但馬方言概説
方言としての位置づけ
1 兵庫県の方言
兵庫県は近畿地方の西端に位置する、近畿地方最大の面積をもつ県である。北は日本海に面し、南は瀬戸内海に面している。
旧国でいえば、但馬の国、播磨の国、丹波の国(一部)、摂津の国(一部)、淡路の国の5国から構成されている。方言でいえば、それぞれの国ごとに、独自の方言があり、それを一つ一つの方言区画とすることもできる。しかし、もっと大きく分けて考えると、中国方言系の「但馬方言」と近畿方言系のその他に分類される。
<兵庫県の方言>
兵庫県の方言 但馬方言(中国方言系) 摂津・丹波・播磨・淡路方言(近畿方言系)
また、中国方言の中でも、鳥取県の旧因幡の国、京都府の旧丹後の国(舞鶴市、加佐郡大江町を除く)などで話されている方言と同系統のものであり、東山陰方言と呼ばれるものに属する。ただし、但馬方言は近畿方言の影響を多大に受けている。「上方方言の影響」を参照されたい。
2 但馬方言の特徴
a アクセント
いわゆる東京式アクセント(乙種アクセント)である。多くの語句において、共通語のものと大差のないアクセントである。このことは中国方言の特徴であり、京阪神方面を中心に行われている京阪式アクセント(甲種アクセント)と大きく対立する。詳しくは「音声の特徴」を参照されたい。
b 連母音の融合
語句内において母音が連続してあらわれる場合、それらが融合されて、一つの長母音となる傾向がある。母音の一つ一つを端正に発音する近畿方言と大きく対立する。詳しくは「音声の特徴」を参照されたい。
c 断定の助動詞「だ」
近畿地方の大部分は断定の助動詞に「や」を用いる。しかし、但馬地方の、特に北但馬では断定の助動詞として「だ」を用いる。このことについては島根県の旧出雲の国から京都府の旧丹後の国にかけて帯状に広がっている。いわゆる山陰方言の特徴といえるであろう。詳しくは「断定の助動詞」を参照されたい。
d 語彙
但馬地方独自の語彙は非常に少なく、多くは上方から入ってきたもの、あるいは上方から入る途中に音韻変化等を起こしたものがほとんどである。現在使われている語彙を見てみると、上方で使用されているものと、中国地方で使用されているものが混用されている。それらの例をあげてみると次のようである。
<上方的語彙と中国地方的語彙の例>
上方的語彙 中国地方的語彙 語彙 備考 語彙 備考 あかん(だめ) いけん(だめ) 「あかん」の方が優勢 おおきに(ありがとう) アクセントは異なる 〜んさる(〜される) 敬語表現 さいなら(さようなら) アクセントは異なる たえぎー(だるい) あはー(ばか) 「あはう(あほう)」の母音融合 おいでんせー(いらっしゃい) 〜へん(〜ない) 動詞の接続形は異なる 借れる(借りる) 山陰の用法
* 中国地方の語彙もルーツをたどれば上方語彙にたどり着くものは多いと思われる。
e 敬語表現
但馬方言は敬語表現が発達した言葉であるといえよう。日常生活の中では、相手を敬うなどと意識をすることなく、家族の間で、友人との間で、ごく自然に敬語表現が用いられている。
「〜される」という敬語表現は、「〜なる」、「〜なはる」、「〜んさる」などのナサル系敬語が用いられる。これらは中国地方でも使われているものである。播磨、神戸、丹波のテヤ系敬語「〜てや」、阪神間(神戸市の多くの部分を除く)のハル系敬語「〜はる」と異なる。詳しくは「但馬の丁寧語」を参照されたい。
「〜なる」という敬語表現は、最も一般的に、老若男女使われるものである。
<「〜なる」の用例>
肯定文 「Aさんは、スキーをしなる。」(Aさんは、スキーをされる。)
疑問文 「Aさんは、スキーをしなるんか。」(Aさんは、スキーをされるの。)
否定文 「Aさんは、スキーをしなれへん。」(Aさんは、スキーをされない)
現在進行形 「Aさんは、一生懸命に走っとんなる。」(Aさんは、一生懸命に走っておられる。)
過去進行形 「Aさんは、一生懸命に走っとんなった。」(Aさんは、一生懸命に走っておられた。)
「〜んさる」は「〜なる」ほどではないが、よく使われる敬語表現である。「〜なる」より丁寧な度合いがやや高いと思う。若年層の間では、あまり用いられない。
<「〜んさる」の用例>
「Bさんは今家でテレビを見とんさる。」(Bさんは今家でテレビを見ておられる。)
「今日はどこ行っとんさった。」(今日はどこへ行っておられたの。)
「ほんま豊岡によう来んさった。」(ほんとうに豊岡によく来られました。)
3 但馬内の方言区画
但馬地方は兵庫県全体の約4分の1の面積を占める。そのため、但馬地方の中でも、言葉遣いは地域により若干異なる。極端な場合は、谷によって言葉が違うといった具合である。
但馬方言を更に細分化するとどうなるか。これは非常に難しいことである。何を基準にして区画をするかによって、線が多くできるためである。
a アクセントによって分類すると
朝来郡朝来町が東京式アクセントと京阪式アクセントの境界となる。そう考えると朝来町以南が南但馬、和田山町以北が北但馬という分類になるであろう。より細かく、語彙、音韻体系で考えると、生野町のみが南但馬ともいえる。
b 断定の助動詞によって分類すると
養父郡養父町と大屋町、朝来郡全体が南但馬、それ以北が北但馬といえるであろう。南但馬は「や」(若干「じゃ」も残っている。)、北但馬は「だ」である。
c /アウ/連母音融合の/アー/音の有無によって分類すると
bと似通った分類になる。北但馬では「買った(買うた)」が「かーた」、「あほう(ああう)」が「あはー」となり、南但馬では「買った(買うた)」が「こーた」、「あほう(あはう)」が「あほー」となる。
d 接続助詞「しけー」、「さけー」と「けー」によって分類すると
理由を表す接続助詞「〜から」にあたるものとして、但馬地方には上記のものがある。
城崎郡香住町(西部の余部地区)と美方郡浜坂町、温泉町が鳥取県と同じ「けー」であり、典型的な山陰方言である。それらの地域は、語彙においても鳥取県と共通のものが多く見られる。それ以外の但馬は「しけー」、「さけー」を用いる。語彙においては上方のものが多く用いられる。
4 但馬全体とその周辺を考える
但馬地方全体とその周辺を考えてみる。
但馬を北西へ行けば行くほど、中国地方、その中でも山陰的特徴が大きくなってくる。美方郡浜坂町、温泉町は語彙、音韻、語法など多くの点で鳥取県因幡地方の方言との共通点が認められる。
但馬を南東、あるいは南へ行けば行くほど、上方的な特徴が大きくなってくる。語彙、音韻などの点で、少しずつ、少しずつ上方的になってくる。その境界線をはっきりと敷くことはできない。
豊岡市、出石郡の東隣に位置する京都府丹後地方の方言は、但馬方言と大変よく似ている。東京式アクセント、断定の助動詞「だ」、連母音の融合など。語彙も中国地方から来ているものが多々見られる。敬語表現もナサル系敬語の「〜なる」が多用される。(ただし、丹後でも大江山を境界として、その南部では丹波地方と共通する言葉が話されている。)丹後の国は和銅6年(713年)に丹波の国から分かれたものであるが、丹後と丹波の言葉の共通点より、丹後と但馬の共通点の方が大きいのは興味深いところである。
5 養父郡誌の記述より
昭和3年(1928年)発行の「養父郡誌」で、当時の養父郡の方言について(「方言訛語」としてP263からP346まで)詳細に述べられている。その冒頭に、養父郡全体を視野に入れた概説の記述がある。以下にそれを掲載する。なお、漢字においては旧漢字を現在のものに改めた。
本郡の言語は元大体に於いて所謂上方語系に属し直截剛放の味なけれども優艶の趣ありしものゝ如し然るに土地山間に僻在し南国との交通は中国山脈によりて限られ為めに言語は特殊の発達を為し多くの方言訛語を生ずるに至りしものなるべし然れども近時教育の普及と交通機関の発達とは両々相待つて言語の統一革新を促かし漸次標準語に近接せんとするの状態にあり今本郡内の現状につき其言語系を考察するに大体に於いてこれを二派に分つことを得べし即ち一は大蔵村より養父市場に至る円山川沿岸及大屋建屋川沿岸地方にして之を南方系とも称すべく他は八鹿町より宿南村に至る円山川沿岸地方及八木小佐両川沿岸地方とすこれを北方系とも称すべし而して郡内山脈縦横に連亘して交通を遮るを以て南北両系は更に又幾多の小語系に別かるゝのみならず地理的関係より関宮村の美方的臭味を帯ぶるが如き大蔵糸井の朝来的語調を在するが如き其語系複雑を極め小区域内に限られたる方言訛言亦少なからずされどこゝには其尤広き範囲に於いて普通に用ひらるゝものゝみを掲ぐ。
養父郡教育会編纂「養父郡誌」(昭和3年)より
この記述によると、養父郡の方言が大きく南方系と北方系に分類されている。現在の地名で述べると、養父町と養父郡から朝来郡に編入された和田山町大蔵地区と糸井地区、そして大屋町が南方系、八鹿町と関宮町が北方系となる。
この記述の中では述べられていないが、そこには断定の助動詞の「じゃ」、「や」(現在では「や」が一般的)と「だ」(「や」もかなり入っている)の地域の対立がある。また、音声面では/アウ/連母音融合(「あほう(あはう)」が「あはー」、「行こう(行かう)」が「行かー」など)が少ない地域とそれが多く見られる地域との対立もある。現在では昭和3年当時ほどの対立はないにしても、やはり南北の言語の違いは認められる。
この冒頭記述のあと、「第一 天文地理に関する名称」として「天 そら、くも」など、「品詞の言ひあらはし方」として各品詞ごとの方言語彙、「禁止の言ひあらはし方」として「起きてはいけない。 起きられん。」など文法的な内容も記述されている。
6 地形と方言の関係
但馬地方は山が多く、地形が複雑である。そのため、ほんの少し離れただけでも言葉の違いが出てくることも多々見られる。そんなところが方言研究をする上では興味深い。
養父郡大屋町の代表的な方言として、共通語の「〜ぞ」にあたる終助詞「〜じょ」がある。(この語法については「助詞の語法(文法)」>「x.相手に言い聞かせたり、言い切りを強めたりする終助詞『〜じょ』」を参照されたい。)この「じょ」は、大屋川沿いに養父町広谷地区へと続く。ただし、東へ、つまり広谷地区の中心部へ行けば行くほど使用頻度は少なくなってくる。また、大屋町と山を一つ越えた養父町建屋谷でもこの大屋町の「じょ」が使われる。私が養父中学校に勤務していた頃の記憶をたどると、養父町建屋谷に位置する三谷地区の生徒たちに「じょ」を用いる傾向が多かった。
大屋町宮本地区と養父町三谷地区(森地区、奥山地区など)は山を境に隣どうしである。大屋町宮本地区と養父町三谷地区といえば、現在の一般的な道路事情(峠を通らず川沿いの道路を使った場合)でいえば約18qの距離である。ところが、この2地区間の直線距離は約5qである。その間には「カカナベ峠」とよばれる峠がある。現在の交通事情とは異なり、江戸時代では徒歩による交通手段がほとんどであり、その峠を行き来して現在の大屋町宮本地区と養父町三谷地区との交流が現在以上に盛んであったとのことである。そのため、婚姻関係も多く、本来大屋町の方言である「じょ」が養父町三谷地区に持ち込まれたようである。
方言を研究するには、現在の交通事情を考えるだけでなく、地形的な事情(この例のように、かつては徒歩の道として人々が盛んに利用した経路、川や海などの水路を利用したものなど)を考慮しなければらない。
なお、この記述についての情報は、養父町在住の小学校教諭栂井氏から多くの情報をいただいた。