初日の出

いよいよオーストラリアツーリング最大目的、元旦オンザエアーズロック
シドニーでの約束を果たすために、次々バカどもが集まる。
そして日本人らしく、たぶんこれは世界初だろうてっぺんでは甘酒を愉しむ。
そして悲しい知らせが。

12月30日

タニアのケーシーはナラボーレールウエイを越えてやってきていた。
げっそり痩せていて、髭も伸び、聖徳太子のようになっていた。
スイサンはここに来る途中、振り分けバックが燃えて、服が全部燃えてしまってらしい。
今きているTシャツも、焦げて黒い穴が開いている。
そしてほかのライダーと言えば、ギターを持ってきているのとか、CT110、(ハンターカブ)のライダーとか、ボロボロのライダーばっかりで、これは盛り上がるぞーと期待する。
でもひとみちゃんが来ていない。今日ここに着いているはずなんだけど。
泊まる施設まで行って探してこようとすると。
ケーシーが言いにくそうに「実はひとみちゃんは死んでしまった」と言う。
ここに来る途中、パースで自動車事故に遭い死んだと。
ケアンズで別れてからも、行く先々からひとみちゃんから手紙や電話をもらっていたので、最初は悪い冗談だと思った。
ケーシは、頼むから分かってくれと言うように、21日にパース近郊で自動車事故に遭いもう骨になって、親と日本に帰ったんだという。
ケーシーがこんなウソわざわざ言うわけもなく、シドニーの友達の所へ連絡すると、 全てが悲しい事実だった。
これはなにかの間違いだと、心の隅で思った。
まだ分からない。まだ分かりたくない。
30日の夜キャンプ場は、日本人ライダーの大宴会になった。
大量のビールが運ばれ、とにかく大きな鍋に、各々がここまで運んできた食料全部ほりこみ、ぐつぐつ煮にする。
ベーコン、豆、サーディン、ソーセージ、コンソメ、ケチャップ、ありとあらゆる物がが投入される。
つまんだ物を食わなければならない決まりができ、ヤミナベの宴だ。
TT350の浮谷東次郎似の男、トージロウのギーターで懐かしいフォークソングやブルースを始めた。 スタンドバイミーの替え歌で、ここに来るまでの苦労なんかを、一人一人が歌う。 場は盛り上がりを極め、バカ食いバカ飲みバカ騒ぎ。
夜も更ける。
そしてピークが過ぎ、ひとみちゃんの話になり、涙の夜になった。
その日も星がきれいで、テントの中で寝る気がせず、外で寝た。
ひとみちゃんが亡くなってから、今まで知らなかったことがよけいに悲しかった。

12月31日
大晦日またタニアの車部隊が到着。
GODシグマ号でスケボー隊、逃亡者カーペン、途中でシアラ(日本名はジムニー) のエンジンが焼け付き、途中の町に放置。
リョーちゃんは、シドニーからボロボロのファッキンファルコン号で、ここまで来た。
まわりからは、シドニー郊外にあるハーバーブリッジまで保つかどうかと言われていたらしい。
そしてまたライダーも集まり、なぜかほとんどが申し合わせたかのように日本人だった。
大晦日も小汚い日本人で、ビールの宴が始まる。
完全に日本人のキャンプ場と化してしまった。
ツーリストのホテルの施設のパブでは、カウントダウンが始まる。
早朝に備え、早めに寝る。

元旦
5時起床
まだ暗く星がでている。
ユララからエアーズロックまでは、15キロほど、僕はリョーちゃんのファッキンファルコン号に乗せてもらう。
地平線が赤くなってきた。
この車にどこから手に入れてきたのか、この日のためにファイトー1発!のリポビタンDののぼりが、ファルコン号から大きくはためいている。
その横を、バイクが爆音とともに抜き去っていく。
なんてかっこいんだこいつら!
なんてかっこいい瞬間なんだ!
鳥肌状態!
いざ出陣!馬鹿者のお通りでござる。
この瞬間、自力で行けない自分がくやしい。
エアーズロックのパーキングに車を入れ、登り始めるが、思ったより、太陽のスピードが速く、空の色がどんどん変わっていく。
急ぎたいのだけど、体が重く、40分ほどで頂上に着いた。
僕らファルコン号チームが、1番乗りだった。
その後、初日の出を拝む連中は総勢20−25人ぐらい頂上に集まった。
全員日本人だった。なんでなんだ?
風がきついけど、すごくいい景色。
僕らが来た道が、ずーっと続いて見える。大パノラマ
だんだん明るくなってきた。
思えば2年前の今日も正月北海道宗谷岬の で初日の出をこうやってみたのを思い出し、変な安堵感にしばし浸る。
ついに1992年の太陽が地平線からでてきた。
僕ら6人は自分のナイフを出し、「うおっー」のかけ声とともに、儀式を行う。
5ヶ月前、シドニーはタニアで、この時に互いのナイフを当てあい、挨拶をするという約束をしていたのだった。
これで僕の目的は終わった。
ここにひとみちゃんにいて欲しかった。
確実に流れている大きな時間の流れに、何の抵抗もできない自分が虫けらのように思える。いや実際ここの上から見る景色は、人も虫も一緒だ。
その後仁王ちゃんとここに来られなかった、ひとみちゃんのお墓を、遠くの方にほんの小さく作った。
(ここでは、いっさい岩に手を加えたら行けない事は、承知でしたが)
そしてミヤちゃんが、ケアンズから大事に冷やして運んでいた、酒粕から甘酒を作り出し、みんなに振る舞ってくれた。
けっこうこれが大変で、気温40度の中、絶えず氷をキープしながらの走行は、僕ら泊まるところも考慮に入れないとだめで、そんな中ここで味わう甘酒という物は、ありがたく、また日本人としての僕としても、しみじみと思うのでした。
だんだん観光バスの団体が、蟻の行列のようにてっぺんに上がってくる。
後から分かったことだけど、岩に登るのは、安全面から日の出から日没までと決められていたのでした。
帰り東次郎は、ギターを弾きながら、「リンダリンダー」と天狗のように岩を下りていった。

1/3
今日までユララにいて、そこからアリススプリングにまた戻る。
昼間は最高に暑い。すごく暑い所と、寒いところどっちが耐えられるかという話に、「そりゃ寒いところの方がええわ!こう毎日暑いと何もする気がおこらん」
タニアの人間が10人ほどの大量生活で少しずつ疲れてきている。
僕はバイクもなくなったことだし、とりあえずバスでケアンズに舞い戻り、 ラーメン屋でまた雇ってもらおう。
もう持ち金100ドルもない。

1/5
タニア全員バラバラに。
僕とヒロヒトは同じバスでケアンズに向かう。
ヒロヒトも自転車を盗まれたので、ケアンズで働くのだそうだ。
昼過ぎにバスが来た。
車内はエアコンがこれでもかというぐらいに利き、寒い。
外の景色とはかけ離れた、温度に現実感がない。
次の日の夕方、じっとりと湿気た雨期に近いケアンズに到着。
3日間色々店をまわり、求職活動。
帰りのチケットも金も稼がなくてはならないけど、なにより 再びバイクで旅を続けるのかどうか、このまま日本に帰るのか問題。
ワーキングホリデーの有効期限は残り5ヶ月ある、 今までのことは、神様が僕に与えた試練だ。
これを乗り切るか、諦めるか今、試されているんだと考える。
丁度同じバックパッカーのライダーが、ジャパニーズレストランのキッチンハンドの仕事を終わったところで空きがあるという。
よっしゃー、心機一転、長い髪の毛も切って、実入りのいい、この仕事を3ヶ月やる。
計算では4000ドル貯め、ボロのZ1でも買って、それで西に行けるかもしれない。
レストランでのキッチンハンドの仕事初日。
ほとんど馴染みのなかった、高級な店、その裏方の厨房の仕事は、まさに衝撃的な光景だ。
初めは、皿洗いにまわされたのだが、ベルトコンベアに乗せられて来るは来るは、 エキセレントな食べ物が、エビ!、ウニ!、トロ!、寿司!、刺身!、すき焼き!、しゃぶしゃぶ!、漬け物!、茶碗蒸し!、みそ汁!
いきなり皿洗うことなんか忘れて、両手で食う!すばらしい夢みたいな光景!
この景色をほかの仲間にも見せてやりたい!
食っても食ってもどんどんコンベアから流れてくる。
「わおーっ!ここは天国じゃーっ!金はいらんここに住みたい!」
食べ物が次から次へとやってきて、食べるのが追いつかず、皿洗い機の上にのせていくが、どんどん貯まってくる。
取れきれない物は、そのままディスポーサー?という排水口に飲みこめられていく。
知らなかった、壁のこっち側では日夜こんな光景が繰り広げられているのか。
ジャパニーズレストランでの仕事は朝10時から夜10時頃までと休憩はあるものの、覚えなければならないことも山ほどあり、それなりの給料をもらう分、なかなかハードではあった。
そんな中、仲間から3人から手紙が届いた。
リョーちゃんは無事にファルコン号でシドニーに着いたそうだ。
スイサンもタナミハイウエイと言うアウトバックを越えたと。
ケアンズで一緒だった、里ちゃんは、ガンバレルハイウェイと言うアウトバックでで、水がなくなり一時間に6回もパンクして脱水症状になり、危ないとこまでいったと、しかし今は金はないものの、病院に通ったりしながら、かろうじて、前に進んでいるということであった。
そしてその文には、脱水状態で死にそうになる日の朝に、大事にしていた雪駄の鼻緒が切れていた。と書いてあった。
今までこんな事全然気にしない方だったのだけど、なんだかオーストラリアではこう いう、迷信じみたことを気にするようになる。
ある日ラーメン屋にシドニーの友達から、伝言が入った。
タニアのライダーが事故で死んだという連絡だった。
誰だ?
最悪の事態。
心臓がどきどきしてきた。
今走っているのは、仁王ちゃんスイサンミヤちゃんの3人だ。
すぐシドニーに電話するが誰ともつながらない。
それから2時間ほどして、やっとつながった。
電話口も涙声だ。
仁王ちゃんが事後で死んだ。
車と正面衝突。
居眠り?風で流された?車の割り込み?よく分からない。
もう骨になって、今両親もシドニーに来ていて、もう明日日本に帰られるそうだ。
ひとみちゃんにつづく最悪の事態に、何も考えられないし考えたくなかった。
「これは私ら何としてもオーストラリア1周しなくてはなりませんよ、あの2人のためにも」とヒロヒトはいった。

いろんな事が、頭を巡る。
人に運命というものはあるのか?
僕がケアンズに引っ張り込まなければ、こんな事には、、、。
でもクリスマスの日、仁王ちゃんが、バイクが燃えていることを知らせてくれなかったら?今頃僕は、、、。
いつもは、僕が最後を走っていたのに、その時はどいういう訳か、仁王ちゃんが後ろを走っていて、気づいてくれた。
ケアンズのバックパッカーで、日本人旅行者の間に廻っていた、「イリュージョン」という文庫本に出てきていた、僕は救施主と言う人物を仁王ちゃんとだぶらせて、仁王ちゃんを救施主!と呼んでいたのに、ほんとに神様になってしまった。
今となっては、アリススプリングで仁王ちゃんと別れた最後の日、「これから一人で走るのがなんだか怖い!」と言っていたことを思い出した。
ケアンズで撮ったひとみちゃんや仁王ちゃんの写真も荷物と一緒に燃えてしまって、あまり残ってない。
あとは僕の頭の中に記憶としてあるだけだ。
ひとみちゃんといいやっぱり信じられない




つづく




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