但馬方言概説
上方方言の影響
1 播但鉄道の開通にともなって
明治時代に現在のJR播但線(姫路市と朝来郡和田山町を結ぶローカル線)にあたる、播但鉄道が開通した。それにともない、但馬地方に上方方言の影響がもたらされた事実がある。次の引用は、美方郡温泉町出身の岡田荘之輔氏の研究成果によるものである。
話は明治にさかのぼる。播但鉄道は、明治卅四年以来、新井駅を終点としていた。和田山まで延びて山陰線に続いたのが明治卅九年である。その頃の新井は淋しい農村で、その離れに新井駅がポツンと立っていたのである。
ところが大正十年頃に、播磨姫路方面から多数の商人が転任してきて、次第に市街地を形作って行ったのであって、現在三百戸の新井部落の三分の二はその系統であるという。(北垣忠雄氏の話であった)
昭和の初年には、姫路アクセントは、よそことばであった。其後、年月とともに、転住時のこどもは青壮年の世帯盛りとなり、二世は小中学生となるが、ことばだけは南の名残を持ち続けたのである。
山口小学校に通う子は、北は新井、南は岩津、そして学校所在地の山口・羽淵が主である。南北から持ちこむ上方アクセントに押されて、中央の二部落の子が上方化していったのである。
郷に入っては郷に従えとは、昔からのことわざである。まして明治以来の国語政策は、いわゆる標準語の普及を旨としたのである。然るに、この逆行現象が起こったのは、なぜか。筆者はそれを、但馬人の同和性・融通性と、更に古くから、何とはなしに心にひそむ京・大坂への憧れと、身近には、経済・文化・交通の発達によるものと解するのである。山口村土着の農家、松下氏は「大正の少年時代とは、すっかり物言いが変わって、上方流になりました。こどもが学友に感化されて上方ことばを使うので、どうしても、それに合わせて言うようになります」と言う。他の農家の中年婦人も同じことを告白され、両氏とも上方アクセントになっていたのである。
「方言ところどころ」(のじぎく文庫、昭和38年)より
2 駅前商店街
現在では、但馬地方にも大・中規模の小売店が進出し、そこで買い物をする人が多くなった。しかし、私の幼い頃(昭和40年代)は、駅前商店街やそれに続く商店街が地域住民の買い物をする主たる場であった。また、駅からは京阪神方面からの乗降客も見られ、その一元客が商店街で買い物をする場面もよく目にした。当時、私の両親も豊岡駅前に商店を出していたのであった。
私の父親も含め、商店街の店主や店員は、若干上方風の物言いをしていたことが思い出される。
私の父親の場合、本来「〜だ」、「〜だらー」と言うべきところを「〜や」、「〜やろ」などと言っていることがあった。商売上だけではなく、自宅でもそう言っていることがあった。(ただし、引退した現在では「〜だ」、「〜だらー」を使っている。)
また、私自身、母親に連れられてよく商店街へ買い物に行く機会が多かった。店屋の人たちの中には「こーた」、「かまへん」、「〜しはる」、「べんきょうさせてもらう」など、上方風の言葉を使っていたことが記憶にある。しかし、幼い私には、その人たちの言葉が自分とは若干違うと感じてはいたものの、「よそ者」というイメージは持たなかった。おそらく、アクセントやイントネーションは但馬独特のものであったのであろうと思う。(今となっては、そこまでの記憶はない。)
3 民間会社の営業活動
営業活動として企業、官公庁、一般家庭をまわっている、いわゆる営業マンのことを考えてみたい。
当然のことながら、彼ら[彼女ら]は非常に礼儀正しく、言葉遣いも丁寧である。中には親しみを込めているのか、但馬地方の言葉で活動しておられる方も見られる。しかし、彼らの言葉を観察していると、そうでない場合も多々見られる。全体的には礼儀正しい丁寧な共通語で話しているのであるが、そんな中にいわゆる上方言葉がところどころ見られるのである。彼らが京阪神の出身かと言えば、必ずしもそうではなく、地元出身者も多い。
語彙、アクセントなどいろいろな点で上方言葉を用いているのであるが、そんな中でも多くの人たちに共通するのが、断定の助動詞「や」である。豊岡市など、本来「だ」地域の出身者でも「や」を使って仕事をしている人が多い。「や」という響きが柔らかく、営業活動には向いている面があるのかも知れない。
4 Uターン現象
私の周囲のことから考えてみる。私の友人・知人などを見てみると、高等学校を卒業後、大学、短大、専門学校など、また就職のため、但馬の地を離れ、京阪神方面で生活した経験のある者が多い。現在でもそのまま京阪方面で生活している者も少なくないが、数年の後Uターンをして、再び但馬で生活している者も多い。
このような生活体験のある者は、大なり小なり上方方言の影響を受けている。その中で、Uターンをしてきた人たちのことを考えてみたい。
各個人にもよるが、彼らは京阪神方面で生活している頃、盆や正月に但馬へ戻ってくると、いわゆる関西弁を話している場合が多く見られた。ただし、完全な関西弁ではなく、アクセントやイントネーションにおいてはぎこちない面が多々見られた。語彙のみ上方で、個々の語のアクセントは但馬型など。
彼らが何らかの事情で但馬へ戻った場合はどうであろうか。それを見ていきたい。ただし、個人差が大きく、ここで述べることに当てはまらない場合も多いと思う。1つの例として見ていただきたい。
但馬へもどってしばらく
上方方言の影響が強く、家族や親しい友人との会話でさえ、いわゆる関西弁っぽい言葉が時に出てくる。言葉が身に付いているのであろう。
ある程度の月日が経って
だいぶ上方的な特徴が抜けている。アクセントやイントネーションにおいては、ほぼ但馬型にもどっていると言ってもよい。ただし、語彙においては上方のものを使おうとする傾向にある。(「あほー」、「こーた」、「おーた」、「なおす」、「〜へん(動詞の接続形)」など。)たとえ但馬人であっても、知らない者と話をするときは、よそ行き言葉としていわゆる関西弁を話そうとする。
数年経って
ほぼ元通りの但馬言葉を話す。ただし、よそ行き言葉としていわゆる関西弁を話そうとする者もある。
しかし、その後もずっと使い続ける傾向にあるものがある。それは断定の助動詞「や」である。「あの車はだれのや。」、「今年の冬は寒いやろな。」、「ええやんか。」などと使い続ける場合が多い。断定の助動詞「や」については、別の項で述べる。
5 婚姻によるもの
いわゆる関西弁を話す地域と但馬地方との間での婚姻が増えてきている。京阪神方面で仕事をしていた頃の知り合い、転勤先での知り合い、学生時代からの知り合いなどいろいろな状況で結婚し、その後何らかの理由で但馬へもどってきている場合がある。
私自身の教師生活の経験から見てみる。
子どもは母親の言葉に大きな影響を受けているように思われる。母親がいわゆる関西弁を話す地域の出身者である場合、その子どもは、上方的な語彙、断定の助動詞「や」などを他の子どもたちよりも頻繁に使う傾向が見られる。ただし、アクセントまでには至らない場合が多い。
おそらく、家庭での会話は、父親も関西弁っぽくなっていることが予想される。近所や同じ学校に通う子どもたちの間で、同じような状況の家庭がいくつかあり、その子どもたちどうしが交流し合っている。さらにそうでない子どもたちとも交流する。その結果、子ども社会では、その前の世代にくらべ、より上方言葉に近くなっているのではないかと思う。
6 京阪式アクセントの離れ島
先日、岡田荘之輔著「たじまアクセント」という、但馬内、およびその周辺地域のアクセントを詳細に述べ尽くした専門書を手にした。調査は昭和23年から昭和28年にかけて実施されたものである。その中で、興味深い記述があったので、この場をお借りして紹介したい。
問題はたじまに於いては、乙種地域に飛び入った甲種の離れ島が中間地域をも甲種化した所にある。山口村はやゝ特殊の例にはなろうが、たとえ53養父町の或る語が56和田山町の飛び地になっている事や、八鹿町や豊岡市の商人が上方流のもの言いをする事等によっても、また僅か数日間の上方旅行をした中学卒業団体が車中では豊岡人と気付かぬ位に上方化されている事。逆に竹野海岸で十日を過ごした上方人が少しもたじまアクセントにならぬ等によっても、たじまアクセントが上方アクセントの影響を強く受ける現実をハッキリ認めねばならぬ。
岡田荘之輔著「たじまアクセント」(昭和32年)より
「甲種」とは、京阪式アクセントの系統であり、「乙種」とは、東京式アクセントの系統である。「53養父町」、「56和田山町」の数字は、「たじまアクセント」という著書の中で使用されている、地点を表す整理番号である。53から56の間には、旧養父郡糸井村と大蔵村(両地域とも、現在は朝来郡和田山町)がある。
現在の状況では、岡田氏が述べられているものとくらべると、いくらかの変容を遂げているものと思われる。ここ10数年間のうちに、糸井地区と大蔵地区はかなりの発展を遂げた。
左の写真(2001年9月撮影)のように、糸井地区には丘陵を切り開いた新興住宅地がある。大蔵地区は国道9号線沿いにさまざまな種類の商店や会社が軒を連ねている。私の知り合いも糸井地区で数名生活しているが、彼らはその土地の出身者ではない。また、彼らは但馬内の出身者ではあるが、数年間上方での生活を経験している。その影響もあり、言葉もいくぶん上方風である。
現在では、和田山町市街地から養父町にかけて、いわゆる言葉の「離れ島」はなく、連続した陸地となっているものと思われる。
7 「〜やん」と「〜やんか」
「方言らしさ」を表す要素のひとつに、文末語尾があげられる。私は大学生の頃、全国津々浦々から来ている友人たちに、よく地元の言葉について尋ねた。「高知では語尾によく『ちゅー』がつくんだ。」、「俺ら徳島の言葉は関西弁とよく似ているけど語尾が違うんだ。」、「三河弁は語尾に『じゃん』、『だら』、『りん』がつくんだ。」などと、語尾について答えてくれることが多かったように記憶している。
見出しの「〜やん」、「〜やんか」であるが、これはもともと上方方面で多用される語尾で、共通語では「〜じゃない」、「〜じゃないか」に相当するものである。私が子どもであった20年前から20数年前、これらの語尾を耳にすると「京都や大阪の人」というように感じた。地元の人ではない、というイメージが強かった。ところが現在、私が勤務している中学校(城崎郡竹野町)の生徒たちの会話を耳にしていると、それらの語尾がごく自然に用いられている。次に、それらを現在の子どもたちの会話体(新しい会話体)と私が子どもであったころの会話体(伝統的会話体)を対比させてみる。
新しい会話体 伝統的な会話体 先生、今休憩時間だでお茶飲んでもええやんな。 先生、今休憩時間だでお茶飲んでもええなぁあ。 今日は学校が昼までだで、はよう家に帰れるやん。 今日は学校が昼までだで、はよう家に帰れるだーねー。 ○○君、日直の仕事忘れたらあかんやんか。 ○○君、日直の仕事を忘れたらあかんだーねーか。 保健室の前に椅子があるやんか、そこで待っといてーな。 保健室の前に椅子があるだらーが、そこで待っといてーな。
また、こういった会話体については、生徒たちのお父さん方やお母さん方の年代にあたる30歳代から40歳代にも多く見られる。(よく気をつけていると、生徒たちのお父さん方よりお母さん方のほうがそういった物言いをされる場合が多い。)おそらく多くの方々は何らかの形で京阪神やその周辺の人たちとの関わりがあり、それらを家庭に持ち帰っていることだろう。そして子どもたちは何の意識もなしにそういった物言いをしているのであろうと思われる。
便利な言葉で話しやすい
「〜やん」と「〜やんか」は非常に便利な言葉だと思う。上記の用例でも明らかなように、伝統的な但馬方言の語尾とくらべると、「〜やん」と「〜やんか」はより多くのニュアンスを含んでいることがわかる。また、発音の面においてもエネルギーを節約することができる。但馬の人たちが京阪神に何らかの憧れをもってこういった物言いをするという面もあるが、便利な言葉で話しやすいということも多分にあると考えられる。
関西電力のテレビコマーシャル
私が子どもの頃、関西電力のテレビコマーシャルで次のようなものがあった。舞台は京都府舞鶴市の散髪屋さんである。
散髪屋のおじさん: 今日は原子力で髪の毛を苅ってあげよう。
男の子: なんや、電気バリカンやんか。
当時、このコマーシャルの会話を耳にした私は、「舞鶴は京都や大阪から遠い日本海側なのに、関西弁みたいなしゃべり方をするなぁ。」と思ったものだった。しかし、今ではこのような物言いは、但馬地方、それも日本海に面している海岸沿いでも若い世代を中心に普通に行われている。
「〜やん」と「〜やんか」が但馬地方で使われ始めた頃
先日、美方郡温泉町で生まれ育った知人(現在28歳)から「〜やん」と「〜やんか」について興味深いことを聞かされた。
彼の話によると、「〜やん」と「〜やんか」は彼が小学生の頃、周囲で使われ始めたとのことである。使われ始めたと言うより、流行り出したとのこと。当地では、それ以前はそういった物言いはしていなかったらしい。
彼が小学生の頃と言えば、1980年代前半から中頃にかけてのことである。ただし、温泉町という地域は地理的な関係で鳥取県との結びつきが強いため、豊岡市や城崎郡で「〜やん」と「〜やんか」が使われ始めたのとは事情が少し違うのかも知れない。しかし但馬地方でそれらの語尾が使われ始めた一つの事実としてはおもしろいことである。ちなみにその頃、私自身は大学や仕事の関係で但馬の地を離れていた。私にとって「〜やん」と「〜やんか」は浦島太郎のような体験に匹敵する。