はじめまして、「ぢーちゃんの街角散歩」を主催しています「真沙美」です。
「マーチャン」とでも呼んで いいです。
「家 主(やぬし)」の横顔
☆名前 [Funakiya] [舟木屋] [真沙美] [マーチャン][迷筆堂主人]
☆生年月日 昭和二桁代 最初の月に
生まれ。
父親42歳時の出生の為(不肖の子)
雪の中に「捨て子」される。
しかし 直ちに義理の伯母さんに拾われる。
その後 口減らしの為(?)養子に出される。
☆現住所 昔流に「丹後の国」
電子メールアドレス funakiya@mxa.nkansai.ne.jp
☆家族
妻 一人 (現在 妻と二人暮らし)
息子 三人 長男 S Metal Ind勤務
次男 M Electric 勤務
三男 H, Ltd.
勤務
☆卒業した学校 「丹後の国」内 村立
Y国民学校 初等科 終了
(この年学制改革実施)
組合立 Y新制中学校 卒業
その他 大体人並みの学校 卒業
☆職業 所謂 無職 (某会社を 平成9年5月 引退)
☆特技
積読 性格上 自然と本が縦に積みあがる。
(乱読だと書いてある内容がよく理解できない)
「お母さんと呼んだ人」
「マーチャンには、<お母さんと呼んだ人><呼ばなきゃならなかった人>は多いです。」
☆わたしを生んでくれた <お母さん>
当然の「お母さん」であり、
今 この世に出てくれば 私「マーチャン」にとって、
一番適切な時だと 産声をあげさせてくれた。(生を受けた)
18年 〜 23年間 片時も離れず育て上げてくれた「お母さん」である。
☆生まれて直ぐに拾い揚げてくれた <お母さん>
わたしは、父 42歳で 生まれ落ちたので 地方の習慣で不肖の子に当たる。
従って 出生後 巻末を入れず捨て子される。
1月の生まれだから 積雪の上に放置されたらしい。
それを拾い上げてくれた「お母さん」である。
実父の伯父の妻で 義理の伯母さんになる。本家の「オカーチャン」だ。
私自身 学齢に成るまで「オカーチャン・オカーチャン」と呼び親しんで居った。
何故か 従兄姉と8歳以上離れていたので今でも違和感を持たない。
この時期まで 同時に 二人「オカーチャン」が居た。
本家と分家の両方のマスコットとして 行き来していた。
この故か 兄姉等から 何にごとに付け 私に物事が有利に成りかけると、
「おみゃーは(あなた)他所(よそ)の子」と云われ疎外された記憶がある。
☆養子縁組の戸籍上の <お母さん>
19歳の春 諸種の事情で急遽 父親をはじめ関係者周囲の方々の決定により、
養子縁組の話がまとまり養子に出される。
こんなことで 本当の「おみゃーは 他所の子」になりました。
しかし 生活は、そのまま継続し 学卒まで 戸籍上だけの移転でした。
その年(1954年)の秋 養母は、この世を去る。
慶応2年の出生だから享年89歳だ。
この養母のことをここでは「老母」と呼びます。
現在の「マーチャン」の家系を存続(家経て)させるための方策に乗せられた。
現在地で生活が始まって以降(1958年[昭和33年])
私自身が、世間の柵(しがらみ)に纏わり付かれる「道程」を
徐々に理解し始めたように思う。
4 カ月間の 養母を「お母さん」と呼んだ記憶はない。
今から思うと申し訳ないことだ。
昭和14年(1939年(75才の時))に記した遺言書の
最初に家訓ような文言がある。
「神仏崇拝 祖先崇拝 両親崇拝の念 一日も忘れるべからす」 と。
師範の資格は、持ち合わせなかったが、当地の愛好の士と共に謡や仕舞いに
興じ 余暇を楽しんでいた。小鼓にいたっては京都市に赴いたり、
師匠が近畿北部の地(舞鶴市・豊岡市)に来北の折は 修行に出かけていた。
夜半の静寂の中を 「ポーンポンポン」と響く小鼓の澄み切った音色に
しばしば心を洗われることもあった。
今となっては ただ こころ 静寂にして思い起こすしか 術はない。
わたしも 若干なりとも手ほどきを受けていたならばと 思うこと頻り。
20年を超える年月のなかで 何回「お母さん」と呼びかけただろう?
☆妻である<カーチャン>
「ザッート 指折り 5人は居る」
これらの「お母さん」は、今後の記述の中に折に触れて出没くることだろう。
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