但馬方言概説
断定の助動詞
1 全国的に見ると
「今日はいい天気だ」、「あれは何だ」などに見られる、断定の助動詞「だ」のはたらきをする語は、大きく分けると「だ」、「じゃ」、「や」の3種類に分類される。
一般的には、東日本が共通語形の「だ」であり、西日本が「じゃ」、「や」であると言われている。しかし、但馬地方を含む山陰地方(島根県旧出雲の国から京都府旧丹後の国にかけて)は共通語形の「だ」が用いられている。また、その中間の形である「でぁ」も各地に点在する。能登半島の珠洲市外浦が「でぁ」であり、そこが東日本と西日本の中間地点ということを考えると、意味のあることであると思う。
2 断定の助動詞の歴史
断定の助動詞「だ」、「じゃ」、「や」は次のような過程を経て現在に至る。
〜鎌倉時代初期 鎌倉時代〜室町時代 室町時代末期 室町時代末期〜江戸時代末期 江戸時代末期〜現在 にてある → である → でぁ → だ → だ じゃ じゃ や
3つの中では「や」が一番最後にあらわれた。それは江戸幕末期の大阪で女性言葉として発生したとのことである。それがしだいに近畿圏を中心に男女を問わず広まっていった。現在では、中国地方、四国地方、北陸地方など、比較的「じゃ」が多用される地域でも若い年齢層を中心に「や」が使われる傾向にある。(ただし、こういった地域では、同一個人内で「じゃ」と「や」が併用されることが多いようである。)
3 但馬地方における断定の助動詞
a.昭和26年の資料をもとにすると
但馬地方で用いられている断定の助動詞も「だ」、「じゃ」、「や」の3種類である。美方郡温泉町出身の岡田壮之輔氏が昭和26年9月「国語学」に発表された「たじまことば」の資料(地図)、および私が知人等より教えていただいた情報を頼りにすると、その使用地域は次のようになる。(地名は現在のもの。)
「だ」専用地域 豊岡市、城崎町、竹野町、香住町、日高町、出石町(出石、福住から奥山川沿いの谷以外)、但東町(久畑以外)、温泉町、浜坂町、村岡町、美方町、八鹿町、関宮町(関宮以外) 「じゃ」専用地域 出石町(福住から奥山川沿いの谷)、但東町(久畑)、養父町(広谷、建屋)、大屋町 「や」専用地域 出石町(出石)、養父町(養父市場周辺)、和田山町(糸井地区東部以外)、山東町、朝来町、生野町
「だ」、「じゃ」併用地域 関宮町(関宮) 「じゃ」、「や」併用地域 養父町(米地地区)、和田山町(糸井地区東部)
この表からわかることは、但馬北部(鳥取県北部につながる美方郡、養父郡八鹿町、関宮町以北)では「だ」、但馬南西部(鳥取県南部と旧播磨の国西部につながる養父郡大屋町)および但馬南東部(旧丹波の国につながる出石郡出石町の南端、但東町の南端)では「じゃ」、但馬南部(旧播磨の国から北上して朝来郡全般および旧山陰道(現国号9号線)の沿線沿いの養父町、もともと「じゃ」であった城下町出石町の中心部)で「や」が用いられていることがわかる。
b.現在のようす
上記aの事実と比較して、現在のようすを述べると次のようになる。
「だ」の地域では、現在でも依然として「だ」が優勢である。これは共通語が「だ」であるため、それが維持されていることと思われる。しかし、「や」もかなり浸透している。
「じゃ」の地域では、現在では「や」が使われる傾向がある。「じゃ」は年輩層の一部で使われる。
「や」の地域では、現在でも依然として「や」が使われる。本来なら、学校教育、マスコミなどの影響で共通語の「だ」に移行されると考えられるが、但馬地方にとって、文化的な中心が上方(京阪神)であるため、そのことが影響しているものと思われる。「上方方言の影響」を参照されたい。
養父郡養父町の現在
今から数年前、但馬南部養父郡養父町の養父町立養父中学校で仕事をさせてもらった経験がある。養父中学校の学区(校区)は養父町すべてである。上記aの結果からいえば、「じゃ」専用地域、「や」専用地域、「じゃ」、「や」併用地域が含まれている。地形としては大小多くの谷があるため、そのようになったことが考えられる。
私が養父中学校でお世話になっていた頃、ほとんどすべての生徒たちは断定の助動詞に「や」を用いていた。「じゃ」を用いていた生徒や「じゃ」と「や」を併用している生徒は見られなかった。「だ」を用いる生徒はいたが、それは共通語の影響であろうと思われるものが多かったように思う。しかし、若干但馬北部の「だ」から来ている感じられるものもあった。このことについては、但馬北部で生まれ育った私の直感である。そういった言葉を耳にすると、私自身ものすごく親近感を感じたものであった。
c.断定の助動詞「や」について
「や」は江戸時代末期に大阪で女性言葉として発生した。このことは、「や」という語の持つ柔らかい響きが女性的である、ということが関係しているのであろう。「や」はしだいに近畿地方の多くの地域に広がり、老若男女誰もが使うようになった。このことが但馬地方にも入り込んでいると考えてよいと思う。
但馬地方南部の朝来郡は岡田壮之輔氏の調査でも「や」が使われているが、現在の朝来町山口地区が「じゃ」から「や」になったのは大正時代とのことである。その後しだいに「や」が北上していったとのことである。
現在の但馬地方では、「や」が多用されるようになりつつある。このことは年輩層より若年層の方が多く、また男性より女性の方が多い。「若い女性がより新しい言葉を取り入れようとする」、「その地域から見て、より文化的に高い地域の言葉を取り入れようとする」という、定説があてはまる。
岡田壮之輔氏の記述に次のような興味深いものがある。
ジャは、次第にヤに変わっていく。アレ何ヤ、山ヤロ、ソヤソヤなどのヤである。
上方では、江戸時代末期、天保の終わり頃にヤが発生したと推定されている。そして次第に一般に広まっていった。
現在、朝来郡では、一般にヤを用いているが、農家や老人の中には、ジャを用いる向きも多い。
丹波の夜久野から福知山にかけても同様で、ヤは商人語、ジャは農人語となっている。
養父郡では、鉄道に沿うてヤが北上し、山地にジヤが残っている。いわば、蛇の横腹に、矢が入った形にも見える。これは、ジャが次第にヤに転じつつあることを物語る。
出石町は、ジャの世界であるが、青少年層にヤが用いられつつある。
面白いのは、ダの海の中に、飛び矢のあることで、豊岡市や八鹿町の駅前や商店街では、上方直輸入の、マカシトキ、ソーヤロなどが自由に語られているのである。
共通語は、東京流のダであるとは、学校教育を受けた青少年は皆知っており、みずからも、幼い頃からダを用いてきたのであるが、何時の間にか、上方流の物言いが身についてしまう。但馬が上方の影響を受けやすいことを物語る一事例とも言えよう。「方言ところどころ」(のじぎく文庫、昭和38年)より
d.断定の助動詞カルチャーショック史−出石郡但東町出身の方からいただいたメールより−
但馬地方は山あり、谷あり、また山陰の文化あり、上方の文化あり、といろいろな面で変化に富んでいる。断定の助動詞においても、ごくわずかに離れるだけで違いが見られる。そのことを体験された方の言葉を次にご紹介させていただく。私の故郷、高橋村(現・但東町の一部)は兵庫県の北東部に位置し、北西から南東に細長い谷あいが続く寒村で、南東の山越えで遠くは京都へと続く街道の一部です。高橋村の北西の端に私の生まれた集落、正法寺があり、端から正法寺・平田・栗尾の三集落が、平田小学校区(現在廃校)で、ガキ大将の私もこの平田幼稚園・小学校へ通学しました。当時、「アレ何ダ、山ダ、ホウダ・ホウダ」などと「ダ」を使って叫び走りまわっていたのです。その後、佐田・久畑・大河内集落の久畑小学校区にある高橋中学校に進学したところ、久畑小学校から入ってきた悪ガキどもが、「アレ何ジャ、山ジャ、ホウジャ・ホウジャ」などと「ジャ」を使って暴れまわっていたのです。私は「ジャ」という助動詞に、初めて蒸気機関車を見たショックに近いものを感じました。しばらくは彼等を遠巻きに眺めていたものです。女の子は垢抜けて見えました。そして、出石高校に進学したのです。ここでは出石中学校の出身者が、「アレ何ヤ、山ヤ、ホウヤ・ホウヤ」と言葉を発しているのです・・・・・。私のカルチャーショック史の一部ですが、高橋村の長さは10キロ足らずですのに、その小さな村での文化を面白く思い出しました。
e.断定の助動詞「だ」と「じゃ」の境界線
但馬地方での断定の助動詞「だ」と「じゃ」(「や」)の境界線は、出石郡と養父郡の中にある。上方を基準にして考えると、「じゃ」の北限がそこにあるということである。そのことについて、岡田荘之輔氏が次のように考察されている。
上方で、デァがジャに移る頃、但馬出石藩主は、播州竜野から移った小出氏で、文禄四年(一五九五)から、元禄八年(一六九五)に到る百年間、出石や養父郡を領していた。小出氏は、別に、泉州岸和田や、丹波園部をも領していた。共にジャの領域である。上方への往来、上方武士や商人の土着や接触などが、出石と養父郡南半ジャの主因であろうか。
それはまた地域が、上方流に口蓋化の摩擦音を好んで、次第に明瞭なジャに移っていったのであり、但馬北部はそれを厭って、より開いたダとなったのではないか。
これは後出の、アウ連母音の同化と関連付けても考えられる。アウ連母音が上方では、相互同化してオーとなる。但馬北部では順行同化してアーとなった、と思われるが、ダの分布と、ジャ、ヤの分布が、それと重なるのである。
「但馬ことば」(但馬文化協会、昭和52年)より
アウ連母音の順行同化(「あはう」が「あはー」など)については、「音声の特徴」を参照されたい。