられた、熊本 Yo & U でした。
一青窈!本当にありがとう!


219

またもや大家 2006年4月21日 22:49:21

やはり、最後となっても、「大家」が、、、本物の「大家」が聴きたい。
アカペラの「大家」を、、、、一度で良いから、、、聴いてみたい、、、、と思っているのだけれど、、、、。

一青窈が、歌うことに何倍ものエネルギーを要すると言った「大家」であるならば、、、、、、、本当に、何倍ものエネルギーを要する姿を、、、、期待したい。
アカペラで、、、裸足で、、、、ワンピースを着て、、、大家を、、、心を込めて歌う、、、本当の姿を、、、この目で見たかった、、、。
演奏なんて、、、要らない。歌唱力も、、、必要ない。
気持ちで歌う、、、本当に、感情移入した、、、本物の大家を、聴きたい。

だけど、一青窈は、そんな事はしない。誰かに期待されたとしても、、、、そんな事はしないだろう。

なぜ、大家だけを、、、何倍ものエネルギーを要すると言ったのか、、、。
もらい泣きや、ハナミズキでは、そんな事を言わないのに、なぜ、大家だけ、、、、そんな事を言ったのか、、、、。

その証を、、、この目で感じたかったのに、、、Yo & U では、本気を出していない。
不完全燃焼のままで、終わらせて、、、、本当に、良いのか、、、、。
声量なんかも必要ない。歌唱技法も必要ない。
だだ、、、木訥と、、、、デビュー当時の想いを感じながら、、、、大家を「うた」うだけでいい。

大家は、名曲なのだから。



218

優しさ と 強さ 2006年4月16日 22:51:18

ハナミズキの想いとして、、、、「♪お先に行きなさい♪」が、好きな人の、その好きな人を指しているのを知らされて、、、、
そう言えば、、、てとしゃんの時も、一青窈は言っていた。
「まずは私から、、、あなたと、あなたの好きな人が100年続きますように!」と、、、、、。

一青紙10号の「ひげ日記 最終回」に書かれてある事が、100%の真実だとしたら、、、、一青窈は、もの凄く純粋な心の持ち主になってしまう。
反面、、、、僕らの音楽で、鳥越俊太朗と話した内容は、、、一青窈の強さを示している。
そうなると、一青窈には、人並み以上の優しい心と強い心が同居していることになる。

トップランナーに出演した時の一青窈は、もっと強い意志を表していた。
ハナミズキを歌うようになってからは、優しい一青窈を見せている。

どちらが本当の一青窈なのかと考えたら、、、それらとは別の、第三の一青窈がいるように思えてしまった。
それを知っているのは、外ならぬ一青窈自身だろう。それこそが、歌手一青窈をプロデュースしている、もう1人の、、、、本当の一青窈。

一青窈が、楽しそうに振る舞えば振る舞うほど、、、、その心の底を考えてしまう。
一青窈の鋳型と称するものが、本当は何なのか、、、、それは、もっと別なもののように思えてしまう。

では、最後に、一青窈を思考してみよう。

・・・・・と、思ったけれど、、、、私は、一青窈が、いったいどんな思考の持ち主なのか、、、分からなくなってしまいました。
歌手として生き抜くには、それなりの根性がなくては成らないけれど、、、
気配りだけでは、、、、難しい世界だろうし、、、、
「先見の明」が無いわけでもなさそうで、、、、
時に、、道化師を装っているように思えるし、、、
しかし、、、芯はしっかりしている。

一青窈のコンサートに期待するものは、Yo & U では無いと言ったところで、その真意が伝わる訳でもないし、、、。
それでも、コンサートに惹かれてしまうのは、やはり、一青窈が気になるからなのか。
だけど、このままでは、歌手一青窈はダメになるような気がすることも、たった1人の考えなのか、しかし、大きな心配でもある。

はだかの王様が、、、微笑んでいたのだろうか。
それとも、、、、。一青窈が、生き急いでいるように思えて成りません。

たった一度の人生だから、好きなように生きるのも良い。
だけど、一青窈は、、、歌手として生きている。それは、時に、、、、辛いことなのかも知れない。

台湾ライブの時、一青窈が、色紙に記した、「せき止めていた涙は・・・」を、思い出してしまった。

一青窈に向かって吹く風が、かざぐるまのように、美しく回り続けるのを願うばかりです。


217

美しき顔 2006年4月11日 0:01:25

Yo & U で、どんなに綺麗な化粧をしても、どんなに楽しそうに装っても、渋谷AXの一青窈には叶わない。
美しさの価値基準も、瞳の輝きや笑顔すら、、、、一青窈が、一番綺麗に輝いていた場所だった。
そう感じるのは、あの場所こそが、歌手一青窈の原点だから、、、、。
そして、この一青窈思考の原点だから。

さようなら を、言うことは簡単なことだけど、、、、。
Yo & U に置き忘れた”もの”を見つける事ができるのだろうか。
熊本へ行って、やはり”がっかり”するだけで終わってしまうのだろうか。

一青窈に問うてみたい、、、、「あなたはいったい、何のためにコンサートをしているのですか」、、、、と。

一青窈の”美しい顔”が見たかった。素直な気持ちが表現された”美しい顔”が見たかった。
素直な気持ちに裏打ちされた、本当に美しいと思える顔が、見たかった。
気持ちを込めることだけに集中している姿の、美しい気持ちが滲み出た、一青窈の「本気の顔」が見たかった。

作られた化粧や笑顔なんて、必要ない。

私は、4月22日には「熊本市民会館」で、一青窈のコンサートを体験する。
もはやFCの感覚ではない。ましてやファンの感覚でもない。
第三の目で見た時に、歌手一青窈の姿を、どう感じ取れるのだろうか。
初めて一青窈のコンサートに挑んだ、”富山てとしゃん”の気持ちで。

誰かが言った、、、、音楽は楽しむものだと、、、、音を楽しむから音楽なのだと、、、、、
だけど、、、そんな上辺な意見なんて、一青窈の「うた」には当てはまらないことは、分かりきったこと、、、、、。
一青窈の「うた」は、音楽を超えたものなのに、、、、。
「うた」は、言葉に旋律やリズムをつけて、声に出すもの。
「うた」には、音楽をも超えた「言葉」がある。だから、一青窈の「うた」は、心に響くのです。
それは決して、音を楽しむ「音楽」なんて一言で説明出来るものではないのだから。
音に溺れるような、そんなつもりで作詞した「うた」ではないはずなのだから。
だから、一青窈の「うた(言葉)」が、聴きたい。

びわ湖ホールに置き忘れ、福岡サンパレスでも見つけることが出来ない、一青窈の大きな忘れ物(うた)を、熊本市民会館で、見つけたい。


216

裸足 2006年4月10日 20:47:22

一青窈は、緊張封じの為に、ステージで座り込んだり、裸足になったり、、、していたのに、Yo & U では、そんな事はしない。
もしも本当に緊張しているのなら、裸足になって然るべきなのに、一青窈は靴を履いている。
緊張の度合が和らいだからなのか、それとも、裸足を必要としない気構えになったのか、、、、何れにしても、一青窈の気持ちが変化した結果に間違いない。
裸足の人を打破したいことと、裸足で歌う気持ちは同じではないから、出来れば、裸足で歌って欲しかった。
裸足で歌うことの良さは、緊張することで、その歌声が真価を発揮するのだから、そして、過去、裸足で歌った時の一青窈には、一青窈としての凄さに満ち溢れていた。
想いを伝える事に全力を傾けていたのも、聴く者をも真剣にさせたのも、全てが裸足の効果によるし、裸足こそが一青窈のバロメーターだった。
裸足は、緊張の中でも力を生む必須アイテムだったのに、一青窈は、もう裸足で歌うことはないのをアピールしている。
裸足を必要としない程に、心に余裕が生まれたのが、今の一青窈の歌の変化なのは、、、、、実は残念なこと。

いつまでも裸足で歌う事を嫌う必要もないのに、、、、一青窈は、トレードマークを無くした。
裸足で歌うことは、何も、緊張封じだけではない。
大地のエネルギーを感じながら、腹に力を入れるには、裸足が一番だったのに、、、、、もはや、一青窈が裸足になることはしないだろう。
ここぞ!と言う時でも、しないだろう。

だけど、裸足で歌う一青窈と、靴を履いた一青窈では、歌い方に違いが出ている。
体が動く時のバランスが良くないと、歌唱に影響することが、例え5%の違いだとしても、されど5%なのです。
かかとの高い靴なんて、見栄えが良さそうで、実は悪い。
絵になる形は、やはり裸足だから、、、、、復活して欲しいのだけれど。


215

自然体 2006年4月8日 21:27:36

一青窈の”うなり節”が、好きだった。
月天心にしても、大家にしても、、、、一青窈の声は唸っていた。
演歌の技法でもなくて、一青窈独自の優れた装飾音符の結晶が、あの”うなり声”を生んでいた。
それが、意識された声ではなくて、歌に対して力が入ると、その”うなり”が、益々、力を付けているようでも、それは、一青窈にとっては、自然なことだった。
それを、一青窈は、知ってか知らずか、、、、、意識して封印してしまった。
以来、一青窈から、初期の頃の”うなり声”が発せられなくなり、そして寂しくなった。

てとしゃんで月天心を歌う時の一青窈の・・♪振り仰ぐ空♪・・・の”こぶし”が一番好きでした。
WOWOWで放送された、2004てとしゃんのビデオを見ながら、、、、発売されているてとしゃんDVDには無い数々のインタビュー映像を見ながら、、、
その中でも、、、演奏者からの思いが印象的でした。
「・・・後ろで聞いていて、、、、どれだけ心を込めて歌っているか分かるから、、、。」

てとしゃんが、一青窈としての気持ちを込めた最後のコンサートだったのだろうか、、、、。
だけど、、、、一青窈の集大成と評されただけのものがあった。
もう一度観たいコンサートは?と尋ねられたら、迷わず、てとしゃん!と、答える。
では、聴きたいコンサートは?と、尋ねられたら、、、、ええいああ、と、しゅるり。
それも、今となっては幻想に過ぎない。

一青窈は、「10数曲でいっぱいいっぱいになる。」とも言っていた。
だから、コンサートで20曲を期待しないとしても、、、、もはや営業構成が許さない。
今年は、お堂イベントをしてくれるのだろうか、、、、、。
その時には、アカペラで「大家」を歌ってくれるのだろうか、、、と、願ったとしても。

だけど、私は、、、一青窈の歌が聞こえなくなってしまいました。
そして、福岡サンパレスには、行かない方が良かったのだろうと、今になって後悔してしまった。
その後悔が、、、、夢に代わる日が来るのだろうか、、、。
もうすぐ、あと2ヶ所のチケットが届けられる。
しかし、最初に、一番欲しいと思った宮崎のチケットなのに、、、、これで、行けないチケットが3枚目になってしまった。
FCでありながら、こんなにも切望していたのに、私にとっての Yo & U は、大きな壁として終わろうとしている。
残された時間が、想い出の時間と共に、まるで走馬燈のように、、、、、、、心に刻まれている。


214

想い 2006年4月5日 21:32:57

どうしてこんなに急に引いてしまったのか、、、、自分でも良く分からない。
1つの要因が、コンサートを観た結果であることに間違いはないけれど。
アンコールが、、、総立ちで手拍子なんて、、、、、そんな演出に参加することは、やはり出来ない、、、、などと感じる事は、さほど大きな問題ではなかった。
むしろ、観客が演出の一部と融合していることに、違和感を覚えたこと。
そんな私の感覚なんて、100分の1の意見に過ぎない、、、、と。だけど、FCである前に、一青窈の歌声を、コンサートを通じてじっくり聴きたいだけだっただけ。

だけど、Yo & U を観ても、一青窈の生歌に、ドキドキするほどの嬉しさを得ることが出来なかったのは、
一青窈が、歌に対しての純粋さを、演出に転化しているのに気が付いてしまったからなのだろうか、、、、。

コンサートを上手くこなす展開に、”うた”本来の素晴らしさが、少なからず奪われた。
だから、マニュアル化された反応に、同調したいと思わなかった。
そして、この一青窈思考を始めた時の気持ちが、大きく崩れてしまったと同時に、それが素直な感情なのだと、自分自身に言い聞かせている。
てとしゃんよりも、質は落ちた。それは間違いない。
その質が、見た目の華やかさや、綺麗さ、などの目に見えるものではない事も、分かっている。
一青窈の気持ちの変化を、コンサートを通じて感じてしまったからなのか、だからもう、私は、ファンを続ける資格すら失ってしまった。
一青窈以上の「うた」には、もう巡り逢えないことを知りつつ寂しさだけが残った。。


213

個性 2006年4月1日 18:36:50

タブーを承知の上、この問題を取り上げてみたい。
一青窈はデビューしてから、数々の名曲(力作)を発表してきたが、それら全ての「うた」に言えることは、一青窈の個性が色濃く出ていること。
ヒットするしないに関係なく、それらのうたは、一青窈が拘った歌詞と、そのメロディーを大切にして、想いを込めて歌ってきた。
独特の抑揚と”こぶし”が、一青窈でなくてはならない世界を広がせて、聴く者を凛とさせて、かつ、心震わせてきた。
想いをぎゅうぎゅうに詰め込んだ分だけ、個性の塊だったのに、しかし、それを、一青窈は、「鋳型」と称してしまった。

その鋳型を取り払った時に、一青窈が一青窈でいられるのか、、、、それを確かめようとするかの如く、TVでは、「さよならありがと」を歌っている。
Yo & U ツアーに於いても、過去の自分を一掃すべく、チャレンジ精神旺盛に、逆の見方をすれば、過去との決別を試みている。
そんなにも鋳型を取りたいのなら、歌で示すのが筋なれど、一青窈は、コンサートのイメージを変化させてまでして挑戦している。
でも、鋳型を取り払った一青窈に、いったい何が残るのか、、、、逆に、鋳型の無い一青窈を、一青窈と言えるのか、、、、。

一青窈なら、こう考える。一青窈なら、こう歌う。一青窈なら、こう進む、、、、、、、、。
一青窈の鋳型とは、いったい何を指しているのか。
それらが計算されたものなんて、そんなことはどうでもよかったことなのに、、、、。

一青窈は、一青窈にしか歌えない歌を歌ってきた。それは間違いではなかったし、素晴らしいものだった。
一生懸命なコンサートに惹き付けられることは、自然なことだった。
それなのに、、、今の姿が新たな一青窈なら、「一青窈の個性」は何処へ行ったのか、、、、。

歌から離れた場所の一青窈の言動が、歌詞のイメージから離れていても、勝負はあくまで「うた」である。
”うた”こそが、一青窈の個性を表現するものなのに、その個性が、だんだんと薄らいでしまった事を、指摘していいものなのか、、、、、。
「詩は負けたくなかった」と言った想いが、職業としての作詞に変化を与えてしまうと、一青窈の個性は、感じられなくなる。

「気持ちを込めないと上手く歌えない」と言ったことも、、、、その気持ちまでもが、まさか鋳型ではないと信じたいけれど、、、、
一青窈は、本当は何に向かっているのだろうかと考える時がある。そして数年後には、元への変化を試みるのだろう、、、、と。
それでも私は、一青窈が言った”鋳型”が”大好き”だった。
そう考えるのは、この一青窈思考が、一青窈の発する言葉だけを信じていないから。
だから、個性は大切にして、そして鋳型でもいいじゃないかと、、、。
それに、、、そんなに窮屈な鋳型なら、、、「ちょっとだけ広げる」と楽になるかもしれない。それで、いいんじゃないか。


212

表裏 2006年3月31日 22:36:50

びわ湖ホールへは、行けなかったのに、、、、「大きな忘れ物」を探して、福岡サンパレスまで行ってしまったけれど、、、、やはり、忘れ物を見つける事が出来ないでいる。
失った「想い」すら、どこか遠くを彷徨っているようで、、、だけど、見つける術も分からないでいる。
一青窈のコンサートが、何か物足りないと感じた事が、何かの間違いであって欲しいと考える度に、、、、一青窈の原点を想い出す。
一青窈が、、、ことさら”鋳型”を取り払おうとするのが、逆に違和感を感じるのを、どう消化すべきなのか、考える事が多くなってしまった。

一青窈思考が3年目を向かえても、ファン心理を強める力が、湧き上がらない。
blogを止めた原因の1つに、何かを気にする自分がいた。
だのに閲覧者が増えると嬉しくて、自然と書き込みにも力を入れていたけれど、この一青窈思考にも、「鋳型」があったのかも知れない。
それに気が付くと、急に冷めてしまったけれど、鋳型を取り払って、何が残るのか、、、、、。
人の心理がコンサートで表される度に、払った鋳型が戻ってしまった。
それでも、また、コンサートへ行きたいと思う事が、失ったものへの憧れかも知れないが、、、、、。
一青窈がステップアップしようとしても、本当にそれでいいの?、、、、と、投げ掛けている。

それでも、コンサートに期待して、そして残念に思う事を知りつつも、結局、同じ事を繰り返している。
Yo & U の後に、何が残り、何が生まれるのか、、、、、それは、過去へ戻れない、戻らない、一青窈の鋳型なのだろう。

姿見一青也の世界は、もう見つける事が出来なかった。
それを求めることは、良くない事かも知れないと知りつつも、期待したのも事実。
そして、新たな”鋳型”が作られようとしていたのも事実。
コンサートが”スタイル”と表現されては、もはや show 。
live の良さは、「生」であること。だから、創られた”生”に、気持ちが感じられない。
一青窈の気持ちこそが”生”の根幹だから。
それこそが即ち、私が惚れ込んだ”姿見一青也”の世界だった。


211

アンモナイト 2006年3月29日 20:27:24

アルバム「&」で発表された、一青窈の会心の作。
その音楽のリズムが、声の出し方が、一青窈の上手さと凄さを兼ね備えた、新境地。
特に、個々の単語の意味を考えて繋ぎ合わせると、面白い。
では、いつものとおり、独断と偏見で解釈してみます。

私アンモナイト
あなたにかけては頭変なの
とろけているの
   (解釈)
   私(一青窈)はアンモナイト=示準化石=その時代を生きているの
   あなたに関しては、頭が変になるくらい
   気持ちも、とろけそうなくらい 好きなの。

あなた想って2億年たって
まだ移ろいもせず呼吸してる
   (解釈)
   あなたが好きで、ずっと2億年も待っていたの
   誰にも心を惹かれずに、生きているの。

星が凍りついて輝いてたわ
だけれど夜の海は暗すぎるしぶつかっちゃうわ
桃色珊瑚のかたまりに
   (解釈)
   星=(希望) が、凍り付=(完全にくっつく) いて、もう変化することもないから、、、、希望が光り輝いていた
   だけど、、、、、深海は、暗すぎて、あなたを捜そうとして彷徨っても、、、桃色=(男女関係)珊瑚にぶつかっていたわ。
   暗すぎて、目的とするあなたを見つけられず、、、、

安堵ないと あなたがいないと
なんもないと なんもないと なんもないと
こんな広く青い世界で淋しさと愛を勘違えて
   (解釈)
   あなたが居ないと、、、、安心しないの、、、しないの、、、、
   だけど、あなたを探して彷いつ続けることが、淋しいのか、、それとも、愛を見つめているのか、、、、分からなくなるの、、、、。

私アンモナイト
!なんと直径2m
あなたシーラカンス
白亜紀に生きてる
   (解釈)
   わたしはアンモナイトなの。
   あなたを思い続けて、、、もう体が2メートルになるくらい、何年も経ってしまいました。
   あなたはシーラカンスだったのですね。自由に泳げたのですね。
   私と同じ、白亜紀に生きていたのですね。

なんてひどく
声震わせたけど波の音が低くて
鼻歌さえ聞こえなくなる
心もとない静かさね
   (解釈)
   同じ時代に居たのに、、、なんてひどいことでしょう。
   一生懸命、あなたを呼んだのに、探しなのに、、、、 
   不安になるほど、静かな世界でした。

安堵ないと あなたがいないと
愛がないと 愛がないと 愛がないと
涙さえも海に返してあたしはあなたに溺れた
   (解釈)
   あなたの愛がないと、不安でたまらないの、、、、。
   愛を信じられなくて、あなたを想い涙した。
   流した涙が海と溶けても、それでも私はあなたの愛に溺れたの。

そして何もかも私の横を通り過ぎ去っていった ららBYE
けれど長い記憶の向こうからまた会いにくることを知ってるから
もっと好きにならせて ならせて ならせて
   (解釈)
   それから、、、あなたは、私の前から居なくなり、、、それに全てのものが、過ぎ去ってしまいました。ララバイ、、、
   でも、いつかまた、あなた(シーラカンス)は覚えていてくれて、また、戻って来ることを信じています。
   だから、その時まで、、、、あなたに逢える日まで、もっと、もっと、あなたを好きになりたいの。

デボン紀から創られた殻のまま一生一緒に化石になろう なろうよ、ねぇ
   (解釈)
   そして、2人の愛が、二度と離れないように、、、一緒に、化石になろうよ、、、ねぇ、いいでしょ、、、。


この歌は、なんて悲しい愛の詩なのでしょう。

要するに、私はアンモナイトみたいに、動くことも大変で、じっと、殻をかぶって生きているの。
あなたは、シーラカンスのように、自由に泳ぎ回れるけれど、、、、、。
そして、こんなに体が大きくなるまで、あなたに恋いこがれてきたの。
だから、、、ね、お願いだから、私に振り向いてよ!。

これが、私のレベル1の解釈です。
レベル2、さらに、レベル3へと、思い巡らすことが出来ません。


210

直視 2006年3月27日 22:44:43

一青窈の歌が、デビューから、、、ずっと変化し続ける要因が、一青窈の心理状態にあるとしたら、それは、仕方のないこと。
歌に対する想いが、自ら薄れてしまうことが、遠からず、訪れることは間違いないこと。
気持ちで歌う歌手が、その気持ちの糸か切れては、もう戻すことも不可能になるのだから。
そんな悲しい現実が、きっと来る。
その時、ファンを終えなければならない。
それは、幾度となく繰り返された”美しい人生”のようです。

大家の想いも、それが本当の事となる。それを”直視”しなければ成らない時が、必ずやって来る。
なんだか、、、Yo & U ツアーが、最後のように思えてしまう。

もっと、もっと、沢山の、優れた歌を聴きたいけれど、優しさが、一青窈を変化させてしまったのだろうかと、、、もう、コンサートはしないのだろうと、ふっと、思うことがある。
MCで、幸せを発することが、何を意味する事なのか、、、、それを、どう感じたらいいのか、、、。
歌の変化が、一青窈を変えた結果なのか、、、、その答えが、見え隠れする。


209

一青病 2006年3月26日 16:48:39

一青病の特徴  2002.10.30に確認された優しさを共有したいと願う心。WHOへ申請中?。
症状        毎日CDを聴かないと落ち着かない
重症        毎日DVDを観ないと落ち着かない
潜伏期間     個人差により1日〜30日
発症エリア    日本全国と近隣諸国
注意事項     一度発症すると完治不能で、知らぬ間に慢性化します。
          気が付いた時は手遅れで、人によって禁断症状が現れます。
          コンサートへ行くと火に油を注ぐが如く、強い副作用があります。
          一時期、沈静化しましたが、2005年は大流行の恐れがあります。
          その後の調査により、2006年も大流行しています。
副作用      コンサートへ行きたい!生歌聴きたい!
民間療法     ファンクラブ入会
処方箋      1日1回のCD又はDVDの利用。ネット活用。
特効薬      コンサートチケット入手

どうやら、、、、完全に発症してしまいました。副作用と特効薬の間を、行ったり来たりを繰り返しています。そんなわけありません?。
一青窈の歌を聴いてしまうと、どうしても、また聴きたいと思うようになるのは、やはり、一青窈は、普通の歌手では無いからなのです。
人に天職があるとすれば、一青窈は、その天職を身に付ける為に生まれて来たのかも知れません。

福岡サンパレスを終えてからは、もういいや!と思ったけれど、やはり、どうしても本物の歌声が聴きたいと思うようになりました。
一青窈は、まだまだ、本気を出していないと思うのです。少なくとも、福岡ではそう感じました。
私に残されたチケットは、あと2ヶ所だけど、、、、行くことは非常に難しい状況だけど、、、、それでも、行きたい!と、思うようになりました。
まだまだ、最高なコンサートにはなっていません。
たとえ回を重ねたとしても、まだまだ修正が必要な所があるはずなので、残りのライブには、一青窈の情熱が完全燃焼するくらいのつもりで、歌って欲しいものです。
ファンの気持ちと、一青窈の気持ちが、完全に一致した時こそ、最高なライブが生まれるのか。それが、Yo & U なのか、それとも、今後のコンサートに託されるのか、、、。
だけど、そんな事だけを望んではいません。ただ、一青窈の本気を感じたいだけなのです。
一青窈には、期待するものが大きいのだから、それが叶わぬ結果に成ったとしても、是非とも残りのコンサートへは、行きたいと思うようになりました。

普通のファンでは無い私が、どうして一青窈のコンサートへ行きたいと願うのか、その答えを見つける為に、行くのかも知れませんが、
しかし、答えなんか見つからなくても、いいと思うようになりました。
だって、一青窈は、一青病なのだから ?(いや違う!)
     一青病は、一青窈なのだから??(いや、いや、ちょっと違うぞ!)
     一青窈は、一青窈なのだから、、、。(そう、正解です)
コンサートへ行けるだけでも幸せな事です。
それに、、、一青病は、良い病気なのです。(病気じゃないよ!)


208

オリジナル 2006年3月25日 11:09:08

一青窈に求めるものの全ては、この言葉「オリジナル」に集約される。
デビューからしても、その根底は、オリジナルだった。
誰かに似ている風であったとしても、その歌声は、一青窈オリジナルだった。
歌う姿も、その想いも、全てに於いて誰にも負けないオリジナルな一青窈だった。
どんな時でも、一生懸命で必死な一青窈だったから、余裕なんか見せなかった。

そんな一青窈のコンサートに、余裕の表情が生まれてしまった。

緊張する感覚の中でも、余裕があったのは、経験した結果なのだろうが、歌うことに余裕を感じてしまうと、そのことが出てしまう。
良い風に魅せたい気持ちも、考える余裕から生まれてしまい、それが、歌に変化を付けたアレンジとして、一青窈の”オリジナル”と戦っているように思えてしまった。
歌に対しての素直さも、歌手としての経験を積み重ねると、まるで薄れてしまいそうな不安の中で、、、、そのオリジナルが、少しづつ変化し始めているようでした。
表面上の変化なんか、期待なんかしていないのに、一青窈は、変化し始めてしまい、それが、 Yo & U で、示された。
だけど、そのオリジナルの変化の始まりは、実は、「花逢娘」であったのだろう。

コンサートでの歌い方に、均一化したものが感じられてしまい、何処を切っても「金太郎飴」のように聴こえたのが、花逢娘だった。
はいらんせも、1つのテーマに向けて、歌い方が進んでいる。
そして、2年ぶりの全国ツアーですら、違った形で、その影響が出ていた。

一青窈は、オリジナルな歌手ではなかったのだろうか。
どんな歌でも、その歌に込めた想いを素直に表現して来た、数少ない本物の歌手だったのに。
普通に歌うことなんて、絶対にしない、歌手だったのに。

歌うことを表現する想いの強さが、一青窈のオリジナルを忘れさせたかのようでも、、、しかし、私は、歌の素晴らしさよりも、一青窈のオリジナルを求めている。
一青窈は、コンサートで、、、多くのスタッフに支えられ、ファンにも支えられ、「幸せです。」と言ったけれど、一番大事な、オリジナルを忘れているかのようでした。
オリジナルとは何なのか、、、その答えを知っているのは、一青窈自身なのだから。


207

失ったもの 2006年3月24日 21:42:00

福岡サンパレスで、一青窈は弾けていた。
楽しそうに歌う姿に、多くのファンが、満足していることだろう。
ライブでは、静かな一青窈を演じることは無かったし、一青窈のイメージは、全く別のものと化していた。

R & B が好きで、、、昭和歌謡も好きで、、、井上陽水も、、、
シットリとした歌から、、、ヒップホップ大好きっ娘に変身してまで、、一青窈は、つかみ所のない不思議さに包まれていて、それでいて、誰からも愛されたいと願っている。
それは、欲張りなくらい、、、愛に飢えているように思えてしまうけれど、、、。

コンサートで演じる姿が本物なのか、、、、それとも、本当の姿は、隠しているのか、、、。
一青窈のライブの形が、変わってしまった事を受け容れていいものなのか、、受け容れるべきなのか、、それとも、去るべきなのか。
デビュー当時の想いとは裏腹に、、、、と、感じることの虚しさの中で、、、、一青窈のコンサートは、本当に、雰囲気が違っていた。

新たなファンを獲得したかもしれないが、去ってしまうファンもいる。
楽しくて、、、楽しみたい。そんなコンサートだけを、望んでいないファンもいる。
Yo & U に、感動するファンがいても不思議ではないと分かっていても、、、。
それは、ほんの少しの「失ったもの」かもしれない。

楽しそうな姿を見せられて、楽しいんだろうなぁ・・・・と、思うだけではないファンもいる。
一青窈に望むものが、もう無くなってしまったのかと、不安に思うファンもいる。
それでも、一青窈は、もっともっと凄いはずなんだ、、、と、想い続けるファンもいる。
だけど、、、、、それらを失っても、、、、走り続ける一青窈がいる。

一青窈を応援しても、失ったものは、もう、戻らないのかもしれない、、、、、。
そう思いたくは無いのに、、、、、一青窈の姿から、失ったものを探そうとしていた。

それは、一青紙 vol.1 なつ に、本門寺ライブを終えて記された一青窈の言葉、、、、「あたしの中には変わらない考えがあります。」・・・に込められた想いでした。

その原因にFCの功罪があるとすれば、その”罪”は、スタンディングを煽ったことでしょう。
それを望んだ一部のファンが、一青窈を煽り、会場を煽ってしまった。

スタンディングすると、聴く事の感性に少なからず影響を与えてしまい、それが、見境もなく行われると、その歌本来の良さを引き出せないでいる。
会場が立つと、それに合わせた歌い方に変化し、、、、それが楽しい事なんだと思い込んでしまい、錯覚すら感じない。
だけど、その反面として、その歌の本来の”姿”を消してしまう。
立てば盛り上がると思い込むことが、実は、うたの良さを引き出していないことすらも、考える力を無くしてしまい、それは結局、虚像の象徴。
これからも、一青窈のコンサートは、そんな光景が必要になり、そうならなければ盛り上がらないと感じられないファンが、ただ増えるだけのコンサートになるだろう。
そして、一青窈も、、、、それに合わせた楽曲を提供していくのだろう。

全くもって、、、、。

池上本門寺の「犬」を観れば、「犬」の、本当の良さを知るでしょう。「イマドコ」も同じです。
それが何故優れているのか、その理由が分かると、犬もイマドコも、活きた歌になるのです。
てとしゃんとは、違うのです。

今回のYo & U  が、”てとしゃん”よりも優れていないのは、ファンが、一青窈を煽ってしまった結果、、、、なのだろう。
その結果として、一青窈が、「立って下さい」と言うはめになり、立ち上がってしまう。
一青窈が、「座って下さい」と言うことになり、座ってしまう。
では、一青窈が、何も言わなければ、FCが先導してしまうのか。
その結果が、楽しい結果だと思うことが出来ない。
誰も立たない中で、1人だけ立ち上がることは出来やしないし、例えそれで立ち上がったとしても、それが良いことだとは思えない。
だが、一青窈のコンサートスタイルが変わってしまうと、、、その結果を認識しても、そのプロセスは認容できない。
それは、その場限りに楽しんだ結果として、いずれ、一青窈に跳ね返ってしまう事を導いているからなのかも知れない。


206

古いパソコンを整理していたら、こんな文章が見つかったので、記念に残します。 パート2 2006年3月21日 20:17:18

下記は、私が、公式BBSに、2004てとしゃんコンサートについて書き込んだ時の原稿です。
2年も前の想いだけど、、、Yo & U を終えても、あの頃の想いに変わりありません。
一青窈に対する期待は、例え・・・回り道をしたとしても、色あせることは無いと信じています。
不満はあるけれど、期待もあります。あんな Yo & U は、まだまだ本気を出していないと思いました。
一青窈が、本当の実力を示した時こそ、その凄さを体感出来ると信じています。

BBSに期待していた当時は、この程度でも、長文と思われていました。だけど、あの頃も気持ちが熱かった。。。


 

次は富山・金沢です。
姿見一青也を観てあっと言う間に一青堂に入り、届いたチケットに興奮しながら、やっとこの日を迎えます。
DVDは何度も観ました。CDは何度も聴きました。金魚すくいは手首が折れるくらい練習したので2倍速でもだいじょうVですv(・_・)v
コンサートへ行く人の想いは様々でしょうが、アーティストにとって、そこが真剣勝負の場である限り、
その想いを受け止めて共有したいと思うファンとの一体感が素晴らしい空間を生み出すのかも知れません。
でも、私の場合は、一歩離れた立場で望みたいと思います。偶然見つけた一青窈という名前に興味を持ったのが始まりでした。
その歌声、表情、言動、思考等々、興味が尽きません。
コンサートでどんな表情を見せてくれるのか、その音楽性を純粋に楽しみ、溢れるパワーに感激するだけでなく、
一青窈とは何なのか、不覚にもDVDで涙したのはなぜなのか、彼女に混在する「動」と「静」、「明」と「暗」に触れたいと思いました。
私にはいろんな事があったから・・・等身大の「大家」は人生そのものだから・・・・聴く度に涙がこぼれます。感激の涙でも悲しみの涙でも嬉し涙でもありません。
泣きたいから泣くのでもありません。泣くために泣くのでもありません。もう後悔はしたくない。
この歌に出会えてよかった。コンサートへ行けるだけで幸せです。もしも、コンサートがペンライトだらけなら、おそらく・・・・私は行かない。
観客と楽しんだり、楽しませたりするのは別のアーティストのこと。ペンライトにはペンライトが似合う歌があります。それも別のアーティストのこと。
歌が上手かったり感動させる歌手は他にもいます。でも、一青窈は一味違う。何が違うのか。歌っている時の姿が違います。
今までの歌手とは違う強い信念に基づき、自らの作詞にこだわり、ぎゅうぎゅうの想いを込めた難解な歌詞を、独特な抑揚と表情を織り交ぜながら、
一生懸命、心を込めて歌う姿に観客は感動し涙するのです。それが人々の心を動かすから幅広く支持されるのだと思います。
演出のアンコールに応えるよりも本物のアンコールで感謝の気持ちを伝えたい。そんなシンガーが一青窈だと思っています。
ペンライトが必須アイテムになり今後のコンサートは様変わりするでしょう。
それでも一青窈の歌は、静かに、じっくりと聴きたいファンがいる事も忘れないでいてほしい。

私は、基本的にペンライトを使いたい時は、自由でいいと思っています。
ペンライトの輪が広がり、一青窈のコンサート=ペンライト一色になってしまっても、それはそれで仕方無いと思っています。
ただ、あの書き込みをしたのは、それによってファン層が変わり、歌も変わり、
ファンの意識も変わっていく事が、いい意味でのプラスとならず別の方に向かってしまわないか、不安を感じたからです。
感謝の気持ちから始まる使い分の暗黙の了解は、FCを超えていずれ楽しむ為の参加型コンサートへ変化するでしょう。
いつまでも聴かせるシンガーでいて欲しい願いを、つたない文字でしたが「代弁」する意味も込めて、あの書き込みをしました。
ありがとうございます。富山へ行きます。



2004.02.29
富山・金沢てとしゃん 感想
「まわりに迷惑をかけないように、楽しめばいい。」との意見が体勢を占めましたが、それぞれの立場の迷惑って何だってことに疑問が生じたから、
ストレートじゃなくて変化球のつもりで書いたものが・・・2泊3日の旅から帰り早速BBSをチェックしたら、フムフムな意見が・・・、なんか困った。
まあ、それも、富山・金沢で考えさせられたので、率直な感想を書き込みします。ネタバレには注意して書き込みますが、読みたくない人は読まないで下さい。

富山てとしゃん
私は歌手の本核的なコンサートは初めてです。
人の多さに戸惑いながら、自分の席に着きました。なんと真正面。ガビーン。うれし恥ずかしです。
開演までの数分は、上の空。コンサートが始まりました。一青窈の第一印象は。あっ、そうそう。私の書き込みは「窈ちゃん」ではありません。
「一青ちゃん」と書きたいのですが、あえて敬称を略していますので、ご了承下さい。一青窈の第一印象は、美人、いや超美人。キュートでかわいい。
あんなに小さいとは思いませんでした。DVDのイメージしか無かったので、最初は、フムフムって感じです。
一瞬ですが歌の途中で自身に気合を入れる険しいしぐさが印象的でした。プロの真髄です。
足は良く見えました。
陸上部出身の私の目には、骨太で強そうなアキレス腱。発達したふくらはぎの筋肉、スプリンターの足ではないけれど、鍛えれば100mを12秒27で走られます。
くるぶしから下が特に発達しています。なんて書いても、誰も興味ないね・・・。何曲かの後に、とうとう来たか・・・。
立つタイミングは、FCが先導しました。ここから私の心は葛藤の嵐です。
なんで立つの?座っちゃダメ?でも、座る雰囲気じゃない。リズム感0の私は、穴があったら入りたい。3曲立ったままでしたが、座った時は楽になりました。
嫌だった気もあったけれど、座りっぱなしも疲れるから、アリガトウ。結局、泣けなかったが、でも良かった。
一青窈のファンでなかった人でも、いろんな変化があって良いコンサートだと思います。
でも、なんかモヤモヤした違和感を感じたのは、私だけではないと思います。
あれ@のリズムは「ワン・ツー、ワン・ツー」じゃなくて、「ワン・ツー、ワン・ツー・スリー」でした。早速ホテルのバスルームで特訓しました。('-'*)フフ

金沢てとしゃん
前日からのモヤモヤ感の中、コンサートは始まりました。
富山でのハイテンションさが若干薄れたのは、小説の読みすぎによる寝不足だったのね。ここでも立つタイミングはFC先導でした。
一青窈も立つ事を促したので全体が立つ事になったと思います。後ろの方はわからないけれど・・・・。FCでもファンでもない人は、なんで?って思うでしょう。
それまでにもリズミカルな曲はあったのに、どうしてこの曲で立つのか?ノリの良さは個人差であって、客席の前後でも違ってくるものです。
あれ@は特訓の成果が出たと思うけれど、あれAはレッスンタイムがなかったのでダメでした {{{{(+_+)}}}} 。2日とも正面席でした。
歌っている時に目が合ってしまいましたが、手を振る事も出来ず、目で合図するのが精一杯でした。
かわりに髭のドラマーに手を振ったのは、私が最初で最後かも知れない・・・オエー。

この2日間を通して感じたのは、一青窈は頑張ってるなってことです。
あれ@の振り付けを笑いながら指導されると、何だかこっちもおかしくなって来ました。
何度も繰り返していると、不思議と楽しくなるもので、一青マジックとでも言うのか、心からウキウキして来ました。
職場の人が見たら、「オマエ、何してんだ?」と言われそうで・・・でもあれ@は面白かった。いろんな話もしてくれました。
私がその言葉の奥に感じたのは、その言葉の源は、一青窈の感謝の気持ち。
多くの人に支えられ、こんなに沢山の人が集まり、その期待に応えるには相当のプレッシャーだと思います。
立つ立たないやペンライトについても、それもこれもみんな一青窈のことを想ってのことだけれど・・・
それもまたプレッシャーを与えてしまい、ファンとして反省せねばと思いました。そんなFCに一青窈は幸せの花をまいてくれました。
FCへのご褒美だと思って大切に保存します。富山で立った時は正直嫌でした。金沢で立った時はちょっと嫌でした。
この嫌々感は、今後どうなるのかわからないけれど、あと2回で解消されるのだろうか?・・・座っている人のまわりがみんな立っていたら、迷惑かけることになるし・・・
車椅子の人も居たけれど・・・その人のまわりの人たちは座っていたのかな・・・帰りの車中、ずっと考えていました。
でも、今こうして文章を作っていると、FCである限り、一青窈のファンである限り、一青窈の為に何かをしてあげたいと思うようになりました。
立って欲しいと思う時に、FCが立たなければ観客も立たないでしょう。
特別な事情の場合は、まわりの人達みんなで配慮出来れば・・・、盛り上がるとかじゃなくて、逆の立場なら寂しいだろうな。
何の為にFCに入っているのか、自問自答しています。一青窈は多くの人に支えられ、たくさんの期待を背負って一生懸命走っているんだ。
そんな一青窈を大切に見守って行きたいと思いました。スポットライトに照らされた瞳の奥はキラキラ輝いていました。ありがとう一青窈。


書き込み補足
最後から7行目の「迷惑かけることになるし・・・」は「座っている人に対して」です。
座ってじっくり聴きたい人や観たい人に対して、そのまわりの人が好きなように総立ちすれば、迷惑かける事になる意味で、、、
KEIさんの言われる答えの出ないことなのです。




205

古いパソコンを整理していたら、こんな文章が見つかったので、記念に残します。パート1 2006年3月21日 20:17:10

私が、主に、、今は無き「一青しんどろ〜む」に書き込んだ原稿の一部です。こんな内容が自由に書き込み出来たBBSでした。
それ以外にも、下書きしたような文章です。
長文覚悟で読んで下さい。
良い意味でも悪い意味でも、一青窈を思考していた熱い時期でした。



こんな書き込みしてみたかった

一青窈のファンなのに、彼女の歌を聴いて泣いたことがない人がいます。彼女の歌は、聴く者それぞれの想いによって、泣きたくなるものだと思っていました。
表面上の言葉の意味だけとらえてしまわれがちですが、歌詞に込めた想いは奥深く、そこに隠されたメッセージをしのばせるのを楽しんでいるようにも思えます。
彼女が自らの生い立ちを売りにしているとの批判も、その事がないと、歌詞が理解出来ない場合があります。
泣けるか、については人それぞれですが、人生において深い悲しみを経験した人は泣けると思います。
それは、大家・月天心までの歌ですが。失恋したことがあるだけでは、本当には泣けないと思います。
泣かせる歌だと彼女自身が思っていないにしても、豊かな表情で歌う様は、他の歌手に無い魅力で、上手いとか下手とかの問題じゃなく、
しぐさで想いを伝える手法は最大の武器だと思います。アリガ十々と大家を聴いて涙するのは、彼女のメッセージを自分なりに知ったと感じたからです。
最近まで「なんもない」は、一青窈最大の汚点と思っていましたが、彼女があえて発表したのは、別の見方をすれば、彼女の二面性の現れだったのかも知れません。
別の自分を表現してみたくなった遊び心だったのかもしれません。だから、一青窈の歌でどう思うのかは各人の感性だと思います。
そう想わせるのが一青窈の魅力だと思います。
だから、今一押しのハナミズキを、一生懸命、心を込めて歌っている姿を見られる一青窈ファンは幸せ者だと力説しても、友達は( ゚Д゚)ポカーン でした。
ツアーで大家が聞きたい、せめて、富山・金沢だけでも・・・・。




寝る前にチェックしたら「魅力が薄れてきた」が気になったので、書き込みしたくなりました。
人前に出る事が多くなり、愛想よく振り舞うイメージに気を使うあまり画一的な態度になったんじゃないかと、いいように解釈しています。
私にとって一青窈の魅力を一言で表現すると、歌っている時の顔です。
両親の死後からデビューまで、その生活はベールに包まれていて、断片的にしかわかりませんが。
表面的には辛い体験を乗り越えて来たようでも、普通の感覚なら、心の奥底に、大きな壁を作ってしまうものです。
その壁を壊されまいとして、一生懸命防御しながら新しい自分を作ろうとしているから、実のところ毎日が不安だったりするものです。
しかし、歌う時は無防備で、嬉しそう、悲しそう、楽しそう、不安そう、泣きそう、苦しそう、何かを訴えていそう等・・・面白くさえあります。
自分の本心を知られたくない無意識の心が、他人に対する愛想であっあり、弱音を見せない態度だったりするものです。
歌う時に人一倍緊張するのも、感受性の強さだと思います。情熱大陸を見ていないのですが、トップランナーでは意志の強さを感じました。
だからといって暗い影を知ったとしても、悲しくなるだけかも知れません。悲しみの裏返しが、今の一青窈だと思います。
そして、その悲しみは、体験した者でないと、開いてはならないと思っています。だから、一青窈の歌で泣けるのです



近々ツアーを観に行きますが、客のスタンディングについて、オフィシャルでは、否定的意見について理解はするが賛同者はなく、肯定的意見で終息したと思います。
一青窈自身も客に立って欲しいのではとの推測意見もありました。
まあ、それがオフィシャルらしいのですが。ところで、一青窈の歌のファンとしては、座ってじっくり聴きたと思います。
他のBBSを見ても、立ったり踊ったりして楽しかったようですが、それは一部の人のようで、そんな事を繰り返していると、
一青窈のコンサートは、聴かせるのじゃなく、ただのイベントのように思えます。
会場との一体感をスタンディングに求めるなら、ファン限定のライブですればいいと思います。



私は、一青窈は売れない方がいいと密かに思っています。ファンとしては、大ヒットして欲しい気持ちはありますが、
しかし、そこそこ売れるだけで、ミリオンなんか出さない方がいいと思っています。頂点に達すると、なんか変わってしまうんじゃないかと危惧しています。
真剣に歌う時の表情に注目すると、もらい泣きは、鬼気迫るものがあり、アリガ十々は満足そうで、大家は喜びと悲しみが交錯しているように見えます。
犬も金魚も一青らしさと思えて来ました。でもハナミズキは演出にしか思えてなりません。
「他人の書いたものは歌えない、いい曲だとしても、一青窈に合う曲じゃないと作詞しない。」みたいなことを言っていたと思うのですが、
ハナミズキは、一青窈じゃなくてもいいんじゃないかと思えてしまいました。
なんて公式に書いたら、いや、書けない。



彗星の如く現れた一青窈は、デビュー前のストリートライブで、どんな歌を好んで歌ったのでしょうか。いえ、どんな表情だったのでしょうか。
気になります。
アマチュア時代から今と同じ表現力なら、ただ者ではありません。
その歌を真似てみたくなり、ハナミズキを買ってしまいました。さっそく3曲目のカラオケに挑戦しました、が、むつかしくて歌えません。
先日、一青窈の魅力は顔と書きましたが、2番目の魅力を挙げるとすれば、独特のこぶしと抑揚だと思います。
特に、抑揚を付けた歌唱力は、音楽メロディーを超えていて、アカペラでも十分聴かせてくれそうです。
さすがアカペラ出身。コンサートでスポットライトを浴びながら、アカペラすれば、魅力倍増と思ってしまいました。
但し、大家。一青窈がネットサーファーなら、ここも見ているかもと思って書き込みしています。スタッフでもいいから、見て欲しいと思います。
私は、今の公式が好きになれないので、こんな書き込みしながらストレス発散させてもらっています。W



私は「立っても良いよと言われれば状況によって素直に立つ派」+「立つと後ろの人から、見えな〜い、と文句言われそうなくらい背が高い迷惑かけ派」+「後ろを気遣う中腰では3曲も我慢出来ない派」+「前の人が立ったら自分も立ち上がってステージが見たい派」+「それでもじっくり聴きたい派」なんで、立つことは・・・・なのです。



ツアー行って来ました。
犬を聴きました。総立ちだけと、なんか冷めました。
グッズの「ええいああ」買いました。
その中に、犬のヒントがありました。

あなたが
カワイイ!
と云ってくれるなら
あたしは
なんにだってなれる。
たとえバカ犬だとしても
うひゃひゃ

最初にこのコメントを読んだ時は、彼氏にカワイイと言ってもらえるためなら自分を捨ててまで従順な女になれることかなと思いました。



ツアーの不思議
今回のツアーでは「大家」を歌いません。シングルの曲なのに歌いません。なぜか・・・。この歌は自らの人生を凝縮した歌詞だから封印しようとしているのか。



よかった
ツアー行って見ました。
最前列です。化粧の上手さに関係なく美人です。むしろ可愛いです。時々、意味深な眼差しをします。
益々、ファンになりました。プロモの化粧は失敗作ですね。でも、人間性は謎だらけです。
ライブの姿に限れば、台に飛び乗って拳突き上げてwow wow 吠えるパフォーマンスも 本心だとしたら嫌な感じです。
その姿を舞台の袖から事務所スタッフと思われる2人が観察しながらチェックしていました。計算されたパフォーマンスのようで、いっそう嫌でした。
BBSでは感動した、盛り上がったの一点張りで、一部の意見が全てのようで・・・。具体的な感想も乏しく、まして、建設的な意見は皆無です。
賢い一青窈なら気付いているはずです。ネタバレ禁止の申し合わせも、MCなら良いのかと書き込みたくもなるけど、そんな事はしません。
書き込みに対するピントはずれな意見でも、指摘される事がないから、書きっぱなしの部分もありました。ツアー後のBBSがどう変化するのか楽しみです。
う〜ん、私はちょっと過激かもしれませんので・・・。素晴らしい歌声でした。



2004.03.11
大家の中国語部分は興味深いです。ありがとうございます。
私は、大家は一青窈の人生そのものだと思っていますから・・・。一青窈は、失ってから「始まる」と言っていました。
コンサートやTVでも、元気いっぱいな姿で幸せ感をふりまいているけれど、しかし、若くして両親を失った者が、たとえ前向きな人生を歩み始めたとしても、
何かを失うことと、両親を失うことは同じではないはずです。失った両親の愛情と幸せを探し求めているように思えてなりません。
自らの心情である大家に特別な想いがあるから、その部分を中国語で歌うのだと思います。と、勝手に思っています



2004.03.17
立つか立たないかで意見の別れる歌手って、他にだれか居るのでしょうか。
イマドコは、普通に歌ってこそイメージが伝わるし、歌詞の意味も味わえる曲なのに、立たせて手拍子させて、何のメリットがあるのか、よくわかりません。
歌っている時の表情は、なんか演技に集中しているようで、余裕がないように見えます。
一緒に立ち上がって踊れば楽しいからと勧めているように感じますが、そんな歌じゃないし、特に、犬と同じスタンスでもらい泣きを歌うのは、疑問です。
私は、1列目でわざと立ちませんでした。座って見ると冷静になれて、立っているほうが滑稽な感じがしました。歌っている最中の顔の表情は、嬉しそうではないです。
楽しそうに見せているだけで、嬉しさがにじみ出ていませんでした。まあ、全員が立っていないから、寂しいのは仕方ありませんが。
観客を立たせる事にこだわる理由が、よくわかりません。



私が立たなかったのは、公式での立つか立たないかレスに、疑問を感じたから、実体験の上、意見しようと考えたからですが、しかし、そんなBBSじゃないから、止めました。
あの感覚は、した人でないとわからないでしょう。お互いの立場が嫌でしたし、自分自身も嫌な感じでした。もう座りたくもありませんし、立ちたくもありませんでした。
二度とコンサートには行かないでしょう、と、思わせるくらい辛かった。
一青窈のイメージとコンサートに期待していたから、なんでこの曲で立ち上がるのと感じさせるコンサート構成が好きになれませんでした。立たせるのは、半ば強制ですね。
特にFCには。むしろ、今日は座ったままでいて下さい。と、言ってくれたら、最後はスタンディングオベーションしたくなるくらいの素晴らしいコンサートでしたから・・・
もっと自信を持てばいいのにと思います。



「公式での立つか立たないかレス」は、@そのようなニュアンスのものがありました(私だけ感じたのかも知れませんが)。
Aアーティストの要求に観客がどう応えるのか、が、ライブの醍醐味である(これはリニューアル前かも)、との意見もありました。
てとしゃんのイマドコでFCが真っ先に立ち上がります。これは、自ら立ち上がりたい人はほんの一握りで、
ほとんどが立って欲しいアーティストの要求にいち早く応えているか、それにつられて立つだけです。
そうなると、座って聴きたい人は、ステージが見えないから、否応なしに立ちます。
公式で嫌々立つより「立ちたくなかったら立たなくていいのです。好きなように楽しみましょう。」と、ありました。
それは立つ人本位の考え方ではと反論したくなったから、座っている人(車椅子を含む)が、周りが総立ちの中、コンサートを楽しめるのか、確かめるために実体験しました。
公式で、荒れる事なく、こんな意見が書き込めたら、面白いけれど、
「鶴の一声」以来、じっくり聴きたい派はおとなしくなりました。



コンサートの新曲を聴いて、なんか、一青窈らしい力の入った歌詞が無いのが気になった。感動する以上の、人の心の奥を鋭くえぐるような言葉がない。




大阪てとしゃんから帰ってきました。公式に書こうと思ったけれど、いつものほめ言葉に閉口したので止めました。
ツアー4箇所目でしたが、声も洗練されていました。一瞬、歌詞が飛んだのは・・・聴かなかった事にしましょう。
緊張していると言っていましたが、これまでのツアーと比較しても、微妙な慣れや緊張感の差を、歌い方から感じ取れます。
パワフルさが増している印象が強すぎて歌詞に対する懸命さが負けていました。
ただ、犬の時に客席を走ったのは、ファンサービスじゃなく、自らに気合を入れる為だと思います。
なぜなら、大阪では、客席前方の片側約100人が立ちませんでした。さすがにショックは隠しきれず、歌う表情にも「あれっ」って感じが出ていました。
私にとって最後のツアーだから立つ感覚も味わうつもりだったのに、あの雰囲気じゃぁ、立てません。
最前列をFCで固めないから、あんな事になりました。立つか立たないかの問題じゃなく、現実はあまりにも残酷で、自信を失いそうでした。
だから、客席を走る衝動にかられたのだと思います。なんだか、けなげで、かわいそうで、いとおしく感じました。
一青窈は気持ちで歌う歌手ですが、その100%の力を120%まで引き出すのは、観客の力だと・・・、4箇所目のコンサートで初めて理解する事が出来ました。
一青窈を批判するのはたやすいですが、批判する側にも、それなりの覚悟が必要です。色々考えさせられた・・・てとしゃん(あ、うん、の呼吸)・・・でした。
望春風が1番気持ちがこもっていて良かった。



ツアー4箇所目は最後の大阪でした。こんなに夢中になれた歌手は初めてでした。何回観ても新鮮で、魅力的で、素晴らしいとしか言いようがありません。
聴きながら・・・歌詞を噛みしめ・・・噛みしめれば噛みしめるほど味わい深く・・・その情景を想い浮かばせながら・・・心の中で口ずさんでいました。
限られた休暇を利用し、富山、金沢、香川へ行き、戸惑いもあったけれど、とても感激しました。最初は、泣きたいが為だけにコンサートへ行きました。
しかし、真剣なステージに心を揺さぶられ、その想いをストレートに受け止める事が出来ました。でも、なぜだか涙は流れませんでした。
そんな私でも、大阪では心の中で泣けました。
最後は涙に霞んで良く見えませんでしたが、歌声を心に刻む事が出来ました。私は・・・二度と、彼女のコンサートを観る事が出来ないのかも知れません。
最後に、大阪で涙を流せた事が嬉しかったぁ。「失って、始めて 気付くこともあるけれど・・・」、・・・私は・・・失って、「初めて」気付きました。
その気持ちが「始めて」に変わるには、まだ、時間が必要です。ありがとうございました。



雰囲気2004-03-04
私の知る限りでは、会場によって、多少の差はあると思います。
この多少は、実は大きなもので、MCに対する観客の反応で、会場の雰囲気は変わります。
ノッてくると、トークも弾みますから、気分が良いと歌う表情も活き活きしてきます。いい意味の緊張感もありました。そう考えると富山が一番良かった。
100%の一青窈と120%の一青窈の違いでしょうか。あっという間の2時間で、素晴らしいの一言です。
仕事の都合で富山以降のチケットは捨てるつもりでしたが、何度でもコンサートへ行きたいと思わせるほどの魅力を感じました。
大阪では、隣りの女性は、途中から、ずっと泣いていました。
一青窈のコンサートへ行く人は、それぞれの想いを抱いていますから・・・。目の前で聴けるだけで、感激です。
益々、好きになりました。個人的には、全曲、ピアノ伴奏だけで聴きたいと思います。
ラジオのアップを聴きました。泣きたくなるくらいなら、たぶん2ちゃんねるの事でしょう。
誹謗中傷は問題外ですが、公式やファンサイトのBBSに満足していないから、そうゆう所が気になるのだと思います。
ここは、健全に発展しているから、一青窈も興味を持ってくれるかも知れません。



歌い方に注目すると、富山では、真剣な一青窈を見ました。体調不良後でしたから、歌う事に真剣でした。
感情込めて、気持ちで歌っていました。その姿こそ、本来の一青窈であるべきだと思います。緊張する事で真価を発揮する数少ない歌手だと思います。
金沢では、楽しい一青窈を見ました。富山での成功の余韻でしょうか、ちょっと余裕がありました。
香川では、弾ける一青窈を見ました。コンサートをみんなで楽しもうとする感じでした。
大阪では、力強い一青窈を見ました。歌声のパワーを感じました。でも、ちょっと空回りしていました。
富山ブラックは、面白かった。あれほど盛り上がったのは、他では無かったと思います。
富山ブラックのTシャツを脱ぐ時は生脇腹も見られたし、Tシャツが似合う歌手1かも。私は、全て泊まり込みで行きました。だって、遠い所に住んでいるから。



雰囲気3 これでおしまい
生脇腹は富山限定の出血大サービスです。
てとしゃんTシャツの上に、富山ブラックTシャツを重ね着していました。
てとしゃんTシャツを紹介しようとしたのですが、二枚重ねでは簡単に脱げなくて・・・左脇腹の方がめくれ上がってしまいました。
思わず、女性バンドメンバーが隠そうとしましたが、最前列からはバッチリ見えました。富山を選んだのは、日程の問題でしたが、しかし、ラッキーでした。
どれほどめくれ上がったのかは、自分の両手を開いて左脇腹に当てて下さい。それくらい見えました。('-'*)フフ
このレスを本人が見てたら、まあ、サービスと言う事で、許して下さい。



見ました。基本的に荒らしは徹底的に無視するしかありません。
BBSの基本です。それがわかっていても、無視出来ないのが、一青窈のファンの長所でもあり短所でもあると思いますが、
そこの管理人が対応していないのは、特別な理由があるのかもしれません・・・・しかし、残念な事です。
不特定多数の書き込みが出来る良さと、登録制の良さを比較できないのが、個人BBSの辛いところですが、ここは、管理人さんの目が行き届いていますから、安心です。
管理人が旅行する時は、モバイルか一時閉鎖する覚悟も必要でしょう。



こんな事に反応するのは、本意じゃないし、自己矛盾になりかねないし・・・
あのBBSでは、ほとんどの人が、問題レスをそのまま引用しています。止めた方がいいです。また、これ以上大きくすると、一青窈の目に留まります。



見ました
実は私、一青窈にファンレターを出した事があります。ツアーの感想を、感謝の気持ちを込めて正直に書きました。
8割は褒め称え、2割は意見しました。改善して欲しいとの願いから、「あんなもらい泣きは、ワサビだらけの寿司のようで、歌声が活かされていません。」と・・・。
スタンディングについても、建設的な意見をしました。ファンレターに相応しく無いことは承知していましたが、一青窈なら理解してくれると思える文章にしたつもりです。
本人としても観客の反応は気になるし、BBSも気になるでしょう。でも、公式では、本当の事を伝えられないから、手紙にしました。
ライブは素晴らしかったけれど、一生に一度しかライブに行けない人の為にも、その時その時で100%の一青窈を表現して欲しかったからです。
まあ、あくまで個人的意見でしたが。
最近のTVを見ていると、場慣れした余裕があります。それもまた良いのですが、昨日のミュージックフェアは物足りない感じもしました。
別の見方をすれば、ああ、こんなもらい泣きもいいなぁと思えるかもしれませんが。個人的には昨年末のFNS歌謡祭でのもらい泣きこそが本物の一青窈だと思います。
プロ歌手を前にして、極度の緊張感の中、真剣勝負をしていました。
青筋立てるくらいの表情と感情で歌い上げるのが一青窈のもらい泣きであり、誰にも出来ないものでした。
毎回していたら、疲れますが・・・。そうゆう意味では、昨日は上手く歌っていましたが、もらい泣きに込めた想いはストレートに伝わって来ませんでした。
辛口な意見ですが。



美しい
私の個人的趣味ですが、一青窈が1番輝いている顔は、姿見一青也in渋谷だと思います。
女性は化粧して美しく見せたいとするでしょうが、本当の美しさは心からにじみ出てくるもので、その気持ちは顔に出るから化粧も不要なのでしょう。
渋谷ではライブの緊張感と嬉しさが交錯し、満足感いっぱいのようで、そんな心が美しい表情を表しています。
真剣に歌う一青窈も好きですが、渋谷でのあったかい一青窈が本当はもっと好きです。チャームポイントは、ひだり頬のホクロです。
本門寺や金魚ライブの化粧は綺麗なのですが、感情も読み取れる美しい顔としてin渋谷が好きです。
でも、もっと、もっと美しく輝いていたのは、富山てとしゃんで、スポットライトに照らされてキラキラ輝いていた瞳の奥でした。あの時はオーラを感じるほどでした。



ハナミズキ100年への想い
明治45年に友好親善の掛け橋として贈られた桜は、毎年美しい花を咲かせているそうです。
大正4年に桜のお礼として贈られてきたハナミズキは、今も白い花を咲かせているそうです。
激動の昭和を経て、平成の時代となった今、一青窈さんが忘れかけていたハナミズキのことを教えてくれました。
明治42年8月に桜の寄贈が決定されてから、94年の歳月が流れてしまいました。
予約していた「一青想」を買ってくるyo



てとしゃん ありがとう!
楽しい時間は、あっと言う間に過ぎてしまいました。
こんなに夢中になった事はありませんでした。
厳しい意見も書いたけれど・・・
ライブの情景を想い出しながら一青想を聴いています。
NHKへは行けなかったけれど、ハナミズキの想いは、ちゃんと届いています。
全国のファンに贈られたハナミズキは、5年後、10年後、いや、100年先も、どこかの街角から私たちを見守ってくれるでしょう。
こらからの人生に、辛い事、悲しい事があったとしても、ハナミズキの想いは忘れません。
一青窈さんの想いが込められたハナミズキ。みなさん大切に育ててね。



一青想
新曲は新鮮ですが、アルバム「月天心」ほどの感動が味わえません。
一青窈から一青窈らしさが薄れたと思いました。「いろはもみじ」や「面影モダン」。
確かに一青窈の個性は見られますが・・・、一青窈そのものを表したアルバム「月天心」と比べると、「歌詞に込めた想い」が伝わって来ません。
それは、今の一青窈が、幸せをかみしめているから・・・、鋭い感性が消え去ろうとしているからなのでしょうか。
合格点がもらえる作品よりも、個性的な作品が好きです。
10年後も聴きたいのは、やはり、アルバム月天心。ストックされた歌詞がたくさんあると思うから、マシコタツロウに頼んで、どんどん発表して欲しいです。
一青窈から、難解な歌詞をとったら、歌の上手い人・・・。もっと、人の心に突き刺さる、深層心理をえぐるような歌詞を発表して欲しいと思います。
しかし、「うやむや」が入っているのが、理解出来ません。これも、ある意味、「一青窈らしさ」なのでしょうが・・・。「眠り姫」は、一青窈の事?



私の思う、一青窈らしさ とは。
ダンボールの中から飛び出した直後の一青窈です。
自らの作品は、(大家にしても)、人生の応援歌だと言っていました。彼女自身の人生観も、「初めて」じゃなくて、「始めて」のようです。
でも、それは、彼女がTV等で言う、所謂、リップサービスだと思うのです。
本当の事なんて、誰にもわかるはずがない。辛い経験をした者にしか、わかるはずが無い。いくら「そうね」と言われても、「そうじゃない」って事もあります。
そうじゃないって事の大きさの違いでしょうか。
それは、彼女自身が一番よく知っているはずなのです。
知っているのに、その苦しみを乗り越えた「ふり」をしてデビューした一青窈の想いは、「伝えたい」との想いとは別に、歌詞をわざと難解にする事で、
わかる人だけにわかってもらえればいいとする、隠れたメッセージがあると思うのです。
その難解さは、秘密の扉のようです。一青窈の賢さと、その感性は、狂気の一歩手前だと思うのです。
その一歩手前と賢さを、ダンボールの中で作り上げてしまったと思うのです。
ダンボールの中で、どんな狂気の一歩手前が生まれたのか、誰にもわかりません。
しかし、彼女は賢さとその狂気を備えてしまいました。
賢さがその狂気をコントロールしているようです。
だから、飛び出して来た直後の両方を兼ね備えた彼女の想いが込められた「アルバム月天心」が、一青窈らしいと思うのです。
彼女が無神論者なので、安心しました。うたばんで、霊能者のコメントを、微笑んで聞いていたのが印象的です。
「バカらしくて聞けねぇ窈」と、顔に書いてありました。



一青窈は、歌い終わった後の顔が、いつも満足感と安堵感でいっぱいです。
ただ、無心に、「歌うこと」が、好きなんだろうなぁ。そんな彼女がラジオで泣いたのは、自分の存在そのものを否定されたから、泣いてしまったのでしょうか。
でも、それは、デビュー以来、いろんな中傷を受けて来たのに、どうして、あの時、泣いてしまったのか・・・、
打ち合わせで、事前に原稿を見ているはずなのに・・・お嬢さまでもあるまいし・・・純粋な心の持ち主だから・・・、一言で言い切れない。
本心なのか、すごく計算されているのか、よくわからない。彼女の歌に陶酔する人は、彼女のプラス面しか見えなくなってしまったのか。
それは、一青窈のファンにも言える事なのか。それでも、彼女の言動が気になる。
ライブでは、歌が上手いと思ったけれど・・・、一部はショーのようにも見えました。
「もらい泣きの一青窈」を払拭したいらしいけれど、「ハナミズキの一青窈」も払拭したいと思い始めているのかも・・・。
そんなイメージの枠の中で、案外、苦しんでいるのかも知れません。欲張り歌姫なのかもしれません。それは普通の感覚じゃありませんね。
だから、魅力なのです。
観客とかかわろうとする姿勢は良いのですが、あそこでの替え歌はNGだと思います。
一青窈の凄さを見せつけるチャンスを潰してしまいました。石橋ですら、何かを感じ取っていたのに。勿体無い。
バラエティの中でも、本業は真剣であるべきだと思います。
あの〜、私は異端かも知れないので、そんな考え方もあるの?程度に思って下さい。



てとしゃんの感想
楽しかった!
ライブがあんなに楽しいなんて、今まで知りませんでした。一青想を聴いていると、ライブの感動がよみがえります。
やっぱり生は最高!今度のライブには、「大家」を歌って欲しいです。



冷めた
文春の記事を見て、冷めてしまいました。
「1人でもつまらなそうにしていると歌う気がなくなってしまう」
どんな意図で書かれているのか、自信家なのか、コンサートで体験した事なのか、全く意味がわかりません。
たとえそうだとしても、言うべきではないと思いました。伝えたい想いを気持ちで歌う歌手なのに、聴いて涙する人もいるのに。
そんな気持ちでいたのかと思うと、ショックです。つまらなそうにしているとは、どんな状態なのでしょうか。そんな場所で歌った事があるのでしょうか。
じっとしている客は、つまらなそうに見えることなのでしょうか。とにかく、とても冷めてしまいました。



一青窈擁護論
あの文書には、隠されたメッセージがあるんじゃないかと思って、深く考えてみました。
インタビュー時期を考えると、最近の感想を述べたと思います。あれだけ言葉を考える人が、あんな事を言うはずはない。
まして、ライブの観客に対して、あんなメッセージをするはずがない。等々・・・。そうすると、例の、ラジオで泣いた事が思い浮かびました。
人前に出ると、思ってもいない事で批判され、傷ついてしまう。相当へこんでいましたから。かといって、ファン等の言動に、いちいち応える事が出来ない。
まして、反論なんて厳禁です。
言いたい事も言えない。そんなジレンマの中で言ったとしたら・・・2ちゃんねるやBBSに対しての、密かな反論じゃないかと思えてしまいました。
「私は一生懸命、心を込めて歌っているのに、なぜ、そんな非難をするのですか。そんなに私がつまらないのですか。わたしは強い人ではありません。
私は歌うことが好きなのです。私は歌い続けたいのです。」。そう言っているように思えてしまいました。
考え過ぎですかねぇ。



結婚しないのかなぁ
言葉って、難しいです。自分では伝えたつもりなのに、伝えたい事の半分も伝わらない事があります。
もっと、ストレートに言えば良いのだけれど、出来ない場合がありますから。
問題文章は、何かを意図した文章なのか、本心なのか、何とでも取れるし、でも、それは、常日頃、「伝えたい」と言っていることに反しています。
誤解を招くことは、一青さんらしくありません。やっぱり、問題発言そのままなのでしょう。と、いろいろ思わせる一青窈の術中にハマってしまいました。
写真と対比すると、前後の脈絡はあると思います。プロの写真の良し悪しはわかりませんが、あの顔は、「死に顔」に見えます。「つまらなそう」にしている顔です。
「歌う気がなくなってしまった」顔です。あんな顔より、ライブで活き活きしている顔が好きです。
アクセスカウンタの伸びは、凄いですね。公式BBSの人は、もっとここに来て、本音を語って欲しいです。あそこは、ハッキリ言って、馴れ合いです。
公式の良さが活かされていません。誰も一青窈に質問しません。出来ません。
BBSの趣旨に反すると思われているから。でも、それでいいのかな。魅力ないです。と、自分が言うのも、変だけど・・・。



CANのスペシャルインタビューを見ました。「ハナミズキが受け容れられるのがちょっと悔しい」。これも軽率ですね。
レコード大賞最優秀新人賞で、武部氏が言った「もらい泣きに係わったみんなの事を想って歌って欲しい」とのコメントを忘れたのでしょうか。
泣きながら歌った、あの涙を忘れてしまったのでしょうか。新しい歌に挑戦するのはけっこうですが、ハナミズキまで引き合いに出さなくても、と思います。
あらゆる人の支えがあって、今日の歌手一青窈があるのに、そうゆうコメントは、考えてほしいです。私がマシコタツロウなら、もう曲は提供しません。
歌手は結果が全てですから、悔しかったら、もらい泣きやハナミズキを超えて、尚且つ、一青窈として受け容れられるものを発表してから、コメントして下さい。
まあ、そんな事を言ってしまうのが、素直であり魅力であり、いいかも。



見てる?
直太朗は、自己陶酔する歌い方だから大嫌い。
いい歌だと思ったのが、Time goes by。
聴いていてやさしい情景の浮かぶ、涙そうそう。
歌手ではなく、歌が好きになります。
両方が好きになったのは、一青窈が初めてです。
しかし、パフォーマンス(犬?)は馴染めない。
リンク先上位1.2.3.4.9番を適当にチェックしています。でも、書き込みは、ここと公式だけ。公式はレスに個性がないから、鶴の一声以来、馴染めない。
けれど、ちょっとレスしている。本人は、ここをチェックしている気がする。



一青風(ひととふう) 
アルバムのタイトルだったりして。
もしも、ここに書き込もう と、したら
スタイルは、別物
でも、どこかクセ が 出てしまう
たぶん それが 一青風

あれっ? そのままだ よう



「失って、始めて・・・」
失うことを恐れないで、との意味から、人生の応援歌として発表したそうですが、彼女にとって、「失う」とは、何なのでしょう。
両親の死でさえも、自然な事だったと言い切りながら、ダンボールに引き篭もり、何を失ったと言うのでしょうか。彼女の言葉からは、本当のことが聞こえて来ません。
多分、失う事の真実が、わかっていないか、虚勢を張っているだけです。
彼女に求める様々な想いに対しても、彼女は彼女の尺度でしか理解出来ていないようで、簡単過ぎます。
観客がどんな想いから涙するのか、その心の奥底を知ることは出来ません。失って、「始めて」が、説明なくして解釈できないように・・・。
しかし、失ってもどうでもいいようなものだけに「始めて」が似合うだけです。
私は、大家を聴いて「初めて」涙しました。ツアーで期待していましたが、結局、聴けませんでした。
願っている人はたくさんいたのに。なぜ、歌おうとしなかったのか。なぜ、大宮だけで歌ったのか。その本心は。
疑問に答えてくれないし、期待した分だけ寂しさが募り、そうした不安からか、一見過激な発言も、心の代弁だと思っています。
その根底は、やっぱり、一青窈の歌声が好きだから。ただ、熱心なファンは、彼女が発する言葉の全てを肯定的に理解しようとして、全てを応援しています。
そのファン心理は、褒めるばかりでは育たないタイプには逆効果で、疑問だらけです。
しかも、「癒しの人」「裸足の人」を打破したい、なんて言いながら、いつまでもしがみついています。
いろんな意味での話題提供も、それが計算されているのを感じると、ある意味、凄い人だと思います。
ファンは、彼女の言葉から、そうゆうイメージの枠の中から、いろんなものを探ろうとしています。けれども、意味深い二重の壁があるようです。
最近気になったのが、公式の「あたしんち」の内容の無さです。2003年3月1日までは素直で考え込まれた文章なのに。
会員限定になったら、まるで幼稚な文章に変わりはました。義務的のようで残念です。心の壁すら感じます。
それは、ファンに愛されたい心理の裏返しなのか、逆に彼女自身が「失う」事を恐れているようです。
彼女は見た事も無いファンの文字から、どれほどのものを探れるのでしょうか。「失って、初めて(始めてじゃない)・・・」、まるで生き急いでいる窈です。



一青窈の作詞力
彼女の歌を聴いただけでは、その意味が理解出来ない。
彼女の歌を読んだだけでは、その意味が解出来ない。
彼女の歌を、彼女が説明すれは、その意味が理解出来る。
彼女は、計算しながら、作詞する。
彼女は、計算しながら、発言する。
ただし、それが繰り返されると欠点になるのが心配。



一青窈LiveTour2004てとしゃん個人的レポ
「空寝入り♪・・・」の歌声と共に、一青窈ライブが始まった。心配された体調不良も、その迫力ある息遣いにより完全復活を感じさせた。
バンド演奏の迫力に負けないくらい、歌声は力強く、始まりの「動」に相応しい選曲で、会場の雰囲気を1つにまとめ上げてしまった。
「翡翠」で「静」に移り、伸びやかな歌声がしっとり感を充満させ、思わず眼を閉じて聴き入る。
「心変わり」では激しい抑揚を織り交ぜながら、「どうだー」と言わんばかりのカウンターパンチに圧倒された。

MCに続く「いろはもみじ」のリズミカルさは、心で曲を楽しめて、「夢なかば」では、池で戯れる無邪気な少女を演じる主演女優賞。
しかし、「面影モダン」で一変し、膝を大きく揺らす様は、リズムを刻む域を越え、鬼気迫る想いだった。
「金魚すくい」のレッスンは楽しかった。「ワン、ツー、ワン・ツー・スリー」のリズムは、初心者泣かせだが、しかし、繰り返される一青マジックに、会場は1つになった。
「江戸ポルカ」を一気に歌い、ミラーボールは恥ずかしそうに隠れてしまった。
途中休憩のような雰囲気の中で、「音木箱」は、一抹の寂しさを織り交ぜながら、そっと歌い、「年年歳歳」は、溢れる優しさを振り撒き、
「あこるでぃおん」は、哀楽を表現していた。心地いい響きの中、興奮をコントロール出来た。
MCと「月天心」では、歌と感情がぶつかり合い、その素顔に触れることが出来る。感情と表情の推移は圧巻である。

「イマドコ」と「犬」は、いろいろ物議を醸し出す。
むしろ「江戸ポルカ」「犬」の流れが良いような気がした。そうすればミラーボールも恥ずかしがらずに済んだのかも知れない。
衣装の裾を踏んでしまわないかとヒヤヒヤしたのは私だけかも。「もらい泣き」はバリエーションが豊富で、TVに無い雰囲気だった。
「アリガ十々」は、何度聴いても「アリガ十々」で、感謝、感謝、の想いに胸が熱くなった。
「一思案」が歌だと知るのに、数秒かかり、本当に思案してしまったが、優しさと嬉しさに触れることが出来た。
「ハナミズキ」に込めた想いを感じると、そのハナが咲き続ける事を願わずにいられない。「望春風」は、一番短い歌なのに、一番心に残ってしまった。
春風を誘う感動のツアーの中、一番リラックスして歌う姿をこの眼に焼き付けたら「♪僕の目の中♪一青窈がいる♪」。

ライブでこんなにも感動するとは思わなかった。選曲リストにスキが無く、みんな好き。だから「一青想」を買いました。
聴くとあの情景が浮かぶから、益々好き。でも、私は、もう、ライブへ行けないのかも知れない。残念です。
ファイナルへも行けなかったけれど、参加した会場にはそれぞれの良さがあり、日々進化するライブを文字で再現するには、書き足りない。
詳しく分析すると一冊の本になってしまうが、その想いは次回のライブまで置きたい。
苗木が貰えなかった事がとても残念と思う大人気なさに苦笑しながら、
ファイナルへ行けなかったファンの為にも、一青紙に、「ハナミズキの種」でも入れてくれたらなぁ、と、思ってしまった。
「種から育てるハナミズキの会」会長は、早くも「ライブ行きたい病」が発症したyo 重症だyo



大家のプロモーションビデオの撮影現場は、どこなのでしょう?
風情のある石階段、寂しげな水辺。国内なら、行って見たい。
もらい泣きプロモも。なんか、気になりました。

キラキラ輝く星を見ながら



今夜は、なぜだか「アリガ十々」を聴いています。
千回も1万回も、どころか、1回も云わなかった。
なのに、この歌に出会えて、良かった。
もう、遅いけれど。
何回も何回も、聴いています。
「孝行したい時に親は無し」
この歌に出会えて、良かった。



20040509 一青堂BBS
僕らの音楽では、井上陽水のジェラシーを、あんなに上手く歌うとは・・・、正直、思いませんでした。一青窈のジェラシーです。完璧です。
一青窈さんの歌声には、他の歌手には無い身振り手振りを交え、優しく、楽しく、時には悲しみを訴えるような感情をストレートに表現しますが、
その姿は、神々しいほど美しく、歌詞に込められた様々な想いを知ると、泣きたいくらい心に突き刺さると同時に、嬉しくなります。
それらは、自らが作詞した歌だけで表現出来るものだと考えていましたが、ジェラシーを聴いて、心が洗われました。
気持ちで歌う姿は、同じ歌でも新しい歌のように感じさせる、不思議な人だと思いました。
今まで歌詞の内容や表情などに注目していましたが、ジェラシーを聴いて、歌手本来の歌声の素晴らしさを再認識しました。益々、ファンになったよぅ!




歌う時は緊張するそうですが、もっと、もっと、緊張して欲しいです。
緊張するほどに懸命な姿が際立ち、歌い手としての真価を発揮する人だと思います。興味が尽きません。
そんな一青さんに歌って欲しいのは「大家」です。この歌は、彼女の全てが凝縮されていると思いました。なのに、全国ツアーでは、1ヵ所だけで歌いました。
なぜ1ヵ所だけで歌ったのか、本当の事が知りたいと思いました。
と、「僕らの音楽」のBBSに書き込んで、鳥越俊太郎さんにインタビューしてもらおうと思ったのに、既に収録済みだったとは。残念。



一青窈の文章
一青窈の歌詞は、難解だ。
もらい泣きやハナミズキにしても、歌詞を読んでも何を言っているのか、その真意はわかりません。
それは、常日頃、「伝えたい」と願う気持ちで歌っているのに反していると思います。
純粋に音楽を楽しむにしても、様々な解釈を持たせる歌詞の中から、ファンは、それぞれの想いを感じつつ、理解しようとしています。
歌詞を難解とする技法は興味深いのですが、説明が無ければ本来の意味すら理解出来ないのは、一部のファンに共感を持たれるに過ぎないように思います。
確かにいい歌なのですが、伝わらなければどうにもなりません。
一青窈の歌に共鳴しない人がいるのも事実であり、なぜかと突き詰めると、意味が分からないから歌声に共感するだけで終わってしまうのです。
それでは勿体無いと思います。もっと易しい言葉で表現出来れば、素晴らしいと思いましたが、そうゆう意味でハナミズキが支持されたのでしょう。
結局、長所と短所が共存しているのだと思いますが、それが彼女の世界観であり素晴らしさであると考えると、何が何だか分からなくなります。
全てが分からないからのが良いのでしょう。ワクワク!



204

一青窈思考 2006年3月20日 21:27:14

それが書けたら良いのだけれど、、、最後は、まるで小学生のようなライブの感想文に成ってしまいました。

一青窈思考を始めて、はや2年、、、、紆余曲折ありながら、特異なサイトを意識しながら、、、、こうやって続けて来られたのも、ひとえに一青窈の魅力に尽きます。
歌唱力の凄さは勿論のこと、その独特な声こそが、一青窈を支持する理由の1つでした。
デビューしてから、ハナミズキのヒットに至るまでは、TV出演を見ても、「ちゃんと歌えますように、、、、」と、期待と不安だらけで応援していまいた。
その頃の一青窈は、歌うことに、全てを注いでいるようにも見えましたが、、、、その姿から、歌に対する想いの強さばかりを感じることが出来ていました。
歌を上手く表現するだけではなくて、”うたうこと”、、、、即ち、想いを吐き出すことに、一青窈のうたの素晴らしさを感じていました。
何も、苦しそうな表情を前面に出すだけではありません。
体を振り絞るように表現するだけではありません。
一青窈のうたの素晴らしさは、ただ、譜面に忠実に歌うことで、自然と、その装飾音符が生まれることでした。
装飾音符が生まれると、自然と歌にも力が入り、独特なこぶしが生まれることでもありました。
それらは全て、自然に生まれるような感じでした。

それぞれの歌には、それぞれの歌い方がありました。
歌に合わせた歌唱の美学すら、一青窈ならではの拘りでもありました。
月天心には月天心の歌い方がありました。アリガ十々にはアリガ十々の、、、、、、、ハナミズキには、ハナミズキの歌い方が、、、、
望春風には、望春風の、、、、。
それらは、一青窈のアカペラにも近い歌唱法によって、一青窈だけの歌として、確固たるものを秘めていました。

私は、一青窈のファンとして、どのサイトにも書けない事を意識しながら、これでも一青窈を応援してきたつもりでした。
しかし、一青窈の変化について行けるだけの熱心なファンでは無かったのかも知れません。
だから、もう、このHPを更新することが出来ないと思うようになりました。
福岡サンパレスに行っても、見れば見るほど、辛くなるだけで、一青窈のライブに感動することが出来ませんでした。
一青窈は、こんな歌手だったのか、、、それが本来の姿だったのか、、、と、問い掛けていました。

イメージを引きずるのは良くないけれど、そのイメージを振りまいて来たのも事実なのに、ライブからは、一青窈のうたを、見つける事が出来ませんでした。

これで、今後の一青窈のライブの形は、ほぼ決まったように思えて成りません。
それに、私は、、、もう、ついて行くことが出来ません。

本当は、もっと静かなライブを観たかった。
歌だけの、、、演奏なんて、無いに等しいくらいの、一青窈の歌声が聴きたかった。
それは、たった一曲でも、良いと思っていました。

ライブは、やはり演出でした。それは当たり前の事だけれど、、、、、しかし、それが、、、一青窈が、普通の歌手になってしまった証でもありました。


203

再びの渋谷AX 2006年3月12日 9:15:38

私は、想いが溢れたら、姿見一青也を観てしまう。
一青窈思考が続く原動力は、渋谷AXを抜きにしては語れない。
その後にいくらコンサートDVDが出されても、あの時の一青窈を超えることはない。
うたに対する妥協が全くなくて、気持ちも真剣で、持てる力の全てを注ぎ込んだコンサートとして、永遠に残るものだから、一青窈の美学すら感じてしまう。
その歌い方には、伝えたい想いが溢れていて、気持ちで歌う一青窈の代名詞となっている。
顔の表情や目の輝きからも、創られた雰囲気は感じられないし、全ての歌唱には、嬉しさや悲しみやドキドキ感が込められている。
これこそが誰にも真似出来ない一青窈の一青窈たる由縁なのです。
例えそれが作ろうとした鋳型だとしても、渋谷AXの一青窈があるから、ファンを続けられるのです。
観客の表情が一青窈の素晴らしさを物語っているものは、その後には無い。
しゅるりや、てとしゃんよりも1ランク上で、花逢娘よりも2ランク上で、はいらんせよりも3ランク上だと思っている。

一青窈は、Yo & U アートブック に、「ほんとうになくしたいのは あなたと私の壁」、、、と、書いたけれど、、、そんな壁は、渋谷AXには無かった。
今の一青窈に、渋谷AXを求めることは酷な注文なのかも知れないが、少なくとも、歌に対する気持ちは褪せていないはずである。
ツアーも、後半を向かえようとしている中で、一青窈は、どんな変化を企画しているのだろうか。
私は、残されたチケットを眺めながら、お堂のありがたさを実感している。そして、いつか届くであろう残りのチケットに、期待と不安を感じている。
Yo & U ツアーで、一青窈は何を伝えようとしているのか、この目と耳で確かめて、何処にも書かれない最高なコンサートレポートを書きたいと思っていた。
最高なレポートは、最高なコンサートを観ないと書くことが出来ない。だから、私は、自分を奮い立たせることにした。


202

本当になくしたいのは あなたとあたしの壁 2006年3月10日 21:16:15

Yo & U ツアーグッズ 「アートブック」に書かれた、一青窈の言葉。
この言葉が意味するものは、正に見えない壁、、、のようです。
いくら一青窈のファンが頑張って応援しても、一青窈は、見えない壁に包まれている。
一青窈が、メッセージとして表現したとしても、友達になれる訳でもなく、いつまで経っても、歌手と、そのファンの関係は、本質的には平行線のままなのです。
壁を取り払うべき目的も意義もないし、、、、歌手は歌を歌い続けて、、、ファンは応援し続けて、、、そして、人気が無くなると、、、知らぬ顔して去っていくだけ、、、。
実に悲しい関係なのです。

だが、、、そこに書かれた「あなた」とは、、、、いったい誰のことだろうか、、、。
アートブックを手にした、”あなた”なのか。
一青窈が愛する、”あなた”なのか。
などと考えるのが普通のファン心理なのかも知れないが、、、しかし、このサイトの管理者が考える「あなた」とは、一青窈自身の事なのです。

あなたとあたし、、、、、そんな親愛の言葉を書くことの深層心理は、一種の”鏡の投影”のようなもので、、、、知らず知らずに、自身の心を吐き出しているのでは。
だから、、、「本当に無くしたいのは、、、”あたし”と”あたし”の壁」と、解釈すると、ちょっと面白い心理が見えてくる。
即ち、一青窈は、自身に付けてきた、心の鎧を、何とかして取り外したいと願っているのではないのだろうか、、、、。

一青窈と、そのファンの関係とは、、友達にはなれない特別な関係に過ぎないだけ。
歌手を応援することは、その壁を強固にするだけで、壁は決して無くなるものではない。

壁って、何ですか?

写真の表情からは、カメラを意識した顔しか見えてこない。
一青窈は、今まで自ら壁を創ってきた事を、知ってか知らずか、、、、、だから、その”壁”を無くしたいと考えたのだろうか。
見えない壁は、一青窈が歌手である限り、取り払う事は出来ないのです。
もし、壁が無くなったら、一青窈は、、、、「一青窈のうた」が歌えなくなるのです。
誰にでも壁はあるのに、それを安直に取り外したいと言い放つなんて、、、
壁が無くなることが良いなんて思わない。壁があるから応援したいのです。そう考えてしまう。

本当に無くしたくないのは、あなた(一青窈)の(心の)壁、、、


201

さよなら ありがと 2006年3月5日 15:11:40

私は、一青窈の”うた”を聴く為にFC会員に成ったと言っても過言ではありません。
一青窈の”うた”に対する想いは、今までの一青窈思考を読んで頂ければ、その想いの強さを知って頂けると思います。
この度の全国ツアーでの姿勢など、とても尊敬していました。
私は、HP上で、好き勝手な事を書き連ねていますが、それもまた、ファン心理だったのです。
どうか、たった1人の気まぐれだと思って、笑って下さい。
FCに入ってからは、いつも、その歌を聴いていました。もはやBGMとなってしまい、心地良い調べです。
「2004てとしゃん」の感動も、昨日のように覚えています。
TV出演を拝見しても、一青窈個人の魅力に増して、その歌声に、強く感銘したものです。
私は、「大家」を聴きたいが為に、FCに入ったのです。

3月3日の神戸国際会館は、仕事の都合で、行くことが出来ませんでした。1階4列21番の席は、空席になりました。
3月4日のびわ湖ホールは、私に残されたチャンスでしたが、残念な事に、間に合いませんでした。1階1A列24番の席は、空席になりました。
とても間に合わない事が分かっていながら、何時間も電車に揺られて、、、JR大津駅に着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていました。
タクシーに飛び乗り、ホールへ急いだのですが、、、着いた時には、、私の気持ちは完全に冷めてしまいました。
入口で残り時間を知らされても、係員に入場を勧められても、ホールから漏れる歌声を聴いて、無性に悲しくなり、会場へ入る足が止まってしまいました。
係員にお願いして、ツアーグッズの「アートブック」だけ買う事が出来ましたが、、、、、。
もうすぐ観客が出てくるのを感じ、、、足早にホールを後にしました。

玄関を出てからは、歩き始めました。
頭の中は真っ白なのに、しかし、何度も何度も、びわ湖ホールを振り返ってしまいました。
湖面を眺めては立ち止まり、、、、後ろを振り返っては立ち止まり、時の経過も忘れてしまいました。
びわ湖から流れる風は冷たかったです。
湖岸のホテル群の灯りも、涙で霞んでしまい、よく見えませんでした。
暗い夜道を彷徨いながら、何度も、夜空を見上げていました。
ホテルに着いても、、、気力を失ったまま後悔の念に苛まれました。
まんじりともしない夜に何度も目が覚めては、涙を拭っていました。。

翌朝は一番列車で帰ることにしました。
列車の中で「アートブック」を開いても、涙が溢れてしまい、文字がよく見えませんでした。
無くしたい壁も、見つけることが出来ませんでした。
本当は、一青窈の”うた”を聴いて、、、大家を聴いて涙したかったのに。
大家の生歌が、どうしても聴きたかった、、、、なのに、その”うた”が聴こえないのに、、、皮肉にも、涙の意味を悟る事が出来ました。
涙に違いはあれど、私は、一青窈のうたを想って、やっと泣くことが出来ました。
もう、想い残すことはありません。

一青窈を褒めて褒めて、褒めまくるHPも考えましたが、けれど、私には出来ませんでした。
スタンディング問題にしても、自分自身に正直でありたかったのです。
こんな私は、FC失格です。
こんな私は、一青窈のファン失格です。

HPを見て、不快な思いをされた方も多いと思いますが、それでも私は、誰よりも一青窈の”うた”が聴きたかったのです。
いつあるのかも知れない次のツアーまで、何年も待つことは出来ません。だから、今はもう、、、一青窈に関しての情熱が無くなってしまいました。

てとしゃん以来、コンサートへ行きたくても行けない、聴きたくても聴けないことが、ずっと続いていたけれど、
待望の全国ツアーだったのに、私にとってのツアーは、あっけなく終わってしまったようです。
FC枠で頂いたチケットは、本当に紙くずになりました。
もはや、一青窈思考を続けることも、FCも続けることも、自信がありません。
生歌は、もう諦めるしかありませんが、、、、けれど私には、あと3回のチャンスが残されています。
行けなかったら、さよならなんて、それは、甘い考えなのかも知れませんが、しかし、可能性は限りなく「0」に近いのです。
私は、自分自身にプレッシャーを掛けることにしました。それでも、もし、私が、残りの1ヶ所へでも行けたのなら、この一青窈思考は復活するのかも知れません。

一青窈が言った、一青窈が創ろうとしてきた「一青窈の鋳型」が大好きでした。
しかし、人の心を突くような、一青窈の”うた”が、、、もう聴くことが出来ません。
「大家」が、聴きたかった。
Yo & U ツアーでは、姿見一青也の渋谷AXのような、本物の「大家」が聴きたかった。
鋳型でも良かったのです。ただ、それだけが心残りです。

私は、びわ湖ホールに大きな忘れ物をしたのかも知れませんが、、、、今はもう、辛い想い出だけが残ってしまいました。


200

本気の印 2006年2月25日 16:58:47

本当に良い歌を聴いたら、身も心も固まってしまう。
凄く、凄く、素晴らしいものを観ても、固まってしまう。
心から震える想いを感じて、凄く感動しても、、、動くことすら忘れてしまう。
良い雰囲気を通り越して、本物を目の当たりにすると、尊敬すらしてしまう。
これぞ本物だと思った。それが、一青窈だった。

TVでの姿をも超えたコンサート映像が、姿見一青也だった。
それが鋳型だとしても、良いものにかわりないと思った。
その歌声が聴きたかった。本物のうたが聴きたいと思っていた、、、。

生歌の感動が昨日のように想い出された”てとしゃん”が、過去の出来事となっても、再び、その感動を味わいたいと思った。
Yo & U ツアーなのだから、以心伝心出来ればいいだけなのかも知れないのだろうけれど、、、観客全員が、同じ考えではないのだから、、、、。

MCを楽しみにしている人いるけれど、私は、「うた」そのものを期待している。
たとえ決められた演出だとしても、”うた”は正直だから、、、。
いい加減な替え歌でその場をチャラけた”もらい泣き”なんか聴きたくもないし、、、、。
一青窈は、もはやプロなのだから、、、プロ歌手としての実力を魅せて当たり前なのだから、、、。
だから私は、一青窈の「もらい泣き」が聴きたい。それは、、、、一青窈自身が「泣きたいから歌う」と言った、一青窈のもらい泣きだから、、、本物を聴きたい。
一青窈の「ハナミズキ」を聴きたい。一青窈の「アリガ十々」を聴きたい。一青窈の「大家」も聴きたい。
一青窈が言った「私は泣くために歌う」、、、、その言葉の意味を知らないようなファンではない、、、、、だから、一青窈の(泣いている)歌を聴きたい。

観客に惑わされない、自らも迷わない、、、一青窈の本気を、楽しみにしている。 だから、、、手拍子なんか、、、いらない。


199

カレーのやうに飽きない唄を。。。2006年2月20日 21:51:51

表題は、一青紙5ナツ号に寄せられた一青窈のメッセージの一部分です。

私は、自分で働いて給料を得てから、初めて店のカレーを食べたことがある。しかし、それが美味しいと感じても、お代わりをすることはない。
なのに、母の作ったカレーなら、何杯でも食べられた。
いつも同じ味なのに、何杯も何杯も、飽きることなく続けられた。
どこがどう美味しいのか分からなくても、母の作ったカレーは、いつも美味しかった。
特別な味付けがあるわけでもないのに、他所の家のカレーより、母の作ったカレーは、いつも、いつまでも美味しかった。
作り方を教わって、自分で作ってみたけれど、どうしても母の味にはならなかった。

あの頃、貧しくて何も無い食卓でも、カレーの存在感は大きかった。
それは我が子の成長を慈しむ母の愛が、カレーを美味しくさせてくれたのだ。

カレーのやうに飽きない唄を。。。
この言葉の意味を、一青窈に問うたら、何が返ってくるのだろうか。
新しいものに挑戦したり、色んな変化を魅せたり、歌手らしくなりつつある一青窈に、カレーの味を問うたら、何が返ってくるのだろうか。

(ちょっと難しい二段構えを秘めた一青窈思考でした。)


198

ええいああ 2006年2月19日 19:03:00

てとしゃんから2年を経ての待望のツアーの真っ最中なのに、素直に楽しめない事が起きてしまった。
一青窈からの宿題に、FCが予想通りの回答をしていまい、ライブが盛り上がっているらしい。
しかし、2階席、3階席との温度差は、どうしようもないような。
後ろに居る子供は、ステージが見えなくなって残念だろうし、車イス席は遮断されるし、不必要な手拍子は音楽を消してしまう。
そんな中でも、一青窈は、凄く楽しそうに歌っているらしい。
皆の希望に応える事は不可能かもしれないが、しかし、それ以外の方法は無かったのか。
もっと考える事は出来なかったのか、或いは、我慢する事は出来なかったのか。
一青窈のファンもいれば、一青窈の歌のファンもいるのだから。
コンサートを楽しみたい。一青窈も楽しませたい。盛り上がるって最高!?
これで、演出を意識したコンサートと化してしまい、一青窈の歌が聴こえなくなってしまったのだろうか。それは、この眼で確かめたい。
私の脳裏に、ある言葉が蘇ってきた。
ワンフォアオール、オールフォアワン
観客は、一青窈を向いている。一青窈も同じ。それ以上でもそれ以下でもない、普通のライブになってしまったのか。
こんな事なら、ペンライトの方がまだましだった。

周りが総スタンディングする中で1人だけ座ると、音楽が楽しめないのは実証済みだから、座りたい人は座るように言われても、座って楽しむことは不可能です。
どんなに耳を澄ませても、耳元の手拍子は雑音と化し、大勢の人間が体を左右に揺するだけで、床からは、もの凄い振動が伝わります。音響は人影で乱反射し、
とてもコンサートと言えるものではありません。だから、周りがスタンディングしてしまうと、否応なしに立たなければ、楽しむ以前の問題として、音楽が聴けません。
勿論、ステージが見えません。背の低い人や、立つことに支障がある人などは、当然、立つことのメリットがありません。
そんな状況でも、努力してコンサートに集中しなければ成らないのは、酷な注文です
それでも、コンサートでのスタンディングは、一般的に行われています。
歌手がスタンディングを煽れば、観客はそれに応えようとするし、逆に、観客がスタンディングを煽ることもあります。
立ちたくなる歌だから立つのが許されるとすれば、歌いたくなる歌なら、一緒に歌ってもいいなんて論理は成り立たないのだけれど、1人が立つと、それにつられて、
立つことが当たり前のように浸透し、逆に、立たなくてはと思わせる雰囲気が生まれてしまう。その結果、立つ必要もないものまでも、立ち続ける結果につながり、
本来は立つ雰囲気の歌すら、立たないままで終わってしまう不思議な現象が生まれてしまう。それは、結局、演出に惑わされた結果であって、単なる義務の結果である。
ツアーが進めば、その義務が一般化し、そして当たり前の現象になってしまう。
会場との一体化を楽しむことが、コンサートスタイルになると、誰も疑問と思わなくなり、誰も不満を言えなくなる。そして誰もが、同じ様なコンサートになる。
スタンディングを意識すべくコンサート構成が必要になると、楽曲も、常に意識してしまうから、そこに集う人も、ひとくくりになり、盛り上がりの図式も一般化する。
そんなことは望んでいない一部のファンですら、その流れに付いてしまい、一青窈の歌に触れたいが為、否応なしにコンサートへ参加する。
だけど、そんな変化を望んでいなくて、常に、もっと違う構成があるだろうと疑問を抱いたとしても、その流れに沿ってしまう。
その繰り返しが、ただ続くだけ。
一青窈の歌を聴きたいが為に参加するファンもいる。
しかし、音楽を楽しむのは個人の問題だからと一刀両断することは適切ではない。
そして、一青窈のコンサートに参加して、その意外性を楽しむ事は簡単なことだろうが、否定したくもなる。
その理由は、「一青窈のスタンディングが、”一青窈の素”では無い」から。

100%を期待した歌なのに、80%を聴かされても、嬉しくない。雰囲気から悪影響すら感じてしまうのだから。
コンサートの帰りに、楽しかった、なんて感想を、抱かせるようでは、、、、観客に嬉しかったと思わせる事が大切なことだから。
一青窈の力の物差しは、歌うことに何倍ものエネルギーを要する「大家」であるならば、その歌声が本物なのか、確認したい。
はいらんせの大家なんて以ての外だから、と思っている私がいる。

てとしゃんから2年の間、この一青窈思考も、よく続いて来たものだと、自分でも感心してしまう。
数日後、私はコンサート会場に居る。そこでは、一青窈のコンサートが様変わりする中でも、私は認識するだろう。
そして、姿見一青也を想い出しても、本物が無い限り、今の一青窈の変化を認容しないだろう。


197

 2006年2月16日 22:29:21

過去の書き込みが懐かしくて、一青窈思考 心歌 2005年10月15日 19:55:06  透明な壁 2005年10月16日 16:36:46 を読み返しては楽しんだ。
検索する文字列は「アンコール」。

昔の方が、よく考えていたようで、一青窈思考の内心は深い。
いつから思考が軽くなってしまったのかを考えると、それは、一青窈の歌の変遷に比例しているように思えてしまう。

一青窈が、歌に込めた想いの強さが大きければ大きい程、この一青窈思考も、深みにハマってしまうけれど、
一青窈らしさが形を変えてしまっては、その思考も、軽く成らざるを得ない。
いい歌こそが支持されるに相応しいから、目先の変化に惑わされまいとして、反発心すら感じてしまう。
その結果として、変なコンサートスタイルが確立されると、その演技力も紙一重だから、自らを見つめ直すことすら難しくなるのだろう。
常に疑問を抱きながら、そして探求心を持ち続けることは、そんなに難しい事ではないのだけれど、、、、一青窈スタイルを目指すことすら、無意味と化すこともある。

ツアーが始まり、一青窈が悩む、、、、、、、、、、、、そんな事すら知らない方が、良いのかも知れないけれど。
だけど、コンサートとは、何度も言うように、真剣勝負の場であるから、妥協は許されないもの。
自らの想いと、それを受けとめようとする者との、真剣勝負の場所なのだから、、悩んだら、乗り越えればいいだけ。

さて、これが何を言わんとすることなのか、それもまた一青窈の言葉遊び。


196

原点回帰 2006年2月15日 22:02:11

一青窈の歌は、座って、じっくり聴きたいと願っている。
一青窈が歌詞に込めた想いを探りながら、時に共感しながら、そして、その深層心理を”理解”しながら、歌に込めた人生観をも感じとりたいと願っている。
どんなに楽しそうな歌でも、その裏には、伝えきれないほどの切なさを秘めているものがある。
それを、たった一度の生歌から、全てを感じとりたいと願っていた。

一生に一度だけ、最初で最後の一青窈のコンサートに、全てを託す人もいる。
集中して、全てをもらさずに、一青窈の詩の世界を確かめたいと願う人もいる。
てとしゃんでの「犬」は、歌詞に込めた想いとは裏腹に、本来の犬では無かった、、、、Yo & U でも、同じような事が繰り返されていくのだろうか。
座っている客を前にして、歌いにくいですか?
後ろの人が座っていても、それでも立ちますか?
後ろの人から「座って下さい」と言われても、それを聴き入れるだけの度量がありますか?それを、前の人にも促せますか?
それとも、言われるまで気付こうともしませんか?
スタンディングに拘るようなコンサートではないのだから、、、、他のアーティストの真似事なんか、必要ないのだから。
スタンディングを繰り返す事で、それが当たり前のように思うのでしょう。
そして、何年か先には、一青窈のコンサートはスタンディングが当然な事として認識されるようになってしまうのでしょう。多くの歌手と同じように、、、、。

てとしゃんの時、スタンディングが嫌いだった。
でも、途中から、一青窈の為に、スタンディングを好きに成ろうと思い始めたけれど、そんな考えが間違っている事に気が付いた。
それは、無理をしている事では無い。

これからの Yo & U は、FC先導で、スタンディングが行われる。BBSの力は、てとしゃんで実証済みだから。
一青窈は artist に成ろうとしている。それを皆で応援している。
一青窈が伝えたいと願ったものは何だったのか。一青窈らしさとは何だったのか。
けれど私は、何も飾らない、何にも惑わされない、 singer としての一青窈を期待していく事に変わりはない。

一青窈が、その鋳型を取り払った時、はたして何を失うのか、それとも何が生まれるのか。


195

立つ立たない パート4 2006年2月14日 20:11:18

この件についての私見は、とりあえず終わりにしたい。
どうしてもスタンディングしたいのなら、立つにしても、そのタイミングが必要になるし、立ちたい雰囲気を作ることも大切になるだろう。
急に、立ちましょう、と、することは不自然だから、、、
例えば、、、、、MCにて、、、、

「えぇ・・皆さん、座っていると、そろろろ疲れて来ませんか?ちょっと運動してみましょうか。」
「ウエーブってありますよね。野球場みたいな大きなスタジアムで、、、人の波が出来る事です。」
「あれ、目の前で観られたら、おもしろいだろうなぁって、ずっと思っていました。」
「だから、今日は、ここで、ウエーブを作ってみましょう。」

「私が合図しますから、皆さんで、ウエーブを作りましょう。」
「じゃー最初は、左側の列から右側に向かって、ウエーブしてみましょう。」
「最初は一階席からしてみましょう。2階席、3階席・・・も、しますから、よく見てて下さいね。」
「それでは、一階席から始めますよ。準備してくださいね。」

などど言いながら、一青窈が、かけ声と共にバンザ〜イのゼスチャーをしながら、ウエーブを促す。
ちゃんと出来たのなら、次は、右側から左側にウエーブを促す。
その後、2階席、3階席・・・・・・に、それぞれ同じようにウエーブを促し、最後は、最前列から最上階席に向かって、縦のウエーブを促す。

「ハイ。良くできました。どうですか?体が温まりましたか?。そろそろ立ちたいなぁって思っている人はいませんか?。」
「次は、○○○○を歌いますから、立ち上がってもいいですよ!と言いながら、スタンディングを手招きする。」

これだけの下準備をしたら、楽に立てるでしょうか。
立てられない人は、手を動かすだけでもいいし、顔を動かすだけでもいい。
安直だけど、そこはあくまで思考不足な私見です。。。。。否定派だから。。。_| ̄|○


194

立つ立たない パート3 2006年2月13日 21:54:38

何故、立ちたいのでしょうか。何故、座りたいのでしょうか。
どうしても立たないとダメでしょうか。どうしても座らないとはダメでしょうか。

てとしゃんの時のある会場では、「もらい泣き」の時までスタンディングしていました。
立ちたくなるような歌とは、何を指すのでしょうか。
コンサートの度に、この歌は立つ、この歌は座ると、、、、その基準は何なのでしょうか。
江戸ポルカでスタンディングしなかったのは何故でしょうか。
そもそも、スタンディングは、何の為にするのでしょうか。

この問題は、スタンディングをくり返すことで、表面上は解決するでしょう。
しかし、実質的な問題として、一青窈のコンサートツアーに、どうしてスタンディングが必要なのかどうか、、、、この目で観て確認するつもりです。
スタンディングをしたくてコンサートに来ているのではないのだから、、、、、、
その答えは、スタンディングを必要としないコンサートにあるのでしょう。

お堂は、敷居が高い。それがどうゆう意味なのか良く分かっている。だから多くの否定派は、静観するしかない。
そして、一青窈が投げた球は重い。その球が軽いと感じた人には、その重さを知る由もない。
私には、まるで「部屋の中に居る10人の内、煙草好きの3人が煙草を吸いたいと希望した時に、煙草嫌いの7人が我慢している様に思えます」。
それでも、一青窈のコンサートを観たい。


193

立つ立たない パート2 2006年2月12日 20:52:22

一青窈が、直球を投げ掛けて来た。しかも、正真正銘の剛速球を、お堂に投げ掛けて来た。
まさか、お堂の主が、この問題を、超剛速球で投げ掛けて来るとは。

その事は、既に、この一青窈思考2006の 2006年2月2日 21:31:18 で、問題提起をしたが、、、、
しかし、一青窈の真意を、、、、公式のメッセージだけで、どれ程の人が理解してコメントできるのだろうか、、、心配すらしてしまう。

一青窈は、いわゆる正論的意見を述べたが、しかし、この問題には複数の正論的意見が存在する。
だけど、一青窈は、あえて、ファンクラブであるお堂に対して、問題をぶつけて来た訳だから、それに対しては、ファンクラブ員として返さなければならない。
そうなると、答えは限られてしまうのだけれど、、、、、それに対しても、相反する正論的意見が生まれてしまう。

しかし、しかし、、、公式にセットリストが公開されていないのだから、今後のコンサート会場で、どのタイミングで実施されるのかは、その場の雰囲気に委ねられる。
しかも、それを先導するのが一部のFC会員に任せられると、実行が必至な状況となり、次のツアー会場である神奈川県立県民ホールから、始まってしまうだろう。
(ツアーが始まる前に聞かされたシンプルな構成とは、何だったのかな)これで、思ってもいない展開となってしまった。_| ̄|○

しかし、私の意見は、2004ツアーてとしゃんの時に、公式HPで表明した内容から、さほど変化していない。
そして、私は実際に、2004ツアーてとしゃんで、周りが全てスタンディングする中で、あえて座る実験を体験した。
その結果は、最前列ですら、耐え難い心境であった。立たなければ楽しめないようなコンサートではないこと。
だから、お堂が熱くなることだけは避けたいこと。

なぜ、この時期に、、、、主が、、、。
そして、FC会員である限りFC会員として対応することも大切だけど、「一青窈の歌のファン」としての立場も大切なこと。
この問題に、明快な答えは難しい。なのに、一青窈は、投げ掛けて来た。
しかも、タイトルが「Yo & U」であることの意味することを考えると、、、。

あなたとわたし。そのことをどう捉えるべきなのか。堂員は、大きな宿題を課せられてしまった。


192

アレンジ 2006年2月11日 18:12:49

WEB情報をかき集めるたら、今度のツアー Yo & U では、歌のアレンジがあるらしい。
まさか、TVで試してきたような音階の変化でなければいいのだけれど、、、、、、
小椋佳をして装飾音符の持ち主と賞されたからには、その魅力を存分に発揮して欲しいと思っていたが、しかし、こんなこともあんなことも出来ますと誇示すると、
必要以上になってしまい、逆に、アレンジがオリジナルを沈めることもある。そんな歌唱技術を表現することは相応しくないし似合わないし期待していない。

はいらんせの「翡翠」を観ながら、たとえ”てとしゃん”より変化したとしても、翡翠が翡翠であるように、一青窈の気持ちも変わらないものであって欲しい。
コンサートを楽しくさせるのは”楽曲の変化”ではないのだから、別の楽しさはMCに任せ、あくまで歌はシンプルな装飾音符に心掛けて欲しいけれど、
悲しいかな、そう簡単には変更出来ない。大切な歌声も大音量の楽器に消されるようでは、問題であるし、、、。

最近のTV出演にしても、歌い方に変化(アレンジ)を付けることが多かったのが、単なる戦略のように見えてしまい、それが一青窈のオリジナル性を惑わすようで、
プラス評価出来ない。DVDを観ても、まるでアカペラを聴いているように思えることがプラス効果のなせる技だから、歌の”盛り上げ方”とは違う。
歌い方がシンプルであればあるほど感情移入が強くなり、結果として、歌に対する気持ちが発散され、一青窈の装飾音符につながっていくだろうし、そうあるべきのようで。
単なるハイテンションにはついて行けないし、、、、

一青窈が明るく楽しく振る舞えば振る舞うほど、、、、そして、悲しくさせるほどに、益々、思考したくなる。
だけど、アレンジする姿からは、なにも思考出来ない。

世の中にある数々の歌の中から一青窈の歌を選んだのは、「一青窈のうたが聴きたいから」に外ならない。
色んな音楽を楽しむのとは別の想いだから、一青窈が歌うのを聴きたいのではなくて、「一青窈のうたを聴きたい」だけ。
色んな事に挑戦しても、一青窈の色に染まらなければ、それはもはや一青窈の歌では無くなるし、
今後の作詞のモチーフが、素直な一青窈を表現したとしても、、、それが、深い意識感情を捨て去ったとしても、、、歌い方だけは一青窈であって欲しい。

いずれ大きな壁にぶつかったとしても、10年20年と歌い続けるだけの底力の持ち主だから、装飾音符は大切にして欲しいと願う今日この頃。
だから Yo & U で、一青窈の底力を確かめて観たいと思う、、、今日この頃。


191

 2006年2月9日 20:20:01

ライブDVDを見比べると、一青窈の歌の変遷が、素直に示されている。
一青窈の集大成とされた「てとしゃん」が、ライブの醍醐味を表現したとすれば、その後の花逢娘は、洗練されただけで、はいらんせでは豹変さえしてしまった。
飽きられないように企画する事は大切なことかも知れないが、どうしても”てとしゃん”までのライブが優れていると思えるだけに、その姿を再現して欲しいと思う。
「しゅるり」が野外ライブの最高傑作であり、「ええいああ」が一青窈の最高傑作であるのは、その額に汗する姿に外ならない。
特に、デビューして最初の全国6ヶ所「ええいああ」ツアーが、一青窈の魅力に溢れているのは、歌が上手いだけではないのだ。

何も飾ろうとしない姿からは、その息使いと相まって、感情がストレートに伝わるし、、、、何にも増して、一青窈が身近に感じられるのが良い。
必死なまでの歌い方も、伝えたい想いの強さであるし、、、それが、作られたものではないから、飽きることは無い。
額に汗する一青窈が、ライブで輝き続けるのは、決して、一青窈の鋳型によるものでは無いのだから、時を超えて共感出来ることに感謝すらしてしまう。
良い歌を聴きたい観たいと探し求めると、どうしても、「ええいああ」の一青窈に返ってしまう。
歌は感動の贈り物だから、、、、、、決して、創り上げるものではない。
色々と企画したり変化を求めることに終始することが逆に飽きられることもあるけれど、その微妙な変化の付け方が難しいこともある。
だけど、一番大切な飾らない姿こそが、一青窈の最大の魅力なんだと確信している。


190

本物 2006年2月5日 16:04:59

一青窈の歌が聴きたいのは、何もアレンジされたものやスペシャルバージョンなんかではない。
派手な衣装をまとった姿なども別に見たいとは思わないし、ましてや気持ちのこもっていない歌なんか聴きたいとは思わない。
ただ、一青窈の歌が聴きたいだけ。

何年経っても、もらい泣きは聴きたいし、月天心も聴きたい。
ハナミズキも聴きたいし、かざぐるまも聴きたい。
翡翠を聴きたいときもあるし、アリガ十々も聴きたい。勿論、大家も聴きたい。
それらの聴きたい歌が時と共に変化することはないし、一青窈が最初に歌い始めたオリジナルが聴きたい気持ちは変わることもしないだろう。
そして、コンサートへ行っても、初期の歌唱法を望み続けるのだろう。

一青窈は、「音楽には絶対ミラクルパワーがある」と言った。
そのミラクルが本当にあるとするならば、一青窈の歌にミラクルパワーを探し続けるだろうし、すがり続けるだろう。
弱い自分が、その時だけは強くなれると信じている。

歌い方によって、感じ方が違うのがマイナス効果にならないように、常にプラス効果を期待しながらコンサートへ参加したいと思えば思うほど、
一青窈の”本物の歌”が聴きたいと思う。
演出など意識しないで歌うことだけに集中する姿にこそ本物が期待できるし、それが出来るのが”一青窈の証”なのだと。

はたして一青窈は、Yo & U で、どんな姿を見せてくれるのだろうか。


189

立つ立たない パート1 2006年2月2日 21:31:18

ツアーが始まると、きっと、この事を問題にしてしまう。
てとしゃんでもそうだったように、、、、一青窈の歌を聴くときにスタンディングを問題視してしまう時が、必ずやって来るだろう。
立ちたい人は立てばいい、、、、座っていたい人はそうすればいい、、、、なんて、そんな意見に、答えなんか出てこないから、好きなようにすればいいなどど、無責任な
回答は決して受け容れる事が出来ないものだから、一青窈のライブで立ち上がる事が、どんな理由に基づくのかも曖昧では、ライブでのファンの立場も交錯してしまう。
歌を聴いて自然と体が動いてしまうならまだしも、悲しいかな、、、一青窈の歌でスタンディングをしたとしても、みんなが乗り切れていない現状では、不自然な光景である。
ただ立っている事が、まるで棒立ちの集団なんて、、、耐えられないこと。
歌を聴いて盛り上がる”ふり”なんかしたくないから、反発して座ろうとしても、てとしゃんの二の舞に成りたくは無い。
では、どうしたらいいのかと考えるに、、、、、、、「立たなくても立ったことと同じ感情を抱けばいいのでは?」と、考えるようになった。
それを、観客として、どうパフォーマンスしたらいいのか、、、、と、考えると、、、、、その答えとなるヒントが、身近な所で見つかった。

一青窈としても、ファンが動く雰囲気の中で歌えば気分も上がるだろうし、間違っても棒立ちの中で歌うことが本当に嬉しいとは思っていないはずである。
そんなアンバランスを解消するには、一青窈のパフォーマンスには、素直に”返す”ことだろう。
その答えに相応しいものが、今年の元旦生ライブの2006年CDTVであった。

「かざぐるま」を歌った一青窈が、歌に合わせて手を振ると、会場の皆が、歌が終わるまでずっと、”手を振り返していた”。
その雰囲気が会場を1つにしたから、終始、一青窈は嬉しそうだった。
別に立たなくても、歌に合わせたパフォーマンスが生まれると、会場は一体感に包まれるものだから、スタンディングに拘る理由なんて、これっぽっちも有りはしない。
ペンライトが限られた演出に過ぎない限り、会場の誰もが出来る楽しみ方のヒントを「かざぐるま」に込めることが可能だから、そのパフォーマンスが、
自然発生したのなら、、、、今度のツアーが、より一層楽しめる「一青ワールド」に生まれ変わることだろう。


188

はいらんせ 2006年2月1日 21:22:22

歌の善し悪しを考える時に、一青窈に関しては映像美や音響を考慮しても意味を成さない事なのだと思い続けて来た立場としては、
はいらんせDVDを観た率直な感想は、、、残念に尽きる。
パフォーマンスの中で歌う様は、一青窈のオリジナル性が、、、、根本的な所で失われているから、このDVDからは「感動」という言葉が生まれて来ない。
何をもって美しいと表現したり感じたりするのかは、個々の感性に訴えるだけでは意味を失うだけなのに、あれが今の一青窈だと表現する事に、何の意味があるのだろうか。
それが間違った考え方だと非難されるならば、一青窈のファンとは、一体、何をもって定義すれば良いのか、根本を問い直さなければならなくなる。

一青窈の代表作としての「もらい泣き」や「大家」や「ハナミズキ」にしても、それぞれの歌には、それに相応しいそれぞれ独特な歌唱法が確立していたのに、
ライブとしての一連の流れの中で、その独創性が阻害される傾向を承知しながらも、そうならない為には、極力、「うた」本来の意味を意識する必要があった。
良い歌を聴きたいからライブに集う。だから歌に対しては最高なものを披露しなければならないのに、、、
一青窈は、まるで一青窈を観たいが為に集まっただけの人を前にして、パフォーマンスに終始してしまった。
歌に込めた想いを伝える一青窈独自の世界観が、過去のコンサートに遠く及ばないと感じることは素直な感情だから、はいらんせを褒める事に違和感しか生まれない。

過去の「ええいああ」「月天心しゅるり」「てとしゃん」と比べると、雲泥の差といっても過言では無い程に、一青窈は過激に変化してしまった。
それが、本来の姿を捨て去ってまでして表現したかったとしても、ただ歌うだけの消化作業をしたような歌なんて、聴かなければ良かったと思う。

一青窈は、真剣だったのか、、、、
はいらんせの企画進行は真剣だったかも知れない。だけど、歌に対して、本当に真剣だったのか、、、、
歌われた個々の歌を、過去の映像と見比べても、どれ1つとして優れているものは無かったと感じた。
過去のTVや、コンサートや、DVDの、それぞれの優れた歌唱と見比べても、はいらんせの中には、優れている歌がなかった。

私は、一青窈のファンであり続けたいと思えば思うほど、一定の距離を意識してしまう。


187

確信的 2006年1月31日 21:30:32

はいらんせDVDを見ながら色々と感じるものがある。
その中で一番感じた想いは、「一青窈は、もう過去へは戻れない。」こと。「還ろうとしていないこと」。
それは、一夜限りの夢物語を意識した演出の中で、演技に凝りすぎたことが、災いしていたのだろうか。

以前、一青窈は、「もらい泣きは気持ちを込めないと上手く歌えない」と言っていた。
なのに、”はいらんせ”で多くの持ち歌がアレンジされると、それのどこに気持ちが込められているのだろうか、疑問しか残らない。
あんな衣装とアレンジの「月天心」は闇夜に消えてしまい、一青窈の心の隙間を表現することも出来なかった。
期待した「大家」すら、全力を傾けての感情移入がされていなかったこと。
そのほか、、、ほとんどが祭りの宴と化していた。

多くのファンサイトでは、この「はいらんせ」が絶賛されるのは想像されるが、私は、一青窈の音楽性の進化を素直に喜べないでいる。
一青窈が歌に込めた想いを素直に感じる事が出来る演出ならまだしも、作為的なだけでは虚像に観えてしまい、惑わされそうになるだけだった。

そして、もう二度と、一青窈から、初期の「大家」が歌われることがない事を”確信”してしまった。
過去を追い求める事が意味を成さない事だと片づけることは簡単な事かも知れないが、一青窈から、歌に込めた想いが本物として発せられなくなる事を感じると、
いつまでも幻想を追い求める事の虚しさに変わり始めている。

蘇州夜曲よりも望春風を選んだことが大正解であったことを知りながら、、、

ただその中でも救われるのは「翡翠」に妥協が無かったこと。

一青窈は、コンサートツアーで、どんな一面を魅せてくれるのだろうか、、、、それが、一青窈思考の終焉とならん事を願うばかりであるが、、、、しかし、
こんなファンが居なくなることが、良いことなのだろうと考えるようになってしまった。


186

好き嫌い 2006年1月28日 18:25:17

好きな歌や嫌いな歌があるのが当たり前なことで自然なことだから、出すもの全てを称賛することはしない。
褒め続けることは無責任でもあるし、批評することも無責任ではあるけれど、八方美人にはなりきれない。

Yo & U ツアーで、一青窈は演出に凝らないシンプルな構成を目指そうとしている。
それは「うた」本来の良さを再発見する旅でもあるし、一青窈の凄さを見せつけるチャンスでもある。
歌が人の心を揺するのは、その歌い手に惚れ込むことでもあり、惚れ込ませてくれるだけの持ち主にこそ輝いていて欲しい。
マイク一本さえあれば、、、、たとえマイクさえ無くとも、、、その歌声されあれば、、、、あぁ、一青窈のコンサートが観られることの喜びに勝るものはない。

ツアーのシンプルさを意識させたきっかけが、今後の一青窈のあり方を決めるし、ファンとしても期待する。
ただ、一青窈にとってのシンプルと、ファンの思うシンプルが、まるで水と油のようなことを想像させるだけの土壌があるから、こればかりは、始まらないと分からない。

だが、一青窈は、多くのファンが望むものを知りながら、見事に外してきたことが多い。
それすらも称賛するほどのファンではないけれど、今度のツアーに対しての意気込みが、「シンプル」であるならば、やはり期待せずにはいられない。
シンプルな演出(構成)なら、歌は誤魔化されない。そんなツアーこそが真剣勝負の場に相応しく、そのチケットが確保出来た事は素直に嬉しい。

だが、一青窈は、そんなに甘くはないのだろう。
派手な演出が無いにしても、どこかスパイスの効いたものを魅せてくれるに違いない。
それが、一青窈本来の、「原点回帰」に繋がるのなら至高の喜びなのだけれど、、、、はたして、どうなることやら。

もう直ぐツアーが始まる。
私は、ただただ楽しいだけのコンサートなんか期待していない。
派手な演出が無い時にこそ、期待するものが大きい。
それは私が一青窈の原点である「情熱大陸」でのコメントを忘れることが出来ないから。
それが、一青窈の”うた”に惚れ込んだファンの心理なのだから。


185

鋳型 2006年1月28日 16:02:53

一青窈は何処へいった?

デビューから3年間が、、、一青窈にとって、、、実は、歌手一青窈を作り続けただけのものだったのを、明らかに知らされて、、、、、
それじゃ、伝えたい想いを表現してきたことに共感したことは一体なんだったのか、、、、、、
一青窈を応援してきた根本、根底が、、、音を立てて崩れてしまった。
うすうす感じていたけれど、ハッキリ知らされて、踏ん切りがついた。

一青窈という「鋳型」は、そんなに不都合だったのか、、、、

これからも、ずっと、一青窈を応援して行こうと思っていたけれど、、、、もう、そう思うことが虚しく感じてしまった。
それが、たった一度のTV番組を見ただけで、、、、、「はいらんせ」。

過去の名曲すら、夢街バンスキングに染められては、一青窈の個性は失われてしまう。
そして、はいらんせDVDが今後の一青窈の音楽性の道しるべならば、私は一青窈のファンでいることが出来ない。

一青窈は、何処へ向かおうとしているのだろうか、、、、
江戸ポルカ誕生すら、悩み続ける姿しか見えてこなかった。


184

自分スタイル 2006年1月20日 22:48:58

私の一青窈思考スタイルは、特異であることを自覚しているのではなくて、意識している。
それと同じく、一青窈の歌手としてのスタイルが「一青窈を演じている」のと同じように思えることがある。

歌手としてデビューした一青窈が、歌を通じて示そうとしたのは、個人である一青窈をさらけ出す事ではなくて、歌手としての一青窈をさらけ出すことに重点を置いていたし、
伝えたい想いすら歌手としての目線を意識してきたし、しかし、それがあたかも個人であるかのように思われることも含んできたから、その想いは間違いではなかったはず。
少なくとも”渋谷AX”までは、歌手としての一青窈の気持ちは純粋だったし、その想いの強さは、素直に表現されていたから歌手としても個人としても、その境界は無かった。

それが、いつからか一青窈は、”歌手一青窈を演じる”ようになってしまい、それが歌手としての進化なのだと思われることが当たり前のように浸透させようとしてきた。
その事が売り上げに直結してきたし、ある意味ではファン拡大に比例しているが、それはあくまで、ある意味に過ぎない。
その独特なモチベーションを維持していくには、日々の努力も欠かせないし、それが、自分スタイルの継続につながるのだけれど、、、、、
一青窈の魅力は、そんな事ではなかったはずなのに、雑誌等への露出が増えると、今まで曖昧だった本音とも思える思考回路が見え隠れしている。
それは、一青窈が”歌手一青窈”を常に意識していること!

作詞のモチーフが変化してしまい、もはや26年間の想いを詰め込んだファーストアルバムを超える内容を発表することが不可能だと確信すると、
ファンとしても新たな一青窈を意識しなければならないし、それが進化する一青窈だと信じなければと思わなければ、ファンでいられない。

自分スタイルを意識するようになると、それはもはや自分スタイルでは無くなるのだけれど、
でも、いつも心の片隅には、歌手一青窈の原点でもあり、個人としての一青窈の魅力に包まれた”渋谷AX”の一青窈を意識している。
それは、一青窈のスタイルとしては意識されていない一青窈そのものの魅力に満ち溢れた空間だから、それが再び巻き起こらないのだろうかと期待しているから。


上記の文章を最初の1行目から繰り返し読んでいくと、タイトルにある自分スタイルの本当の意味が、何となく浮かんでくると思います。
それをもっと深読みして”真意”が読み取れるようになれば、この膨大な一青窈思考HPに込められている数々の隠し言葉を知ることが出来るでしょう。


183

誤解 2006年1月15日 18:23:12

指切りが、第二のハナミズキになろうとしている。
それは、本来の意図をかけ離れて、、、、、全く別の意味の歌詞として残そうとしていることで、決して、ロングヒットなんてするものでは無いのだけれど、、、、。
ハナミズキが恋愛の歌として認識されたのと同じことが、指切りには、、、既に起こってしまい、歌としても、終わってしまった。

そもそも、「揺れないで〜・・・・・」のフレーズが誤解の元で、それが意図的に作られたものだから、ある意味、それが狙いなのかもしれないけれど、、、、、。
最初に、一青窈は、この指切りを、、、、災害後の約束事をモチーフにしたのに、、、、そんな事は認知されなくて、恋愛情緒と認識されると、それすら否定することをしない。
それは、あのハナミズキに通じる経路のように、曖昧な視点として放置されてしまった結果であり、
それは、「伝えたい想いを歌詞に託したい。」と願って来た一青窈のポリシーとの決別であり、もう戻ることをしない想いの終焉でもある。
作詞家が信念を捨て去ると、抜け殻しか残らないのと同じように、一青窈自身の作詞の変化は、もうどうする事もできないまでに変化してしまったのだろうか。

このHPが公開される時には、もう全てが終わっていて、一青窈思考も、音楽のミラクルパワーすら現実を直視すると抜け殻しか残らないし、
結局、大家を聴く事は儚い夢として終わってしまう。
それも誤解であって欲しいのだけれど、、、、それはもうHPの更新が不可能になり、全てが終わってしまう時。


182

Oh la la  2006年1月1日 23:39:45

アルバム「&」に収録されている、非常に短い歌詞でありながら、一青窈の思い入れが強い歌。
しかも一青窈の歌として無くしてはならない、自身の心をモチーフにした、貴重な作品である。
一青窈の歌がアルバム「月天心」を超えることが出来ないでいる中で、それに近づこうとした作品に思えてならないけれど、まだまだ、絆の深さが足りない。
美しい言葉だけの余韻だけでは、あの月天心を超える事も出来ないけれど、しかし、一青窈らしくて、言葉の奥に何かが込められている気がする。
では、いつも通り、独断と偏見で言ってみよう。

いっぱいの風に負けないようにうんと強くなろう 強くなろう
それでもあなたはいてよね この地球のどこか 地球のどこか
  (解釈)
  小学生で父を亡くし、高校生で母を亡くした一青窈に、虚無感が存在したのだろう。
  将来、自分に向かってくるであろう、あらゆる困難を「いっぱいの風」に例えて、その困難に絶対に負けるものかと、強く決意したのだろう。
  「あなた」を、母とすると、、、、亡くなってしまっても、地球の何処かにいて欲しい、叶わぬ願いを表しているのだけれど、、、、しかし、
  この場合の「あなた」とは、「くじけそうなもう1人の一青窈」なのだと考えたい。
  強くなるまでには、色々な事を経験するであろうが、その時々の困難にくじけそうになっても、気持ちが何処かへ逃げてしまわないように、、、、
  例えその時その場所から逃げ出してしまったとしても、この地球の何処かで、強くなろうと決意し続けて欲しい。
  この時点では、強くなれていない一青窈自身のこと、、、、、、、、。

こんなに西の果てに来ても
淋しい気持ちになりたくて
地平線と海が溶けた鉛色は体温計
  (解釈)
  淋しい気持ちになりたくて、ポルトガルの西の岬へ行った。
  淋しい気持ちになりたいが為に旅に出たということは、、、言い換えると、悲しい気持ちを消化たい為に旅に出たことになる。
  それは自らの気持ちに区切りをつける為で、悲しみを捨て去ることでもある。その為には、思いっきり悲しまなくてはならないと考えたのだろう。
  では、なぜ、ポルトガルだったのか、、正確な情報は無いけれど、最西端の西の岬なら「ロカ岬」となる。

  ユーラシア大陸の最果ての地がロカ岬なのだ。
  最西端の地に刻まれた石碑にあるカモンイスの言葉には、「ここに地果て、海始まる」とある。
  即ち、地の果てまでたどり着いた一青窈が目にしたのは、進んできた大地の地平線が、この岬で海に溶け入る風景だったのだ。
  その地に立った一青窈の目の前に広がる景色は、鮮やかな青い海と緑の大地ではなくて、、、鉛色の海と地平線だったのだろうか。
  目の前に広がる泣きたいような鉛色の風景が一青窈の心の温度だったのだろう。それを、体温計の水銀色になぞらえたのだろう。

あふれる波に消えぬようにうんと強くなろう 強くなろう
それでもあなたはいてよね この地球のどこか 地球のどこか
  (解釈)
  岬から見える波にかき消されないくらい、うんと強くなろうと心に決めたのではなくて、、、、あふれる波とは、今後押し寄せてくる世間の荒波なのではと考えてしまう。
  そんな困難に負けないように、うんとうんと強くなろうと決意したのだろう。
  では、ここでの「あなた」は、誰なのか。
  それは、これが歌詞の完結とするならば、母を亡くしても強くなろうとした一青窈のことだけではなくて、でも、どこかで、母に会いたい気持ちが残っている一青窈なのか。
  実は、西の果てにたどり着いても、たとえその場所に母が居ない事が分かっていても、この地球の何処かにいて欲しいと願う母への叶わぬ夢なのだろう。
  母との別れを精算すべく西の果てに着いて、その地の果てで、気持ちの整理を求めたのだろう。
  即ち、自分探しの旅に出かけた一青窈の、母に宛てた決意なのだろう。


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