写真は、

他の芸術と同じく自己表現の媒介であり、

カメラは、写真家が自己の創造的能力を表現する道具なのである。

我々が「創造性」と呼んでいる最も大切な要素は、

創意や想像力、インスピレーション、感性を含む数多くのものの

組み合わせといってよいだろう。

創造性がごく一部の者のみの天賦の才能と誤解してはいけない。

なぜなら、創造性の中身は、言語を学ぶように習得することができ、

言語能力と同じように少しずつ向上するものなのだから。

構成を学んで、なぜあるものの形状が他のものより重要で、

なぜいい加減に置かれたものより考えて並べたものの方が感じがよいのか、

ということがわかるようになれば、

写真を見る目ができてきて、よい写真も撮れるようになってくる。



写真は、

非人間的なものにもなれば、つまらぬものにもなり、

何の共感も呼ばないものにもなれば、横柄なものにもなり得る。

また、人間と社会に関するわかりやすい意思表示にもなれば、

ある情況に関する事実の記録を作ることもできる。

とはいえ、後世のためにある瞬間をとらえ、

真実の映像を記録するだけでは不十分であり、

そこに我々自身の創造的な力を加えるべきなのである。



THE BOOK OF PHOTO GRAPHY / J.Hedgecoe より







写真と言っても、大型カメラでじっくり撮る風景写真、ライティング等綿密な計算で作り出すモデル写真、肉眼では見えない一瞬をとめるスポーツ写真とさまざまである。私の場合、なんでもない日常をスナップする類である。この日も例にもれず、カメラを手にしたマイホームパパであったにちがいない。

おともだち

藤子不二雄の愛らしキャラクターはこの辺りから生まれるのではなかろうかなどと思ってしまう。私でさえ、顔ではない顔に愛着を感じてしまう。子供が興味をしめすエイである。

はじめて手にした一眼レフのカメラは、ミノルタのSRT−101。長巻きのトライXを使うことが、かっこよく思え、意味もなく増感現像し、喜んでいた。そのころから今も、SRT−101には、モノクロが入っている。そのカメラもミラーのクッションのスポンジが風化してしまって、ちょっとさみしい。

幻 石
なんでもない岩でもこのように切り撮ると異星の物体かと思ってしまうから不思議だ。

祖母

祖母は1900年生まれ、1996年永眠。子供老人動物は絵になると写真を入門してからずっと撮ってきた祖母である。にもかかわらず、遺影になる写真は1枚もなかった。その祖母を被写体としたお気に入りに「郷里」「春の陽」がある。三部作とした。


化粧

集団うみねこの写真集にも掲載した作品のひとつである。集団うみねこは、間人漁港をはじめ、丹後地方の季節の祭り等、撮影会に出向く。これは、久美浜町の祭りのスナップである。

橋本先生に写真集を見ていただき、この写真には、次の評をいただいた。「楽しそうに少年の顔をえぞっている大人の笑顔が良い。次の頁に化粧の終わった少年の顔がほしかった。」


ブナ林の住人

これも集団うみねこの撮影会でのものである。大宮町の原生ブナ林の初夏。後の例会には、メンバーそれぞれの眼でみたブナ林が持ち寄られる。これもまた楽しみのひとつ。

たまたまブナの大木の一部が顔に見えた。ある角度からのみ見える。今回のテーマは決まりとブナ林を歩き回る。そんな中からの3枚。




五月

水田が、きれいな水をたたえる季節は、意外に短い。水草や藻で鏡のような水面はすぐによごれる。

水墨画を彷彿する雨上がりの5月を切り撮ってみた。



樹影

一本の大木の影、三景。
大きく広げた幹の影が、屋根に揺らぐ。
逆光の大木が、シルエットに浮かび上がる。
そして、お地蔵さんがまつられた木陰(こかげ)。


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