に乱れ、結局、周の武王(B.C.1050頃の人)によって射王は討たれ、姐妃も武王が仙人から授かった照魔鏡(魔性を映しだす鏡)によって正体を暴かれ逃げ去る。
逃げた先は天竺(インド)で、ここでも摩掲陀国斑足太子の妃華陽夫に化けた。
太子をたぶらかして団を乱したが、正体を見破られ、妖気となってふたたび中国へ舞い戻る。
今度は周の幽王の妃褒以となって王を殺すが、そのとき自分も斬られたため中国を去ることにし、遣唐使の吉備真備一行の船に忍び込んで日本に渡り、山に潜んだ。
数百年後、宝違箭という美女に姿を変えて鳥羽天皇(第74代1107年即位)のそばに現われる。寵愛されるのをよいことに、天皇を原因不明の熱病で殺そうとするが、体から発する不思議な青い光を怪しまれ、陰陽師の神鏡によって本性を暴かれる。
またも逃げ出した妖狐は下野国(栃木児)那須野に飛び去る。その地で石となって身をひそめたが、陰陽師の投げた幣束が後を追い居所をつきとめる。
朝廷の命令を受けた那須野の領主が、陰陽師から預かった神鏡をこの地に捧げたところ、しばらくは何事もなかった。
しかし、鏡を陰陽師に返すと妖狐はまた現われて住民を食い殺し始めた。
そのため、安房団の三浦介義純と上総国の上総介広常を大将にした1万5千余の大軍が2日2晩攻め立てたが、妖狐は口から寺炎を吐き出して激しく暴れ、多くの死者を出すばかり。

最後に、三清介が神瓜に願かけて大矢を放ち、妖狐の腹を射抜いて倒し、その喉笛を掻き斬った。
その瞬間「もはや逃れられぬ」と覚悟した妖狐は、赤黒い大きな右になってしまった。
物語はまだ続く。石となった妖狐の悪霊は、それからも葦気を周囲に撒散らし、通りかかる人や家畜を殺したりして人々を悩ませた。
それで、人々はその石を殺生石と名づけて恐れていたが、あるとき下野国示現寺の名僧玄翁和尚がそこを通りかかり、法力によって鉄槌で石を打ち割ると、妖狐の霊はようやく消滅した。

以上紹介してきた話の感じでは、九尾の狐というのは大変悪い妖怪というイメージが強い。
しかし、本当のところそれだけでは偏見になってしまうので、最後にちょっと弁覆しておくと、日本ではもともと九尾の狐は瑞獣とされていたのである。
平安時代の『延書式』の泊部省式にも「九尾の狐、神獣なり」と記されている。つまり、何かめでたいことをもたらす兆しと考えられていたのである。
それが変化したのは、後世になって中国の魔性の妖獣的なイメージが加わったからである。
なお、金毛九尾の狐は中世の頃から、小説『玉藻の前』や『玉藻の草子』、あるいは謡曲『殺生石』などで題材にされてきたが、このように国際的なスケールの大きさに成長したのは江戸時代になってからのことである。