「西向く侍」
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 二百五十年以上続いた徳川幕府が、終わりに近づいた頃、京都の片隅に三倉屋という菓
子屋があった。店の主人は、喜兵衛という小柄な男で、人柄が大層よく、近所でも評判であ
った。
 そして、主人の人柄が反映してか、店の規模は大したものではないが、武家や大店を構え
た商家などから注文があり、結構、繁盛していた。
「柿さん、ちょっと大変だよ。」
 京都の町並みが赤く染まろうという時、喜兵衛の妻の富が、自分の店先で声をあげた。走
っていたらしく、息を切らしている。
「どうされた?」
 三倉屋の奥から、柿さんと呼ばれた若い浪人風の男が出てきた。名を柿崎柿之助という。
中肉中背のとくに特徴のない男である。慌てて出て来たのか、刀を持っていない。
「と、徳次が。吉田屋さんの角で。」
 徳次というのは、三倉屋の番頭である。富が言うには、その徳次が、浪人風の男達に因縁
をつけられて困っているという。
「心得た。」
 そう言うと、柿之助は小走りに駆け出した。富は、柿之助が、刀を持っていないのに気づい
て叫んだのだが、柿之助は砂埃と共に消えた。
 柿之助が、言われた通りの所へ行ってみると、確かに徳次は、浪人風の男達に囲まれてい
た。
 外国の脅威が、日本を襲い、徳川の権威が徐々に失墜してくると、人々は天皇を頼る気風
になってきていた。
 そうなると、当然、朝廷のある京都に、いろんな考えを持った者が集まって来る訳で、中でも
天皇と共に外国人を追い出そうという尊王攘夷の思想を持った者が多く集っていた。
「俺らは、夷てきを追っ払う志士なんだぜ。その俺様達を見て、タダで通り過ぎようなんざぁ、
罰当たりなんじゃねぇのか。」
 徳次を囲んでいる浪人の一人が、刀の柄で徳次を軽く小突きながら言った。
 夷てきというのは外国人の事で、志士というのは、天皇親政を目標とする勤王の志士の事
である。確かにこの頃の京都は、尊王攘夷の考えを持った者も多かったが、ただ食い扶持を
無くして、勤王の志士を気取って騒ぐだけの浪人も多かった。
 多分、徳次を囲んでいる浪人達もそのクチであろう。                        1

「お、お金なら、先ほど渡したじゃありませんか。」
 徳次は、真っ青な顔色で言った。
「俺たちゃ、四人いるんだぜ。あれっぽっちじゃぁ、足りねぇな。」
 浪人の一人が、刀に手をかけた。
「ひぃぃぃ。ご勘弁を。」
 徳次は、惨めに尻餅をついた。無理もない。いくら徳川の権威が落ちたとはいえ、武士によ
る無礼討ちは合法として存在しているのだ。
「待たれい。」
 浪人達は、声がした方へ一斉に振り向いた。そこには、柿之助が立っていた。
「おぬしには、関係の無い事。立ち去れい。」
 そう言うと、浪人達は、また徳次の方を向いた。
「ご、ご勘弁を・・・。あ、柿さん。」
 徳次は、柿之助を見つけると、拝むように言った。
「そこの者は、拙者の知り合いである。放してもらおう。」
 浪人達は、四人共、刀を抜いた。柿之助の手には、何処から見つけてきたのか、天秤棒が
握られている。約2メーターくらいあるだろうか。
「せぁ。」
 気合と共に、浪人の一人が、柿之助に切りかかってきた。柿之助は、天秤棒で防御する形
になった。
 軽く擦るような音がした後、天秤棒の切れ端、約50センチほどが地面に落ちた。柿之助は
無傷である。切られたのは、天秤棒だけだったらしい。
「棒きれで、刀にかなうかよ。」
 他の三人の浪人が、切られた天秤棒を持っている柿之助を見て薄笑いを浮かべて言う。
「死ねぇぇぇぇ。」
 浪人の一人が、再び切りかかってきた。ドス。今度は何か鈍い音がした。地面に浪人が倒
れる。脇腹の骨を折ったらしい。
「なにぃぃぃ。」
 仲間が倒れるのを見ていた浪人達は、今度は、三人で柿之助に襲いかかってきた。
「変な術、使いやがってぇ。くらいやがれぇぇぇぇ。」
「つぁっ。」
 ガスッ、ドガッ、ズゥ。どういう技を使ったかは分からないが、浪人達は同時に地面に倒れ
込んだ。                                                   2

「徳次、怪我はないか?」
 柿之助が、いつの間にか出来た人だかりの中を歩いて徳次の元へ向かう。
「えぇ、怪我の方は。」
「では、まいろう。」
「でも、こ、腰が。」
 徳次は、尻餅をついた姿勢で力なく笑った。

「凄かったのなんの、あっと言う間に四人をバッタ、バッタと。」
 徳次は三倉屋へ戻ると、早速、柿之助の武勇談義を店の者に聞かせ始めた。聞いている
のは、主人の喜兵衛、妻の富、丁稚、女中など全員が、徳次の話しに聞き入っていた。
「ほんと、柿さんは強かったねぇ。刀を使わないで、天秤棒で倒しちまうんだから。ありゃ、何
て技なんだろね。わたしゃ早くて、全然、見えなかった。」
 徳次の話しに熱がこもってきた。当然、聞き手側も熱が入る。
「もっとも、天秤棒を切られた時は、あたしゃ、正直やられたって、思いましたがね。」 
 徳次の視線が、柿之助の方へ向けられた。すると、聞き手の皆も柿之助の方へ目をやった。
「あれは、わざとなのだ。」
 しまった。柿之助は、そう思った。徳次の話しの流れに乗せられて、つい、言ってしまった。
皆の視線は、一層つよく柿之助へ注がれた。
「仕方がない。」
 柿之助は、説明することにした。
 柿之助が使った技は、杖術と槍術を混ぜたものである。名を天飛流杖術。始祖は、平安時
代の石鳥という名の山伏と伝えられている。山伏が用いる錫杖を使って、山犬や熊などから
身を守るための術で、石鳥が修行中に天狗から授かったのだという。
 もともと、障害物の多い山林で用いる術なため、打つ事と突く事を主として伝えられていた
が、戦国の世を重ねるごとに、刀をかわす槍術的な要素が付け加えられていき、柿之助が
身につける段階では、斬る要素も付加されていた。
 杖術である以上、得物はあまり長くない方がいい訳で、柿之助は襲ってきた浪人に適度な
長さに切らせたのである。襲った浪人達は、なんとも情けなくあしらわれたものだ。
 と、そんなような内容の事を柿之助は、随分、端折って話してみせた。
「ほぉぅ。」
 柿之助が話し終わると店の中で、感嘆の声がもれた。簡単に説明したつもりだったのだが、
町人にとっては、感嘆に値する内容だったようである。                       3

 柿之助の説明の後も、一層、熱を帯びた徳次の話しは続いた。柿之助は、堪らず奥に引
き込んだ。
 柿之助は考える。倒した浪人が、あのまま何も仕返しをせずに、済ませるだろうかと。恐ら
く来るだろう。あの類の人間は、根性はないくせに、非常に執念深い。また、へたに武士とい
うのも始末が悪い。片寄った自尊心を持ち合わせて、恥じの上塗りをしようとする者が、この
頃の武士の典型だったからだ。
 しばらく、徳次についてやらねばなるまい。柿之助は、遠くで聞こえる徳次の熱弁を聞きな
がらそう思った。
 それから一週間、柿之助は、徳次に気づかれないように、徳次の後をついて歩いた。しか
し、特に、これという事も起こらなかった。
 柿之助は、案ずることもなかったか。と、徳次の後をつけるのをやめる事にした。が、事件
は起こった。三倉屋の主人、喜兵衛が斬られたのだ。
 柿之助の考えは、甘かったのだ。倒した浪人達は、当事者である徳次や柿之助を襲わず
に、第三者的な喜兵衛を襲ったのである。家来の責任は、主にあるという事なのか。
 知らせを聞いた柿之助は、現場へ駆けつけたが、すでに喜兵衛は事切れていた。
「誰か、仔細を見た者はいるか。」
 死体となった喜兵衛の周りに出来ている人だかりに向かって、柿之助は声をあげた。辺り
が一瞬、静かになった。柿之助の眼は血走っている。
「誰か見た者は、おらぬのか。」
 柿之助は、怒気を含んでさらに叫んだ。口を開く者は、誰一人いない。そこへ、人垣をかき
分けて同心がやって来た。
「落ち着かれよ。」
 同心は、柿之助の気勢にたじろきながら言った。

 喜兵衛を襲った浪人の四人は、長州藩邸に出入りをしている者で、東山以蔵、西木力、南
発堂、北見二十六という浪人らしい。喜兵衛と懇意にしていた十手持ちが、こっそりと柿之助
にそう教えた。
 長州藩というのは、勤王の志士の巣窟のような所である。また、藩邸というのは国内の大使
館のような所で、ちょっとした治外法権のようなものが存在する。だから、奉行所といえども、
なかなか手を出す事が出来ない。
 ましてや、町人を無礼討ちにした。そう言ってしまえば、罪にもならない可能性があった。  4

 役人の力があてにならない所に、喜兵衛を斬った者達がいる。仕方がないので、あきらめ
て泣き寝入りをする。町人だったら、そういう事で納まるのだろう。
 しかし、柿之助は武士である。また、喜兵衛には恩があった。このまま、納める訳には、い
かなかった。義を見てせざるは勇なきなり。である
 柿之助は、喜兵衛の葬儀に出るのもそこそこに、物乞いの格好をして長州藩邸の近くに座
り込んだ。
 季節は、夏から秋に変わる頃だったので、ちらほらと、赤とんぼが飛び交っている。当然、
柿之助の目の前をとんぼが横切る事もあるのだが、柿之助の目線は、長州藩邸から離れな
い。ただ、見かけは、うつむいているだけの様にみえる。
 時折、物乞いの柿之助を不審に思って、長州藩の者が詰問に来たが、杖を肩にたてかけ
て終始うつむいている様子を見て、疑いは解けたようだ。
 柿之助は、そんな調子で三日ほど張り込んでみたのだが、東山達は藩邸から出てくる様子
はなかった。ここには、居ないのか?そんな疑念が柿之助を襲う。
 しかし、柿之助は、張り込みをやめなかった。心の奥底で、東山達の気を何か感じていた
のかもしれない。
 一週間が経った。いよいよ秋らしくなってきた気候に、町行く人々の装いも変わってきた。
柿之助も、日が昇るまでの冷え込みは身にしみる。むき出しになった腕を擦って、寒さをし
のいでいたが、急に手を止めた。長州藩邸の門の脇にある、くぐり戸が開いたのだ。
 中から四人の男が出てきた。聞き覚えのある声がする。東山達だ。柿之助は、緊張した。
ここで襲うのはまずい。すぐに藩邸から、応援の者が出て来るだろう。
 そう判断した柿之助は、東山達の後をしばらくつける事にした。幸い、東山達は、ほとぼり
がさめたと思ってか、スキだらけである。
 藩邸のくぐり戸も閉まり、いよいよ柿之助が立ち上がろうとした時、
「くらえ、畜生め。」
 匕首を持った若い男が、東山達四人に突っ込んでいく。
「無茶な。」
 柿之助は、飛び出していた。いくら相手が、なまくら侍だとしても、若者一人が四人を相手
にするのでは勝ち目がない。増してや長州藩邸の前である。到底、生きては帰れない。
 ここで、柿之助が助けに入ったとしても生きて帰るのは、大変難しいだろう。
「やんぬるかな。」                                             5

 若い男の匕首は、空を切った。不意を衝かれたとはいえ、東山達も武士のはしくれ、若い
男の攻撃を寸前でかわしたのだ。そして、東山は刀に手をかけた。
「ぐっ。」
 しかし、抜く事が出来ない。東山の脇腹には、柿之助の杖が打ち込まれていたからだ。が、
殺すほどの威力はない。若い男を救うために遠い間合いから打ち込んだので、踏み込みが
甘くなったのだ。
 東山が、ひざをついて倒れ込む。他の三人は、呆然として固まっていた。そのスキに柿之
助は、若い男の手を引いて走り出した。
「な、なにしやがる。」
 若い男は、抵抗する様な事を口にしながら、柿之助にしたがって走る。こころなしか、足が
もつれている。
「曲者だ。」
 我に返った浪人の一人、西木が叫んだ。ただ、柿之助達を追う素振りは見せない。
「何事だ。」
 長州藩邸のくぐり戸が開いて、一人の男が出てきた。細身の眼光が鋭い男である。そして、
すぐに門が開いて、四、五人の男達が走り出てきた。柿之助が案じた通り、ここで、仕掛け
ていたら、すぐさま囲まれていたであろう。
 眼光の鋭い男は、東山の所へ駆け寄る。そして何事かと、もう一度、聞いた。
「あ、天心殿、あやつらに襲われたのだ。」
 西木は、走って逃げる柿之助達を指さした。天心と呼ばれた男が、西木が指をさした方を
見る。と、同時に柿之助も振り向いた。
「なんて奴だ。」
 天心と目が合った柿之助は、堪らずつぶやいた。なんとも嫌な感じが、柿之助の身体を突
き抜けていったのだ。恐らく、殺気だろう。冷や汗が背中を流れていくのを感じながら、柿之
助は走る速度を早めた。
「追わずともよい。」
 天心は、追って行こうとする男達を制すると、東山達に藩邸に入るよう指示した。そして、
天心自身も藩邸の中に入り、門を閉じた。通りでは、何事もなかった様に赤とんぼが飛んで
いる。

 雨が、柿之助の顔に落ちてきた。柿之助は起き上がると、隣りで息を切らして寝ていた若
い男を起こすと、橋の下へ引っ張って行く。若い男は、素直に柿之助について行った。
「おぬし、何者だ?名を何という?」                                   6

「・・・・・・。」
 若い男は、素直に柿之助についてくるわりには、何もしゃべらなかった。柿之助は、いろ
いろと問質してみるのだが、何一つ答えなかった。柿之助は、憮然として横になった。
 柿之助は、某小藩からの脱藩浪人である。尊王だ。攘夷だ。と世の中が騒がしくなってき
たが、柿之助のとる立場は佐幕であった。
 佐幕というのは、攘夷は攘夷だが、天皇ではなく、幕府を盛り立てて攘夷を行おうという考
えを持った者の事を指す。もちろん、天皇も幕府が守る。勤王の志士のように対立の幕府
の存在をなくそうというような過激な思想ではないのである。
 元々、柿之助の居た藩は、佐幕の藩政だったのだが、世が騒がしくなってくると、知らぬ間
に尊王攘夷の思想に傾いていった。
 必然的に、柿之助のように佐幕派の者は居辛くなる。そのうち、藩の中でも暗殺などの血
なまぐさい事が頻繁に起こるようになってきて、柿之助の命も危うくなった。
 仕方がないので、柿崎家でも邪魔者の三男である事も手伝って、脱藩をしたのだった。
「この男を頼るがよい。寝る所くらいは、世話をしてくれよう。」
 喜兵衛を紹介してくれたのは、天飛流杖術の師匠であった。なんでも、昔、師匠が喜兵衛
の命を助けた事があったのだという。そんな訳で、脱藩した柿之助は京都に行き、喜兵衛
の店に住む事になったのである。
 三倉屋の主人になっていた喜兵衛は、ほとんど裸のような姿でやって来た柿之助を手厚
く迎えてくれた。まったく、よく出来た人物であった。なのに、自分は何の恩返しをしていない。
まったく、情けない。腹立たしい。
 柿之助は、若い男を助けたが為に、せっかくの敵討ちの機会を逃した事を酷く後悔した。
「がぁぁぁぁぁ。」
 柿之助は、突然、遣り場のない思いを叫び声に変えた。若い男は、驚いて柿之助の方を
向いた。
「ほう。まだ、声をあげる元気はあるようじゃの。」
 今度は、柿之助が驚いて、声の方を向いた。もちろん、若い男も声の方を向く。声の主は、
背の低い老人だった。物乞いの格好をしている。
「物乞いが何の用だ?」
 怒りにまかせて、柿之助は言った。
「ふん。おぬしも物乞いであろうが。」                                   7

 なるほど、柿之助は、まだ物乞いの姿のままである。
「これは違う。」
 柿之助は、顔を赤くしながら言い返す。老人の方は、涼しい顔だ。
「その勢いを喜兵衛の敵討ちにまわさぬかよ。」
 はっとして、柿之助の身体がこわばった。
「おぬしらの様子は、先程、見せてもらった。やっかいな奴を敵にまわしたものじゃ。のう、
大蜂よ。」
 今度は、若い男の身体がこわばる。
「おぬし、大蜂というのか?」
 柿之助は、若い男に向かって言った。しかし、若い男は唖のように黙っている。
「なんじゃ、大蜂。名乗りはまだか?」
「・・・・・・。」
「相変わらず、無口な奴じゃ。まぁよい。こやつは、大蜂といってな、吉屋という旅篭で働い
ておる男じゃ。喜兵衛に大層、恩があるようじゃの。」
「くっ。」
 大蜂は、座り込むと拳を地面に叩きつけた。
「大蜂の敵を討ちたい気持ちは、分からんでもないが、どうやらおまえのせいで、討てる仇
も討てんようになってしもうた。この男に、任せておけば良かったものを。」
 老人は、そこまで言ってから、柿之助の名前を呼んだ。
「どうして、拙者の名前を?」
 柿之助は驚いた。どうもさっきから、柿之助達は、物乞いの格好をした老人に翻弄され
まくっている。
「わしは何でも知っておる。喜兵衛には、わしも世話になった。喜兵衛の敵討ちには、一肌
ぬごうと思っとるんじゃ。もっとも、力は貸さん。この歳じゃからな。その代わり、知恵を貸
してやる。」
 この老人は、敵か?味方か?柿之助は考える。力は貸さんと言っていたが、ここまで走
って来た柿之助に追いついて来ているのだ。只者ではない。
「柿よ、何を考えておる。あれこれ考えている暇はないぞ。なんせ、敵には臼井天心が加
わったのじゃ。うかうか出来んぞ。」
「臼井天心?」
「おまえさんに、殺気を飛ばしてきた奴じゃよ。」
 やはり、殺気であったのか。柿之助は、逃げる際に感じた、あの嫌な感じを思い出した。   8

「臼井は、居合いの達人でな。う〜ん、おまえさんら二人しても、勝つのは難しかろうぜ。」
 老人はそう言うと、柿之助と大蜂を交互に見つめた。柿之助は、老人を射るような視線
で見返しているし、大蜂は座り込んだままうつむいている。
「そこでじゃ。わしがちょこっと知恵を授けようと思うんじゃが、どうじゃ?」
 老人は、柿之助に顔を近づけてきた。悪臭が柿之助の鼻をつく。
「うっ。」
 柿之助は、堪らず退いた。老人は、意にも介さない様子で話しを続ける。
「一両だ。」
「金を取るのか?」
「あたりまえじゃ。わしは物乞いじゃからの。ただという訳にはいかん。」
 柿之助は、今にも飛び掛からんばかりの怒りを憶えたのだが何とか抑えた。
「どうする。このままでは、敵討ちはできんぞ。」
「一両もない。」
「よし、それでは有り金、全部じゃ。」
 柿之助は、決して老人を信用した訳ではない。しかし、老人に操られているように、有り
金を全部、渡してしまった。大蜂までもである。
「よしよし、それでは知恵を授けてやろう。これじゃ。」
 老人が差し出したのは、一通の書簡だった。広げてみると、柿之助と大蜂の名前が書
いてあって、数行したためてある。紹介状のようだ。いつの間に書いたのであろう・・・。
「大坂の来島道場という所を訪ねるのじゃ。そして、そこの道場におる猿島五寸という男
に、この書簡を渡すがよい。力になってくれよう。」
「大坂まで行く金がない。」
 柿之助は、先程まで金が入っていた懐に手を入れた。
「三倉屋へ行って無心するがいい。主の敵を討つのじゃ。嫌な顔はすまい。もっとも、主
が死んで、喜んでおる者もおるみたいじゃがな。」
「そんな奴はいねぇ。」
 大蜂が、老人に飛び掛かった。しかし、老人は一歩も動くことなく、落ち着いた様子で、
飛び掛かって来る大蜂の額に手刀を叩きつけた。
「ぐぅ。」
 大蜂は、老人の一撃を受けて、地面に転がった。柿之助は、老人の機敏な動きに目を
見張った。やはり、只者ではない。                                    9

 喜兵衛が、死んで露骨に喜ぶという者は、確かにいないだろう。しかし、利益がある者は
いる。徳次である。喜兵衛に子供がいなかったので、徳次が富と一緒になって三倉屋を営
んでいくという。
 徳次と富が、出来ている。そんな噂が喜兵衛の生前の時にもあったのだ。そして、喜兵
衛が死んで、噂が本当になった。だから、あまり周りから騒がれるという事もなかった。
 柿之助が、三倉屋へ旅費の工面に行った時など、まだ喪もあけてないというのに、徳次
と富は夫婦然とした応対で柿之助を迎えた。
「よろしくお願いします。」
 富は、そう言って柿之助に金を包んでよこした。夫であった喜兵衛の敵討ちを頼むという
意味合いにとれなくもないが、この金を渡すので、もう三倉屋には構ってくれるな。という響
きの方が強い。金額も存外に多かった。
 町人の義理というものは、こんなものか。そんな事を思いながら、柿之助は、三倉屋を後
にした。
 柿之助が、三倉屋から出て来ると、大蜂が待っていた。柿之助が、待てと言った訳では無
い。そして、柿之助が歩きだすと、黙って付いてくる。
「大蜂よ。いい加減に何か話してはどうだ。」
「・・・・・・。」
「俺は、これから大坂へ向かうが、おまえはどうする?」
「・・・おいらも・・・行く。」
 やれやれ。柿之助はそう思ったが、連れて行く事にした。大蜂の喜兵衛の敵を討つという
気持ちは、相当なものだ。今となっては、味方の人数は多い程いい。そう考えたからだ。
 町人だからといって、義理がもともと薄いのではない。柿之助は、大蜂を見ていると、そう
思う。ただ、良くも悪くも、急速に動いていく時代のせいなのだろう。
 柿之助は、物乞いの老人の事を信用した訳ではないのだが、これといって策が無いので、
大坂へ行く事にしたのだ。柿之助と大蜂は、その日のうちに旅仕度を整えると、翌朝、まだ
あたりが薄暗い時刻に京から大坂へ出立した。

「しばし、待たれよ。」
 大坂に着いた初日に、何とか来島道場を見つけて訪ねた柿之助と大蜂は、道場の奥まっ
た所にある小さな部屋へ案内された。そこそこ、道場は繁盛しているらしく、威勢のいい稽
古の音が聞こえてくる。                                         10





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